45:試験の前に
冬の終わりは、まず午後の光の長さに現れはじめていた。
吹き抜ける風にはまだ十分な冷たさが残っている。それでも午後になれば、窓から差し込む陽は以前より長く教室の床へ留まるようになっていた。中庭の木々も枝ばかりの姿には変わりないが、その細い影は日ごと少しずつ輪郭をやわらげている。
三年生としてこの教室で過ごす日々も、いつの間にか残り少なくなっていた。
「……ここじゃない?」
第二クラスの教室で、フローレンは隣から差し出された紙へ指を置いた。
放課後の鐘が鳴ってから、すでに少し時間が経っている。帰り支度を終えた生徒の姿は減り始めているのに、フローレンの机の周りにはまだ四人ほどが残っていた。机の中央には、一枚の問題用紙が広げられている。
「この条件だと、第三式の出力が下がるんだよな?」
向かいに座る男子生徒が尋ねる。
「うん。そこまでは合ってると思う」
「じゃあ答え、これでいいんじゃないの?」
「でも、その前にもう一つ条件があるでしょ?」
フローレンは答えの書かれた箇所には触れず、問題文の少し上へ指先を移した。
「ここ」
「……供給量は一定」
「そう。それと、今言った第三式の出力が下がることを一緒にすると?」
そこでフローレンは口を閉じた。答えの続きを急かさず、男子生徒の視線が問題文にある二つの条件を行き来するのを待つ。
「えっと……」
少しして、その隣から紙を覗いていた女子生徒が身を乗り出した。
「第三式に行かなくなった分が、ほかに回る?」
「そうなるよね」
「あ」
男子生徒が小さく息を漏らし、もう一度問題用紙へ身を寄せた。
「じゃあ第二式の方が上がるのか」
「私もそう思う」
フローレンが頷くと、男子生徒はもう一度問題用紙へ目を落とした。そのまま今度は自分で条件を上から辿り直し、何かを確かめるように小さく口を動かしている。
「……あー、分かった。俺、第三式が下がるところで答え決めてた」
「私も前にそれやったよ」
「え。じゃあ俺、アストリアと同じ思考回路ってこと?」
ふいに得意げな顔をされ、フローレンが瞬きをする。
「そのうち俺もアストリアみたいになれるんじゃ?」
「さすがにそれはないでしょ」
横から女子生徒がすぐに口を挟んだ。
「まず教科書と参考書を全部暗記してから出直してきて」
「……いや、難易度高くね?」
「そこがスタートラインでしょ」
間髪を入れず返され、机の周りに笑いが広がった。フローレンも否定するでも肯定するでもなく、一緒になって笑う。
問題用紙を囲んでいる最中だというのに空気はどこか穏やかで、誰かの羽根ペンが紙を擦る音に、ときおりこうした笑い声が混じっていた。
ほんの少し前までなら、こんなふうに自分の机へ何人も集まることなどなかった。分からないところがあれば自分から誰かへ尋ねるか、参考書を開き、足りない知識を増やそうとしていた。
「ねえ、こっちも見てくれる?」
今度は別の女子生徒から紙が差し出された。
「いいよ。どこで止まったの?」
「それが、どこで分からなくなったのかも分かんなくて……」
聞き覚えのある言葉に、フローレンの手が一瞬止まった。
「そっか。じゃあ、一回一緒に見てみよ」
紙を自分の方へ少し引き寄せる。途中まで書かれた式を上から辿ると、使っている条件にも計算にも、そこまではおかしなところが見当たらなかった。
「ここまでは合ってるよ」
「本当?」
「うん。ここでこの条件を使って、次にこっちを出してるでしょ?」
「うん」
「だから、ここまではそのままで大丈夫」
フローレンは、最後に合っているところの脇へ小さく印をつけた。
「分からなくなったからって、全部やり直さなくていいよ。今分かってるところから、その次だけ見てみよっか」
口にしたあとで、ふと懐かしさが胸を掠めた。春のころ、自分も同じようなことを言われたことがある。
――全部は戻らなくていい。今いるところから一番近い次を探せばいい。
あのころは、その意味を自分の問題へ使うだけで精一杯だった。それが今では、少し違う言葉になって、自分の口から誰かへ渡っている。
けれど、まったく同じではない。
相手が違えば、止まっている場所も違う。以前なら何を聞けばいいのか迷うことも多かったが、この頃は相手の紙や表情を見ているうちに、どこから一緒に見ればよさそうなのか、少しずつ分かるようになっていた。
