41:近くないか
冬の気配が、学院のあちこちへ馴染み始めていた。
中庭の木々はすっかり葉を落とし、細い枝の向こうには淡く白んだ空が広がっている。石造りの校舎を抜ける風も日に日に冷たさを増し、放課後になれば、制服の上に厚手の上着を重ねた生徒の姿も目立つようになっていた。
その日の授業を終えたルシアンは、レオと並んで第二クラスへ続く廊下を歩いていた。
「最初、どこ行く?」
レオが鞄を肩へ掛け直しながら尋ねる。
「行き先は決まってなかったのか」
「だってなんとなく街に行こうって決まっただけだし」
「てっきり行きたいところがあるのかと思っていたが……」
「行きたいところは、歩きながら決めればいいかなって」
窓の向こうでは、冬の薄い陽が西へ傾き始めている。
今日は、放課後の自習室へは行かない。
試験が近いわけでも、急いで終わらせる課題があるわけでもない。それならたまには学院の外へ出ようと、数日前に三人で決めていた。
レオは歩きながら指を一本立てた。
「俺は……とりあえず、何か食べたいかな」
「そうか」
「ルシアンは?」
「僕は、今のところ特にはないな」
答えてから、ルシアンは少しだけ考えた。
「……ただ、そういえば」
「ん?」
「以前、フローレンが行ってみたいと言っていた店があっただろう」
レオの足が、ほんのわずかに緩んだ。
「店?」
「お前が中庭へ持ってきた、果実の菓子の……」
「ああ、《ラ・フルール》」
名前を聞いて、ルシアンも記憶の中の会話を辿る。
『今度、そのお店教えて』
林檎や杏の入った焼き菓子を手に、フローレンがそう言った。随分前に交わした、何気ない会話だった。
「街へ行くなら、寄ってみてもいいんじゃないか」
ルシアンが続けると、隣から返事がない。
視線を向ければ、レオが妙な顔でこちらを見ていた。
「……何だ」
「いや?」
琥珀色の目が、楽しげに細くなる。
「よく覚えてるなあと思って」
「何度か話題に出ただろう」
「出たの、一回じゃなかった?」
「……そうだったか?」
「んー、たぶん」
ルシアンはわずかに眉を寄せた。
一度しか聞いていなかったとしても、覚えていること自体は何もおかしくない。
「覚えていたって、おかしくはないだろう」
「うんうん。おかしくない、おかしくない」
「……何だ、その言い方は……」
レオはとうとう声を立てて笑った。
ちょうどそのころ、第二クラスの教室が廊下の先に見えてきた。
授業を終えたばかりなのだろう。開いた扉からは何人もの生徒が出てきており、帰り支度をしながら立ち話をする声も廊下まで漏れている。
「フローレン、どこかな」
待ち合わせにはまだ少し早い。
別の場所で落ち合う予定だったが、二人の授業が早く終わったため、第二クラスまで足を伸ばしていた。
二人は行き交う生徒を避けるように扉の脇へ寄り、開いた教室の中へ視線を巡らせた。
「あ、いた」
レオの声につられてその先を追えば、帰り支度をする生徒たちの向こう、窓際から少し離れた席にフローレンの姿があった。
一人ではない。
机の周りには、男女合わせて四人ほどの生徒が集まっている。隣にはエリナもいて、何かを書き込んだ紙を皆で覗き込んでいた。
フローレンは椅子へ座ったまま、その紙の一箇所を指している。
「ここで先に答えを決めちゃうと、こっちの条件を見なくなるの。私も前に同じことしたよ」
「え、アストリアも?」
男子生徒が意外そうな声を上げた。
「したした。共通試験のとき」
「九十点超えてたやつだろ?」
「でも、ここは間違えたから」
フローレンは笑いながら、紙の上を指先で辿った。
「まず何を聞かれてるか見て、それからこの三つを比べた方がいいと思う。そうしたら、一つだけ違うところがあるでしょ?」
「……あ」
紙を覗いていた女子生徒が声を上げる。
「ほんとだ」
「ね?」
途端に、フローレンの表情が明るくなった。
以前、自分で答えへ辿り着いたときにも、こんなふうに目を輝かせていた。けれど今、その明るい視線の先にいるのはルシアンではなく、同じクラスの生徒たちだった。
「なるほどなあ」
隣で、レオが小さく呟いた。
「何がだ」
「いや。フローレン、頼られてるんだなって」
ルシアンも、もう一度教室の中へ目を向ける。
