46:学年末試験
最初に目へ入ったのは、三つの術式へ一つの魔力源から供給を行う複合式だった。
図そのものに見覚えはない。けれど、書き込まれている記号や条件はどれも授業で扱ったものだった。供給量の上限、各術式が必要とする最低量、出力の変化に応じて働く補正式。それぞれなら何度も目にしている。
覚えていることを追うより先に、フローレンは設問へ目を移した。
――ある条件変化が起きたあと、複合式の作動状態は最初にどのように切り替わるか。その理由を説明しなさい。
フローレンは問題文の下へ視線を移した。
第一式では、一時的に必要魔力量が増加する。総供給量そのものは変わらない。第二式と第三式にはそれぞれ最低作動量が設定され、さらに全体の出力差が一定値を超えた場合にだけ補正式が働く。
問いに必要なものが、少しずつ絞られていく。
第一式へ回る量が増えるなら、その分だけほかへ渡る量は減る。第二式と第三式のうち、余裕の少ない方から影響を受けるはずだ。
そこまで考えたところで、フローレンの羽根ペンが紙へ触れた。
まず第一式の必要量が増える。総供給量は一定だから、その分だけ残る二式への供給量が減る。
そこまで書いたところで、羽根ペンが止まった。第二式は現在値と最低作動量との差が第三式より小さい。ならば最初に不安定になるのは第二式――そう考えれば、筋は通る。
それでも答案へ書き切る前に、もう一度だけ問題文へ目を戻した。
何かが気になった。
視線をもう一度上から辿る。第一式、総供給量、第二式と第三式の最低作動量。そして最後に記された補正式。
――全体の出力差が一定値を超えた場合にのみ作動する。
フローレンはそこで、わずかに眉を寄せた。
補正式がある。
けれど、それは第一式の必要量が増えた瞬間から働くわけではない。出力差が基準値を超えてから初めて作動する。
第二式が最低作動量を下回るより先に、補正式が働く可能性はあるのか。
必要なのは、その順番だった。
フローレンは計算欄へ数値を置き、一つずつ確かめた。第一式の必要量が増えた直後、第二式へ回る量は確かに減る。けれどその時点では、まだ最低作動量を下回らない。先に三つの術式の出力差が基準値を超え、補正式が作動する。
つまり、最初に起こるのは第二式の作動不良ではない。
それより先に、補正式が起動する。
もし、最初に浮かんだ答えをそのまま書いていたら。
そこまで考えた瞬間、春の共通試験で返された答案が記憶の中へ蘇った。
『先に答えを決めちゃったんだ』
あのときは、主な理由を一つと決めたあとで、それに合う資料だけを選んでしまった。
今回は少し違う。けれど、自分の中で一度筋が通った途端、その答えを正しいものとして扱いかけたところは同じだった。
フローレンは小さく息を吐いた。
今度は、見つけられた。答案を書き終えてからでも、提出したあとでもない。
自分の手で答えを決めてしまう、その一歩手前で。
羽根ペンを持ち直し、先ほど書いた数行の続きへ新しい説明を加える。
紙の上には、一度考えた道筋も残っている。不要になった部分へ細く取り消しを入れ、その脇へ補正式が先に作動する理由を書き足した。
一度違う方へ進んだことより、自分で気づいて戻れたことの方が、今はずっと大きかった。
次の問題へ進む。
簡単な設問ばかりではなかった。
条件を一つ見落として途中まで進み、数行を消したものもある。二つの法則のどちらを使うべきか迷い、しばらく手を止めた問題もあった。考えれば考えるほど両方とも正しいように思え、結局最後まで完全な確信を持てないまま答えを選んだ箇所もある。
それでも、分からなくなった瞬間にすべてが白くなることはなかった。
どこまでは分かっているのか。何を使って、どこまで来たのか。
今見ている条件と、自分が出そうとしている結論のあいだに、本当に線は繋がっているのか。
