35:赤い印
模擬運用の日は、朝から空が曇っていた。
高い窓の向こうには薄い雲が広がり、昼を過ぎても陽の光はどこか白い。大実習室の中にも秋の冷えた空気がわずかに残り、昨日まで地図と資料を囲んでいた机には、今日は色の違う小さな札や駒がいくつも並べられていた。
黄は食料。
青は薬品。
白は暖房用の魔石。
荷車を示す木製の駒には大きさが二種類あり、その一つひとつを自分たちで作った計画通りに地図の上へ動かしていく。
フローレンは第四集落の欄をもう一度確認した。第一便には薬品を多く積み、次に暖房用の魔石。食料は現在の備蓄に余裕があるため、一部を後発の便へ回している。
昨日までに何度も確認した計画だった。
「緊張してる?」
隣からレオが小さな声で尋ねる。
「少し。でも、楽しみでもある」
「フローレンらしいね」
レオは笑いながら、自分の前に置かれた進行表へ目を落とした。
今日の彼は全体の進み具合を見て、必要な担当へ声をかける役になっている。エリナは物資量を確認し、ほかの班員にも街道、中継倉庫、荷車、各集落への便と、それぞれ昨日決めた役割が振られていた。
ルシアンの前には、八人分をまとめた最終計画がある。
「では、始める前に確認する」
教卓から教師の声が届いた。
「今日は計画書だけでは評価しない。実際にその計画を運用できるかを見る」
教師の背後には、大きな時計が置かれていた。
現実の一日を短い時間へ置き換え、一定の間隔で模擬上の時刻が進む。鐘が鳴れば半日が経過したことになり、その時点までに必要な判断が出ていなければ、輸送もそのぶん遅れる仕組みらしい。
「各班長は、報告時刻になったら中央管理所へ報告に来ること。班長が席を外している間も運用は止めない」
ルシアンが手元の進行表を確認する。
「第一班、準備は?」
「できています」
迷いのない返事が返った。
「では――開始」
教師の声と同時に、実習室のあちこちで駒が動き始めた。
初めのうちは、驚くほど順調だった。
「第一便、出せる?」
「物資量、問題なし」
「西側倉庫も空いてます」
「じゃあ出そう」
レオの声に合わせ、荷車を示す駒が地図の上を進む。
第四集落へ向かう最初の便には、予定通り薬品が積まれている。フローレンは備蓄表と進行表を見比べ、到着予定を書き込んだ。
「このままなら、余裕はありそうね」
エリナが小さく息をつく。
「うん。昨日二日早めたのがよかったみたい」
少し離れたところでは、第二集落へ向かう便も予定通り進んでいた。荷車の数も、倉庫への到着時刻も、積み替える物資も、どれも昨日までに決めた通りだった。
途中、一度だけ街道担当の生徒が判断に迷った。
「北側の便、ここから大型荷車のままでいいんだっけ」
「今日はまだ大丈夫だ」
ルシアンがすぐに答える。
「通行制限が入る想定時刻より前だ。次の便から小型に変える」
「あ、そうだった」
駒が予定の経路へ戻る。
それからも、質問が出ればルシアンが答えた。どの倉庫へ何荷入るのか。どの便に予備車を回せるのか。予定より早く着いた荷車を、そのまま次へ使っていいのか。
返事は早かった。
八冊すべてに目を通し、完成した計画とも何度も照らし合わせていたルシアンの中には、必要な数字も条件も一つの形として収まっているようだった。
そのおかげで、第一班の進行はほとんど止まらなかった。
最初の鐘が鳴る。
模擬上では、半日が過ぎた。
「各班長、中央管理所へ」
教師に呼ばれ、ルシアンが顔を上げる。
「はい」
立ち上がる前に、机の上を一度見渡した。
「僕が戻るまで、今の計画通り進めてくれ。次の便は西側倉庫まで。北側はまだ動かさなくていい」
「了解」
レオが軽く片手を上げる。
ルシアンは最終計画だけを持ち、教卓近くに設けられた中央管理所へ向かった。
すぐ戻る。
誰もが、そう思っていた。
実際、彼がいなくなったからといって、急に何かが変わったわけではない。
「じゃあ次、第三便」
レオが進行表を見る。
「荷車は?」
「準備できてる」
「物資も大丈夫です」
エリナの確認を受け、駒が一つ動く。
フローレンも第四集落の欄へ視線を落とした。
