36:苦手なこと
実習が終わり、荷車を示していた駒はすべて元の箱へ戻された。物資の札も色ごとにまとめられ、大きな地図の上にはもう何も残っていない。
ただ、第一班の進行表には一本の赤い印があった。
第四集落。
薬品到着――翌朝。
フローレンは帰り支度をしながら、何度目か分からない視線をそこへ向けた。
実習は終わった。実際に薬が足りなくなったわけではない。誰かが寒い夜を越したわけでも、治療を待ったわけでもなかった。
それでも、一度想像してしまったものは簡単には紙の上へ戻ってくれなかった。
あの数分が本物だったなら。地図の上に小さく書かれた集落の向こうで、自分たちの判断を待っている人がいたのなら、時計は同じように進んだだろう。
資料を探しているあいだも。どの道を使うか迷っているあいだも。——答えへ辿り着けずにいるあいだも。
「第一班は、少し残ってくれ」
教師の声がかかった。帰りかけていた八人の動きが止まる。
ほかの班が少しずつ実習室を出ていくなか、第一班だけが再び机の周りへ集まった。教師は地図ではなく、進行表を手にしていた。
「まず、計画そのものはよくできていた」
淡々とした声だった。
「状況変更後の経路も成立している。北峠が閉鎖したあと、旧道を使って薬品を運ぶ判断も間違ってはいない」
何人かの肩から、ごくわずかに力が抜ける。けれど教師の指は、赤い印のところで止まった。
「問題は、ここだ」
誰も口を開かなかった。
「ノクティス」
「はい」
「君が中央管理所へ行っている間、班では何が起きていた?」
ルシアンは進行表を見た。答えを探すほどの問いではなかった。
「北峠の閉鎖と、西側橋梁の通行停止が同時に発生しました。代替経路を決めるまでに時間がかかり、第四集落への薬品便が遅れました」
「それは結果だ」
教師の声は変わらない。
「なぜ、決めるまでに時間がかかった?」
一瞬だけ、室内が静かになった。
ルシアンの視線が机の上へ落ちる。八冊の資料、それぞれの担当が書いた紙、そして完成した輸送計画。
「……必要な情報が、すぐに揃わなかったからです」
「情報はなかったのか?」
ルシアンは答えかけて、止まった。
八冊はすべて机にあった。旧道の記録も、三年前の積雪量も、中継所の容量も。必要な情報は、すべてその中に書かれていた。
「……ありました」
「そうだな」
教師は短く頷いた。
「では、なぜ使えなかった?」
今度は、すぐに返事がなかった。
フローレンも、その問いを胸の内で繰り返した。
情報はあった。七人もいた。
レオは皆へ声をかけ、エリナは物資量を計算した。自分も薬品の優先順位を出し、ほかの班員たちもそれぞれの資料を開いた。
それでも、決められなかった。
ルシアンが戻るまでは。
「……共有が、足りませんでした」
しばらくして、ルシアンが答えた。
「僕が確認した内容の中に、ほかの班員へ伝えていないものがありました」
教師は何も言わず、続きを待った。
「旧道を使える条件も、中継所の容量も、僕は把握していました。でも……その判断に使った情報を、全員が分かる形にはしていなかった」
「そうだ」
返ってきたのは、それだけだった。責める声ではなかった。けれど、だからこそ言葉はそのまま残った。
「班長がすべてを知っていることと、班が動けることは同じではない」
教師は進行表を机へ置いた。
「今日起きたことは、覚えておきなさい」
それ以上の説明はなかった。
机の上には、赤い印のついた進行表だけがある。
「以上だ。戻っていい」
教師が離れていく。残された八人の間には、すぐには会話が戻らなかった。
「……俺、もっと早く旧道の記録見つけられてたらな」
最初に口を開いたのは、事故記録を担当していたレオだった。
「レオのせいじゃないよ」
フローレンはすぐに言った。
「私も、積雪記録をもっと早く見られてたらって思ったし」
「それを言うなら、私も」
エリナが静かに続ける。
「薬品の量だけじゃなくて、中継所へ入れる量まで分かっていれば、もう少し早く候補を絞れたかもしれないわ」
ほかの班員たちも、それぞれ何かを口にした。自分が見落としたところ。もっと早く確認できたかもしれないこと。