羽根ペンが止まるたび、確かめる場所があった。そのことが、以前とは何より違っていた。
やがて終了を告げる鐘が鳴った。
「筆記具を置きなさい」
教師の声に従い、フローレンは羽根ペンを机へ置く。
紙を集める足音が前方から近づいてくる。自分の答案が手元を離れる瞬間まで、最後に迷った一問が少しだけ気になった。
正しかったかは分からない。けれど、何も考えられずに選んだ答えではなかった。そこまで辿った過程は、今も自分の中にはっきり残っている。
答案が回収されると、張りつめていた教室の空気がゆっくりとほどけ始めた。誰かが大きく息を吐き、椅子の背へ身体を預ける。別の場所では、もう「あの問題どうした?」という声が上がっていた。
フローレンも肩から力を抜いた。
疲れてはいた。それでも胸の奥には、疲労とは別の熱が残っている。
見たことのない組み合わせだった。迷って、一度は違う方へ行きかけた。
それでも、自分で戻れた。
それが、何より嬉しかった。
学年末試験は、それから数日にわたって続いた。
魔法史、薬草学、魔法生物学。さらに実践理論や基礎魔法学と、一年間に学んだものが、科目ごとに違う形の問いとなって並んでいく。
魔法史では、三つの改革が同じ地方へ与えた影響を、時期ごとに比較する問題が出た。
三つの改革について覚えていることなら、年代も制度の細部もいくらでも浮かぶ。けれど答案欄へ必要なのは、そのすべてではなかった。
フローレンはもう一度設問へ目を戻す。どの変化が先に起き、それが次の制度へ何を残したのか。問いに必要なものだけを拾い、時間の流れに沿って並べていった。
薬草学では、同じ植物でも採取時期と保存環境が異なる三つの標本から、調合へ使えるものを判断する問題が出た。
どれにも一長一短がある。最初に目立つ条件だけを見れば、一つはすぐ候補に挙がった。
けれど、そこで答えは決めなかった。
ひとまず候補として印をつけ、残る条件まで順に確かめていく。一度外した標本も、別の条件と合わせれば候補へ戻ることがある。
最後まで比べたとき、すべての条件を満たしていたのは、初めに最も良さそうに見えたものとは別の一つだった。
フローレンはその答えへ印をつける前に、もう一度だけ三つの標本を見比べた。見落としている条件がないことを確かめてから、ようやく羽根ペンを動かす。
魔法生物学では、さらに少し違う問いが待っていた。
ある生物の生息域が五年間で北へ移った理由を、観察記録と気候資料から説明する設問だった。
気温の変化、餌となる生物の分布、繁殖時期、天敵の増減。どれも生息域に関わりそうな条件だった。
フローレンは資料を一つずつ繋ぎ、三つ目まで読んだところで、気温と餌の変化が主な理由ではないかと考えた。
けれど、最後の資料を見て手が止まる。
北側では、天敵も増えていた。
餌が増え、繁殖に適した気温になったとしても、天敵まで増えているのなら、本当に北へ移る方が有利なのだろうか。
しばらく資料を見比べたあと、フローレンはもう一度設問へ戻った。
――生息域が北へ移った理由を説明しなさい。
理由を、一つに絞れとは書かれていない。
「……そっか」
声にならないほど小さく息を漏らす。
北へ向かわせる条件がある一方で、それを妨げる条件もある。それでも前者の影響が上回れば、結果として生息域は北へ動く。
一つの理由だけですべてを説明する必要はない。条件は、それぞれ別の方向へ働くこともある。
フローレンは、気温と餌の変化、繁殖条件を北への移動を促す要因として書き、その一方で、天敵の増加は移動を妨げる要因として分けて記した。
以前なら、資料の中に食い違う条件があれば、どちらかの考え方が間違っているのではないかと思ったかもしれない。
