44:北の空の七つ星
古書店を出ると、街は入ったときより少しだけ暗くなっていた。
空にはまだ淡い明るさが残っているものの、建物の影は長く路地へ伸び、軒先では一つ、また一つと灯りが点き始めている。硝子窓の向こうから零れる橙色が、冬の冷えた石畳へ柔らかな四角を落としていた。
「……う、さむい」
扉が閉まるなり、フローレンは外套の襟元へ顔を埋めた。
「それ、今日何回目?」
すぐ隣でレオが笑う。
「……寒いものは寒いの」
「まあ、それはそうだね」
白い息を吐きながら返すレオの向こうで、ルシアンも通りへ目を向けた。古書店へ入る前より風が少し強くなったのか、軒先に吊られた小さな看板がかすかに揺れている。
「確かに、少し冷えてきたな」
外套の隙間へ入り込む風も昼間より冷たい。立ち止まっていると、店の中で温まった指先から少しずつ熱が逃げていくようだった。
「日も落ちてきたし、そろそろ帰ろっか」
レオが言った。
フローレンはすぐには返事をせず、歩いてきた通りをもう一度見渡した。
まだ覗いていない店はいくつもある。
古書店にも見ていない棚が残っていたし、ここへ来る途中にも足を止めかけた店があった。
夕暮れの灯りが増えたせいか、昼間とは違うものまで目に入ってきて、もう少しだけ歩いていたい気持ちが残る。
「……もうちょっと見たかったな」
ぽつりと零すと、レオが通りを振り返った。
「またいつでも来られるよ」
「そう?」
「うん。また三人で一緒に来よう」
フローレンはもう一度辺りを見回した。
今日見きれなかったものは、また来たときに見ればいい。見そびれたものがあるなら、それは次に来る理由になる。
「それもそうだね」
そう思えば、名残惜しさも少しだけ軽くなった。
三人は来た道とは少し違う通りを選び、学院へ向かって歩き始めた。
学院の中でも、三人で過ごす時間は珍しくない。
放課後になれば同じ机を囲み、勉強が終わったあと本や菓子の話をしていることもある。
けれど今日のように、三人で街を歩く時間はいつもとは少し違って、それが新鮮だった。
次の角を曲がれば何があるのかも分からないまま、気になるものを見つけるたびに誰かが声を上げ、そのたび三人の歩みが止まる。
髪飾りを眺めたり、焼き菓子の匂いにつられたり、思いがけず古書店へ足を踏み入れたり。
そんなふうに三人で街を歩いたことが、思っていた以上に楽しかった。
今日の余韻に背中を押されるように、帰り道でもフローレンの歩みは自然と弾んでいた。
「そういえばさ」
隣を歩いていたレオが、ふいにフローレンへ顔を向けた。
「なに?」
「第二クラスで先生やってる話」
「また言う……」
思わず眉を寄せる。
「もう、先生じゃないってば」
「でも今日、結構囲まれてたよね」
「それは……」
学院を出る前の教室を思い返す。
最近は、以前より問題について尋ねられることが増えた。
最初はエリナと一緒に考えていただけだったのに、近くの席の子から声をかけられ、それを見ていた別の子も加わるようになった。気づけば今日のように、何人かで同じ問題を覗き込むことも珍しくなくなっている。
「ただ、一緒に考えてるだけだよ」
「でも、みんなフローレンに聞きたいって思ってるから集まるんでしょ?」
「……うーん、そうなのかな」
そう口にすると、少しだけ照れくさい。
けれど、嫌ではなかった。
自分も以前は分からなかったところを一緒に辿って、その途中で相手がふいに「あ」と顔を上げる。
あの瞬間を見るたび、自分まで少し嬉しくなる。
「今日も明日の予約入ってたし」
「だから予約じゃないって」
「『明日の放課後』って言ってたじゃん」
「一緒に問題を見るだけだよ」
笑いながら返すと、レオも楽しそうに笑った。
そのまま二人で話していて、ふと隣が静かなことに気づく。
顔を向けると、ルシアンは少し先へ視線を置いたまま歩いていた。黙り込んでいるというほどではない。ただ、何かを考えているときのような静けさがあった。
「ルシアン?」
呼ぶと、紫の瞳がこちらへ向く。
「どうした?」
「ううん。なんか静かだなと思って」
