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43/122

43:一枚の星図


 扉が閉まる音を背に、ルシアンは一歩先を行くフローレンへ目を向けた。


 入ったばかりだというのに、彼女の視線はもう左右の書架を忙しく行き来している。天井近くまで積み上がった本を見上げては、その隣にある棚へ目を移し、どこから見ようか決めかねているようだった。


「すごい。奥まで全部本だ」


 フローレンは少し声を弾ませながら、細い通路の先を覗き込んだ。書架はそこで途切れず、さらに奥へ続いているらしい。


「まだ奥もありそうだね」


 レオの言葉に、フローレンはすぐに二人を振り返った。


「見てきてもいい?」

「ああ」


 ルシアンが頷くと、フローレンは嬉しそうに笑い、近くの書架へ向かっていった。


 その背中を見送ってから、ルシアンも改めて店内へ視線を巡らせる。


 学院の図書室とは随分違う。


 分類ごとに整然と並べられた書架ではなく、ここでは本の年代も大きさもばらばらだった。古い旅行記の隣に詩集が差し込まれ、その上には綴じ紐の緩んだ薄い冊子が横向きに積まれている。棚の端には、書物ですらない丸めた紙束や古い版画まで立て掛けられていた。


「俺、あっち見てくる」


 レオが指した先には、遊戯や娯楽に関する本が集められた一角がある。


「何か面白いのあったら呼ぶね」

「ああ」


 レオが奥の書架へ消えていく。


 フローレンもすでに少し離れたところで、本の背を一冊ずつ眺めていた。


 ルシアンも手近な棚へ目を向けた。


 並んでいるのは、古い物語や紀行文が多いらしい。背表紙を順に追っていくうちに、見覚えのある著者名が目に留まった。


 以前読んだことのある物語だった。


 けれど、学院の図書室に置かれているものとは装丁が違う。手に取って確かめると、どうやらかなり古い版らしく、表紙には今のものにはない細かな意匠が残っていた。


 そっと頁を開く。


 紙は淡く黄ばみ、活字にもところどころ擦れがある。端には誰かが何度も頁を捲った跡が残り、長い間にいくつもの手を渡ってきたことが窺えた。


 書かれている物語そのものは知っている。


 それでも、同じ文章がこんな形でも残っているのかと思うと、もう少し眺めていたくなった。


「ルシアン」


 少し離れたところから名前を呼ばれ、顔を上げる。


 二列ほど向こうの書架の前で、フローレンがこちらを見ていた。


「どうした?」

「ちょっと来て……!」


 いつもよりわずかに弾んだ声だった。


 ルシアンは開いていた本を元の場所へ戻し、書架の間を抜けてそちらへ向かった。


「何かあったのか?」

「これ」


 フローレンが指した先にあったのは、本ではなかった。


 書架の側面には、大判の地図や版画を収めるための浅い木枠が取り付けられている。何枚かの紙が前面を向けて並ぶその上段に、一枚だけ深い青色をした星図があった。


 ルシアンもつられるように見上げる。


 年月を経た濃紺の紙面には、細かな星が白く散らされていた。その中を、ところどころ色の薄れた銀色の線が走っている。


 中央より少し上には、ひときわ大きな七つの星。


 その星々を結ぶ線が、長い杖のような形を描いていた。


「《アステルの杖》か」


 ルシアンが名を口にすると、フローレンが嬉しそうに頷く。


「うん」


 紙の下部には、古い書体で名が記されている。


 《アステルの杖》。


 北の空に浮かぶ七つ星。古くから旅人が方角を知るための目印としてきた星座だ。


「好きなのか?」

「うん、昔から好きなの。実際に夜空で見たことも何度もあって」


 答えながらも、フローレンの視線は星図に留まったままだった。


「でも、こういう星図で見るのは初めてかも」


 七つの星を辿るフローライト色の瞳に、淡い光が揺れていた。青緑と紫のあわいを行き来する色はいつもより澄んで見え、目元には柔らかな明るさが宿っている。

 