「じゃあ……次って、これかな」
女子生徒の指が、一つの条件で止まる。
「うん、私もそう思う。じゃあ、その前の式と比べてみて」
言われた通り二つを見比べた女子生徒の目が、やがて一か所で止まった。
「……あ」
小さな声が落ちる。その瞬間、さっきまで迷っていた目元がふっと明るくなった。
フローレンは思わず笑った。
「分かった?」
「たぶん。もう一回自分でやってみる」
「うん」
女子生徒は返された紙を自分の方へ引き戻した。さっきまで同じ場所を行き来していた羽根ペンが、今度は迷わず式の続きを辿り始める。
そのとき、机の向こうから別の声がした。
「最近、ずいぶん賑やかだな」
何人かが一斉に振り向いた。
いつの間に戻ってきたのか、教卓のそばに教師が立っていた。授業で使った資料を片腕に抱え、こちらを見ている。
「すみません。もう帰ります!」
誰かが慌てて問題用紙をまとめようとする。
「別に追い出しに来たわけじゃない。戸締まりの確認に戻っただけだ。まだ時間はある」
教師はそう言って、抱えていた資料を教卓へ置いた。集まっていた生徒たちから小さく安堵の息が漏れ、途中だった紙を広げ直す音が重なる。
その中で、教師の視線がフローレンの机へ落ちた。そこには何枚もの問題用紙が広がり、途中まで書かれた式や、考える場所を示す小さな印が余白に残っている。
「アストリア」
「はい」
「その問題、君自身は答えが分かっていたのか?」
思いがけない問いに、フローレンは一度瞬きをした。
「……はい。自分ならこう考える、という答えはあります」
教師は机の上へ残った式を一度見る。
「それでも、さっきは答えを先に言わなかったな」
「はい」
「何か理由があるのか?」
周囲に残っていた生徒たちも、何となく会話を聞いている。
フローレンは少し考えた。なぜ、と改めて尋ねられると、これまで自分でもはっきり言葉にしたことはなかった。
「答えだけ聞いたら、その問題は解けると思うんですけど。次に少し違う問題が出たら、また止まるかもしれないから……」
自分にも、そういう時期があった。正しい答えを知ったはずなのに、条件の形が少し変われば、またどこから考えればいいのか分からなくなる。
「それなら、自分で見つけた方が、次にも使えるかなって」
そこまで口にしてから、少しだけ照れくさくなった。
「……思ったから、です」
教師はすぐには答えなかった。机に広がる問題用紙と、その周りにいる生徒たちへ一度ずつ目を向ける。
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
いつものように淡々とした短い返事だったので、フローレンもそれ以上は気に留めなかった。
「じゃ、アストリア。また明日」
「うん。またね」
「明日も聞いていい?」
「私も自分の勉強するけど、その合間でいいなら」
「もちろんいいよー! いつもありがとね」
女子生徒は嬉しそうに問題用紙を鞄へしまい、「また明日」と軽く手を上げた。フローレンも笑って手を振り返す。
一人、また一人と教室を出ていき、最後まで残っていた生徒が扉の向こうへ消える。つい先ほどまで机を囲んでいた声がなくなると、放課後の教室は急に広く感じられた。
フローレンも自分の問題用紙を揃え、筆記具を鞄へ戻していく。
「アストリア」
再び呼ばれて顔を上げた。
「はい」
「明日は学年末試験について説明する予定だ」
動かしていた手が、ほんの少し止まった。
「もうそんな時期なんですね」
「そうだな」
教師は教卓の上の資料を揃えながら、窓の外へ一度目を向けた。
「今年の授業も、残りわずかだ」
開いた窓から入り込んだ風が、教室の端に掛けられた暦を小さく揺らした。並んだ日付を改めて見れば、確かに三年生として過ごす日はもう多くない。
フローレンは鞄の留め具を閉じる。
「分かりました」
「ああ」
教師へ軽く頭を下げ、教室を出る。
扉を閉める直前、教卓に残った教師が、先ほどまで何人もの生徒が囲んでいたフローレンの机へもう一度目を向けるのが見えた。
けれど、その視線が何を見ていたのかまで考えることはなく、フローレンは廊下へ出た。
翌朝、始業前の教室にはいつもより早くから生徒が集まっていた。
