48:もう一つの案
放課後になり、生徒たちの声が校舎のあちこちから少しずつ遠ざかっていくころ。
三年生を担当する教師たちは、中央棟の一室へ集まっていた。
普段は小規模な打ち合わせに使われる部屋だった。
長方形の机を囲むように椅子が並び、その上には学年末試験の集計表や一年間の成績記録、実習の評価票が人数分に分けて置かれている。
窓の外では冬の陽がすでに傾き、薄い光が硝子越しに机の端まで伸びていた。
「では、一位から順に確認する」
学年主任の声で、紙をめくる音が止まる。
三年生九十六人。特進、第一、第二、第三。
学院では毎年、進級時に通年の成績や授業評価をもとにクラスの見直しが行われる。とはいえ、三年生ともなれば大きく位置を変える生徒は少なく、実際に教室を移るのは各クラスの境目にいる数人ほどだった。
例年通り、上位の生徒から来年度の所属について確認が始まる。
学年末試験の順位だけで決めるわけではない。日頃の授業態度、通年の試験結果、実習、課題。複数の記録を照らし合わせながら、一人ずつ名前が挙げられていく。
一位は、ルシアン・ノクティス。
今回も各教科の成績は安定しており、通年の記録を見ても異論は出なかった。
そのすぐあとには、レオ・ルベライトの名もある。
彼も一年を通して上位を保っており、実習評価を含めて来年度の所属を改めて検討するような点はなかった。
そのあとも、確認は滞りなく進んでいく。紙の上を辿る指が、一行ずつ下がっていく。
十二位まで、並んでいるのはいずれも特進クラスの生徒だった。多少の順位の上下はあっても、来年度の所属について議論が必要になる者はいない。
やがて、集計表の十三行目まで来たところで。
学年主任の指が止まった。
「……次だ」
誰かが小さく息をつく。その名前が出ることは、ここにいる誰もが分かっていた。
「フローレン・アストリア。第二クラス」
短い言葉が、静かな部屋の中へ落ちた。
机を囲む教師たちの視線が、ほとんど同時に同じ一行へ向く。
十三位。
その上にも下にも、特進クラスの生徒が並んでいる。
「学年末だけなら、特進相当ですね」
「それも、ぎりぎりではない」
「十三位だからな」
別の教師が答える。
「例年なら、この順位の生徒を第一へ置く理由はない」
けれど、そこで話は終わらなかった。
「ただし現在は第二クラスだ」
学年主任が静かに言う。
「これまでなら、第二から上がる生徒は第一へ入れている」
部屋に、わずかな沈黙が落ちた。
進級時のクラス変更に、一段階までという規定があるわけではない。
ただ、これまで二つ上のクラスへの編入を検討するような生徒はいなかった。
「一度の試験だけで例外を作るのは、さすがに早いでしょう」
一人が言った。
「私もそう思います。十三位は確かに高い。しかし、特進は試験の点数だけでついていける場所ではない」
反対する声音に棘はなかった。むしろ慎重だった。
「授業の進度も違う。求められる課題の量も、発展問題の比率も高い。第二から一度に環境を変えることが、本人にとって本当に良いのかは別の問題です」
「なら、第一に上げる?」
「それが最も無難でしょうね」
無難。
その一言が落ちたあと。
机の端に座っていた白髪の教師が、手元の紙を一枚めくった。
「……私は、少し引っかかります」
何人かがそちらを見る。フローレンを一年間教えてきた教師だった。
「何がです?」
「第一へ上げること自体には異論ありません。ただ、それでこの生徒に合った場所になるのかという点です」
白髪の教師は、学年末試験の答案を一枚取り出した。赤い書き込みの少ない紙だった。
「この答案だけを見れば、確かに十三位です。しかし、私は今回の順位より、こちらの方が気になります」
教師の指が、一つの論述欄へ置かれる。
「春の共通試験では、すでに答え方は変わり始めていました。ただ、一度結論を先に決めると、それに合う条件を拾ってしまう癖はまだ残っていました」
別の紙が置かれる。
「それ以前は、もっと顕著でした。問われていないことまで書き、覚えている知識で空欄を埋めようとする傾向がありました」
問われていることより、覚えていることの方が先に出る。書かれている内容そのものは正しい。ただ、問いへの答えにはなっていない。
「今回の学年末では?」
問われ、白髪の教師は新しい答案を示した。
「今回は、問いに必要なものを選べています」
教師の指先を追えば、論述欄には問いに関わる条件だけが残されていた。途中で一度選択を誤った跡もある。けれど、そのまま押し通してはいない。
「一度出した結論を自分で疑い、条件へ戻っています。しかも、以前の自分が同じ種類の誤りをしたことを踏まえています」
別の教科担当が、手元の記録へ視線を落とした。
「魔法生物学でも似たことをしていました」
