42:冬の街歩き
学院から街へ続く坂道を下っていくうちに、通りは少しずつ賑わいを増していった。
冬の午後の日差しはまだ明るく、淡い光が石畳の上へ長く伸びている。制服姿の学生に混じって、大きな籠を抱えた買い物客や荷車を引く商人が行き交い、軒を連ねる店からは香辛料や焼きたてのパンの匂いが風に乗って流れてきた。
「……いい匂い」
思わず声が漏れる。
「パン屋、寄る?」
「……だめ。今日は先にお菓子」
「今ちょっと迷ったよね」
「迷ってない」
すぐに否定したものの、焼きたてのパンを並べた店先からは、また香ばしい匂いが漂ってくる。
「今も見てるけど」
レオが楽しそうに言う。
「見るくらいいいでしょ」
「気になるなら寄ったらいいんじゃないか」
ルシアンまで穏やかに口を挟んだ。
「もう……誘惑しないで」
そう言いながらも可笑しくなり、フローレンは小さく笑う。
もう一度だけパン屋を振り返ってから、《ラ・フルール》へ向けて足を進めた。
街へ来ること自体は、それほど珍しくない。文房具や日用品が必要になれば買い物へ出るし、エリナと店先を覗きながら歩くこともあった。
「フローレン、この辺もよく来るの?」
レオに尋ねられ、周囲を見回す。
「ううん。いつも行くのは、もう少し向こうの通りかな。この辺はあんまり来ないかも」
「じゃあ、ちょうどいいね」
「何が?」
「知らない店、いっぱいありそう」
言われてみれば、その通りだった。
今日は急いで済ませる用事もない。
そう思って歩いていると、普段なら通り過ぎてしまいそうなものまで次々と目に入った。
硝子窓いっぱいに色とりどりの糸巻きを並べた手芸店。軒先に冬物の帽子を吊るした服飾店。花屋の店先では、この寒さの中でも赤い実をつけた枝が桶いっぱいに束ねられている。
その隣を通りかかったところで、フローレンの足がふと緩んだ。
窓辺に、小さな髪飾りが並んでいる。
細い銀色の金具に、淡い青色の小石が三つ。控えめな意匠で、その青は冬の朝の空を小さく切り取ったように澄んでいた。
「気になる?」
すぐ横から声がして振り向くと、レオも一緒に立ち止まっていた。
「ちょっと。綺麗だなって」
もう一度窓へ目を戻してから、フローレンは二人を見た。
「……少し見てもいい?」
「もちろん」
「急いでいるわけでもないしな」
ルシアンも穏やかに頷く。
「じゃあ、ちょっとだけ」
三人で店へ入ると、窓辺で見たもののほかにも、細い金具や小さな石を使った髪飾りがいくつも並んでいた。
「あ、これも綺麗」
フローレンは淡い青の飾りを手に取り、その隣にあった乳白色のものと見比べる。
「青い方、フローレンっぽいね」
レオが横から覗き込んだ。
「私っぽい?」
「うん。なんとなく」
言われて、もう一度手元を見る。
「ルシアンはどう思う?」
何気なく尋ねると、少し離れて見ていたルシアンが目を瞬いた。
「僕か?」
「うん」
フローレンが笑う。
ルシアンは少しだけ考えてから、手元の髪飾りへ視線を落とした。
「……青い方が、君には合っていると思う」
「ほんと?」
「ああ。色が柔らかいから」
思いのほか真面目に返されて、フローレンは少しだけ頬を緩めた。
「じゃあ、こっち覚えておこうかな」
今日は買わず、髪飾りをそっと元の場所へ戻す。
「買わないの?」
「うん。ほかも見てから決めたい」
「さすが商家の娘……」
レオが感心したように言う。
「それ関係ある?」
「ありそう」
「適当でしょ」
笑いながら店を出る。
ほんの少し寄り道しただけなのに、さっきより街の景色が近くなったような気がした。
店を出て、三人は再び通りを歩き始める。さっきまで何気なく眺めていた店先にも自然と目が向き、行き交う人の隙間から覗く品々を追うように、視線があちらこちらへ動いた。
「あれ、美味しそう」
早速レオが足を緩めたのは、湯気の立つ焼き菓子を並べた露店の前だった。