今は、同じ一つの結果の中に、反対向きに働くものが混ざっていることもあるのだと分かる。
一枚ずつ答案を提出するたび、手応えの形は少しずつ違った。きれいに答えまで辿れたものもあれば、途中で考えを変えたもの、最後まで迷いが残ったものもある。
どれも同じ「できた」ではなかった。
だからこそ、数日間の試験が終わるころには、自分が何点くらい取れているのか、フローレンにもほとんど見当がつかなくなっていた。
最後の試験が終わった日の放課後。
教室を出ると、窓の外には薄い雲が広がっていた。朝から雪を抱えていた雲は、とうとうひとひらも落とさないまま、白い空の奥に淡く残っている。廊下の窓から見える中庭には冬枯れの木々が並び、細い枝先を冷たい風が揺らしていた。
「終わったあ……」
隣でエリナが珍しく大きく息を吐いた。
「エリナ、分かりやすく疲れた顔してるね」
「そういうフローレンはまだ元気そうね」
「私も結構疲れたよ?」
「とてもそうは見えないわ」
フローレンは自分の頬へ手を当てた。
確かに疲れてはいた。何日も続けて長い試験を受けたせいか、頭も身体も普段より重い。今日は自習室へ寄ってまで何かを解こうとは思わなかった。
それでも、胸の奥には疲労とは別の小さな高揚が残っていた。
「……面白かったからかも」
「試験が?」
「うん」
エリナが何とも言えない顔になる。
「本当に変わったわね」
「そうかな」
「昔のフローレンに、『学年末試験、とっても面白いわよ』って教えてあげたいくらい」
「それ、絶対に信じないと思う」
想像すると可笑しくて、二人で笑った。
教室を出る生徒たちの流れに混じり、廊下を歩く。
「あの魔法生物の最後の問題、どうした?」
「北へ移った理由?」
「そう。天敵が増えてたところ」
「私は、条件ごとに分けて書いたよ。北へ行きやすくするものと、行きにくくするもの」
「ああ……やっぱりそうなのね」
エリナは少し悔しそうに眉を寄せた。
「私、天敵の方は最後に消してしまったわ」
「でも、それでも合ってるかもしれないよ」
「そう?」
「どこまで書くことを求めてたのか、先生の採点を見ないと分からないし」
自分の答えだって、絶対に正しいとは言い切れない。今すぐ確かめてみたい気持ちはあったが、答案はもう手元にない。
なら、返ってくるまで待つしかない。
以前より、待つことも少し上手くなった気がした。
階段へ差しかかったところで、下から赤い髪が見えた。
「おーい」
レオが片手を上げる。その少し後ろから、ルシアンも階段を上がってきていた。
「終わった?」
「今ちょうど」
フローレンが答えると、エリナは二人へ軽く手を上げた。
「私は今日は先に戻るわね。さすがに少し休みたいもの」
「お疲れさま、エリナ」
「フローレンも今日はちゃんと休むのよ」
「分かってる」
「ルベライトさん、ノクティスさん。フローレンのこと、見張っててね」
「任せて」
「本人の前で頼むことか?」
ルシアンが苦笑する。
「だって前例があるもの」
エリナは楽しそうに笑い、フローレンへもう一度手を振ると、寮へ向かう廊下へ消えていった。
「それで?」
待っていたように、レオが尋ねる。
「どうだった?」
「何が?」
「試験」
答えようとして、フローレンは少し考えた。点数は分からない。全部解けたとも言えないし、最後まで自信を持てなかった問題もいくつかある。
「……難しかった」
まず出てきたのは、その言葉だった。
「うん」
レオが頷く。
「今回、結構ひねってあったよね」
「ああ。単純な知識だけで答えられる問題は少なかった」
ルシアンも同意する。
「特に実践理論の最後は、条件の置き方が少し意地が悪かったな」
「あ、それ」
フローレンの目が明るくなる。
「私、一回間違えた」
「試験中に?」
