43:一枚の星図
扉が閉まる音を背に、ルシアンは一歩先を行くフローレンへ目を向けた。
入ったばかりだというのに、彼女の視線はもう左右の書架を忙しく行き来している。天井近くまで積み上がった本を見上げては、その隣にある棚へ目を移し、どこから見ようか決めかねているようだった。
「すごい。奥まで全部本だ」
フローレンは少し声を弾ませながら、細い通路の先を覗き込んだ。書架はそこで途切れず、さらに奥へ続いているらしい。
「まだ奥もありそうだね」
レオの言葉に、フローレンはすぐに二人を振り返った。
「見てきてもいい?」
「ああ」
ルシアンが頷くと、フローレンは嬉しそうに笑い、近くの書架へ向かっていった。
その背中を見送ってから、ルシアンも改めて店内へ視線を巡らせる。
学院の図書室とは随分違う。
分類ごとに整然と並べられた書架ではなく、ここでは本の年代も大きさもばらばらだった。古い旅行記の隣に詩集が差し込まれ、その上には綴じ紐の緩んだ薄い冊子が横向きに積まれている。棚の端には、書物ですらない丸めた紙束や古い版画まで立て掛けられていた。
「俺、あっち見てくる」
レオが指した先には、遊戯や娯楽に関する本が集められた一角がある。
「何か面白いのあったら呼ぶね」
「ああ」
レオが奥の書架へ消えていく。
フローレンもすでに少し離れたところで、本の背を一冊ずつ眺めていた。
ルシアンも手近な棚へ目を向けた。
並んでいるのは、古い物語や紀行文が多いらしい。背表紙を順に追っていくうちに、見覚えのある著者名が目に留まった。
以前読んだことのある物語だった。
けれど、学院の図書室に置かれているものとは装丁が違う。手に取って確かめると、どうやらかなり古い版らしく、表紙には今のものにはない細かな意匠が残っていた。
そっと頁を開く。
紙は淡く黄ばみ、活字にもところどころ擦れがある。端には誰かが何度も頁を捲った跡が残り、長い間にいくつもの手を渡ってきたことが窺えた。
書かれている物語そのものは知っている。
それでも、同じ文章がこんな形でも残っているのかと思うと、もう少し眺めていたくなった。
「ルシアン」
少し離れたところから名前を呼ばれ、顔を上げる。
二列ほど向こうの書架の前で、フローレンがこちらを見ていた。
「どうした?」
「ちょっと来て……!」
いつもよりわずかに弾んだ声だった。
ルシアンは開いていた本を元の場所へ戻し、書架の間を抜けてそちらへ向かった。
「何かあったのか?」
「これ」
フローレンが指した先にあったのは、本ではなかった。
書架の側面には、大判の地図や版画を収めるための浅い木枠が取り付けられている。何枚かの紙が前面を向けて並ぶその上段に、一枚だけ深い青色をした星図があった。
ルシアンもつられるように見上げる。
年月を経た濃紺の紙面には、細かな星が白く散らされていた。その中を、ところどころ色の薄れた銀色の線が走っている。
中央より少し上には、ひときわ大きな七つの星。
その星々を結ぶ線が、長い杖のような形を描いていた。
「《アステルの杖》か」
ルシアンが名を口にすると、フローレンが嬉しそうに頷く。
「うん」
紙の下部には、古い書体で名が記されている。
《アステルの杖》。
北の空に浮かぶ七つ星。古くから旅人が方角を知るための目印としてきた星座だ。
「好きなのか?」
「うん、昔から好きなの。実際に夜空で見たことも何度もあって」
答えながらも、フローレンの視線は星図に留まったままだった。
「でも、こういう星図で見るのは初めてかも」
七つの星を辿るフローライト色の瞳に、淡い光が揺れていた。青緑と紫のあわいを行き来する色はいつもより澄んで見え、目元には柔らかな明るさが宿っている。
好きなものを眺めている人の表情というのは、こんなにも分かりやすいものなのかと、ルシアンはふと思った。
その横顔にしばらく目を留めてから、ルシアンも彼女の視線を追うように星図を見上げた。
自分も《アステルの杖》ならよく知っている。夜空で見たこともあれば、教本の図を目にしたこともある。
それでも、目の前の一枚は少し印象が違った。
紙の端には年月を感じさせる擦れがあり、銀色の線もところどころ掠れている。それなのに、深い青の上へ浮かぶ七つの星は、不思議なほど目を引いた。
「……これ、下ろして見てみたい」
隣でフローレンが小さく呟いた。
星図が収められているのは、木枠の上段だった。フローレンが背伸びをして手を伸ばすものの、指先は紙の下端へわずかに届かない。
