8-4 フローレンの発見
翌日の放課後。
約束どおり、三人は再び中庭へ来ていた。
午後の陽はまだ高く、石畳には枝葉の影が濃く落ちている。風が通るたび木漏れ日の形がゆっくりと崩れ、卓上に広げられた菓子の包みをかさりと鳴らした。
今日は本も問題集もない。
代わりにレオが鞄から取り出したのは、折り畳まれた一枚の盤だった。
「何、それ」
フローレンが覗き込むと、レオは待ってましたとばかりに盤を広げた。
細かな升目の引かれた盤面に、二種類に分けられた小さな駒。
見覚えのあるものだった。
「あ、懐かしい」
「フローレン知ってる?」
「うん。兄が好きだったから」
何気なく答えながら、レオが並べていく駒を眺める。
最後に自分で触れたのは随分前だ。
けれど、家では何度も見かけた。兄が一人で盤を再現していたこともあれば、友人を相手に長い時間向かい合っていたこともある。
幼い自分や弟にルールを教え、時折相手をしてくれたことも、今では懐かしい思い出だ。
「一緒にやろうと思ってさ。ルシアンもやる?」
レオに尋ねられ、ルシアンは盤へ視線を向けた。
「ああ。……だが、僕はルールを知らない」
「え」
フローレンとレオの声が重なった。
今度はルシアンの方が、二人の反応を不思議そうに見る。
「そんなに意外か?」
「かなり」
「なぜだ」
間髪入れずに答えたレオを、ルシアンが不服そうに見る。
「だって、何でも知ってそうじゃん」
「何でも知っている人間はいないだろう」
「それはまあ、そうなんだけどさ」
レオは笑いながら駒を二人分に分けた。
「じゃあちょうどいい。教えるよ」
「複雑か?」
「そんなでもない。一回やれば分かる」
そう言って、駒の動かし方から勝敗の決まりまで順を追って説明していく。
ルシアンは一度も聞き返さなかった。
説明が終わるころには盤全体を見渡し、確認するように一つの駒へ手を伸ばす。
「これはここまで動ける。ただし、この位置に相手の駒があれば先へは進めない」
「そう」
「こちらは斜めだけか」
「うん」
「分かった」
「じゃあ、やってみよう」
レオが満足そうに頷いた。
フローレンは菓子の包みを自分の方へ寄せ、二人の対局を眺めることにした。
最初に駒を動かしたのはレオだった。
盤上に小さな音が落ちる。
続いてルシアンが一手返し、またレオが動かす。
初めの数手は静かだった。
けれど、ほどなくしてレオがするりと一つの駒を進めた。
「あ」
フローレンが声を漏らした直後、ルシアンの駒が一つ盤上から取り除かれる。
ルシアンの眉がわずかに動いた。
「そこから取れるのか」
「うん。一応さっき説明したよ」
「それは分かっている。ただ、そちらを先に動かすと思っていた」
「はは、残念」
楽しそうにレオが次の駒へ指をかける。
その後も、ルシアンは慎重に盤を見ていた。
ひとつひとつの決まりは理解している。
何をすれば勝ちになるのかも、駒がどこまで動けるのかも分かっている。
けれど、どの手を先に選べば数手先で有利になるのかまでは、まだ掴めていないらしい。
一方のレオには迷いがなかった。
盤面だけではなく、向かいに座るルシアンの視線や指先まで見ている。何を狙っているのかを先回りするように手を変え、ときにはわざと隙を見せながら、ルシアンが作ろうとした形をするりと崩していった。
やがて、レオが最後の駒を置く。
「はい、俺の勝ち」
ルシアンは答えなかった。
じっと盤面を見たまま、先ほど自分が動かした駒の位置を順番に確かめている。
「……ルシア――」
「もう一度」
間を置かずに返ってきた言葉に、フローレンは思わず笑った。
「早かったね」
「今のはルールを確認していただけだ」
「負けは負けだからね?」
「……分かっている」
言いながら、ルシアンはすでに駒を元の位置へ戻し始めている。
「そんなに面白かった?」
「さっきのままでは、何を間違えたのか分からない」
「はいはい。じゃあ二戦目ね」
レオもすっかり乗り気になったらしい。
二度目の対局が始まった。
今度は、一戦目とは明らかに違った。
レオが動かした駒に対し、ルシアンの手は先ほどよりずっと早い。同じ形へ誘われても前と同じ手は選ばず、相手の動きを見ながら自分から道を変えていく。
中盤に差しかかったころ、レオが盤を見たまま呟いた。
「……ちょっと待って」
「何だ」
「さっき初めてルール聞いたんだよね?」
「ああ」