「うん。最初は第二式が先に不安定になると思ったんだけど……もう一回見たら、第二式が最低作動量を下回るより先に補正式が動くって気づいて」
話し始めると、そのときの紙面がそのまま頭に浮かぶ。
「最初の答えで綺麗に繋がったから、そのまま書きそうになったんだけど。なんか気になって、もう一回条件を見たら――」
そこまで言ったところで、ルシアンの目元がわずかに和らいだ。
「どうしたの?」
「いや」
紫の瞳が穏やかに細められる。
「試験が終わった直後に、間違えかけた話をそんなに楽しそうにする人も珍しいと思って」
「……私、楽しそう?」
「かなり」
レオが間髪を入れず答え、笑う。
「まあ、受ける前からこうなる気はしてたけどね」
「どういう意味?」
「フローレン、今回の試験は絶対好きだろうなって」
「……うん」
否定する理由はなかった。さっきエリナに「面白かった」と話したときよりも、今はその理由が少しだけはっきりしている。
「知らない形が多くて。途中で分からなくなる問題もあったけど、前みたいに何もできなくなる感じじゃなくて……どこを見ればいいか考えるのが楽しかった」
冷たい風が廊下を抜け、三人の髪をわずかに揺らした。
ルシアンはすぐには何も返さず、しばらくフローレンを見ていた。やがて、その表情がごく静かに和らぐ。
「そう言うと思った」
「え?」
「君なら、たぶんそう思うだろうなと」
何でもないように続けられた言葉だった。
それでも、自分がどんなふうに問題へ向かうのかを、いつの間にかルシアンが知っている。そのことに気づくと、胸の内に小さな温かさが灯った。
「結果、楽しみだね」
レオが言った。
「うん」
今度は迷わず頷いた。
数字としてどのくらい取れているのかを知るのは、もちろん少し緊張する。自信を持てなかった問題もあれば、最後まで正解が分からないまま提出したものもある。
けれど今は、それ以上に、自分が書いた答えが学年全体の中でどこまで通じるのかを知りたかった。
それから数日後。
その日の授業がすべて終わったあと、返却された学年末試験の答案とともに、各教室へ一枚の通知が配られた。
翌日の朝、中央棟の掲示板に学年末試験の総合順位を掲示するという知らせだった。
「総合順位……」
紙を読んだフローレンが、小さく呟く。
返ってきた答案に記された点数は、どの科目もこれまでより高かった。自分なりに手応えのあった問題にはきちんと点が入り、最後まで迷った箇所にも思っていたより多くの部分点が残っている。
けれど、その数字が学年九十六人の中でどこに位置するのかまでは分からなかった。
「今年も全員分出るの?」
「そうらしい」
「名前と今のクラスが一覧で載るって」
教室のあちこちから声が上がる。
フローレンも通知へ視線を戻した。
三年生は、特進、第一、第二、第三の四クラス。
それぞれ二十四人ずつ、計九十六人。
ついさっきまで、自分が気にしていたのは、答案にどれだけ点がついているかだった。けれど数字を実際に目にした今、今度はその先が気になった。
この点数は、学年全体の中ではどこにあるのだろう。
「フローレン」
隣からエリナに呼ばれ、顔を上げる。
「明日、一緒に見に行きましょ」
「うん」
今度はすぐに頷いた。
少し前までなら、順位表に自分の名前を探そうとは思わなかったかもしれない。自分は第二クラスで、来年もきっとそうなのだと、それくらいに考えていた。
けれど今は、知りたかった。
一年間かけて、自分がどこまで来たのか。
それが数字として並ぶのなら、一度きちんと見てみたい。
窓の外では、冬の夕暮れが校舎の端からゆっくりと色を失い始めていた。白い雲の向こうに残る光も、あと少しすれば薄暮の中へ溶けていく。
明日の朝、中央棟の掲示板には三年生全員の名前が並ぶ。
フローレンはもう一度通知へ目を落としてから鞄の中へしまい、留め具を閉じた。