「あ、誘惑されてる」
「見るだけならいいんでしょ?」
「それ、私が言ったやつ」
「便利な言葉だったから借りた」
悪びれもせず返され、フローレンは笑う。
その少し先では、今度はルシアンの歩みがわずかに遅くなった。
硝子窓の向こうに並んでいたのは、細身の軸に銀の飾りを施した筆記具だった。立ち止まるほどではないものの、紫の瞳がそこへ向いたのをフローレンは見逃さなかった。
「ルシアンも見てる」
「……見ていただけだ」
「気になるなら寄っていけばいいのに」
「聞き覚えのある台詞だな」
一瞬きょとんとしてから、フローレンは先ほど自分が言われた言葉だと気づいて笑った。
誰かが足を緩めれば、残りの二人も自然と歩調を緩める。気になるものがあれば少し眺めて、また三人で歩き出す。
普段なら、学院の廊下は教室や図書室、自習室へ向かうために通り過ぎるだけの場所だった。けれど今日は、目的地へ辿り着くまでの道のりさえ楽しく感じられた。
「ほら、見えてきたよ」
レオの声に顔を上げる。
通りの角に、深い緑色の庇を出した小さな店が見えていた。
近づくにつれて、店先から甘い香りが漂ってきた。
その庇の下には、《ラ・フルール》の名とともに花を模した金色の飾りが掲げられている。レオが扉を開けると、小さな鐘の音と一緒に暖かな空気が流れてきた。
「わ……」
一歩入った途端、フローレンの声が思わず零れる。
店内には焼き菓子の甘い香りが満ちていた。壁沿いには花の形をしたサブレや細長い菓子を詰めた硝子瓶が並び、中央の台には果実や木の実を使った焼き菓子が色とりどりに並べられている。
「思ってたよりいっぱいある……」
「でしょ?」
なぜか得意そうなレオに笑いながら、フローレンは一つずつ目で追っていく。
ほどなく、見覚えのある菓子が目に留まった。
「あ、これ」
薄く焼いた生地に林檎や杏の果肉を重ね、表面へ薄く蜜を塗った焼き菓子。以前レオが持ってきたものと同じだった。
「分かった?」
「もちろん。これ美味しかったんだよね」
そう答えてから、ふと隣を見る。
ルシアンも同じ菓子へ視線を向けていた。
フローレンは思わず笑う。
「ルシアン、これでしょ?」
「……何が?」
「一番好きだったやつ」
紫の瞳が一度こちらを向き、それから再び菓子へ戻る。
「ああ。前に食べた中では、これが一番美味しかったな」
「そうだよね」
以前と変わらない答えに、フローレンは小さく笑った。
「ちゃんと覚えてるねえ」
レオが楽しそうに口を挟んだ。
「友だちの好きなものくらい、普通覚えてるでしょ?」
当たり前のことを言ったつもりだったのに、レオは一瞬だけ目を丸くした。
「……まあ、そうだね」
「何、その間」
「いや?」
店内を見て回っていると、今度は別の菓子が目に留まった。
丸い焼き菓子の中央には、赤い果実を煮詰めたものが艶やかに詰められている。その隣には、細かく砕いた木の実を生地へ混ぜ込んだものが並んでいた。
「……うーん、迷う」
フローレンは二つを交互に見比べる。
「両方買えば?」
レオが言った。
「そんなに食べられないよ」
「じゃあ分ければいいじゃん」
「半分ずつ?」
「うん。俺もそれ食べたいし」
それなら、と赤い果実の方へ手を伸ばしかけたところで、隣から声がした。
「木の実の方も、少し気になるな」
フローレンとレオが揃ってルシアンを見る。
ルシアンは少しだけ目を瞬いた。
「……そんなに意外か?」
「いや、ルシアンから言うの珍しいなと思って」
レオが楽しそうに笑う。
「気になるなら、それも食べようよ」
フローレンは二つの菓子を見比べてから、先ほど見つけた果実の菓子へも目を向けた。
「あ。じゃあ三種類買って、三人で分ければいいんじゃない?」
「それなら全部食べられるね」
「うん」
迷う理由が一気になくなり、フローレンは嬉しくなって頷く。