「なんで普通に先を読んでくるの」
「一度やったからだろう」
当然のように返すルシアンに、レオが何とも言えない顔をした。
それがおかしくて、フローレンは小さく笑う。
けれど、次第にその視線は二人の表情ではなく、盤上へ引かれていった。
ひとつの駒が動く。
その場所に、覚えがあった。
――この形。
兄の部屋で見た本の一頁が、記憶の中にそのまま開く。
盤面を上から描いた図。脇に並ぶ細かな記号。頁の端へ置かれた兄の指先。
『この形になると、ここからが面白いんだ』
あの日の声まで、今この場で耳にしたかのように鮮明に思い出される。
あの対局では、次に左側の駒が動くから――。
そう考えたところで、レオが別の駒を進めた。
「あれ」
「ん?」
レオがこちらを見る。
「ううん、何でもない」
フローレンは首を振り、再び盤面へ視線を戻した。
知っている対局とは、もう違っている。
けれど眺めているうちに、今度は別の盤面が頭に浮かんだ。
よく似ている。
ただし、そちらではこの位置に駒が一つ多かった。
なら、同じ手順にはならない。
けれどその駒がないのなら、代わりにこちらを先に動かせる。
そうすれば、その先は――。
盤上で駒が鳴る。
ルシアンが、ちょうどフローレンの考えていた場所へ一手を置いた。
別々だった二つの盤面が、頭の中で不思議なくらい自然に重なる。
あの対局なら次はこちら。
そのまま進めばレオが受ける。
それなら、先に反対側を動かした方がいい。
気づけば、フローレンは手にしていた菓子を食べるのも忘れて盤を追っていた。
「……フローレン」
「え?」
名前を呼ばれて顔を上げる。
盤の向こうから、レオがこちらを見ていた。
「やる?」
「私?」
「うん。見てるばっかりじゃつまらないでしょ」
言われてみれば、いつの間にか菓子を持つ手まで止まっていた。
一手動くたびに盤を追い、時折声まで漏らしていたのだから、レオには自分もやりたがっているように見えたのかもしれない。
「これが終わったら、次やろ。いいよね、ルシアン」
「ああ、構わない」
そう言って、二人は再び盤へ向き直った。
二戦目は、一戦目よりずっと長く続いた。
途中、一度はルシアンが優勢になったように見えたものの、最後に勝ったのはやはりレオだった。
「はー……勝った勝った」
最後の一手を置いたレオが、背もたれへ体を預けるようにして息を吐く。一戦目は危なげのない勝利だったのに、今度は終盤までほとんど気が抜けなかったらしい。
それとは対照的に、負けたルシアンは平然とした顔で盤を見つめていた。自分とレオの駒を順に辿りながら、終わったばかりの局面を頭の中で確かめているようだった。
「なるほど、そういうことか」
「何がなるほどだよ。俺が勝ったんだけど」
「分かっている」
「もう少し悔しそうにしてもいいよ?」
少しからかうように言われ、ルシアンがようやく盤から顔を上げる。
「悔しくはない。次は勝つからな」
レオが一度瞬きをした。
「あ、実は結構悔しがってるやつだ、これ」
「悔しくはないと言っている」
即座に返ってきた言葉にレオが笑い、フローレンも堪えきれずつられるように笑った。
レオはそのまま駒を集めると、半分をフローレンの前へ置いた。
「はい、どうぞ」
「本当にやるの?」
「やろうよ。ルールは知ってるんだよね?」
「うん」
フローレンは少し迷ってから、盤の前へ座り直した。
「でも、私、自分でやったことはほとんどないよ」
「そうなの?」
「昔、兄にルールを教えてもらいながら少しやったくらい。全然勝てなかったけど」
「そっかそっか。まあ、遊びだし気楽にやろ」
そう言って、レオは慣れた手つきで駒を並べ直していく。ルシアンも二人の間にある盤へ視線を向けていた。
「じゃあ始めよ」
レオの一手で、対局が始まった。
最初の数手は、フローレンの知っている形だった。昔何度も見た始まり方で、次に来る手も、その次も知っている。
迷うことなく駒を動かすたび、レオの返した一手から、記憶の中にある似た盤面が浮かび上がった。
数手が進んだところで、それまで軽い調子で駒を動かしていたレオの手が止まる。
「……フローレン」
「何?」
「本当に……あんまりやったことない?」
「うん」
レオが無言でルシアンを見る。
しかしルシアンは盤へ視線を向けたまま、二人の対局を真剣な眼差しで追っていた。片手を顎に添え、ときおり何かに気づいたように視線を動かしている。