次に動く薬品便は、もう少しあとだ。
今のところ、問題はない。
そのとき、第一班の机へ一人の教師が近づいてきた。
「第一班。状況変更」
白い紙が一枚、机の中央へ置かれる。
レオがそれを取り上げた。
「えっと……」
軽かった表情が、少しだけ変わる。
「北部で予想より早い降雪。北側峠は本時刻をもって通行不能」
街道担当の生徒がすぐに地図を見る。
「北側……このあとの便で使う予定だったところだ」
「代替経路あるよね?」
フローレンが尋ねる。
「ある。西回り」
レオが計画紙へ手を伸ばす。
昨日、北側が使えなくなった場合の経路は一つ用意していた。西側の道へ回り、中継倉庫で大型荷車から小型へ積み替える。
「じゃあ、そっちへ変更しよう」
「待って」
倉庫担当の生徒が声を上げた。
「西側、今第一便が入ってる。次もすぐ入れたら容量を超えるかもしれない」
「出るのはいつ?」
「次の時刻までには出るはずだけど……」
「なら、少し待てば――」
そこへ、二枚目の紙が置かれた。
「追加状況」
今度は別の教師だった。
レオが受け取り、読み上げる。
「西側橋梁、強風による倒木。大型荷車の通行を停止。復旧見込みは次の時刻以降」
七人の間から、声が消えた。
北は通れない。
西へ回そうとしたところで、その道も大型荷車では使えない。
「……じゃあ、小型に積み替える?」
「どこで?」
倉庫担当が地図を指す。
「西倉庫まで大型が入れないなら、その手前で積み替えないと」
「積み替えられる場所ある?」
街道担当の生徒が、自分の資料へ手を伸ばした。
「ちょっと待って。確か途中に――」
頁が勢いよくめくられる。
レオがすぐに全員を見た。
「とりあえず、分かってることから出そう。北は駄目。西も大型は駄目。小型荷車は何台空いてる?」
「……二台」
荷車担当が答える。
「いや、待って。一台は南の第二便から戻ってくる予定だから――」
「それ、何時?」
「次の鐘の少し前」
「じゃあ今は二台ね」
レオは地図の脇へ数字を書き込む。
「小型二台で運べる量は?」
「一度じゃ全部無理です」
エリナが物資表を確認する。
「なら優先するものを決めよう」
フローレンは第四集落の欄を見る。
「薬品」
それだけは迷わなかった。
「第四集落の薬品は遅らせない方がいい。今ある量だと、予定より遅れたら足りなくなる」
「どのくらい?」
「今夜分まではある。でも明日の朝までには次を入れないと――」
そこまで言って、フローレンは時計を見る。
次の鐘まで、あまり時間がない。
「薬品を二台に分けて先に出す?」
「でもどの道を使うの」
街道担当の生徒が、ようやく資料から顔を上げた。
「西橋を使わずに抜ける道、一つある。ただ……」
「ただ?」
「旧道。小型荷車なら通れる」
「それで行こう」
「待ってください。冬季に使えるかが分からない」
その声に、動きかけていた手が止まる。
街道資料の頁には、旧道そのものは記されている。けれど冬の運用については、そこだけでは判断できなかった。
「事故記録には?」
レオが自分の担当だった冊子を開く。
「……旧道、旧道……」
頁を辿る。
「あった。三年前に一回使ってる」
「通れたの?」
「通ってる。でも、何で使えたのかまではこっちにない」
「過去の輸送記録じゃない?」
誰かが八冊目へ手を伸ばす。
昨日まではルシアンの前に置かれていることの多かった一冊だった。
厚い頁がめくられる。
「三年前……どこだ」
「第四集落?」
「いや、第三かもしれない」
「時期は?」
「同じころのはず」
声が重なる。
誰も黙ってはいなかった。
誰も、ルシアンが戻ってくるまで何もせずに待っていたわけでもない。
レオは一つずつ情報を集め、エリナは運べる物資量を計算し直している。フローレンも自分の記憶の中から、第四集落で何を最優先にすべきかを拾い続けていた。
ほかの班員たちも、自分が担当した資料を開いている。
それでも、答えが一つにならない。
「旧道が使えるなら、薬品だけ先に」
「でも使えるって決めていいの?」
「三年前には通ってるんだろ?」
「今年も同じ条件とは限らない」
