9-1 合同実習①
夏の名残がようやく遠のき、学院にも秋が深まり始めていた。
朝夕の風には薄い冷たさが混じり、中庭の木々も少しずつ色を変えている。長く校舎に留まっていた陽も傾くのが早くなり、放課後になれば石造りの廊下へ伸びる影にも、どこか冬へ向かう気配が滲んでいた。
それでも三人の放課後は、以前とそう変わらなかった。
同じ自習室へ集まり、勉強をする日もあれば、本の話をしているうちに時間が過ぎる日もある。レオが盤上遊戯を持ってきた日は、結局一問も開かないまま鐘が鳴ったことさえあった。
フローレンがルシアンを名前で呼ぶことにも、もうほとんど迷いはない。丁寧な言葉遣いだけは今もときどき混じるものの、そのたびに慌てて直すこともなくなっていた。
そんな秋のある日、三年生を対象とした合同実習が行われることになった。
指定された大実習室へ入ったフローレンは、机の上に積まれたものを見て足を止めた。
「……資料?」
分厚い冊子が、何冊も重ねられている。
授業で使う教本とは違い、濃色の表紙には番号と題名だけが簡素に記されていた。地図を綴じ込んだものもあれば、閉じた状態でも頁の端から細かな表が覗いているものもある。
「結構あるね」
隣からレオが覗き込む。
「何に使うんだろう」
「さあ……」
フローレンは一番上の表紙へ目を落とした。
《北部山間地域 冬季気象・積雪記録》。
その下には、《主要街道・橋梁状況》《集落別人口及び備蓄状況》と続いている。
どれも、まったく馴染みのない分野ではない。街道の扱いや冬季輸送については、これまでの授業でも基礎を学んでいた。
けれど、これだけの資料を使って何をするのかはまだ分からない。
「フローレン」
声に顔を上げると、少し先でルシアンがこちらを見ていた。
「あ、ルシアン」
「班分けが出ている。僕たちは第一班らしい」
「一緒?」
「ああ」
教卓脇へ貼り出された紙には、八人ずつの名前が並んでいた。
特進、第一、第二、第三。
各クラスから二人ずつになるよう組まれている。
第一班の一番上にはルシアンの名があり、その下にレオ、第一クラスの二人、フローレンとエリナ、そして第三クラスから選ばれた二人の名が続いていた。
「エリナも一緒だ」
「本当ね」
少し遅れて紙を見に来たエリナが、フローレンの隣で名簿を確認する。
「見知った顔触れが多くて助かるわ」
「エリナ、レオやルシアンと直接関わるのは初めてだよね」
「ええ」
それを聞いたレオが、すぐにエリナへ顔を向けた。
「よくフローレンと一緒にいるのを見かけてたから、初めましてな気がしないね。俺はレオ・ルベライト。よろしく、エリナ」
「初めまして、ルベライトさん。そう言っていただけて光栄です。日頃からフローレンに、お二人のお話はよく伺っております」
きれいに返された挨拶に、レオが一度目を瞬いた。
「……待って。思ったより遠いな、距離感」
フローレンは思わず笑う。
「フローレンの友達なら、もう俺の友達じゃない?」
「レオはそういうところあるよね」
「どういうところ?」
「友達の友達は、もう友達だと思ってるところ」
「違うの?」
「少なくともエリナの中で、レオはまだ『友達から名前をよく聞く、顔を知ってる同級生』あたりだよ」
レオは数秒黙ったあと、胸元へ手を当てた。
「俺、まだ友達じゃないんだ……」
大げさに肩を落とす。
その様子を見たエリナの口元から、堪えきれなかったように笑みが零れた。それまできちんと揃っていた肩も、ほんの少しだけほどけている。
その向こうで、ルシアンは名簿の右端に記された小さな印を見ていた。
「……僕が班長か」
「ほんとだ」
目をやれば、ほかの班にもそれぞれ一人ずつ同じ印が付けられている。
「まあ、話し合いで決めても結局ルシアンになっただろうね」
レオの言葉にも、ルシアンはすぐには返さなかった。
もう一度名簿へ目を落とし、そのまま何か考え込むように視線を留めている。
「……嫌?」
フローレンが尋ねると、ルシアンは顔を上げた。
「そうは言っていない」
短く返してから、もう一度班員の名前へ目を通す。
その横顔に、困った様子も気負った様子もない。名簿を見つめる紫の瞳には、もう任された役目の先を考え始めているような静けさがあった。
ほどなくして開始を告げる鐘が鳴った。
八人が一つの大きな机を囲む。
卓上には先ほどの資料八冊と、大きな北部地域の地図、それから計画を書き込むための紙が数枚置かれていた。教室の前方にも同じ地図が広げられている。
「では、始めよう」
教師の声に、実習室のざわめきが収まった。
