38:向いている場所
植物実習室の扉を開けると、乾いた薬草と土の匂いがふわりと鼻先を掠めた。
普段の授業では数人ずつ囲む長机が壁際へ寄せられ、中央には三台の細長い卓が離して置かれている。
すでに別の二班も到着していて、室内にはこれから何が始まるのか探るような話し声が低く重なっていた。
卓の上には、布をかけられた木箱がいくつも並んでいる。
「なんだろう、あれ」
フローレンが覗き込もうとすると、隣でレオも少し首を伸ばした。
「植物実習室だし、何かの葉や花とか?」
「それなら私、少し分かるかも」
第三クラスの女子生徒が、先ほどより自然な声で言った。チャームの話をしてから、表情に残っていた硬さはずいぶん薄れている。
「お。植物、好き?」
「好きっていうほど詳しくはないですけど……見比べるのは、割と」
「見比べる?」
「葉や花って、似てても種類によって少しずつ違うから。そういうのを見比べるのは……好きです」
レオは何か答える代わりに、ふっと笑った。
そのとき、教師が前へ出た。
「各班、説明を始める。まずは課題内容を確認し、その後一分以内に出場者を一名決めなさい」
室内の声が静まり、教師の合図で三つの卓を覆っていた布が一斉に外された。
「わ……」
フローレンの声が小さく漏れる。
並んでいたのは、十二組の植物標本だった。細長い葉や丸みのある葉。縁が淡く色づいたもの。色が濃く厚みのあるもの。加えて、乾燥させた種子。それぞれが小さな箱の中へ収められている。
遠目にはよく似たものも多い。
「《観察識別》では、この十二組の中から、こちらが示す三つの条件をすべて満たす標本を一つ選んでもらう」
教師が三つの条件を書いた板を掲げた。
一つ目は、光を受けると葉脈の一部が銀色へ変わること。
二つ目は、種子に微弱な水属性の魔力を含むこと。
三つ目は、寒冷地に自生する種であること。
「標本には自由に触れてよい。簡易測定具の使用も認める。制限時間内に一つを選び、回答箱へ入れること」
説明が終わると、相談時間を示す小さな砂時計が返された。
「一人か」
第一クラスの男子生徒が、十二の標本を見渡した。
「こういうの、得意な人いる?」
誰からもすぐには声が上がらない。
フローレンも卓上の標本へ目を向けた。
よく似たものの中から違いを見つける課題なら、目の前にあるものを丁寧に見分ける力が大切そうだ。
その隣で、レオが第三クラスの女子生徒へ視線を移した。
「さっき、似てるものを見比べるの好きって言ってたよね」
「え……はい」
レオは標本の並ぶ卓を示した。
「こういうのどう? やってみたい?」
女子生徒が目を瞬く。
「私が……?」
「向いてそうだなって思っただけ。嫌なら全然いいよ」
選ぶのは彼女だと分かる言い方だった。
女子生徒は一度、十二の標本を見る。不安そうだった目に、今度は少しだけ興味が混じった。
「……やってみたいです」
「じゃあ決まり」
レオが笑う。フローレンもすぐに頷いた。
「頑張って!」
「うん、頑張る」
女子生徒は出場札を手に、競技卓へ向かった。
三人の出場者がそれぞれの卓の前へ立ち、観覧する班員たちは床に引かれた白線の外へ下がった。声援は問題ないが、競技開始後に答えや手順を教えることは禁止されている。
教師が大きな砂時計へ手を置く。
「では――始め」
砂時計が返されるのと同時に、三人の手が動いた。
室内の空気が一気に張りつめる。木箱の蓋が開く音。葉が擦れる微かな音。簡易測定具が魔力へ反応し、あちこちで淡い光を灯した。
女子生徒はまず標本を端から眺め、それからいくつかの箱だけを手元へ寄せた。
「全部見ないんだ」
フローレンが声を潜める。
「葉の形で、寒冷地のものを先に絞っているのかしら」
エリナも競技卓を見つめている。