 好きなものを眺めている人の表情というのは、こんなにも分かりやすいものなのかと、ルシアンはふと思った。


 その横顔にしばらく目を留めてから、ルシアンも彼女の視線を追うように星図を見上げた。


 自分も《アステルの杖》ならよく知っている。夜空で見たこともあれば、教本の図を目にしたこともある。


 それでも、目の前の一枚は少し印象が違った。


 紙の端には年月を感じさせる擦れがあり、銀色の線もところどころ掠れている。それなのに、深い青の上へ浮かぶ七つの星は、不思議なほど目を引いた。


「……これ、下ろして見てみたい」


 隣でフローレンが小さく呟いた。


 星図が収められているのは、木枠の上段だった。フローレンが背伸びをして手を伸ばすものの、指先は紙の下端へわずかに届かない。


 もう一度爪先を上げたところで、ルシアンは声をかけた。


「僕が取ろうか」

「……お願いしてもいい?」

「ああ」


 場所を譲るようにフローレンが半歩退く。


 ルシアンは星図の端を傷めないよう、木枠と紙の間へそっと指を入れた。大判の紙が折れないよう両手で支えながら、ゆっくりと手前へ引き出していく。


「取れた」


 そう言って下ろした途端、フローレンが受け取ろうとこちらへ一歩近づいた。


「あ――」


 互いに動いたのが、ほとんど同時だった。


 触れたわけではない。


 ただ、顔を上げたフローレンが思っていたよりも近くにいた。


 フローライトのように青緑と紫が溶け合う瞳が、すぐ目の前でわずかに見開かれる。いつもは少し離れたところから見ているその色が、今は濃淡まで分かりそうなほど近い。


 ほんの一瞬、ルシアンの動きが止まった。


 古い紙の匂いも、書架の向こうで頁を捲る微かな音も、その間だけ妙に遠く感じられた。窓から落ちる淡い光の中で、目の前にあるものだけが不自然なほど鮮明だった。


 ほんのわずかな時間のはずなのに、その一瞬だけがひどく長く続いたように思えた。


 先に我に返ったように、フローレンが半歩下がる。


「……あ、ごめん。近かったね」

「……いや」


 ルシアンも星図を持ち直し、今度はきちんと間を空けて差し出した。


「これでいいか?」

「うん。ありがとう」


 フローレンは何事もなかったように笑い、両手で星図を受け取る。


 ルシアンもそのまま一歩離れた。


 それでも、先ほどまでより少しだけ、自分とフローレンとの間にある距離が意識に残っていた。


 フローレンもすぐには動かず、受け取った星図へ一度視線を落とした。それから両手で紙を持ち直し、少し開けた窓辺へ向かう。ルシアンの視線も、その後を追うように自然と動いた。


 淡い冬の光の下へ出ると、濃紺の紙面に引かれた銀色の線が、先ほどよりも鮮やかに浮かび上がった。年月を経て掠れた部分まで光を含み、七つの星は古びた紙の上で静かに瞬いているように見えた。


「……綺麗」


 フローレンが小さく零した。


 ルシアンは少し離れたところから、その横顔と星図を交互に見る。


 彼女の視線は、ひとつひとつの星を確かめるようにゆっくりと紙面を辿っていた。銀色の線を追い、端まで眺めては、また七つの星へ戻る。


 しばらく、何も言わなかった。


 やがてフローレンが、ほんの少しだけ星図を持ち上げる。


「これ、好き」


 あまりにも素直な言葉に、ルシアンはわずかに目を見開いた。


「好き?」

「うん」


 フローレンは星図を見たまま頷く。


「いつも見てる《アステルの杖》と同じなのに、なんだか違って見える」

「描き方が?」

「それもあるのかな」


 少し考えるように首を傾け、それからもう一度、深い青の紙面へ目を落とした。


「上手く言えないけど……この星図、好きだなって思った」


 それ以上、理由を探すような言葉は続かなかった。


 ただ好きなのだろう。


 その簡単な答えが、不思議とルシアンの耳に残った。


「買うのか?」


 尋ねると、フローレンは星図の端に付けられた小さな値札へ目を向けた。


「うーん……」


 しばらく数字を見つめたあと、少し困ったように眉を下げる。


「今日は持ち合わせが足りないかな」

「そうなのか」

「うん。お菓子を食べて、少し買い物するくらいのつもりで来たから」


 そう言って、もう一度星図へ視線を戻す。


 深い青の紙面に浮かぶ七つの星を、名残惜しそうにゆっくりと眺めてから、フローレンは小さく息をついた。


「今日は見るだけにしておく」

「……そうか」


 ルシアンはそれ以上何も言わず、静かに頷いた。


 フローレンはもう一度だけ星図を眺めると、先ほどの木枠へ戻そうと書架の方へ向かった。


「僕が戻そう」

「でも――」

「上の段だろう?」


 ルシアンが言うと、フローレンは木枠を見上げ、それから素直に星図を差し出した。


「じゃあ、お願いします」

「ああ」


 両手で受け取り、さっき下ろしたときよりも慎重に紙の端を支えながら、上段の木枠へそっと収めていく。深い青の紙面が、周囲の古い地図や版画の間へ戻っていった。


 すべて収める前に、ルシアンの手がわずかに止まる。


 《アステルの杖》。

 ――掠れた銀色の線と、その上に浮かぶ七つの星。


 それを眺めながら、先ほどフローレンが口にした言葉をふと思い出す。


 理由らしい理由もなく、ただ好きだと言った声。

 

 ルシアンはほんの短い間だけ星図へ視線を留め、それから何事もなかったように最後まで木枠へ戻す。


「ありがと」

「いや」

 