「どの設問です?」
「生息域の移動です。相反する二つの条件をどちらも捨てず、それぞれが作用する方向を分けて説明していました」
「薬草学も同じですね」と、別の声が加わった。
「必要な条件を選べるようになっています。ただ削るだけではなく、一度外した条件でも、必要だと判断すれば戻すこともできています」
机の上へ、少しずつ紙が増えていく。
一枚。また一枚。
どれも、一人の生徒が一年間に書いたものだった。
春の答案。初夏。秋。冬。
最初と最後を並べれば、変化は目に見えて分かった。
「……随分、変わりましたね」
誰かが、思わずといったように呟いた。
「はい」
白髪の教師が頷く。
「だから十三位なのだと思います」
点数が高かったから変わったのではない。変わったから、結果としてここまで上がった。その順番を示すような言葉だった。
「それでも、特進へ上げる根拠としては、試験の話に偏っている」
慎重な声が、もう一度入る。
「試験以外ではどうだ?」
「合同実習の記録があります」
今度は、別の教師が一冊の評価票を開いた。
秋に行われた冬季物資輸送の模擬実習。
第一班。班長――ルシアン・ノクティス。
その中に、フローレン・アストリアの名もある。
「この実習では、ノクティスが情報を抱え込みすぎたことで、彼が不在になった際に班の判断が止まりました」
教師が記録を辿る。
「アストリア本人も、状況変更後すぐには判断できていません。初めて見る資料を短時間ですべて処理できるわけではありません」
「そこは重要だな」
一人の教師が頷いた。
「記憶力が高くても、未知の情報を瞬時に理解できるわけではない、ということだろう」
「はい。ただ、何もできなかったわけでもありません」
教師の指が、評価票の別の欄へ移る。
「状況が変わったあとも、自分が受け持った資料から必要な情報を探し、薬品の優先順位を組み直そうとしています。班全体の判断までは成立させられませんでしたが、知っていることをそのまま当てはめるのではなく、変わった条件に合わせて使おうとはしていました」
白髪の教師が、わずかに目を細めた。
「……なるほど」
「最近は第二クラスでも、ほかの生徒から質問を受けているそうですね」
今度は第二クラス担任が口を開く。
「ええ。よく集まっています」
「教えているのですか?」
「本人は『一緒に考えているだけ』と言っていますが」
わずかな笑いが、机の周りへ生まれた。
「答えを直接言わず、相手がどこで止まっているかを確かめています。自分が以前間違えたところを例に出して説明することも多いですね」
「それは、ノクティスのやり方に近いな」
「ええ。問いを返して、相手自身に考えさせるところは似ています」
担任は一度言葉を切った。
「ただ、そこにアストリア自身の経験も加わっています」
「というと?」
「『私もここで間違えた』と、自分が以前つまずいた場所をそのまま例にするんです。それから、どこで分からなくなったのかを一緒に辿っている。そのためか、成績に自信のない生徒も質問へ来やすいようです」
そこで、また部屋が静かになった。
試験。授業。合同実習。同級生との関わり。
一つだけなら、特進へ移す理由として弱いものもある。
けれど。
机の上へ並べていくほど、それらは同じ方向を指し始めていた。
「……十三位だけ、ではないということだな」
学年主任が言った。
「そう思います」
そう答えたのは、白髪の教師だけではなかった。何人かが、静かに頷いた。
しばらく、紙をめくる音だけが続いた。
窓の外では、冬の陽がさらに低くなっていた。机へ差し込んでいた光は細く伸び、重ねられた成績表や答案の角へ淡い色を残している。
やがて、学年主任が口を開いた。
「問題は、特進へ入れるかどうかだけではない。――今ある資料だけで、そこまで判断してよいのかということだ」
その言葉に、何人かが小さく頷いた。
「学年末試験では十分な成績を取っている。通年で見ても、後半の伸びは明らかだ。実習でも、持っている情報を条件に合わせて使おうとする力は確認できる」
それでも。
特進クラスは、これまで第二クラスで受けてきた授業とは違う。
学年末試験だけでは、まだ見えにくいものもある。
限られた時間で複数の条件を扱うこと。初めて見る課題に、自分で入口を作ること。必要な情報を選び、組み直し、途中で違うと気づけば戻ること。
そして、特進の進度の中でそれを続けられること。
「では、確かめてみてはどうでしょう」
一人の教師が静かに言った。部屋の空気が、わずかに変わった。
「確かめる、というのは?」
「通常の進級判断とは別に、課題を設けるのです」
教師は言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「特進で学ぶだけの力が今のアストリアにあるのか。学年末試験とは違う形で、改めて確認するということです」