彼女は候補に残した葉を一枚ずつ窓から差す光へ翳し、変化のないものを外していく。銀色が浮かんだ葉だけを残すと、今度は種子へ簡易測定具を近づけた。淡い青の光が灯るたびに、手元の箱が一つ、また一つと減っていく。
「残り一分!」
教師の声が飛んだ。
砂時計の上部に残る砂は、もうわずかだった。
女子生徒の前には二つの標本が残っている。どちらも葉を光へ翳せば銀色に見え、種子も測定具へ反応していた。
「二つ残った……」
フローレンが呟く。
女子生徒の手が右の標本へ伸びる。けれど回答箱へ入れる直前で止まり、もう一度二枚の葉を並べた。
窓からの光へ翳す。正面から。次は少し斜めから。
砂が落ちる。
別の卓ではすでに一人が回答箱へ標本を入れ、観覧している班から小さな歓声が上がった。その音に急かされるように残り時間が縮んでいく。
「あと十秒!」
教師の声が響く。
女子生徒の指が止まった。
それまで交互に見ていた二枚のうち、片方だけをもう一度傾ける。その顔から迷いが薄れた。
フローレンには、白線の向こうから細かな違いまでは見えない。
けれど女子生徒は何かを見つけたらしい。
片方の標本を戻し、もう一方を掴む。そのまま回答箱へ入れた。
直後、終了を告げる鐘が鳴った。
張りつめていた室内に、一斉に息を吐く音と話し声が戻る。
「正解は――七番」
教師が正解の標本を持ち上げた。
「七番は、光を受けると葉脈そのものが銀色へ変化する。よく似た十一番にも銀色の斑紋が現れるが、変化するのは葉脈の脇だ」
第一班の女子生徒が選んだのは、七番だった。
「第一班、正解」
「やった!」
フローレンの声が弾む。エリナが嬉しそうに手を合わせ、第一クラスの男子生徒も「おお」と声を上げた。
女子生徒がこちらを振り返る。
一瞬目を見開いてから、ようやく自分が正解したのだと実感したのか、ぱっと頬が明るくなった。観覧区画へ戻ってくる足取りも、出ていったときより少し軽い。
「すごかった!」
フローレンが迎える。
「最後、よく分かったね」
「私も最初は迷ったんだけど……」
女子生徒は興奮の残る声で答えた。
「二つとも同じに見えるなら、同じだと思ってるところをもう一回見た方がいいかなって」
「それで角度を変えたのね」
エリナが言う。
「うん。そしたら片方は葉脈じゃなくて、その横が光ってるだけで」
話しているうちに、また楽しそうな表情へ変わっていく。
「……思ってたより、すごく楽しかった」
その言葉を聞いて、レオが笑った。
「それならよかった」
「ルベライトさんが言わなかったら、私、自分からは出なかったと思います」
「そうなの?」
「だって、もっと得意な人もいるかもしれないし……」
女子生徒が少し遠慮がちに視線を落とす。
レオは不思議そうに首を傾けた。
「もっと得意な人がいるのと、君が向いてるのは別でしょ」
「……え?」
「一番得意な人しか出ちゃいけないわけじゃないし。それに、楽しかったんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、よかったじゃん」
レオは満足そうに笑った。
フローレンは、少し前まで出場札を握りしめていた彼女を思い出した。
話しやすいものを一つ見つけて会話へ入れるようにしたときも、今、その人が力を出せそうな場所を見つけたときも、レオは相手を引っ張っていくというより、ほんの少しだけ行きやすい方へ道を開く。
あとは、その人が自分でそこへ進んでいく。
――やっぱり、こういうの上手いな。
フローレンが感心している間にも、レオはもう巡回表へ目を落としていた。
「次、《条件推理》だね」
第一班も次の会場へ向けて、再び動き始めた。
第一講義室へ着く頃には、先ほどまで緊張していた女子生徒も、すっかり第一班の輪に馴染んでいた。
「次は二人なんだね」