「今回の合同実習では、冬季の物資輸送計画を立ててもらう」
指示棒の先が地図の中央を辿る。
平地を通る幹線道路から枝分かれするように、いくつもの街道が北の山間部へ伸びている。その先には四つの集落があり、途中には橋や峠、中継倉庫を示す印が点在していた。
「冬を迎える前に、四つの集落へ必要な物資を運び込む。食料、薬品、暖房用の魔石。そのほか、冬を越すために必要なものも含まれる」
教師が机上の資料を一冊持ち上げる。
「集落ごとに必要量は違う。街道によって通行可能な荷車の大きさも異なる。積雪の時期も、倉庫の容量も同じではない。過去には事故や天候によって予定を変更した記録もある」
資料の頁が開かれた。
「必要な情報は、この八冊に分かれている」
フローレンは自分たちの机へ目を落とした。
一冊目は気象と積雪。
二冊目は街道と橋。
三冊目は集落ごとの人口と備蓄。
四冊目は中継倉庫。
五冊目は荷車と輸送隊の運用。
六冊目は物資ごとの必要量と優先順位。
七冊目は過去の事故や遅延。
最後の一冊には、過去数年に実際に組まれた輸送記録がまとめられている。
「どの道を使うか。どこで荷を分けるか。何を優先して運ぶか。八人で一つの計画を作りなさい」
そこまでなら、これまでにも似た課題はあった。けれど教師は資料を閉じず、そのまま続けた。
「なお、計画を提出して終わりではない」
室内の空気がわずかに動く。
「二日後、完成した計画をもとに模擬運用を行う。輸送開始後に状況が変化した場合には、その場で班として対応を決めてもらう」
フローレンの視線が、黒板の地図へ戻った。
「実際の輸送では、最初に立てた計画の通りに物事が進むとは限らないからな」
指示棒の先が、山間部を走る細い道の一つへ触れる。
「雪が早く降ることもある。道が塞がることもあれば、橋や荷車が使えなくなることもある。――それを含めて、輸送だ」
声そのものは淡々としていた。けれど教科書の問題を説明されているときとは、少し違って聞こえた。
地図の先に描かれているのは、四つの集落。
これはもちろん演習だ。机の上でどんな判断をしても、本当に薬が届かなくなるわけではない。それでも、教材に使われている記録は実際の冬季輸送を簡略化したものだという。
雪で道が閉じれば、その向こうにも人がいる。
暖房用の魔石が届かなければ、寒さの中で待つ人がいる。
薬品の到着が遅れれば、その一日が何を意味するのかも変わる。
そこまで考えたところで、フローレンは卓上の資料へ目を戻した。先ほどまで単に分厚く見えていた八冊が、少しだけ違うものに見えた。
「班長は、計画全体と班内の進行を管理すること。進め方はこちらから指定しない」
教師が実習室を見渡す。
「では、始めなさい」
途端に、あちこちで資料を開く音が重なった。
第一班でも、八人分の視線が自然とルシアンへ集まる。
「……とりあえず全部読む?」
最初に口を開いたのはレオだった。
「八人いるし、一冊ずつならちょうどいいよね」
「ああ。僕もそう思う」
ルシアンは八冊を机の中央へ並べた。
「その前に、最後に何を決める必要があるかだけ揃えておきたい」
大きな地図を八人の中央へ引き寄せる。
「四つの集落へ、必要な物資を期限までに届ける。そのために決めるのは、運ぶ量、経路、輸送隊の分け方。それから中継地点の使い方だろう」
「優先順位も必要ですね」
エリナが言う。
「全部が同時に運べない場合、何を先にするか」
「そうだな」
ルシアンが紙の端へ項目を書き加える。
「まずは各自、一冊ずつ見よう。全部を書き写す必要はない。計画に関係しそうな情報を拾って、あとで共有する」
「了解」
八冊の資料が、一人ずつの手元へ分かれていく。
フローレンの前に置かれたのは、《集落別人口及び備蓄状況》だった。隣のエリナには物資別の必要量。レオは事故・遅延記録、ルシアンは気象と積雪を取る。残る四冊も、それぞれの班員へ渡されていった。
さっきまでひとところに積まれていた資料が、八つに分かれる。
フローレンは表紙を開いた。
四つの集落の人口に、現在残っている食料。薬品の種類や量、暖房用魔石の保有数に加え、昨冬の消費量まで頁を跨いで記録されている。
一度目を通せば、内容はいつも通り鮮明に残った。
第一集落は食料に余裕があるが、暖房用魔石は少ない。第二集落では昨年より人口が増えている。第四集落の薬品備蓄は、ほかより明らかに少なかった。
知っていることは次々と増えていく。
けれど今必要なのは、覚えたものを全部並べることではなかった。
――何が、計画に必要?