 振り向くと、フローレンはまだ少し名残惜しそうに星図の方を見ていた。けれど次の瞬間には、近くの棚へ視線を移している。


 その横顔を追ううちに、ルシアンの脳裏には、今戻したばかりの深い青と、星図を見つけたときの弾んだ声がもう一度蘇った。


 そして、ふと気づく。


 学院を出る前、胸の奥に残っていたわずかな引っかかりが、今はもう跡形もない。

 星図を見つけたとき、フローレンは自分の名前を呼んだ。少し弾んだ声で、真っ先にこちらを呼んでくれた。


 あれは、嬉しかった。

 そのことだけは、素直にそう思う。


「二人とも、何見てたの?」


 聞き慣れた声が書架の向こうから飛んできた。


 静かな店内へ突然戻ってきた普段通りの声に、ルシアンは意識を引き戻される。振り向くと、レオが何冊もの本を両腕に抱え、狭い通路をこちらへ歩いてくるところだった。


 厚い本の間には薄い冊子まで何冊か挟まっている。抱え方を少し変えれば一冊くらい床へ滑り落ちそうな量に、先に気づいたフローレンが目を丸くした。


「……すごい量だね」

「買うわけじゃないよ。気になったの持ってきただけ」

「それにしても多くない?」

「見てたら増えた」


 あまりにも当然のように返すものだから、フローレンが堪えきれずに笑った。レオは気にした様子もなく、腕の中の本を抱え直す。


「二人が全然来ないからさ。俺のこと忘れてるのかと思った」

「忘れてないよ」

「ほんとに?」

「それ、前にも言ってたよね」


 今度はレオが少しだけ目を瞬いた。


「……言ったっけ?」

「中庭で本の話してたとき」

「ああ……」


 しばらく考えたあと、ようやく思い当たったらしい。


「フローレンと違って、俺は昔の会話を全部覚えてないんだよ」

「そんなに昔じゃないでしょう?」


 すぐに返された言葉に、レオが肩を竦める。そのやり取りを聞いているうちに、先ほどまでルシアンの中に残っていた静かな余韻も、少しずついつもの三人の空気へ馴染んでいった。


「それで、二人は何見てたの?」


 レオが改めて尋ねる。


「星図」


 フローレンは先ほどの木枠へ顔を向けた。もう深い青の紙面は古い地図や版画の間へ戻り、最初に見つけたときと同じようにそこに収まっている。


「《アステルの杖》の、すごく綺麗なのがあったの」

「へえ」


 レオも示された先へ視線を向けた。


「気に入った?」

「うん。すごく」


 返事にはほとんど間がなかった。


「でも今日は持ち合わせが足りなくて。見るだけにした」

「そっか」


 レオはそれ以上何かを尋ねることもなく、あっさりと頷いた。


 それから腕の中の本へ目を落とし、何冊かの間に挟まっていた薄い一冊を器用に引き抜く。


「あ、ねえ。これ見て」


 差し出された表紙を、フローレンが覗き込んだ。


「なにこれ?」

「百年以上前の盤上遊戯の変則ルールだって」

「え、見たい」


 途端に声が弾み、フローレンが冊子を受け取る。


 古びた頁を開くと、そこに描かれていた盤は見慣れたものとは形から違っていた。升目の数も多く、端には見覚えのない駒の図まで添えられている。


「今度これでやってみない?」

「できるの?」

「まだ分かんない。俺も今見つけたところだから」


 フローレンが頁を捲る横から、ルシアンも冊子を覗き込んだ。


「駒もかなり多いな。知らないものもある」

「ほんとだ。これ全部使うのかな」

「たぶん。説明、結構細かいし長いよ」


 三人で一冊の冊子を囲むように覗き込み、頁の端から端まで描かれた盤や駒の図を追っていく。見慣れた遊戯とは共通するところもあるものの、細かな規則まで含めれば別物に近そうだった。


「随分と複雑そうだな。覚えるところから骨が折れそうだ」

「そうだね。これだけ長いと読み終わるのに時間がかかっちゃう」


 フローレンはそう言いながら、すでに次の頁へ視線を移している。その返しに、レオがわずかに眉を上げた。


「うーん。読み終わったら覚えてる前提なの、すごいよね」

「そうなの?」

 心底分からないという顔を向けられ、レオが笑う。ルシアンもつられて小さく息を漏らした。


 三人の声が、背の高い書架に囲まれた店内へ静かに重なっていく。


 少し前まで眺めていた星図は、もう木枠の中へ戻っていた。深い青も、銀色の七つ星も、古い地図や版画に紛れれば店の景色の一つに戻ってしまう。


 フローレンも今はレオの見つけた冊子に夢中で、盤の図を指しながら何かを話している。


 ルシアンも二人の会話へ戻りながら、ふと木枠の方へ目をやった。


『これ、好き』


 星図そのものよりも、そのとき耳にした声の方が鮮明に蘇る。


 ほんの短い言葉だったはずなのに。

 それだけは、なぜかまだ耳の奥に残っていた。


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