「ほらレオ、はやく次の手を打て」
「いや、お前が言うなよ」
レオはそう返しながら、少し悩んで次の一手を置いた。
これまでの基本的な流れからは少し外れた場所だった。
ぴた、とフローレンの指が止まる。
今まで頭の中で辿っていたものとは違う。知っている対局なら、そこへは置かない。
「んー……」
盤全体を見渡し、目の前の一手に似たものはないだろうかと記憶を探る。
すると、ふと別の対局が脳裏に浮かんだ。
そちらも完全に同じではない。駒の数も違えば、位置も少しずれている。
けれど、似たところはある。
そこからもう一つ、さらに別の盤面が重なった。
それなら、これはどうだろう。
「……こう、かな」
駒を置く。
乾いた音が小さく響いた。
レオが瞬きをし、ルシアンの視線も動いた駒を追う。
「なるほど」
「え?」
今度はレオが盤を見渡した。
「……待って」
「なに?」
「ちょっと考える」
レオは顔にかかる赤髪をかき上げると、邪魔にならないよう耳にかけた。赤みが混じった琥珀の瞳が、わずかに真剣な色を帯びる。
そして先ほどまでより長く時間をかけて、次の手を選んだ。
けれど、その形にもどこか覚えがあった。
覚えているものと、目の前にあるものは違う。
その違いが、今は分かる。だったら、同じように動かす必要はない。
こちらを先に。
レオが塞げば、次は反対へ。
一つの対局をそのまま辿るのではなく、浮かんでは消えるいくつもの盤面から、今使えそうなものだけを拾っていく。
気づけば、フローレンの手から迷いはほとんど消えていた。一方で、レオの表情からは最初にあった余裕が少しずつ失われていく。
「……そこ?」
「うん」
「本当に?」
「うーん、多分」
「多分でいきなりそんなとこ置ける?」
言いながらも、レオは盤から目を離さない。
フローレンも考える。
次の手。
その次。
かつて見た盤面と、今ここにある盤面。
似ているところと、違うところ。
それらを追っているうちに、いつしか中庭の話し声も、風に鳴る葉の音も遠くなっていた。
そして。
最後の一手を置く。
盤上で駒が小さく鳴った。
「……終わり、かな?」
フローレンが首を傾げる。
レオは盤を見たまま動かなかった。
「レオ?」
「…………」
「ねえ、レオってば」
フローレンの問いかけにも、今度ばかりは反応がない。
レオは自分の駒を一つずつ確かめ、逃げ道を探すように盤上へ視線を巡らせた。
もう動かせる場所が残っていないように見えたが、もしかしたら自分が見落としているだけかもしれない。
珍しく真顔で考え込むレオの邪魔をしないよう、フローレンは同じように盤を眺めながら待った。
やがてレオが、諦めたように背もたれへ体を預ける。
「……ない。俺の負け」
その言葉を聞いて、フローレンは改めて盤面を見つめた。
昔は兄を相手に、何度やっても負けていたはずなのに。
「……私、勝ったんだ」
「ああ」
横からルシアンの声が返る。
紫の瞳はまだ盤上へ向けられていた。
「最後の数手で、完全に逃げ道を塞いでいる」
言われて、フローレンは自分が動かした駒を順に目で辿った。こうして出来上がった盤面を眺めると、どこか自分のものではないようにも見える。
「……ほんとだ」
「なんで勝った本人が一番驚いてるの」
向かいから、レオが呆れたような声を上げた。
「でも、実際にやったのは数回なんだよね?」
先ほど聞いた話を確かめるように、レオが尋ねる。
「うん。自分でやったのはそれくらい……あ、でも」
答えかけたところで、フローレンは一つ思い当たった。
「横ではよく見てたよ」
「見てた?」
「うん。兄がこの遊びをすごく好きだったの。家でもよく対局してたし、対局の記録を集めた本もかなりたくさん持ってて。それも自由に読ませてもらってたから」
アストリア商会は、各地に広く取引先を持っている。兄がこの盤上遊戯を好きだと知っていた家族が、珍しい記録や古い対局集を見つけるたびに取り寄せていたのだろう。
そうして集まった本は、いつの間にか兄の部屋の書棚を埋めるほどになっていた。
フローレンもそこへ自由に出入りしては、目についたものを片端から読ませてもらっていたものだ。
実家の膨大な蔵書を懐かしく思い返していると、向かいのレオの表情が少しずつ変わっていった。
「お兄さんの対局を、よく見てたんだよね?」
「うん」