「私は赤い果実のが気になる。ルシアンは木の実のでしょう?」
「ああ」
「じゃあ俺は、さっきの果実のやつにしようかな」
「それ、ルシアンが一番好きなやつじゃん」
「三人で分けるんだからいいでしょ?」
もっともらしく返すレオに、フローレンは笑った。
「じゃあ決まりだね」
三人それぞれが選んだ菓子を一つずつ。
気づけば、さっきまで二つの間で悩んでいたときより、ずっと楽しみになっていた。
三人で分けるつもりだと伝えると、店員はそれぞれの菓子を三つに切り分け、小さな皿へ並べてくれた。
ちょうど窓際の卓が一つ空いていたので、三人はそこへ腰を下ろす。
硝子の向こうでは、冬の通りを人々が厚い外套に身を包んで行き交っていた。店の中はそれとは別の季節のように暖かく、焼き菓子と果実の甘い香りが漂っている。
「いい席空いてたね」
レオが満足そうに言いながら、卓の中央へ三枚の皿を寄せた。
赤い果実の菓子。木の実を混ぜ込んだもの。それから、先ほどルシアンが一番美味しかったと話していた果実の焼き菓子。
三種類が並んだ皿を眺めていると、自然と頬が緩む。
「どれから食べる?」
そう言ったものの、結局きちんと順番を決めることはなかった。
フローレンは一番近くにあった赤い果実の菓子へ手を伸ばす。ひと口齧ると、ほろりと崩れた生地のあとから果実の酸味が広がった。見た目ほど甘くはなく、煮詰められた果実の香りが舌に残る。
「これ、美味しい」
「気に入った?」
レオが尋ねる。
「うん。酸っぱいのがちょっと残るのが好き」
「フローレン、こういうの好きなんだ」
「うん、甘いだけのより好きかも」
そう答えながらもう一口食べると、レオが楽しそうに頷いた。
それからは、菓子をつまみながら取り留めもなく話した。
「このあたりって、他にもお店あるの?」
フローレンが窓の外へ目を向けながら尋ねると、レオが頷いた。
「もう少し奥にもあるよ。こっちより古い店が多いけど」
「へえ。行ってみたい」
「じゃあ帰る前にそっちも歩いてみる?」
「うん」
答えてからルシアンを見ると、彼もすぐに頷いた。
「僕も気になっていた。時間があるなら行きたい」
硝子の向こうでは、人々が白い息を零しながら冬の通りを行き交っている。ときおり扉が開くたび冷たい空気が入り込み、すぐに焼き菓子の甘い香りへ溶けていった。
話しているうちに、フローレンは今度は木の実の菓子を一切れ取った。
「あ、こっちも美味しい」
先ほどより少し固い生地を噛むと、砕いた木の実の香ばしさが広がる。
「甘さはこっちの方が控えめだな」
ルシアンも同じものを口にして言った。
「ルシアン、こういうのも好きそう」
「僕はそんなに分かりやすいか?」
「さあ。なんとなく?」
「それ、レオがよく言うやつだな」
わずかに眉を寄せたルシアンの表情が、いつになく幼く見えた。フローレンはそれがおかしくて、小さく笑った。
「じゃあレオのが移ったのかも」
「お。良い変化だね」
「困った変化の間違いじゃないのか……」
しばらくして、ルシアンが残っていた果実の焼き菓子へ手を伸ばす。
一口食べたあと、小さく頷いた。
「ああ。やっぱりこれが一番好きだ」
「やっぱり」
フローレンが笑うと、ルシアンも少しだけ口元を緩めた。
「何だ」
「ううん。前と同じだなって」
「好みはそう簡単に変わらないだろう」
「それもそうだね」
納得してもう一口食べると、向かいでレオが小さく笑った。
急ぐ理由もなく、話が途切れれば菓子へ手を伸ばし、また何かを思いつけば話し始める。
そんなふうに取り留めのない話を続けているうちに、皿の上の菓子は少しずつ減っていった。
最後の一切れまで食べ終える頃には、三枚の皿はすっかり空になり、硝子越しに差し込む冬の日差しも少し傾き始めていた。
店を出ると、暖かな空気に慣れていた頬へ冷たさが一気に触れた。