誰か一人だけを責める声はなかった。
「違う」
低い声が、その中へ落ちた。
ルシアンだった。
「今回の責任は僕にある」
「ルシアン」
「班長は僕だ」
言い方は静かだった。けれど、そこに迷いはなかった。
「全体を確認したのも僕だし、最終的な計画をまとめたのも僕だ。僕が把握した条件を、必要な形で共有できていなかった」
ルシアンは赤い印へ視線を落とす。
「僕が、もっときちんと準備しておくべきだった」
フローレンの胸の内に、何かが引っかかった。
言っていることは間違っていないように聞こえる。今日、必要な情報が共有されていなかった。それなら、次は先に共有しておけばいい。判断の根拠まで整理し、誰が見ても分かるようにしておけば、同じことは起きないかもしれない。
それでも、なぜかさっき教師が口にした言葉と、少しずれているような気がした。
「このあと、もう一度資料を見直す」
ルシアンが続ける。
「状況が変わったときに必要になる条件を整理して、判断基準もまとめておく。今回みたいに僕が席を外しても、皆がすぐ確認できるように――」
「……ルシアン」
フローレンが呼ぶと、言葉が止まった。
「何だ?」
「ううん……」
すぐには続きが出なかった。自分の中にも、まだ形がない。
ただ、何かが違う。
それだけが残っていた。
第一班の班員たちが帰り始めても、ルシアンが立ち上がる様子はなかった。
エリナは帰り支度を終えると、フローレンへ一度だけ視線を向けた。何かを尋ねることはなく、いつもの柔らかな声で「先に戻ってるわね」と告げる。
「うん。また明日」
軽く手を振ると、エリナも小さく振り返した。やがて扉の向こうへ姿が消え、ほかの班員たちの声も少しずつ遠ざかっていく。
レオもまだ帰ろうとはしていなかった。気づけば、広い実習室に残っているのは、いつもの三人だけだった。先ほどまでいくつもの声が飛び交っていたせいか、人の減った室内は普段よりも静かに感じられた。
ルシアンはその静けさの中で、机の上に散らばっていた資料を一冊ずつ集めていた。閉じられた表紙が重なるたび、昨日まで何度も見たのと同じ形が、また彼の前に出来上がっていく。
一冊目。
二冊目。
それだけの光景なのに、今日はなぜか昨日までとは違って見えた。
「……また全部読むの?」
フローレンが尋ねる。
「ああ」
返事に迷いはなかった。
「今日起きた状況も含めて、どこを共有しておくべきだったのか確認したい」
「八冊、全部?」
「その方が確実だ」
言いながら、ルシアンは三冊目を重ねた。
何が足りなかったのかを見つけ、次には同じことが起きないようにする。そのために自分ができることを探すのは、ひどくルシアンらしかった。
「だったら、私も見るよ」
フローレンは机の端に残っていた一冊へ手を伸ばした。けれど指が表紙へ触れるより先に、ルシアンの手がその冊子を取る。
「大丈夫だ」
あまりにも自然な動きだった。
考えるより先に手が伸びたように見えるその仕草を、フローレンは昨日も、一昨日も見ていた。必要なものを自分で確かめ、自分のところへ集める。それはもう、ルシアンにとって癖に近いものなのかもしれなかった。
「僕がやる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の内で引っかかっていたものが、ふいに一つの形になった。
「……できるかどうかの話じゃないよ」
ルシアンの手が止まった。
紫の瞳が、ゆっくりとこちらへ向く。
「何?」
フローレン自身も、口にしてから気づいた。以前、同じ言葉を聞いたことがある。体調を崩したあの日、自分で荷物を片づけられると言ったフローレンへ、ルシアンが返した言葉だった。
『できるかどうかの話じゃない』
今度は、自分がそれを言っている。
「私もできるよ」
フローレンはルシアンが持っている資料を見る。
「レオもできる。ほかのみんなだって、自分の担当ならちゃんと読める」
「それは分かっている」
「でも、ルシアンが全部やろうとしてる」
ルシアンの眉がわずかに寄った。