フローレンが自分の問題を解けるようになったことは知っている。応用問題だけではなく、ほかの教科でも同じ考え方を使えるようになったことも。
それでも、誰かへ説明している姿を見るのはほとんど初めてだった。
「ここから言えることは?」
フローレンが尋ねる。
「えーと……この条件が同じだから……」
男子生徒は紙へ目を落とし、しばらく考えたあとで別の一文を指した。
「こっちを先に見る?」
「うん。私もそう思う」
すぐには答えを告げず、相手が自分で次を見つけるのを待っている。
見覚えのあるやり方だった。
ルシアンは思わず口元を緩めた。
「……なんか嬉しそう」
「そう見えるか?」
「見える」
「……そうか」
答えながらも、視線は教室の中へ残ったままだった。
少し前まで、分からないものがあれば参考書へ戻っていた。必要な知識を選ぶことも、どこで止まったのかを見つけることも難しかったフローレンが、今は誰かに、そこから言えることを問いかけている。
自分がそうさせたのだと考えるつもりはなかった。彼女は教わったものを自分で何度も試し、間違えては考え直し、別の科目へまで繋げてきた。目の前にあるのは、その積み重ねの先なのだろう。
そう思うと、胸の奥へ静かな温かさが広がった。
「分かった。これで一回やってみる」
紙を持っていた女子生徒が嬉しそうに言う。
「うん。もしまた止まったら、どこまで分かったかだけ見てみるといいよ」
「ありがと、フローレン」
そのやり取りを聞いていた男子生徒が、手元の紙を軽く持ち上げて口を挟んだ。
「アストリア、俺も今度聞いていい?」
「もちろん。私で分かるところなら」
「最近みんなアストリアに聞いてるからさ。先に予約しとこうかと思って」
「何それ」
フローレンが声を立てて笑う。
「予約なんていらないよ」
「じゃ、明日の放課後」
「明日は――」
言いかけて、フローレンが少し考える。
「たぶん大丈夫」
「よし」
男子生徒は満足そうに頷くと、紙をフローレンの机へ戻した。そのまま机の端へ片手をつき、少し身を屈めて何かを付け足すように声を落とすと、フローレンも顔を上げて笑う。
ただ、それだけだった。
同じ教室で毎日顔を合わせる生徒同士なら、ごく普通の距離なのだろう。それくらいは自分でも分かっているはずなのに、なぜかその距離だけが目についた。
「……近くないか」
「何が?」
レオに返され、ルシアンは一瞬黙った。どうやら声に出ていたらしい。
「いや……何でもない」
「ふうん」
返事が妙に軽い。
横を見れば、案の定レオの口元にはいつもの笑みが浮かんでいた。
「……何だ」
「何も言ってないよ」
「それなら、その顔はやめてくれ」
「んー、どんな顔?」
「……もういい」
自分でも分からないものを説明できるはずがなかった。
ルシアンはわずかに眉を寄せ、再び教室へ目を向ける。
先ほどの男子生徒はすでに身体を起こしていた。フローレンから紙を受け取ると、「じゃあまた明日」と軽く手を振る。
「うん。また明日」
フローレンも何も気にした様子はなく、それに応えた。
胸の内に残ったものだけが、なぜか綺麗には消えなかった。
誰かに頼られ、その相手と一緒に考えているフローレンの姿を見ると、どこか誇らしい気持ちになる。
その気持ちに嘘はないはずなのに、すぐ隣には名前のつかない何かが混じっていた。小さな棘ほどの、ごく些細な引っかかり。それでも、ふとした拍子に意識が触れると、そこにあることだけは妙にはっきり分かった。
「ルシアン」
隣からレオに呼ばれる。
「何だ」
「入る?」
「まだ話しているだろう」
「もう終わりそうな感じだけど」
「急ぐ必要もない。ここで待っていればいいんじゃないか」
レオはしばらく黙ってこちらを見た。
「……何だ」
「いやあ」
琥珀色の目が、猫のように細くなる。
「ルシアンって、こういうところ律儀だよねえ」
「話しているところへわざわざ割って入る必要はないだろう」
「はいはい」
その声には、まだ少し笑いが混じっていた。
ルシアンが何か言い返そうとした、そのときだった。
教室の中にいたフローレンがふと顔を上げた。扉の外に立つ二人を見つけると、驚いたように瞳を丸くし、次の瞬間にはぱっと表情を明るくする。
「ルシアン、レオ! 来てくれたの?」
椅子から立ち上がると、机の周りにいた生徒たちへ短く声をかけ、慌てた様子で教科書と筆記具を鞄へ収め始めた。