「ああ」
ルシアンは一度だけ視線を落とし、それからフローレンを見る。
「少し考えていただけだ」
「何を?」
「君がまた、無理をするんじゃないかと」
「私?」
思いがけない答えに、フローレンは目を瞬いた。
「頼られるのは、いいことだと思う」
ルシアンはそう前置きしてから、穏やかに続ける。
「でも、頼まれたものを全部引き受ける必要はないからな。君自身の勉強もあるし、楽しくやれているならいいけれど、それで無理をする必要はない」
そこまで言われて、フローレンはようやく何を心配されているのか分かった。
「そんなに頼まれてないよ?」
「ならいいんだ」
ルシアンの声が少し和らぐ。
「ただ、君はできると思うと続けてしまうところがあるだろう」
その言葉に、春の終わりに熱を出した日のことが一瞬だけ浮かんだ。
「……それは、否定できない、かも」
思わず笑うと、ルシアンも小さく笑った。
「でも、今のところ楽しいよ」
そう付け加えると、今度はレオがこちらを見た。
「人に教えるのが?」
「教えるっていうより、一緒に考えるのが」
フローレンは少し考えながら言葉を探した。
「私も最初、どこで分からなくなってるのか、自分でも分からなかったでしょ?」
「ああ」
ルシアンが頷く。
「だから、同じようなところで止まってる人を見ると、少し分かるようになってきたの。ここで答えを言うより、先に聞いた方がいいな、とか」
今日の教室で交わした会話を思い返す。
何を聞かれているのか。どこまで分かっているのか。そして、今ある条件から何が言えるのか。
どれも初めは、ルシアンから自分へ向けられた問いだった。答えそのものを渡すのではなく、自分で次の一歩を見つけられるように投げかけられた言葉。
それがいつの間にか、自分の中から自然に出てくるようになっていた。
「ルシアンが最初にしてくれたみたいには、まだ全然できないけど」
「いや」
すぐに返ってきた声に、フローレンは顔を上げた。
ルシアンは少し考えるようにこちらを見ていたが、その表情に迷いはなかった。
「今日見た限りでは、十分できていたと思う」
「……ほんと?」
「ああ」
きっぱりと頷く。
「答えを先に言わず、相手が自分で気づくのを待っていただろう。それに、自分が以前どこで間違えたのかも参考にしていた。僕と同じようにする必要はないし、君には君の教え方があるんだと思う」
思いがけない言葉に、フローレンはしばらく何も返せなかった。
自分では、相手と一緒に問題を見て、そのとき必要だと思ったことを聞いていただけだった。
それをルシアンは、ちゃんと「フローレンの教え方」として見てくれていた。
「……そっか」
胸の奥に、くすぐったいような温かさがじわりと広がった。
「なんか、嬉しい」
そのまま口にすると、ルシアンの目元がふっと和らぐ。
「それならよかった」
短いけれど、柔らかな声だった。
胸に残った温かさを抱えたまま、フローレンはしばらく二人と並んで歩いた。
夕暮れの街を眺めながら、今日立ち寄った場所を一つずつ思い返す。
以前行きたいと言っていたお菓子屋さん《ラ・フルール》、青や乳白色の髪飾りが並んでいた雑貨屋、偶然見つけた古書店……振り返ってみれば、自分が行きたいと言ったり、足を止めたりした場所が多かった。
そこで、ふと気づいた。
「そういえば、二人は今日どこか行きたいところあった?」
尋ねると、ルシアンは少し考えるように視線を上げた。
「僕は古書店を見られたから十分だな」
「あ、そっか。ルシアン、本見てたもんね」
「ああ。面白そうなものもいくつかあった」
迷いのない答えに頷いてから、今度はレオを見る。
「レオは?」
「俺? どこも楽しかったよ」
「うん。それは分かるけど」
あまりにもすぐ返ってきた答えに、フローレンは少し考えてから言い直した。
「レオが行きたかったところは?」
「……俺が?」
まるで聞かれると思っていなかったように、レオが瞬きをする。
「うん」
「えっと、そうだな……うーん……」
今度はすぐに答えが返ってこなかった。
レオは少しだけ視線を上げ、そのまま考えながら歩いている。