すでに席について教本を開いている者もいれば、友人同士で声を潜めている者もいる。学年末試験の話がどこからか広がったらしく、教室には普段とは少し違う落ち着かなさが漂っていた。
「おはよう」
席へ向かうと、先に来ていたエリナが振り返った。
「おはよう。聞いた?」
「何を?」
「学年末試験」
フローレンは鞄を置きながら頷く。
「昨日、先生に明日説明するって言われた」
「やっぱりそれだったのね」
エリナは少しだけ息をついた。
「学年末かあ……」
その声に、近くの席から別の生徒が振り返る。
「今年、クラス替えあるかな」
「三年にもなると、ほとんど動かないんじゃない? 二年までならともかく」
「俺は第三に落ちなきゃそれでいいや」
「それはちょっと分かる」
似たような話は、教室のあちこちから聞こえていた。
一、二年のころには、入学時の成績と実際の授業との間に差があった生徒がクラスを移ることもあった。けれど三年生にもなれば、それまでの成績の傾向はある程度固まり、一年間の評価を重ねても所属が変わる生徒はそう多くない。
とりわけ特進と第一クラスの間にある壁は厚い。第一クラスで一年を通して高い成績を取り、実習でも十分な評価を積み重ねた生徒が、ようやく一人上がることがあるかどうか。そのほかのクラスでも、入れ替わるのはほんのわずかだった。
フローレンも入学してからずっと第二クラスにいる。来年も同じように第二クラスのままだと、これまで疑ったことすらなかった。
「フローレンは」
エリナの声に顔を上げる。
「今年、第一クラスへ上がるんじゃない?」
「……え?」
本気で意味が分からず、しばらくエリナを見た。
「私が?」
「ほかに誰がいるのよ」
エリナは少し呆れたように笑った。
「最近のあなた、自分がどれくらいできるようになったのか分かってる?」
「前よりは、できるようになったと思うけど……」
できることが増えた自覚はある。以前なら止まっていた応用問題にも手が届くようになり、初めて見る形でも、分かっているところから先を探せるようになった。
けれど、それと「第一クラスへ上がる」という話は、フローレンの中ではまだ結びついていなかった。
「第一クラス……」
口にしてみると、それまで遠かった言葉が急に現実味を帯びた。
「考えたことなかった」
「でしょうね」
即答される。
「あなた、順位とか全然気にしないもの」
「エリナだってそんなに気にしてないでしょ?」
「現状維持できるかどうかくらいは気にしてるわよ」
「そうだったんだ……」
もし本当に第一クラスへ上がれば、春からエリナとはおそらく別のクラスになる。今のように毎朝同じ場所で顔を合わせ、授業の合間に何気なく言葉を交わすこともなくなるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥へ小さな寂しさが差した。けれど同時に、第一クラスへ上がれば、今より難しいことにも挑めるのだろうとも思う。まだ知らないことが待っている、その先を想像すると、胸の別の場所が微かに弾んだ。
寂しさと楽しみは、どちらも消えないまま胸の中に並んだ。
「でも」
エリナが言った。
「まだ決まったわけじゃないわよ」
「……うん」
「そもそも、学年末試験もまだでしょ?」
その通りだった。
フローレンは思わず笑う。
「先のこと考えすぎちゃった」
「ふふ、そうね」
そうしているうちに教師が教室へ入ってきた。朝の話し声が次第に小さくなっていく。
「席につけ」
教卓へ置かれたのは、何枚かの紙の束だった。
「すでに聞いている者もいると思うが、来週から学年末試験を行う」
紙が前の席から順に配られていく。
「試験範囲と日程は記載の通りだ。今回の成績は、来年度のクラス編成を決める際の重要な資料になる」
教室の空気が少し引き締まる。
「ただし、学年末試験だけですべてを決めるわけではない。これまでの試験結果、授業での評価、実習結果を含め、一年間を通して判断する。そのつもりでいなさい」
手元へ回ってきた紙を受け取りながら、フローレンは先ほどのエリナの言葉を思い出した。来年度の所属を決める材料になるのだと聞いて、さっきまでどこか現実味のなかった話が少しだけ近くなる。
教師の説明は続いた。