廊下を歩きながら、彼女が巡回表を覗き込む。
「《条件推理》かあ。今度はさっきみたいにはいかなそう」
「内容が全然違いそうだもんね」
フローレンが答えると、女子生徒は「ね」と笑った。初めのうちは敬語の混じっていた声が自然にほどけている。それがなんとなく嬉しくて、フローレンの頬も緩んだ。
第一講義室には、すでにほかの二班が集まっていた。普段なら教師の方を向いて並ぶ机はすべて退けられ、代わりに大きな卓が三台置かれている。
その上には紙の束と、八方位に区切られた簡略図が一枚ずつ用意されていた。
「今度はずいぶん資料が多そうだな」
第一クラスの男子生徒が、卓上を覗き込む。
先ほどの競技を終えてから、まだそれほど時間は経っていない。それでも会場を一つ移るだけで、目に入るものも、そこで求められることもすっかり変わる。次は何が始まるのだろうという期待が、少しずつ膨らんでいた。
担当の教師が三班の到着を確認し、正面へ進み出た。
「《条件推理》は二人一組で行う。これから六枚の資料を配るので、八つの候補地から、指定された魔法生物が次に現れる可能性が最も高い場所を一つ選びなさい」
教師の手が、卓上の簡略図へ向く。
中央には、最後に生物の痕跡が確認された森。その周囲を囲むように、北、北東、東、南東、南、南西、西、北西の八地点が記されている。
「資料は、生物の習性、直近の痕跡、各地点までの距離、地表と天候、餌となる生物の分布、植生の六種類だ。正解点に加え、残り時間に応じて速度加点を与える。ただし、回答できるのは一度だけ。提出後の変更は認めない」
小さくざわめきが起こった。
速ければ得点が増える。けれど、急いで間違えれば正解点そのものを失う。
フローレンは卓上に並んだ六枚の資料へ目を落とした。
覚えるだけでは答えにならない。
習性も、距離も、天候も、餌も、植生も。それぞれ別の資料に散らばっている情報を拾い、繋ぎながら一つの場所へ絞っていく。
何をどう繋げれば答えに届くのだろう。
「私、これやってみたい」
気づけば、言葉が先に出ていた。
「じゃあ一人はフローレンだね」
レオが頷く。
「覚えるのも、繋げるのも必要な課題だし。フローレン向きだと思う」
「うん」
「もう一人は?」
女子生徒が尋ねた。
その隣で第一クラスの男子生徒は八方位に分かれた簡略図を眺めながら、少し考えるように口元へ手を当てる。
「八か所を全部順番に比べてたら、遅そうだな」
独り言のように呟いた。
「条件に合わないところから消していった方が早いかも」
レオの視線が、その横顔へ向いた。
「……君がいいかも」
「俺?」
男子生徒が自分を指さした。
「うん。もう解き方考えてるでしょ」
「でも俺、推理とかは得意ってほどじゃないけど」
「それでいいんだよ」
レオは今度はフローレンを見る。
「フローレン、繋がったと思ったら先まで一気に行くことあるから。急ぐ競技なら、途中で一回『本当にそれでいい?』って止める人がいた方が合いそう」
「私、そんなに?」
思わず向かいを見る。
「……ルシアン」
「集中すると、先へ行きすぎることはあるな」
ルシアンは少し笑っていた。
「悪いことだとは言っていない」
「そう言われると反論しにくい……」
隣でエリナまで口元を緩める。
「でも、二人ならちょうどよさそうね」
「でしょ?」
レオが満足そうに頷いた。
相談時間も残り少ない。第一クラスの男子生徒はフローレンを見ると、「じゃあ、やってみる?」と笑う。
「うん。よろしくね」
二人は出場札を提出し、競技卓の前へ並んだ。
大きな砂時計が返される。
「開始」
六枚の資料が一斉に開かれた。
フローレンは一枚目から順に目を走らせる。
対象は《霜尾獣》。