「今日は僕の共有が足りなかったからだ。なら、次は――」
「それ」
フローレンは思わず遮った。自分でも少し驚き、声をわずかに弱める。
「……それが、違う気がする」
「何が?」
問われて、フローレンは言葉を探した。
どう説明すればいいのだろう。
今日の実習。八冊の資料。止まった駒。
それらを思い返しているうちに、ふと、ずっと前の自分が浮かんだ。問題を前にして、何も繋げられなかったころの自分だ。
「私が最初にルシアンに教えてもらったとき、ね」
ゆっくり口にすると、ルシアンがわずかに目を上げた。
「私、全然できなかったでしょ?」
「全然というほどでは――」
「できなかったよ」
フローレンは小さく笑った。
「知ってることはいっぱいあったのに、どう使えばいいか分からなかった」
今なら懐かしく思える。参考書を増やせば、いつか答えに届くと思っていた頃のこと。
「でもルシアン、私が間違えても、すぐに正しい答えを教えてくれなかったよね」
ルシアンは黙った。
「答えは知ってたのに」
「……君自身が解けるようになる必要があったからだ」
「うん」
すぐに頷く。
「だから待ってくれた」
何を聞かれているのか。どこまで分かっているのか。
自分で見つけられるようになるまで。
「時間、かかったよね」
「最初はな」
フローレンは机の上の資料へ視線を落とした。
「でも昨日は、みんなが見落としたところをルシアンが自分で見つけて、直してた」
倉庫の容量。荷車の整備。橋の工事。
見つけたのはルシアンだった。そして、正しい形へ直したのも。
「それは、その方が早かったから――」
「うん。分かるよ」
否定はしなかった。
「ルシアンが直した方が早かったと思う」
実際、そうだった。あの場で担当者へ資料を戻し、どこが間違っているのかを一から考え直してもらえば、計画の完成は遅くなっていただろう。
「今日も、ルシアンが戻ってきてからはすぐ決まった」
「ああ」
「すごかった」
それも本心だった。
「旧道も、中継所も、荷車も。聞いたらすぐ全部分かった」
そこまで言ってから、フローレンは顔を上げた。
「でも……ルシアンがいなかったとき、止まったよ」
ルシアンは何も言わなかった。
「みんな、必死で動いてた。レオも、エリナも、ほかのみんなも」
「……分かっている」
「私も考えた。分かることはあった。でも、判断するには足りなかった」
フローレンは机の上にある八冊を見る。
「ルシアンの中には、必要なものが全部あったんだよね」
「ああ」
「だから戻ってきたら、すぐ動けた」
言葉にして並べるうちに、今日起きたことが少しずつ形を持っていく。
「でも……それって」
一度息を置く。
「ルシアンだけができるようになってたってことじゃないの?」
静かな実習室に、言葉が落ちた。レオも口を挟まず、少し離れた椅子に座ったまま二人のやり取りを見ている。
「僕だけが……」
ルシアンが小さく繰り返す。
「ルシアンが全部できるようになることと」
フローレンは、自分自身にも確かめるように言った。
「みんなができるようになることって、同じじゃないよね」
返事はなかった。
窓の外では、厚かった雲が少しだけ切れ始めていた。傾いた夕方の光が薄く差し込み、机の上の八冊へ淡い筋を落とす。
「でも、最終的に責任を負うのは僕だ」
やがて、ルシアンが口を開いた。声には、いつもよりわずかな硬さがあった。
「もし任せた相手が間違えて、そのまま進めばどうする。今日だって、僕が確認していなければ、三つとも見落としたまま計画を進めていた」
「うん」
「結果として困るのは、運ぶ側だけじゃない」
ルシアンの視線が、赤い印へ落ちる。
「実際だったなら、物資を待っている人がいる」
フローレンも同じところを見る。その重さは、自分にも分かる。
「だから、間違えられない」
「……うん」
もう一度頷いた。
「私も、今日それ思った」
第四集落の薬品が翌朝まで届かないと分かったとき、その数時間が急に重くなった。
「だからこそ、だと思う」
ルシアンが顔を上げる。
「ルシアンが先に全部考えて、その通りに動けるようにしておくだけじゃ……想定外のことが起きたら、また止まると思う」