「積雪量は?」
全員の視線が、気象記録へ向いた。
「――それ、ノクティスさんが担当してたやつだ」
誰かが呟く。
すぐに、机の端に置かれた一冊へいくつもの手が伸びた。しかし、頁を開いてもどこを見ればいいのかすぐには分からない。
「三年前の同じ日の積雪量……」
「今年の現在値もいる」
「どこ?」
「待って、索引――」
紙の擦れる音が急に増えた。
それまで一枚の計画に沿って滑らかに動いていた七人の手が、それぞれ別の資料へ散っていく。
フローレンも気象記録を覗き込んだ。
一度読めば覚えられる。
けれど今初めて開いた資料を、数秒で最初から最後まで読むことはできない。
「三年前は……ここ」
ようやく該当する表が見つかる。
積雪量。
気温。
旧道が使われた日の記録。
「今年の方が少ない」
「じゃあ通れる?」
「待って」
フローレンは表を見た。
似ている。
けれど、同じではない。
積雪量だけなら今年の方が少ない。
それでも、それだけで通行できると決めていいのかが分からない。
何か別の条件がある気がした。
資料のどこかに。
けれど、どこなのか。
昨日までなら、そんなときにはすぐに答えが返ってきた。
『旧道は使える。ただし小型荷車だけだ』
『この時期なら問題ない』
『その条件ならこちらを優先する』
ルシアンの声が、あまりにも自然に間へ入っていた。
だから今まで気づかなかった。
なぜそう言えるのかを、自分たちが知らないまま進んでいたことに。
「次の鐘まで、あと少し」
レオの声が低くなる。いつもの軽さはなかった。
「薬品だけでも出したい。旧道を使える根拠、何かない?」
「過去の輸送記録、まだ探してる!」
「小型二台なら重量は足ります」
「倉庫は通らなくていい?」
「旧道を使うなら南側の中継所を通るはず。でも、あそこって今どのくらい空いて――」
「それ、俺の資料で確認する!」
また一冊が開かれる。
情報はある。
八冊とも、同じ机の上にある。
けれど、それぞれ別の場所に散らばっているものを拾い、一つの判断へ繋ぐまでに時間がかかる。
フローレンは時計を見た。
針が、少しずつ次の時刻へ近づいている。
実際なら。
その言葉が、ふいに胸の奥へ落ちた。
今ここにあるのは、紙と木の駒だ。
薬品を示す青い札も、本物ではない。
けれど地図の先には、第四集落がある。
もしこれが本当の冬だったら。
同じように雪が降り、道が閉じて。
自分たちがこうして資料をめくっている間にも、時間だけは止まらず進んでいくのだろう。
その向こうで薬を待っている人がいたとしても。
「……間に合わせたい」
思わず声が零れた。
レオがこちらを見る。
「うん」
短い返事だった。
その直後、中央管理所の方から足音が近づいてきた。
「――何があった」
ルシアンだった。
席へ戻るより先に、机の上へ散らばった資料と止まっている駒を見て状況を察したらしい。声にはもう、普段よりわずかに強い緊張が混じっていた。
レオがすぐに答える。
「北峠が閉鎖。代替の西側も倒木で大型が通れない。旧道を小型で抜けられないか見てる」
「現在空いてる小型は二台」
荷車担当が続ける。
「第四集落の薬品を先に出したいの」
フローレンも言葉を重ねた。
「今夜分まではあるけど、明日の朝までには――」
「旧道を使う」
ルシアンの返事は早かった。
七人の視線が、一斉にルシアンへ向く。
「使えるの?」
「ああ」
ルシアンは地図へ手を伸ばした。
「今年の積雪量なら問題ない。三年前に旧道を使ったときより少ない。ただし北側から入ると谷沿いの凍結区間を通る。南の中継所を経由して回せ」
「南の中継所、容量は?」
「今は十二荷分空いている。薬品二台なら入る」
「そのあと小型は?」
「第一便が戻るまで、その二台を第四集落専用にする。食料は次便へ遅らせていい。第四は備蓄に余裕がある」
答えながら、ルシアンの指が地図の上を進んでいく。
「メルヴェル、薬品だけで二台分の重量を出せるか」
「できます」
「レオ、南側の便を一つ後ろへずらしてくれ。戻ってくる小型をそちらへ回す」
「分かった」
「街道担当は旧道の南側区間を確認。倉庫担当は中継所の空きを押さえてくれ」