夜明け前後に活動する小型の魔法生物。一晩の移動距離は二里以内。湿った地面を避け、《灰耳鼠》を主な餌とする。日の出後は、枝葉の密な針葉樹の下へ身を隠す習性がある。
二枚目には、前日の夕刻、中央林の西端で新しい体毛と足跡が見つかったこと。
三枚目には、そこから八地点までの距離。
四枚目には、昨夜の雨と地面の状態。
五枚目には、灰耳鼠の分布。
六枚目には、それぞれの場所に生える樹木と地形。
すべてに目を通したとき、フローレンの中にはその内容がそのまま残っていた。
「まず、絶対に行けないところから消そう」
男子生徒は簡略図を自分たちの間へ引き寄せた。
「二里を超えるのは?」
「南。二里四分」
フローレンが即座に答える。
男子生徒が南へ一本、線を引いた。
「地面が湿ってるところ」
「東と南西。昨夜の雨でぬかるんでる」
「餌がいないのは?」
「北東と西」
線が増えていく。
南。東。南西。北東。西。
八つあった候補は、あっという間に三つまで減った。
「速いな……」
男子生徒が思わず声を漏らす。
「資料、もう確認しなくていいの?」
「うん。全部覚えたから」
「それサラッと言えるのすごいな」
言いながらも、男子生徒の手は止まらない。
「残り三つ。北は?」
「一里三分。乾いてる。灰耳鼠もいる」
「南東」
「一里七分。乾いてる。灰耳鼠あり」
「北西」
「一里九分。乾いてる。灰耳鼠あり」
三つとも、距離、地面、餌の条件には当てはまる。
そのとき、別の卓で木札が乾いた音を立てた。
「第二班、提出」
教師の声が飛ぶ。
先を越され、速度加点のことが頭を掠める。
「落ち着いて」
逸りかけた意識が、男子生徒の声で簡略図へ戻った。彼は残る三地点を指で示す。
「次、植生で見よう」
「あ……ごめん。北は落葉樹林。南東は草地に低木が少し。北西は針葉樹が密集してる」
答えながら、残っていた三地点が頭の中で一気に分かれた。
日の出後は、枝葉の密な針葉樹の下へ身を隠す。
「北西だ」
「俺もそう思う」
回答札へ手を伸ばす。今ならまだ、十分な速度加点が残っている。
けれど、札へ触れる寸前でフローレンは手を止めた。
「……待って。最後に一回だけ、北西が全部の条件を満たしてるか確認したい」
男子生徒が一瞬目を瞬き、それから頷いた。
「うん」
紙へ戻る必要はなかった。中央林から一里九分で、移動距離は二里以内。地面は乾いている。灰耳鼠もいて、針葉樹が密生している。
どの条件にも反していない。
「大丈夫」
「じゃあ出そう」
二人で回答札を提出する。
「第一班、提出」
教師の声と同時に、砂時計へ印が付けられた。その少しあとで第三班も回答を終え、やがて最後の砂が落ちる。
「では結果を発表する。正解は――北西」
フローレンの肩から力が抜けた。
「第一班、正解。速度加点を含め、二十七点」
「やった」
思わず男子生徒と顔を見合わせる。
「かなり早かったな」
「途中で止めてもらわなかったら、焦って条件を見逃していたかも」
観覧区画へ戻ると、レオが待っていた。
「ほら、相性よかったでしょ」
「うん」
フローレンは素直に頷く。
「最後の三つで、急いで進めそうになったところ止めてもらった」
「でも最後はアストリアさんが自分で止まったじゃん」
男子生徒が言った。
「北西を出す前に、もう一回確認しようって」
「あ」
そう言われてみれば、確かにそうだった。
「ほら。やっぱりいい組み合わせだったでしょ」
レオが満足そうに言う。
一緒に考えたことで、相手のやり方がほんの少し、自分の中にも残った。
それに何より、六枚に散らばっていた情報が頭の中で一つずつ繋がり、八つの候補が削れていく感覚は思っていた以上に楽しかった。
フローレンはまだ少し弾む気持ちのまま、巡回表へ目を落とした。
次は、《精密操作》。
今度はまた、まったく違う種類の課題だった。