もう一度爪先を上げたところで、ルシアンは声をかけた。
「僕が取ろうか」
「……お願いしてもいい?」
「ああ」
場所を譲るようにフローレンが半歩退く。
ルシアンは星図の端を傷めないよう、木枠と紙の間へそっと指を入れた。大判の紙が折れないよう両手で支えながら、ゆっくりと手前へ引き出していく。
「取れた」
そう言って下ろした途端、フローレンが受け取ろうとこちらへ一歩近づいた。
「あ――」
互いに動いたのが、ほとんど同時だった。
触れたわけではない。
ただ、顔を上げたフローレンが思っていたよりも近くにいた。
フローライトのように青緑と紫が溶け合う瞳が、すぐ目の前でわずかに見開かれる。いつもは少し離れたところから見ているその色が、今は濃淡まで分かりそうなほど近い。
ほんの一瞬、ルシアンの動きが止まった。
古い紙の匂いも、書架の向こうで頁を捲る微かな音も、その間だけ妙に遠く感じられた。窓から落ちる淡い光の中で、目の前にあるものだけが不自然なほど鮮明だった。
ほんのわずかな時間のはずなのに、その一瞬だけがひどく長く続いたように思えた。
先に我に返ったように、フローレンが半歩下がる。
「……あ、ごめん。近かったね」
「……いや」
ルシアンも星図を持ち直し、今度はきちんと間を空けて差し出した。
「これでいいか?」
「うん。ありがとう」
フローレンは何事もなかったように笑い、両手で星図を受け取る。
ルシアンもそのまま一歩離れた。
それでも、先ほどまでより少しだけ、自分とフローレンとの間にある距離が意識に残っていた。
フローレンもすぐには動かず、受け取った星図へ一度視線を落とした。それから両手で紙を持ち直し、少し開けた窓辺へ向かう。ルシアンの視線も、その後を追うように自然と動いた。
淡い冬の光の下へ出ると、濃紺の紙面に引かれた銀色の線が、先ほどよりも鮮やかに浮かび上がった。年月を経て掠れた部分まで光を含み、七つの星は古びた紙の上で静かに瞬いているように見えた。
「……綺麗」
フローレンが小さく零した。
ルシアンは少し離れたところから、その横顔と星図を交互に見る。
彼女の視線は、ひとつひとつの星を確かめるようにゆっくりと紙面を辿っていた。銀色の線を追い、端まで眺めては、また七つの星へ戻る。
しばらく、何も言わなかった。
やがてフローレンが、ほんの少しだけ星図を持ち上げる。
「これ、好き」
あまりにも素直な言葉に、ルシアンはわずかに目を見開いた。
「好き?」
「うん」
フローレンは星図を見たまま頷く。
「いつも見てる《アステルの杖》と同じなのに、なんだか違って見える」
「描き方が?」
「それもあるのかな」
少し考えるように首を傾け、それからもう一度、深い青の紙面へ目を落とした。
「上手く言えないけど……この星図、好きだなって思った」
それ以上、理由を探すような言葉は続かなかった。
ただ好きなのだろう。
その簡単な答えが、不思議とルシアンの耳に残った。
「買うのか?」
尋ねると、フローレンは星図の端に付けられた小さな値札へ目を向けた。
「うーん……」
しばらく数字を見つめたあと、少し困ったように眉を下げる。
「今日は持ち合わせが足りないかな」
「そうなのか」
「うん。お菓子を食べて、少し買い物するくらいのつもりで来たから」
そう言って、もう一度星図へ視線を戻す。
深い青の紙面に浮かぶ七つの星を、名残惜しそうにゆっくりと眺めてから、フローレンは小さく息をついた。
「今日は見るだけにしておく」
「……そうか」
ルシアンはそれ以上何も言わず、静かに頷いた。
フローレンはもう一度だけ星図を眺めると、先ほどの木枠へ戻そうと書架の方へ向かった。
「僕が戻そう」
「でも――」
「上の段だろう?」
ルシアンが言うと、フローレンは木枠を見上げ、それから素直に星図を差し出した。
「じゃあ、お願いします」
「ああ」
両手で受け取り、さっき下ろしたときよりも慎重に紙の端を支えながら、上段の木枠へそっと収めていく。深い青の紙面が、周囲の古い地図や版画の間へ戻っていった。
すべて収める前に、ルシアンの手がわずかに止まる。
《アステルの杖》。
――掠れた銀色の線と、その上に浮かぶ七つの星。
それを眺めながら、先ほどフローレンが口にした言葉をふと思い出す。
理由らしい理由もなく、ただ好きだと言った声。
ルシアンはほんの短い間だけ星図へ視線を留め、それから何事もなかったように最後まで木枠へ戻す。
「ありがと」
「いや」
振り向くと、フローレンはまだ少し名残惜しそうに星図の方を見ていた。けれど次の瞬間には、近くの棚へ視線を移している。