「わ、さむ……」
「中が暖かかったから余計にね」
フローレンが外套の襟元へ顎を埋める横で、レオが通りの先へ目を向ける。
「この先も見ていく?」
「うん。さっき言ってた古いお店の方、行ってみたい」
「じゃあ行こうか」
三人で再び歩き出し、賑やかな大通りから一本脇へ折れる。少し進んだだけで道幅は狭くなり、両側に並ぶ建物もどこか古びた佇まいへ変わっていった。
年月を重ねて色の深くなった木の扉。細かな傷の残る硝子窓。店先には古い時計や陶器の瓶、何に使うのか分からない金具まで並べられている。整然とした大通りとは違う雑多さが、歩くたびに視界へ飛び込んできた。
「ほんとだ。こっちは全然違うね」
フローレンは右へ左へと忙しく視線を動かす。
「何があるか分からない感じ、楽しい」
「フローレン、すごいきょろきょろしてる」
「だって気になるものがいっぱいあるんだもん」
レオに笑われても、視線はなかなか前だけには戻らない。
そのまま横手の店先へ目を向けて歩いていたせいで、石畳のわずかな段差に気づくのが遅れた。
「あっ」
爪先が引っかかり、身体が前へ傾く。
次の瞬間、外套越しに腕を掴まれた。ぐらりと傾いた身体が引き戻され、どうにか踏みとどまる。
「……足元に気をつけて」
すぐそばから聞こえた声に顔を上げると、ルシアンがこちらを見ていた。無事に立ったのを確かめるように一度視線を落とし、それから掴んでいた手を離す。
「あ、ごめん。ありがとう」
「いや。転ばなくてよかった」
ルシアンはそれだけ言うと、何事もなかったように再び歩き出した。フローレンも外套の裾を整え、少し遅れてその隣へ並ぶ。
その様子を後ろから見ていたレオが、ふいに声をかけた。
「ルシアン、優しいじゃん」
「転ばないよう腕を引いただけだ」
「そう?」
レオは一瞬だけ目を細め、それ以上は何も言わなかった。
そのまま店先を眺めながら進んでいたとき、古びた木の看板が視界の端を掠めた。
フローレンの足が、ふと止まる。
数歩戻って見上げると、黒ずんだ木板に開いた本の意匠が彫られている。金具にはところどころ赤錆が浮き、長い年月をそこで過ごしてきたことが見て取れた。
「……本屋さん?」
フローレンの声に、二人も足を止める。
小さな硝子窓の向こうには、色褪せた背表紙の本が隙間なく並んでいた。その傍らには古い地図や束ねられた紙、細長く巻かれたものまで立て掛けられている。
ルシアンが看板の下に記された小さな文字へ目を向けた。
「古書店みたいだな」
「へえ……入ってみたい」
考えるより先に言葉がこぼれ、フローレンはもう一度硝子窓の向こうを覗き込んだ。
古びた背表紙の列も、その傍らに立て掛けられた地図や巻紙も、硝子越しに眺めるだけでは足りなくて、気づけば店の方へ半歩近づいていた。
そんな様子を見て、レオが可笑しそうに笑った。
「そう言うと思った」
「ここは僕もじっくり見てみたい」
ルシアンも同意して、フローレンは嬉しくなって扉へ目を向けた。
「じゃあ入ろう」
レオが古びた取っ手へ手を掛ける。少し重そうな扉が軋みながら開くと、頭上で小さな鐘が乾いた音を立てた。
それまで耳に入っていた通りのざわめきが、扉を一枚隔てただけでふっと遠ざかる。
店の中は外よりも薄暗く、奥へ向かって背の高い書棚がいくつも並んでいた。窓から差し込む淡い光の中には細かな埃が浮かび、古い紙と乾いた木の匂いが静かに混じっている。
フローレンは入り口でほんの一瞬だけ足を止めた。
目が暗さに慣れるにつれて、棚に詰め込まれた本の背表紙や、壁際に重ねられた地図、細長く巻かれた紙の束が少しずつ輪郭を現していく。
「……すごい」
小さく零した声まで、店の静けさの中ではいつもよりよく聞こえた。
気づけばフローレンは、二人を待つより先に一歩、店の奥へ踏み出していた。