ルシアンは何も言わず、フローレンの言葉を聞いていた。
「だから、ルシアンがいなくても、自分で考えて決められる人を増やさないといけないんじゃない?」
自分で口にして、ようやくそこへ辿り着いた気がした。
「だって、これから先、どこにでもルシアンがいるわけにはいかないでしょう?」
ルシアンは何も言わなかった。
それでも、フローレンには一つだけ分かることがあった。
「ルシアンは、これからたくさんの人と一緒に何かをする人になるんだよね」
以前、遠い人のように思っていた少年を見つめる。
「だったら……ルシアンが全部背負えるようになるだけじゃ、足りないんじゃないかな」
長い沈黙が落ちた。
言い過ぎただろうか。そう思い始めたころ、ルシアンが静かに息を吐いた。
「僕は」
そこで一度、言葉が止まる。
「今日のことが起きたとき、次はもっと先まで考えて準備しておけばいいと思った」
フローレンは黙って聞いた。
「必要な条件を全部整理して、何が起きてもすぐ判断できるようにしておけばいいと」
ルシアンの視線が、机の上の八冊へ落ちる。
「だから、もう一度全部読むつもりだった」
「うん」
「……また同じだな」
ほんの小さな声だった。
フローレンが瞬きをする。
「何が?」
「僕ができることだけを、増やそうとしている」
その言葉に、フローレンは何も返さなかった。ルシアン自身が、今初めてそこへ目を向けている。それなら、急いで続きを言う必要はないように思えた。
机の上へ夕方の光が伸び、八冊の資料の背が一冊ずつ細い影を作っていた。
「難しいな」
ルシアンがぽつりと言った。
「何が?」
「任せることが」
少し考え、言い直す。
「任せたままにすることが、だな」
その言い直しが、ひどくルシアンらしい気がした。
「たぶん、ルシアンにはそっちの方が難しいんだね」
「……そうかもしれない」
その返事に、少し離れたところからレオの声がした。
「珍しいね」
二人がそろってレオを見る。
「何がだ」
「ルシアンが『難しい』って認めるの」
「そうか?」
「そうだよ。いつも、言われたことはなんだかんだこなしちゃうから」
軽い声だった。けれど目元には、いつものからかうような笑みはほとんどなかった。
「まあ」
レオは椅子から立ち上がる。
「今日からいきなり全部人任せにする必要もないでしょ」
「初めから全部人任せにするつもりはない」
「そういうとこだよ」
少しだけ普段の調子が戻る。そのやり取りに、フローレンの肩からもわずかに力が抜けた。
ルシアンはもう一度、八冊へ目を向けた。最初に手を伸ばしたのは、気象と積雪の記録だった。
表紙へ指が触れる。
そのまま取るのかと思った。
けれど、手はそこで止まった。
ほんの短い間。
「フローレン」
「なに?」
「今日、君が見た積雪記録」
「うん」
「三年前の旧道使用時と、今年の条件を比べてもらえるか」
フローレンの目が少し開く。
「私が?」
「ああ」
「いいの?」
思わず聞き返すと、ルシアンがわずかに眉を寄せた。
「君が手伝うと言ったんだろう」
「……うん、言った」
フローレンは笑った。
「じゃあ、やるね」
差し出された一冊を受け取る。
次にルシアンは、事故・遅延記録へ手を伸ばした。
「レオ」
「はいはい」
「旧道を使った過去の記録を確認してくれ。どんな条件で選ばれたのかまで分かれば、それも」
「了解」
二冊目が、レオの前へ移る。
机の中央には、まだ六冊が残っている。
それだけだった。
八冊すべてを任せたわけでもない。自分で確かめることをやめたわけでもない。
ルシアンは残った資料を見て、そのうちの一冊をすぐに開いた。
きっと明日になれば、また自分で確かめたくなることもあるのだろう。誰かへ任せたものが気になって、結局あとから読み直すことだってあるかもしれない。
今日、一度気づいただけで、長く身についた考え方がすべて変わるはずもない。
それでも。
さっきまでルシアン一人の前へ集められていた八冊のうち、二冊だけが別の場所にある。
――それは、確かな前進だった。