その横顔を追ううちに、ルシアンの脳裏には、今戻したばかりの深い青と、星図を見つけたときの弾んだ声がもう一度蘇った。
そして、ふと気づく。
学院を出る前、胸の奥に残っていたわずかな引っかかりが、今はもう跡形もない。
星図を見つけたとき、フローレンは自分の名前を呼んだ。少し弾んだ声で、真っ先にこちらを呼んでくれた。
あれは、嬉しかった。
そのことだけは、素直にそう思う。
「二人とも、何見てたの?」
聞き慣れた声が書架の向こうから飛んできた。
静かな店内へ突然戻ってきた普段通りの声に、ルシアンは意識を引き戻される。振り向くと、レオが何冊もの本を両腕に抱え、狭い通路をこちらへ歩いてくるところだった。
厚い本の間には薄い冊子まで何冊か挟まっている。抱え方を少し変えれば一冊くらい床へ滑り落ちそうな量に、先に気づいたフローレンが目を丸くした。
「……すごい量だね」
「買うわけじゃないよ。気になったの持ってきただけ」
「それにしても多くない?」
「見てたら増えた」
あまりにも当然のように返すものだから、フローレンが堪えきれずに笑った。レオは気にした様子もなく、腕の中の本を抱え直す。
「二人が全然来ないからさ。俺のこと忘れてるのかと思った」
「忘れてないよ」
「ほんとに?」
「それ、前にも言ってたよね」
今度はレオが少しだけ目を瞬いた。
「……言ったっけ?」
「中庭で本の話してたとき」
「ああ……」
しばらく考えたあと、ようやく思い当たったらしい。
「フローレンと違って、俺は昔の会話を全部覚えてないんだよ」
「そんなに昔じゃないでしょう?」
すぐに返された言葉に、レオが肩を竦める。そのやり取りを聞いているうちに、先ほどまでルシアンの中に残っていた静かな余韻も、少しずついつもの三人の空気へ馴染んでいった。
「それで、二人は何見てたの?」
レオが改めて尋ねる。
「星図」
フローレンは先ほどの木枠へ顔を向けた。もう深い青の紙面は古い地図や版画の間へ戻り、最初に見つけたときと同じようにそこに収まっている。
「《アステルの杖》の、すごく綺麗なのがあったの」
「へえ」
レオも示された先へ視線を向けた。
「気に入った?」
「うん。すごく」
返事にはほとんど間がなかった。
「でも今日は持ち合わせが足りなくて。見るだけにした」
「そっか」
レオはそれ以上何かを尋ねることもなく、あっさりと頷いた。
それから腕の中の本へ目を落とし、何冊かの間に挟まっていた薄い一冊を器用に引き抜く。
「あ、ねえ。これ見て」
差し出された表紙を、フローレンが覗き込んだ。
「なにこれ?」
「百年以上前の盤上遊戯の変則ルールだって」
「え、見たい」
途端に声が弾み、フローレンが冊子を受け取る。
古びた頁を開くと、そこに描かれていた盤は見慣れたものとは形から違っていた。升目の数も多く、端には見覚えのない駒の図まで添えられている。
「今度これでやってみない?」
「できるの?」
「まだ分かんない。俺も今見つけたところだから」
フローレンが頁を捲る横から、ルシアンも冊子を覗き込んだ。
「駒もかなり多いな。知らないものもある」
「ほんとだ。これ全部使うのかな」
「たぶん。説明、結構細かいし長いよ」
三人で一冊の冊子を囲むように覗き込み、頁の端から端まで描かれた盤や駒の図を追っていく。見慣れた遊戯とは共通するところもあるものの、細かな規則まで含めれば別物に近そうだった。
「随分と複雑そうだな。覚えるところから骨が折れそうだ」
「そうだね。これだけ長いと読み終わるのに時間がかかっちゃう」
フローレンはそう言いながら、すでに次の頁へ視線を移している。その返しに、レオがわずかに眉を上げた。
「うーん。読み終わったら覚えてる前提なの、すごいよね」
「そうなの?」
心底分からないという顔を向けられ、レオが笑う。ルシアンもつられて小さく息を漏らした。
三人の声が、背の高い書架に囲まれた店内へ静かに重なっていく。
少し前まで眺めていた星図は、もう木枠の中へ戻っていた。深い青も、銀色の七つ星も、古い地図や版画に紛れれば店の景色の一つに戻ってしまう。
フローレンも今はレオの見つけた冊子に夢中で、盤の図を指しながら何かを話している。
ルシアンも二人の会話へ戻りながら、ふと木枠の方へ目をやった。
『これ、好き』
星図そのものよりも、そのとき耳にした声の方が鮮明に蘇る。
ほんの短い言葉だったはずなのに。
それだけは、なぜかまだ耳の奥に残っていた。