「それから、学年末試験は普段の共通試験より難度を上げている。基礎問題だけでなく、複数の条件を組み合わせて考える問題も多く含まれる」
教室のどこかから、小さな呻き声が上がった。
「毎年そうだが、すべての問題を解き切ることを前提には作っていない。特進クラスの生徒でも、全問正答は容易ではない」
その言葉に、フローレンの指が紙の端で止まった。
特進でも、全部は解けないかもしれない。
まだ習っていないことが問われるわけではない。これまで学んできたことを使っても、すぐには答えへ届かない問いが用意されているということだ。
先ほどまでクラス替えへ向いていた意識が、すっと別の方へ動いた。
「……楽しそう」
ほとんど息に混じるような声だった。
「え?」
隣のエリナがこちらを見る。
「あ……何でもない」
慌てて首を振ったものの、口元に浮かんだ笑みまでは消えなかった。
どんな問題が出るのだろう。知っていることだけでは、すぐに答えへ辿り着けない問いを前にしたとき、今の自分はどこまで考えられるのだろう。
それを確かめてみたいと思った。
その日の放課後、いつもの小さな自習室で日程表を机へ広げると、レオが横から覗き込んだ。
「今日、学年末試験の説明あったね」
「うん」
レオは日程表の端へ視線を落とし、少し遠い目をした。
「もう学年末かあ」
「ほんと。三年生、もう終わるんだね」
口にすると、それまで暦の上にしかなかった三年生の終わりが、少しだけ近くなった気がした。
「それでね、今朝エリナに、第一クラスへ上がれるんじゃないかって言われたの」
「へえ」
レオが顔を上げた。
「まあ、今のフローレンなら、もしかしたら候補には入るんじゃない?」
「……そうかな」
「前よりずっとできること増えてるし」
さらりと言われ、フローレンは向かいを見る。読んでいた本から顔を上げたルシアンも、レオの言葉を否定する様子はなかった。
「ルシアンも、そう思う?」
「ああ。少なくとも、可能性はあると思う」
「……そんなに?」
ルシアンは少し考えるようにフローレンを見たあと、穏やかに頷いた。
「君自身も、自分の成長は感じているんじゃないか?」
「うん。それは、そうかも」
第一クラスで授業を受ける自分の姿など、今のフローレンにはまるで想像がつかない。
けれど、エリナだけでなく二人まで同じように考えてくれていたことは、どこかくすぐったく、それ以上に嬉しかった。
この一年、自分なりに一つずつ続けてきたことが、いつの間にか周りの目にも映るほどの変化になっていたらしい。そのことを思うと、嬉しさが胸の内側へじんわりと沁みていく。
「……なんか、嬉しい」
零れた声に、自分でも少し照れくさくなって笑う。
「そう思ってもらえるくらいには、今年一年、ちゃんと頑張れたんだなって」
「それは間違いないでしょ」
レオは即答した。
「そこは疑わなくていいと思うよ」
「ああ」
ルシアンも静かに頷く。
二人の返事があまりにも迷いなく重なったので、フローレンは一瞬だけ目を丸くした。それから、胸の奥に広がったあたたかさをそっと抱えたまま、日程表へ視線を戻す。
「それに、まだ試験も始まってないからね」
レオが日程表を指先で軽く叩いた。
「そうだった」
「まだ結果どころか、問題用紙すら見てないんだし」
言われてみれば、その通りだった。朝から思いがけず第一クラスの話が出たせいで少し気を取られていたが、来週になれば、まずは目の前の試験を受けることになる。
そう思った途端、フローレンの意識は自然と別のことへ向いた。
「そういえば今回の学年末試験、普段よりかなり難しいんだって」
レオが怪訝そうに眉を寄せる。
「……それ、なんでそんな嬉しそうに言うの?」
「特進の生徒でも全問正答は難しいって先生が言ってた」
「うん。こっちでも言ってたけど」
「じゃあ、本当に難しいんだね」
フローレンの声が、わずかに弾む。
「だって、どんな問題が出るのか気になるでしょ?」
レオの呆れた顔を見ながら、フローレンはふと向かいへ目を向けた。
「ルシアンでも難しい?」
「まあ、そうだろうな」
ルシアンは特に気負う様子もなく答える。
「とか言いつつ、去年は一科目、満点取ってたけどね」
レオが横から口を挟んだ。
「え、そうなの?」
フローレンは思わず身を乗り出す。
「やっぱりすごいね、ルシアン」