止まっていた手が、一斉に動き始めた。
さっきまであれほど散らばっていた情報が、一本の道筋へ収束していく。
エリナが物資量を書き換える。
レオが進行表をずらす。
地図の上で、薬品を積んだ二台の小さな駒が旧道へ移された。
フローレンも第四集落の到着予定を計算し直す。
「……っ、これなら――」
言いかけた、その瞬間。
鐘が鳴った。
高く澄んだ音が、実習室の中を横切る。
八人の手が止まった。
模擬上の時刻が、半日進んだ。
フローレンは時計を見る。
あと少しだった。
本当に、あと少し。
ルシアンが戻ってからなら、決めるまでほとんど時間はかからなかった。けれどそれまでに使った時間は、なかったことにはならない。
「第一班」
教師が机のそばへ来た。
地図と進行表を見比べる。
「経路変更は成立。ただし、判断が次の時刻へ跨いだため、出発は一段階遅延として扱う」
赤い印が、第四集落へ向かう薬品便の欄へ入れられた。
「到着は翌朝」
その一言に、フローレンの視線が止まる。
翌朝。
頭の中では、すぐに自分が読んだ備蓄表が開いた。
現在量。
一日あたりの使用量。
予定していた到着時刻。
計算するまでもない。
「……足りない」
声が思ったより小さくなった。
隣のエリナがこちらを見る。
「何が?」
「薬品」
フローレンは赤い印を見たまま答えた。
「第四集落、今夜分までしか残ってないから……翌朝だと、その間が空く」
ほんの数時間。
紙の上では、ただそれだけだった。
青い札も減らない。
木の駒の向こうで、誰かが本当に困るわけでもない。
それでも、実際の輸送だったなら。
その数時間を、薬がないまま待つ人がいる。
さっきまで騒がしかった第一班の机だけが、不思議なほど静かになった。
誰かを責める声はなかった。
街道担当も、倉庫担当も、荷車担当も、それぞれ自分にできることをしていた。レオも全体を動かそうとしていたし、フローレンだって分かる範囲で必要な条件を繋いでいた。
それでも間に合わなかった。
ルシアンは赤い印を見つめていた。
紫の瞳が動かない。
やがて教師が、静かに尋ねた。
「ノクティス」
「はい」
「君が戻ってから、判断にはどのくらいかかった?」
ルシアンは一度、時計へ目を向けた。
「……ほとんど、かかっていません」
「そうだな」
教師もそれ以上は何も言わなかった。
赤い印の入った進行表を机へ戻す。
「運用を続けなさい」
次の班へ向かう足音が遠ざかっていく。
第一班でも、止まっていた手が少しずつ動き始めた。
薬品は遅れた。
けれど、ほかの輸送はまだ終わっていない。
今度は遅らせないように、一つずつ確認しながら駒を進めていく。その後、大きな混乱は起きなかった。
北側の閉鎖に合わせて組み直した経路も機能し、食料や暖房用魔石は予定を大きく外れることなく各集落へ届いた。第四集落の薬品便にだけ、遅延を示す赤い印がついていた。
終了を告げる鐘が鳴ったころには、窓の外はもう夕方の色に変わっていた。
教師から運用終了を告げられ、班員たちが一つずつ木の駒を地図から戻していく。
フローレンも第四集落の上に置かれていた青い札を手に取った。
掌に収まるほど軽い。
ただの木片だった。
それでも、さっきまでより少し重く感じた。
向かいでは、ルシアンが一人で進行表を見ていた。その視線は、第四集落の薬品便につけられた赤い印へ落ちていた。
「ルシアン」
呼ぶと、少し遅れて顔が上がった。
「……何だ」
声はいつもとほとんど変わらない。
けれど手元の紙を持つ指には、普段よりわずかに強く力が入っていた。
フローレンは何か言おうとして、まだ言葉を見つけられなかった。
今日、何がいけなかったのか。
誰か一人が間違えたわけではない。
ルシアンの判断だって、戻ってきてからは正しかった。
それなのに、彼がいなかったほんの短い時間だけ、地図の上の駒は確かに止まっていた。
フローレンは机の上を見る。
八冊の資料。
昨日まで何度も、ルシアン一人の前へ集められていたものだった。
その意味が、ようやく少しだけ違って見え始めていた。




