37:頼めるか?
秋も深まり、朝の空気には、息を吸い込むたび喉の奥が少し冷えるような澄んだ気配が混じっていた。
中庭の木々は赤や黄に色づき、風が渡るたび、乾いた葉が枝を離れて石畳へ舞い落ちる。夏には夕方まで明るさの残っていた校舎も、今では午後のうちから光が少しずつ傾き始めていた。
その日の昼前、廊下にはいつもの授業へ向かうときより多くの足音が行き交っていた。三年生全員が、普段授業に使うことのない学院中央の大広間へ集められていた。
「……何するんだろう」
フローレンは周囲を見渡しながら、小さく呟いた。
高い天井を持つ広間には、特進から第三クラスまでの姿が入り混じっている。正面には大きな掲示板が立てられ、その脇には色の違う細長い札がいくつも箱へ分けて置かれていた。
机も教本もなく、生徒たちは立ったまま開始を待っている。どこか落ち着かないざわめきが、広い空間のあちこちで揺れていた。
「もしかして、秋季総合競技じゃない?」
隣に立つエリナが言う。
「去年のこのくらいの時期に、上級生たちが学院のあちこちを回っていたのを見た覚えがあるわ」
「秋季総合競技?」
「ええ。班ごとに何か競っていたみたい。詳しいことまでは知らないけれど」
名前だけは、フローレンも知っていた。
昨年までは上級生が行う学院行事の一つとして覚えていただけで、何をするのかまで気に留めたことはなかった。
「――へえ。楽しそう」
声のした方を見る。
すぐ後ろに、レオとルシアンが立っていた。
「レオ、知ってるの?」
「俺も名前だけ。何するかは知らない」
レオはそう言って、正面に並ぶ掲示板や箱を見渡した。
「でも去年の上級生たちを見た感じだと、いろんな種類の課題が出るっぽいし……名前の通り、総合力を見られるのかもね」
「ああ。確かにそれはありそうだ」
ルシアンも掲示板へ目を向ける。その横顔には普段よりわずかに浮き立ったものがあり、まだ見ぬ競技の内容を想像しているのはレオだけではないらしい。
「お。ルシアンもちょっと楽しみになってきた?」
「……ん。まあ、そうだな」
「珍しく素直じゃん」
「たまにはこういうのも息抜きになっていいだろう」
あっさり認めたルシアンに、レオが楽しそうに笑う。
二人につられるように、フローレンの胸にも少しずつ期待が膨らんだ。何をするのか分からなかった大広間のざわめきも、先ほどよりどこか楽しげに聞こえた。
やがて開始を告げる鐘が鳴った。
広間を満たしていたざわめきがゆっくりと小さくなり、正面に立った教師が一歩前へ出る。
「三年生諸君。今日はこれから、秋季総合競技を行う」
隣を見ると、エリナが「やっぱりね」とでも言うように、こちらへ軽く片目をつぶってみせた。
「競技は六人一組、全十六班で行う。各班にはこれから巡回表を配るので、記された時刻に指定の会場へ移動すること」
教師が背後の掲示板へ手を向ける。
布が外されると、その下には学院の簡略図と、四つの枠に分かれた表が現れた。
《観察識別》
《条件推理》
《精密操作》
《聞き取り》
それぞれの横には会場と、出場できる人数、得点が記されている。
「課題の詳しい内容は、それぞれの開始直前に発表する。班員全員で会場へ移動し、その場で出場者を決めなさい。出場しない者は指定された場所から競技を見ることができるが、開始後の助言は禁止する」
フローレンは学院図へ目を走らせた。
植物実習室、第一講義室、魔法実習場……と、四つの課題は学院のあちこちに散らばっているらしい。よく使う教室から、普段あまり立ち寄らない場所まで様々だ。
「そして、一人が出場できるのは一課題のみとする」
教師は脇に置かれていた箱から、一枚の札を持ち上げた。
細長い木札だった。中央には学院の紋章が刻まれ、端には小さな穴が開いている。
「一人につき、出場札は一枚。課題へ参加する際に提出し、一度出場した者は、それ以降の課題には出場できない」
あちこちで囁く声が重なり、生徒たちの視線が教師の手にある木札へ集まった。
フローレンも掲示板へ目を戻す。
《観察識別》と《聞き取り》は一人ずつ。《条件推理》と《精密操作》は二人ずつ。
四つの課題を合わせれば、出場枠はちょうど六つになる。
「つまり、六人全員が一度ずつ出ることになる。誰をどの課題へ出すかは、各班で決めてもらう」
なるほど、とフローレンはもう一度四つの課題名を見た。
誰か一人に任せることも、得意な人だけを何度も出すこともできない。六人それぞれに、一つずつ場所を決めなくてはならない。
「なるほどね」
レオが四つの課題を見比べる。
「名前だけじゃ、誰が向いてるかまだ全然分かんないな」
「詳しい内容は直前まで伏せると言っていたからな」
ルシアンも掲示板を見たまま頷いた。
「班で相談し、誰がどの課題に出るか決めなさい。本日の競技がすべて終了した時点で、総得点が最も高い班を優勝とする。以上だ」
説明が終わると、今度は十六班の組み分けが掲示された。
フローレンは並んだ名前を上から追い、すぐに第一班の欄を見つける。
「……また一緒だ」
ルシアン、レオ、フローレン、エリナ。
見慣れた四つの名前が並んでいるのを見つけた瞬間、胸の奥にあったわずかな緊張がふっとほどけた。
そこに第一クラスの男子生徒と、第三クラスの女子生徒が一人ずつ加わっていた。