その様子を見ているうちに、フローレンは秋季総合競技が終わった日のことを思い出した。
『楽しかった?』
あのときも、レオは一度考えてから答えていた。
人のことなら驚くほどすぐに気づくのに、自分のことになると、ほんの少しだけ時間がかかるらしい。
「……あ」
しばらくして、レオが声を上げた。
「ある?」
「さっきの通りに、変な香辛料いっぱい置いてる店あったでしょ」
「あったね」
赤や黄色の粉を詰めた硝子瓶が、棚いっぱいに並んでいた店を思い出す。
「あそこ、ちょっと見たかった……かも?」
「じゃあ次はそこ行こうよ」
そう返すと、レオが少し目を見開いた。
「え、いいの?」
「もちろん。次はレオの行きたいところにしようよ」
フローレンにとっては、ごく自然なつもりで口にした言葉だった。
今日見きれなかった店もあるし、古書店にもまだ覗いていない棚がたくさんあった。レオがさっき言ったように、また三人で一緒に来ればいい。
「ルシアンもいいよね?」
「ああ。もちろん」
ルシアンはすぐに頷いた。
レオは二人の顔を順番に見て、それから小さく笑う。
「……そっか」
少しだけ間を置いて、もう一度前を向いた。
「じゃあ次、あそこ行きたい」
「うん」
「香辛料の店だな。覚えておこう」
「私も覚えておくね」
「いや……次行くときは俺からちゃんと言うよ」
二人の言葉に、レオが楽しそうに笑った。
三人の声が、夕暮れの通りへ軽く重なる。
次に来る予定など、まだ何も決まっていない。
それでも「また来る」という言葉は、不思議なくらい自然に三人の間へ残った。
やがて店の並ぶ通りを抜けると、頭上の空が急に広くなった。
街の灯りはまだ背後に連なっているものの、学院へ続く道の先にはもう高い建物が少ない。暮れ残っていた青はいつの間にか深まり、東の空から少しずつ夜の色が広がっている。
フローレンは何気なく顔を上げた。
「あ」
足が止まる。
「どうしたの?」
少し先を歩いていたレオが振り返った。
「あれ」
フローレンが北の空を指すと、二人もつられるように視線を上げた。
淡い夜空の中に、七つの星が浮かんでいる。
《アステルの杖》。
昔から何度も見てきた星座だった。夜空を見上げれば自然と探してしまうほど馴染み深く、七つの星を目で辿ることも珍しくない。
フローレンはしばらく、そのまま空を見上げていた。
同じ七つの星のはずなのに、今日は古書店で見た深い青色の紙と、掠れた銀の線が重なるように思えた。
星と星の間を目で結ぶ。
いつも見ている《アステルの杖》が、少しだけ違う顔をしているように見える。
「……やっぱり好きだな」
ぽつりと零すと、隣から声がした。
「《アステルの杖》が?」
ルシアンだった。
フローレンはもう一度、北の空を見上げる。
「うん。この星も、あの星図も」
少し考えてから、笑った。
「どっちも好き」
「そうか」
ルシアンも同じ空を見上げた。
それ以上、理由を尋ねられることはなかった。
フローレン自身にも、上手く説明できる気はしない。ただ、古書店で星図を見つけたときと同じように、好きなものは好きなのだと思えた。
冷たい風が吹き抜け、外套の裾を揺らす。
「……うう」
思わず肩をすくめると、レオが横からこちらを見た。
「あれ? 言わないの?」
「レオがあんまり言うから」
「あはは。もう帰ろっか」
「うん」
笑いながら答え、フローレンは二人のあとを追って歩き始める。
少し進んだところで、ふと街の方を振り返った。軒先に連なる橙色の灯りは、少しずつ遠ざかっている。
「フローレン、置いてくよ」
少し先からレオの声が飛んでくる。
「あ、待って」
慌てて歩幅を広げる。
レオの少し後ろでは、ルシアンが足を止めてこちらを待っていた。
追いつけば、三人の歩調はまた自然と揃った。
吐く息は白く、学院へ続く道には冬の夜が静かに降り始めている。
その頭上では、《アステルの杖》の七つ星が変わらず北の空に浮かんでいた。
フローレンはもう一度だけそれを見上げ、それから二人と並んで学院への道を歩いていった。