「ちょうど得意な分野だっただけだ」
本人は何でもないことのように言って、開いていた本へ指を戻した。
「でも、考えようによってはさ」
レオが菓子を一つ摘まみながら続ける。
「このルシアンですら、得意な分野じゃないと満点取れないくらい難しいってことでしょ」
「……確かに」
フローレンの目が、また日程表へ向いた。先ほどよりも明らかに興味を深めた様子で見つめる横顔に、レオがとうとう呆れたように息をつく。
「だから、なんでそこでさらに嬉しそうになるの……」
「だって、去年はそんなふうに考えたことなかったもの」
「どういうこと?」
「難しい問題だっていうのは分かってたけど、何が難しいのかまでは分からなかったから」
去年の学年末試験でも、解けない問題はいくつもあった。ただその頃は、知らないから解けないのか、知っていることを使えば先へ進めるのか、その違いすらよく分からなかった。
「今年は、どこまで考えられるのか見てみたい」
そう言って日程表を見るフローレンを、レオはしばらく眺めていた。
やがて向かいのルシアンへ視線を送る。
「もう大丈夫そうだね」
「ああ」
二人だけで何かを納得される。
「何が?」
「何でもない」
レオは楽しそうに笑って誤魔化した。
ルシアンは日程表へ目を落としながら、静かに続ける。
「難しい試験でも、やることは今までと変わらないだろう」
「うん」
「何を聞かれているのかを見る。分かっていることを拾う。それから、次に何が言えるかを考える」
聞き慣れた言葉だった。
「今まで通りやればいい」
フローレンも日程表へ目を落とす。
どれだけ難しい問題が出ても、目の前でやることまで変わるわけではない。何を聞かれているのかを見て、分かっていることを拾い、そこから次へ進む。
それなら、今までずっとやってきた。
「……そっか」
肩に入っていたわずかな力が抜ける。
「じゃあ、いつも通りでいいんだね」
「ああ」
ルシアンが頷く。
「……まあ」
横からレオが口を挟んだ。
「いつも通りって言っても、試験前に徹夜とかはダメだからね」
「しないよ」
「ほんと?」
「しないってば」
即座に返すと、二人がほとんど同時にこちらを見る。
「……何、その顔」
「信用してるよ?」
「言い方が信用してない」
「前例があるからな」
向かいからまで静かに追い打ちをかけられる。
「ルシアンまで……」
不満そうに言いながらも、フローレンは笑っていた。
試験でどこまで解けるのかは、まだ分からない。けれど、今の自分が春のころと同じではないことだけは、もう疑わなくてもいい気がした。
そう思うと、試験を待つ気持ちは緊張よりも、少しずつ楽しみの方へ傾いていった。
それから一週間が過ぎ、学年末試験の日はよく晴れた朝になった。
冬の冷たさを残した光が高い窓から差し込み、整然と並ぶ机の上を白く照らしている。置かれているのは筆記具だけで、普段なら目に入る教本もノートも参考書もない。
フローレンは静かに席へ座り、配られる試験用紙を待っていた。
周囲には普段より張りつめた気配がある。誰かが椅子を引く音も、咳払いも、今日は妙によく耳へ届いた。
やがて前方から試験用紙が配られ、自分の机にも伏せられた紙が置かれる。
まだ中身は見えない。
それでも胸の奥にあるのは、不思議と以前のような怖さではなかった。
春のころなら、見たことのない形の問題が出ないことを、どこかで願っていたかもしれない。
けれど今は、もし初めて見るものが出てきたら、自分はそこからどこまで考えられるのだろうと思う。
「では」
教師が時計を確かめる。
「始めなさい」
紙が一斉に返された。
フローレンも試験用紙を表へ向け、最初の頁へ目を走らせる。一問目、二問目と、見覚えのある形が続いた。
そして、頁をめくった先で、指が止まった。
そこには、知っている言葉がいくつも並んでいる。
知っている条件。
知っている法則。
授業で扱ったことのある事柄。
それなのに、それらはこれまで一度も見たことのない形で組み合わされていた。
フローレンはしばらく、その問いを見つめた。
やがて口元が、ほんの少しだけ上がる。羽根ペンを持ち直した。
見たことがない。
だからこそ。
――考えてみたい。
冬の朝の静かな教室で、ペン先が紙へ触れた。