「それで、対局の記録本も読んでた?」
「うん」
「……どのくらい読んだ?」
聞かれ、フローレンは記憶の中の書棚を思い浮かべた。
分厚い対局集も、古い記録本も、小規模な大会の対局をまとめた薄い冊子もある。広く出回っているものから、地方で手に入れたという貴重本までその種類は多岐に渡る。
「えっと、千二百十七冊」
「千二百……なんて?」
「千二百十七冊。当時、兄の部屋にあったものは全部読んだから」
「……全部?」
「うん」
「聞くまでもないけど、どのくらい覚えてる?」
「全部」
レオが黙った。
しばしの沈黙のあと、レオがゆっくりとルシアンを見る。
ルシアンは驚いてはいなかった。
ただ静かに、どこか納得したように盤へ視線を戻した。
「それ先に言ってよ……」
「でも、ただ覚えてるだけだよ?」
「およそ千二百冊の対局記録を全部覚えてるのを、『だけ』で済ませる?」
レオの返しに、フローレンは首を傾げる。
「本当に、昔は全然できなかったの。兄が本に載ってる通りに動かしてくれたら分かったけど、途中で違う手を置かれたら、その先が分からなくなってたから」
「今日も途中で、わざと少し定石から外してみたんだけど」
「うん」
フローレンは改めて、対局を終えた盤へ目を向けた。
「あのときも、一回分からなくなったよ」
「……その割には、すぐ戻ってきたよな」
「似てる形を探したら、別の対局がいくつか浮かんできたから。それを繋げてみたら、なんとなく次が分かって」
言葉にしながら、つい先ほど頭の中で起きていたことを辿っていく。
一つの盤面だけでは足りなかった。
だから別の対局を思い出して、似ているところを探した。その形も途中で合わなくなれば、また別のものを重ねた。
「でも、それも途中から合わなくなったから……最後の方は、今の盤を見て考えた」
そこまで話して、フローレンは口を閉じた。
何気なく顔を上げると、ルシアンと目が合う。
紫の瞳にはどこか柔らかな光が浮かんでいた。
「……そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
けれどその短い声は、なぜか少し嬉しそうに聞こえた。
「もしかすると私……こういうの、得意なのかもしれない」
「こういうの?」
「局面の形をたくさん覚えて、その中から使えそうなものを繋げて考えるような盤上遊戯」
レオが一度盤面を見る。
「……あー」
妙に納得した声が漏れた。
「それは間違いなく得意だね」
そう言いながら、レオは改めて自分が負けた盤面を眺めた。
やがて何か重大な問題に気づいたように、すっと表情を引き締める。
「つまりさ」
「なに?」
「今のフローレンに、これの新しい対局記録を読ませたら駄目ってことだ」
「なぜだ?」
横からルシアンが真顔で聞き返した。
レオも同じくらい真剣な顔で答える。
「俺が勝てなくなるから」
一拍置いて、フローレンが吹き出した。
「そこ?」
「大事だろ」
「すでに一度負けているが」
容赦なく差し込まれたルシアンの一言に、レオの顔が引きつる。
さっきまで散々ルシアンをからかっていた姿を思い出し、フローレンは笑いながら口を挟んだ。
「もう少し悔しそうにしてもいいよ?」
「んー。悔しくはない、次は勝つから」
どこかで聞いたばかりの言い回しだった。
次はルシアンの眉がぴくりと動く。
「……おい、レオ」
「あはは、ばれたか」
悪びれもせず笑うレオに、フローレンもまた声を立てて笑った。
笑いが収まるころ、レオが盤上の駒へ手を伸ばした。
その手を、横からルシアンが止める。
「待て」
「何?」
「次は僕とやろう」
向けられた視線に、今度はフローレンが瞬きをした。
「私と?」
「ああ。まだ対局していないからな」
それだけ言うと、ルシアンはすでに自分の側へ駒を戻し始めている。
レオはその様子をしばらく眺めたあと、堪えきれないように笑った。
「ずいぶんやる気だね」
「せっかくルールも分かったんだ。もう少し試してみたい」
「はいはい。じゃあ俺は見てるよ」
フローレンも笑いながら、自分の駒を並べ直した。
「じゃあ、やろうか」
「ああ」
四度目の対局が始まった。
今度はレオが盤の脇から二人の手を眺めている。
わずか二戦を終えただけだというのに、ルシアンの指す手は最初のころとは随分変わっていた。一度経験した形には迷わず、似た局面でもそのまま同じ道を選ぶことはない。