「この前より少ないね」
レオが第一班の欄を覗き込む。
「六人なら、動くのも楽そう」
「前は八人だったものね」
フローレンも頷いた。
班分けの掲示が終わると、それぞれの班には広間の端に待機場所が割り当てられた。
第一班の札が置かれた丸卓へ四人で向かう。卓上には学院の簡略図と巡回表、それから六人分の出場札が用意されていた。
少し遅れて第一クラスの男子生徒が近づいてくる。
「第一班、ここで合ってる?」
その後ろには、途中で合流したらしい第三クラスの女子生徒もいた。
「合ってるよ。今日はよろしくね」
フローレンが答え、六人はその場で簡単に挨拶を交わした。
男子生徒の方はそれほど緊張した様子もなく、すぐに卓上の巡回表へ目を移している。
一方、女子生徒は初めて話す相手が多いせいか、少しだけ硬い表情で出場札を両手で持っていた。
「あ。それ、《リュミエ》の限定チャーム?」
ふいにレオが声をかけた。
「えっ」
女子生徒の肩が小さく跳ねる。
彼女の鞄の留め具から下がっているのは、淡い青の石を花の形に組んだ小さなチャームだった。揺れるたび、窓から差す光を細く返している。
「あ、ごめん急に。見覚えがあったから」
驚かせたことにすぐ気づいたらしい。レオはいつもの人懐っこい笑みを少しだけ穏やかにして、それ以上彼女へ問いを重ねることはしなかった。
代わりに、すぐ隣のフローレンへ顔を向ける。
「確かフローレン、色違い持ってたよね」
「え? あ、ほんとだ! 私のは薄紫だよ」
言われて改めてチャームを見ると、フローレンにも見覚えがあった。
「わあ、その色もすごく可愛い。青は初めて見たかも」
「あ……ありがとう」
女子生徒が、ようやく少しだけ顔を上げる。
「気に入ってるの」
「あら。それ、期間限定の色じゃないかしら」
エリナもチャームへ視線を向けた。
落ち着いた声音でそう尋ねられると、女子生徒の表情がわずかに明るくなる。
「そ、そうなの。先月だけ売ってて……朝から並んでやっと買えて……」
「やっぱり。綺麗な色だと思ったわ」
エリナが柔らかく微笑む。
「よかったら、もう少し近くで見てもいいかしら」
「もちろん」
女子生徒は今度こそ自然に笑って、鞄からチャームを外した。
フローレンも身を寄せる。
「石の色だけじゃなくて、金具も違うんだね」
「そうなの。限定色だけ、ここの模様も変わってて――」
さっきまで小さかった声が、少しずついつもの調子を取り戻していく。
その横で、レオは満足そうに一度頷いた。
そしていつの間にか会話の輪から半歩抜け、何事もなかったように卓上の巡回表を眺めている。
フローレンはそれに気づいて、ちらりと横顔を見た。
たぶん、最初からチャームの話をしたかっただけではない。
緊張している相手へいきなり何かを尋ね続けるのではなく、その子が話しやすそうなものを一つ見つけて、同じチャームを持つフローレンへ話を渡す。そこへエリナまで加われば、もうレオが間に立っている必要はない。
そういうことを、考えてやっているのか。それとも、いつも自然にできてしまうのか。
フローレンにはまだ分からない。
ただ、少し前まで出場札を握りしめて固くなっていた女子生徒が、今は楽しげにエリナとチャームの細工を覗き込んでいる。
――こういうところ、やっぱりすごいな。
フローレンは小さく感心しながら、もう一度エリナと女子生徒のほうへ向き直り、しばし会話に花を咲かせた。
第一班の最初の会場は植物実習室。《観察識別》の課題から始まるらしい。
「それで、人選はどうする?」
第一クラスの男子生徒が卓上を見ながら尋ねる。
その言葉とほとんど同時に、いくつかの視線が一か所へ集まった。
ルシアンだった。
本人もそれに気づいたらしく、紫の瞳がわずかに瞬く。
「……ん? 僕が決めるのか?」
「いや、その……」
男子生徒が少しだけ言葉を探す。
「この前の合同実習でも班長だったって聞いたから。こういうときはノクティスさんがまとめるのかなって」
「なるほど」
ルシアンは静かに頷き、そのまま巡回表へ目を落とした。
《観察識別》
《条件推理》
《精密操作》
《聞き取り》
四つの課題名を一通り眺めてから、隣にいるレオへ顔を向ける。
「こういうのは、レオに頼むのがいいと思う」
「……俺?」
予想していなかったのか、レオが自分を指さした。
「ああ。誰がどこに向いているかを考えるなら、お前の方が適任だろう」
長い付き合いだからこその、迷いのない言い方だった。
「頼めるか?」
レオは少しだけ意外そうに眉を上げたものの、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「いいよ。面白そうだし」
「よろしく頼む」
「責任重大だなあ」
そう言いながらも、レオはどこか楽しそうだった。
「じゃ、頑張ろっかな」
レオは巡回表を自分の方へ少し寄せた。
最初の欄には、《観察識別》とだけ記されている。誰が向いているのかを考えようにも、名前だけでは何を観察する課題なのかさえ分からない。
「まあ、人選は向こうで内容を聞いてからだね」
五人もそれぞれ頷いた。
ほどなく、移動を告げる鐘が鳴る。
第一班は巡回表を手に、最初の会場となる植物実習室へ向かった。