「そんな急がなくていいよ」
レオが教室の外から声をかける。
「授業が早く終わったから、こっち来ちゃった」
「待たせてたでしょ?」
「僕たちが早く来ただけだから、気にしなくていい」
ルシアンもそう続ける。
フローレンは鞄の留め具を閉じると、エリナへ軽く手を振った。
「じゃあ、またね」
「ええ。楽しんできて」
エリナも扉の外にいる二人へ目を向け、柔らかく笑った。
フローレンは小走りになりかけた足をすぐに緩め、それでもどこか弾むような足取りで二人のもとへやってきた。
「ごめん。ちょっと問題のこと聞かれてて」
「見てた見てた」
レオが笑う。
「フローレン先生」
「もう……!」
さっきも似たようなことを言われていたのだろう。フローレンは少し困ったように笑った。
「ああいうことは、よくあるのか?」
ルシアンが尋ねる。
「最近、よく聞かれるようになったの。基本問題だけじゃなくて、応用問題も」
そう答えながら、フローレンが二人の間へ自然に並ぶ。
「私が前に間違えたのと似てる問題だったから、こう考えたら分かりやすかったよって話しただけ」
「十分教えてるじゃん」
「そうかなあ」
フローレンは少し照れくさそうに笑った。
「ほんとに先生みたいだね」
「そんな大げさな」
レオが楽しそうに頷く。
「さっきの人、明日の予約まで取ってたよ」
「聞こえてたの?」
「聞こえました」
フローレンが少し恥ずかしそうに頬を押さえる。
「別に予約じゃないのに」
「でも、実際よく聞かれてるんでしょ?」
「……うん」
一度だけ俯いて、それから嬉しそうに笑う。
「前は私が誰かに聞くことの方が多かったから、ちょっと不思議な感じ」
その表情を見て、ルシアンもわずかに目元を和らげた。
「教え方、よかったと思う」
「……聞いてたの?」
「少しだけな」
フローレンの目が丸くなる。そのあと、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
「ルシアンにそう言われると、ちょっと嬉しい」
何気なく返された言葉だった。それなのにルシアンは一拍遅れて、「そうか」とだけ答える。
さっきまで胸のどこかに引っかかっていたものは、不思議なくらい静かになっていた。
「それよりさ」
そこでレオが口を開いた。
「今日の一軒目、決まったよ」
「本当? どこ?」
「《ラ・フルール》」
「えっ」
フローレンの顔が一気に明るくなる。
「前に食べたお菓子のお店?」
「そうそう」
「行きたい!」
迷いのない返事だった。
「よかったね、ルシアン」
「……どうして僕に言うんだ?」
「だって言い出したの、ルシアンだし」
「え?」
フローレンがこちらを見る。
「そうなの?」
「せっかくだから、寄ってみてもいいんじゃないかと思って」
「覚えててくれたんだ」
屈託のない笑顔を向けられて、ルシアンは一瞬だけ返事に迷った。
「……前に、行ってみたいと言っていただろう」
「うん。言った」
フローレンの声が弾む。
「ありがとう、ルシアン」
「……ああ。楽しみだな」
答えると、すぐ隣からレオが喉の奥で笑う気配がした。
「何だ」
「いや、よかったなあと思って」
「何がだ」
「さあ?」
「……レオ」
琥珀色の目は、やはり楽しそうに細められている。
何をそんなに面白がっているのか問いただそうとしたところで、反対側からフローレンの声が重なった。
「早く行こう。暗くなっちゃうよ」
フローレンはいつの間にか二人より半歩先へ出ていた。振り返った顔は、これから街へ出るのが待ちきれないとでもいうように明るい。
「ほら、二人とも」
「ああ。今行く」
「俺も俺も」
三人で階段へ向かう。
少し前まで人の輪の向こうにいたフローレンが、今は当たり前のように隣を歩いている。その距離を、ルシアンはなぜかいつもより少しだけ意識した。
そのまま他愛のない言葉を交わしながら、三人は学院の玄関を抜ける。
扉の向こうから冬の冷たい空気が流れ込み、暖かな校舎の空気に慣れていた頬を一気に冷やしていった。
「わあ、さむい……!」
フローレンが肩を竦めて笑う。
白い息が、三人のあいだにふわりと浮かんだ。
その向こうには、学院の外へ続く道と、冬の午後の淡い空が広がっていた。