机の向こうで、誰かの指が止まった。
「特別試験、ということですか」
「そうなるでしょうね」
静かな声だったが、まだ形のなかった案に、そこで初めて名前がついた。
――特別試験。
その言葉が、部屋の中央へ置かれる。
「前例はありませんね」
「二段階の編入自体に前例がないのです。確認の方法まで従来通りである必要はないでしょう」
「試験内容は?」
「それは別途詰める必要があります。ただ、単に難しい問題を解かせるだけでは意味がないと思います」
別の教師が頷いた。
「覚えている量を測るだけの課題でも、適性の確認にはならないからな」
「ええ」
白髪の教師が答えた。
「記憶していることも、当然使ってもらえばいいでしょう。ただ、見たいのはその先です」
フローレン・アストリアが、多くのことを覚えられることはもう十分に分かっている。それも、彼女の持っている力の一つだった。
だからこそ。
見るべきなのは、覚えているものをどう使うか。知らないものにどう向き合うか。途中で何かが崩れたとき、どこから立て直すか。
そして、自分の中に必要な情報がないと気づいたとき、それをどう求めるのか。
「……面白いですね」
ぽつりと、誰かが言った。教師たちの視線が集まり、その教師は少しだけ苦笑する。
「失礼。ただ、この一年でこれだけ変わった生徒が、今どこまでできるようになっているのか。教師として、少し見てみたいと思ってしまいました」
白髪の教師の口元にも、ごく淡い笑みが浮かんだ。
「それは、私もです」
春、一つ尋ねれば知っていることを最後まで答え続けていた少女。覚えていることはいくらでもあるのに、それをどう使えばいいのか分からなかった生徒が、今は特進生の名が並ぶ中の十三位まで来ている。
そして、まだ伸びている途中だった。
「では」
学年主任が、机上の紙を揃えた。
「フローレン・アストリアについては、第一クラスへの編入を前提としたうえで、特進編入の可能性を検討する」
紙の端が揃う乾いた音がした。
「特別試験の実施案を作成する。――ただし、本人の意思を確認するのが先だ」
一人の教師が顔を上げる。
「受けるかどうか、ですか」
「そうだ」
当然のことだった。
学院側がどれほど相応しいと考えても、本人が望んでいないのなら意味がない。特進へ移れば、授業も周囲も変わり、三年間過ごしてきた第二クラスを離れることになる。
最後にそれを選ぶのは、本人でなければならない。
「明日、呼びましょう。私から話します」
第二クラス担任が言った。
学年主任が静かに頷く。
「お願いします」
そこでようやく、フローレン・アストリアの名が書かれた紙は、ほかの資料の上へ戻された。
会議はそのあとも続いた。第一クラスと第二クラスの入れ替え、第三クラスから上がる生徒、成績を落とした者への対応。教師たちの手元では、また別の生徒の資料がめくられていく。
その脇で、フローレンの資料の余白には、《第一編入》《特別試験》《本人意向確認》と、会議が始まったときにはなかった文字が赤く残っていた。
春には、誰も考えもしなかった場所だった。
けれど冬の終わりを迎えた今、《特進》へ続く道が初めて、フローレンの未来の一つとして書き加えられていた。
翌日。
昼過ぎの授業が終わり、生徒たちが教科書や筆記具を片づけ始めたころだった。
「アストリア」
「はい」
教卓の前から名を呼ばれて顔を上げると、教師が手元の資料を揃えながらこちらを見ていた。
「今日の放課後、少し時間をもらえるか」
「……私ですか?」
「ああ。教員室へ来てほしい」
フローレンは一度瞬きをした。
「分かりました」
教師はそれ以上説明せず、資料を抱えて教室を出ていった。
何の用なのかは、見当がつかない。
提出物を忘れた覚えはない。
試験の答案についてなら、もう返却も終わっている。
――昨日掲示された順位のことだろうか。
そこまで考えて、胸の奥がほんの少しだけ騒いだ。
「何かしらね」
隣で同じように教科書を片づけていたエリナが、小さく尋ねる。
「分からない……なんだろう」
フローレンは素直に答えた。
「何かしたかな」
「少なくとも、呼び出されるような悪いことをした覚えはないでしょ?」
「うん……たぶん」
「そこは言い切って」
エリナの笑いにつられてフローレンも少しだけ笑ったが、それでも先ほどの言葉は頭の片隅に残っていた。
放課後、教員室。
昨日までなら、その二つを結びつけても何も思わなかっただろう。けれど今は、その間へ十三という数字が入り込む。
窓の外では、白い雲の切れ間から冬の光が差し込んでいた。
何を聞かれるのかも。
何が待っているのかも。
今のフローレンには分からない。
放課後を告げる鐘は、まだ少し先だった。