フローレンも、先ほどのように一つの対局を頭から辿ろうとはしなかった。
ルシアンが駒を動かすたび、記憶の中からいくつもの盤面が浮かぶ。その中から今の形に近いものを拾い、目の前の駒と見比べながら次の手を探していく。
フローレンが一手置くと、ルシアンは盤面を見渡してから別の駒へ指を伸ばした。
乾いた音が重なる。
少し考えて、一手。
それを受けて、また一手。
二人の間を行き来する駒の音は、次第に一定の間隔を失っていった。すぐに返すこともあれば、どちらかが長く盤を見つめることもある。
フローレンの頭には、ルシアンが動かすより先にいくつかの形が浮かぶようになっていた。
そのどれとも違う手が来れば、また盤全体を見直せばいい。
向かいのルシアンも同じように、目の前の局面そのものを楽しんでいるようだった。
けれど、勝敗が決まるより先に、中庭へ鐘の音が響いた。
澄んだ音が校舎の壁に触れ、木々の間へ長い余韻を残していく。
「……あ」
フローレンが顔を上げた。
いつの間にか陽は大きく西へ傾いている。卓上へ落ちていた枝葉の影も長くなり、昼間の暖かさを含んでいた風には夕方の涼しさが混じっていた。
「もうこんな時間?」
レオが空を見上げる。
一方、ルシアンの視線はまだ盤上に残ったままだった。
「……あと少しで決まりそうなんだが」
「駄目だよ。戻らないと」
「ここからなら――」
「続きは今度にしよう?」
フローレンが笑いながら言うと、ルシアンは一度盤面を見て、それから仕方なさそうに駒から手を離した。
「……分かった」
あからさまではないものの、名残惜しそうなのは十分に伝わってくる。
レオがすかさず笑った。
「そんな顔しなくても、また持ってくるって」
「そんな顔はしていない」
「してたよ」
「してない。そもそもどんな顔だ」
フローレンまで加わると、ルシアンは何か言いたそうに二人を見た。
けれど結局反論はせず、黙って駒を集め始める。
「じゃあ、次は今日の続きからね」
「ああ」
「そのあと俺。今度こそはフローレンに勝つ」
「うん。楽しみにしてる」
三人の手で、盤上から駒が一つずつ消えていく。
最後の駒を箱へ収めると、レオが盤を折り畳んだ。手つかずのまま残っていた菓子も包み直し、三人は揃って席を立つ。
中庭をあとにして校舎を抜けるころには、夕暮れの光が石造りの壁を淡く染めていた。
開け放たれた窓から入る風が廊下を通り抜け、熱の残る頬に心地よく触れる。
寮へ続く道へ出ても、話題はまだ先ほどの対局から離れなかった。
「あの途中、俺はルシアンの方が少し有利だったと思うんだけど」
「何を根拠に言っている」
「見てた感じ」
「根拠なしってことだな」
レオが肩を竦めて、フローレンを見る。
「フローレンは?」
「え、私?」
問いかけられ、途中で片づけた盤面を頭の中に浮かべる。
「……あのあと私はこっちに置いて、そうしたらルシアンは多分こっちに置くから……」
そこまで口にすると、レオが笑い出した。
「もう続き始めてるじゃん」
「だって聞いたのレオでしょう?」
「そうなんだけど。ちょっと遊ぶだけのつもりが、すっかりハマったね」
「……そうかも」
言われてみれば、その通りだった。
昔は兄が遊ぶのを横から眺めていた盤上遊戯が、今日は時間を忘れるほど面白かった。
次に盤を広げたら、今度はどんな形になるのだろう。
「フローレン、さっきの続きを聞かせてくれ」
「あ、えっとね。ルシアンがこっちに置いたら、私はこっちの駒をここに移動させるから――」
「ちょ、ちょっと待って。ほんとに続き始めないで」
真面目な顔で続きを待っていたルシアンに促され、フローレンは途中になっていた対局をそのまま言葉の上で再開する。
レオも慌てて二人の言葉を拾い、目の前にはない盤面を追おうとする。けれど二人が示す駒の位置をひとつ辿るころには、対局はもう次の一手へ進んでいた。
「……だから待ってって……!」
とうとう上がった抗議の声に、フローレンとルシアンが揃って振り返る。
その顔を見合わせ、今度は三人で笑った。
並木道へ伸びた三人の影は、歩くたび少しずつ形を変えていく。
木々を渡る風に夕暮れの葉音が重なり、その中を三人の声が途切れることなく続いていた。
次にあの盤を囲む日がいつになるのかは、まだ決まっていない。
けれど帰り道で交わされる話は、もうすっかりその日の続きを向いていた。