フローレンは頁を一枚戻した。
第四集落は薬品の備蓄が少ない。昨冬の平均使用量と比べれば、予定されている輸送日までに不足する可能性がある。
「……ここは、早めがいいかも」
小さく呟き、紙へ短く書き留める。
その先を読み進めるうちに、机の周囲からも少しずつ声が上がり始めた。
「この橋、冬に入ると荷重制限が変わるみたいです」
第一クラスの生徒が、街道資料から顔を上げる。
「時期は?」
ルシアンがすぐに尋ねた。
「最初の本格的な積雪のあとです。ただ、毎年同じ日ではなくて……」
「なら、僕の方で積雪時期を確認する」
そう答えて、自分の資料へ戻る。
少しして、今度はレオが声を上げた。
「北側の峠、毎年何かしら起きてるね」
「事故か?」
「事故もあるけど、閉鎖の方が多い。早い年だと初雪から二週間も経たずに通れなくなってる」
「予定日と重なる可能性があるな」
ルシアンが地図の北側へ目を向ける。
別の場所では、中継倉庫を担当した第三クラスの生徒が、荷車担当の生徒へ容量を確かめていた。
誰かが見つけた一つの条件へ、別の資料から新しい条件が重なる。それぞれの前に開かれているのは一冊ずつでも、八人の声を通して、少しずつ地図の上へ使える道と使いにくい道の違いが浮かび始めていた。
その感覚が、フローレンには面白かった。
一冊の中だけでは決まらなかったものが、別の情報と繋がることで形を持っていく。
フローレンはもう一度、自分の資料へ目を戻した。
しばらくして、最初の共有が始まった。一人ずつ、自分の担当から必要だと思った情報を出していく。
「第四集落は薬品を優先した方がいいと思う」
フローレンは自分の紙を地図のそばへ置いた。
「今の備蓄だと、予定している輸送期間の途中で不足する可能性が高いから。第一集落は食料に余裕があるし、そっちを後ろへ回せば、先の便に薬品を入れられると思う」
「物資の必要量から見ても、そうね」
エリナが自分の資料を確認しながら切り出す。
「第四集落向けの薬品は、優先度が一番高く設定されているものが多いわ」
「じゃあ、最初の便に入れよう」
ルシアンが計画紙へ書き込む。
レオの事故記録からは、北側の峠を主経路にする危険が見つかった。街道担当の資料では、西回りなら距離は増えるものの冬季の閉鎖が少ない。ただし西側の中継倉庫には大型荷車が入れず、途中で積み替える必要があるという。
「小型荷車の数は?」
「全部で六台。ただ二台は南側の集落へ使う予定にした方が効率がいいと思います」
「なら、第四集落分を二台で先に西へ回して……」
「待って」
レオが地図へ手を伸ばした。
「西回りって、去年一回だけ橋が使えなくなってる」
「原因は?」
「増水。雪じゃないけど」
「この時期なら?」
「……記録上は少ない。ただ、絶対ないとは言えない」
ルシアンはすぐには答えず、地図とそれぞれの紙を見比べた。
「それなら今の段階では西回りを第一候補にしよう。ただし、橋が使えない場合の代替経路も一つ用意しておきたい」
その言葉に何人かが頷き、再び手元の資料へ視線が散る。
そうして一つずつ、計画が形になっていった。
ルシアンが一人で決めているわけではない。必要なことを尋ね、出された情報を聞く。別の資料と合わなければ、その担当者へ確かめながら、八人の紙に散らばっていた情報を机の中央の一枚へ集めていく。
「思ったより早く形になったね」
レオが椅子の背へ軽く身体を預けた。
机の中央には、まだ粗いながらも一本の輸送計画ができている。
「班長が優秀だからじゃない?」
第一クラスの生徒が、出来上がった紙を眺めながら言った。
「俺たちも働いたんだけどなあ」
「もちろん、それも含めて」
机の周りに、小さな笑いが広がった。
ルシアンだけは特に反応せず、出来上がった計画へ目を落としている。
「まだ大まかな形だけだ。明日、もう少し詰めた方がいい」
その言葉に、フローレンも計画紙を見直した。
今のところ、大きくおかしなところは見当たらない。それぞれが一冊ずつ読み、必要だと思った情報を持ち寄り、その中から使えるものを選んで一つの計画へ繋げた。
きちんと八人で作ったものだった。
実習の終わりが近づき、教師から今日はそこまでにするよう声がかかった。あちこちで紙をまとめる音が重なる。
「資料は二日後の模擬運用まで、班ごとにこの実習室で使用して構わない。持ち出しは禁止だが、放課後も教室は開けておく」
その説明を聞きながら、フローレンも自分の資料を閉じた。
「じゃあ、明日また続きを見ればいいね」
エリナが紙を揃える。
「そうだな」
ルシアンも答え、中央の計画紙を重ねた。
フローレンは自分が担当した一冊を、ほかの資料と同じ場所へ戻そうとする。
「フローレン」
「ん?」
「それ、少し借りてもいいか」
差し出すと、ルシアンが受け取った。
「何か確認するところあった?」
「いや。君のまとめは分かった」
そう言いながら、表紙を開く。
「僕も一度、資料そのものを見ておこうと思って」
「私、内容は全部覚えてるよ?」
何気なく言うと、ルシアンは顔を上げた。
「分かっている。フローレンが覚えているかどうかを疑っているわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「最終的にこの計画をまとめるのは僕だから」
当然のことを説明するような声音だった。
「使った資料に何が書かれていたのかは、僕自身も把握しておきたい」
フローレンは一度瞬きをした。
言われてみれば、どこかルシアンらしい気もする。人に任せたものでも、最後に自分でも確かめておきたいというのは、それほど不思議なことには思えなかった。
「そっか。じゃあ、ここ」
自分が特に使った頁を示そうとすると、ルシアンは小さく首を振った。
「いや。最初から見る」
「最初から?」
「ああ」
フローレンが何か返すより先に、隣からレオが口を挟んだ。
「じゃあ俺のも読む?」
「そのつもりだ」
「全部?」
「ああ」
レオは一度、机の上の資料を見渡した。
「八冊あるけど」
「知っている」
あまりにも普通に返され、レオが小さく笑う。
「まあ、ルシアンなら読むか」
事故記録の冊子が一冊、ルシアンの前へ置かれた。それを合図にしたように、ほかの班員たちも自分の資料を元の場所へ戻していく。
一冊。
また一冊。
さっきまでは八人の前に一つずつ開かれていた資料が、今度は少しずつ同じ場所へ集まっていった。
「俺たちは先に戻るけど、ルシアンは?」
「もう少し見てから行く」
レオは何か言いかけたものの、結局「了解」とだけ返した。
エリナたちもそれぞれ帰り支度を終え、教室を出ていく。フローレンも鞄を肩へ掛けたところで、一度だけ振り返った。
広い机の向こう。
秋の夕方の光が窓から斜めに差し込み、ルシアンの前へ積まれた資料の背を淡く照らしている。
八人で読んだ、八冊。
その一番上を取り、ルシアンは静かに表紙を開いた。
最初の頁からだった。




