8-3 フローレンの友達
翌日の放課後。
最後の授業を終えた生徒たちが、それぞれの行き先へ散り始めるころだった。
フローレンは返却する本を腕に抱え、図書室へ続く廊下を歩いていた。
開け放たれた窓から入り込む風には、昼間より少しだけ涼しさが戻っている。傾き始めた陽が磨かれた床へ斜めに差し込み、行き交う生徒たちの影を細長く伸ばしていた。
「フローレン」
後ろから名前を呼ばれ、足を止める。
振り返ると、少し離れたところからルシアンが歩いてきていた。
「あ、ルシアン」
名前は、ごく自然に口をついて出た。
昨日はまだ、名前を呼ぶたびにほんの少しだけ意識していた。
けれど今は、考えるより先にその名が声になった。
呼び慣れたというにはまだ早い。それでも、中庭で初めて口にしたときよりはずっと自然だった。
そのことがなんとなく嬉しくて、フローレンは小さく笑った。
「図書室か?」
「うん。これ返そうと思って」
腕の中の本を少し持ち上げて見せる。
昨日も三人で話題にした長編小説だった。
「ルシアンも図書室?」
「ああ。少し本を見ようと思っていた」
「じゃあ、一緒に行こう」
「ああ」
それだけで、二人は再び歩き出した。
「そういえば、レオは?」
「教師に呼ばれている。終わったら先に自習室へ行くそうだ」
「そっか」
なら、図書室へ寄ってから向かえばちょうどいい。
話がひと区切りしても、二人の歩調は揃ったままだった。
廊下を吹き抜ける風に、遠くの話し声や階段を下りていく足音が混じる。その中に二人分の靴音も重なり、同じ速さで図書室へ向かっていった。
重い扉を開くと、外とは違うひんやりとした空気が頬に触れた。
紙と古い革、それから長い年月を吸い込んだ木の匂い。
高い窓から差し込む午後の光は薄く、幾列も並ぶ書架の間へ細長く落ちていた。光の筋には小さな埃が浮かび、誰かが頁をめくるたび、乾いた音が静けさの中へ柔らかく溶けていく。
抱えていた本を返却台へ置いたフローレンが振り返ると、ルシアンは少し先の書架を眺めていた。
返却台を離れ、書架の間に立つ彼のそばへ向かう。
「何を借りるの?」
「まだ決めていない」
「決めてないの?」
思わず聞き返すと、ルシアンが振り向いた。
「……? 何かおかしいか」
「ううん。ただ、ルシアンって借りる本まで最初から決めて図書室に来そうだから」
何かをするときには目的があって、必要なものがあれば迷わずそこへ手を伸ばす。図書室へ来るときでさえ、読む本も探す棚もあらかじめ決めている。
フローレンの中のルシアンはそういう印象だった。
しかし今日は、何を読むか考えるためにここへ来たらしい。ほんの少し意外な姿だった。
ルシアンはまだ腑に落ちないような顔をしていたが、それ以上は何も言わず、再び書架の奥へ歩き出した。
向かった先は、授業の参考書や魔法理論の専門書が並ぶ一角ではなかった。
背表紙の色も厚さもさまざまな、物語の本が集められた棚だった。
ルシアンが物語を読むこと自体は、昨日すでに知っている。
けれど、こうして自分から物語の棚へ向かい、一冊ずつ本を眺めている姿を見ると、会話の中で聞いただけのときとは少し違って見えた。
ルシアンは書架の前をゆっくりと進んでいく。
並んだ背表紙を順に眺め、時折足を止めては、また次へ移っていく。
普段の彼には、必要なものを迷いなく選び取る姿の方がずっと馴染み深い。
だからだろうか。
どれを読もうかと、時間をかけてじっくり棚を眺めている姿が、フローレンには少し新鮮だった。
やがて、ルシアンの手が一冊の本へ伸びた。
深い色の表紙には細かな擦れが残り、角もわずかに丸みを帯びていた。長く人々に触れられてきた本なのだろう。
ルシアンはその一冊を手にしたまま、しばらく表紙に視線を留めている。
「それにするの?」
「ああ」
「面白そう?」
「……昔、読んだことがある」
フローレンは、手にした本とルシアンを見比べた。
「じゃあ、読み返すの?」
「ああ」
何でもないことのように答えて、ルシアンは表紙を開いた。
開かれた頁が、指先の下でさらりと小さな音を立てる。
そのまま最初の数行へ目を通した彼の表情から、ほんの少しだけいつもの硬さが抜けたように見えた。
笑ったわけではない。
ただ、久しぶりに懐かしいものへ触れたときのような、静かな柔らかさが表情に滲んでいた。
「好きな本?」
何気なく尋ねると、ルシアンは頁から顔を上げた。
「割とな」
短い答えだった。
けれど、その言葉はフローレンには不思議なくらい新しく聞こえた。
「内容は、もう覚えてるんでしょ?」
「大体は」
「それでも読むんだ」
「好きな本は、何度読んでも面白い」
あまりにも当然のように返され、フローレンは一度瞬きをした。
考えてみれば、何も不思議ではない。
好きなものに、もう一度触れたくなる。
結末まで知っている物語でも、ふと頁を開きたくなることがある。
誰にだってありそうな、ごく普通のことだった。
それなのにフローレンは、これまでルシアンが本を読む姿を見るたび、無意識にその先へ何かしらの目的を結びつけていたのかもしれない。
試験のため。
知らないことを知るため。
昨日より少しでも先へ進むため。
けれど、今その手にある古びた一冊には、そんな理由は何も要らない。
ただ、好きだから。
高い窓から落ちる淡い光が、金の髪の輪郭を細く透かしていた。
古びた頁を辿る指先も、問題集をめくるときよりどこかゆっくりとして見える。
フローレンは、そんな横顔をしばらく眺めていた。
初めて会ったころには、何でもきちんとできて、自分よりずっと遠いところにいる人のように思えた。
今も真面目で、何をするにも丁寧なところは変わらない。
ただ、その内側には、自分の知らないものがまだいくつもあるらしい。
「フローレン?」
不意に名前を呼ばれ、我に返る。
「……っ、なに?」
「視線が気になる。何かついているか」
「あ……ごめん。ちょっと意外だっただけ」
「何がだ」
「ルシアンにも、そういう本があるんだなって」
ルシアンがわずかに首を傾げる。
うまく説明しようとして、フローレンはやめた。
自分の中でも、まだはっきりとした言葉にはなっていない。
ただ、今まで知らなかったことを一つ知った。
それが少し嬉しかった。
「その本、読み終わったら私も読んでみたいな」
「それなら先に読むか? 僕は一度読んでいるし」
「ううん、ルシアンの後でいい。でも……」
「なんだ?」
フローレンはルシアンの手にある本へ視線を向けた。
「読み終わったら、その本の話、一緒にしよう」
「ああ。それは……楽しみだな」
返ってきた声は、いつもより少しだけ弾んでいるように聞こえた。
紫の瞳が、ほんの少し嬉しそうに輝いた。
大きく笑ったわけでもないのに、好きなものを誰かと分け合えることをそのまま喜んでいるのが、驚くほど素直に伝わってくる。
普段の落ち着いた姿からは少し意外なくらい、その一瞬だけは年相応の少年らしく見えた。
そんな顔もするんだな、と思う。
それだけの小さな発見に、フローレンの胸の内までわずかに明るくなる。
再びルシアンは本に視線を戻した。
ゆったりした時間のなかに、頁をめくる音が静かに響く。
午後の光差す図書館で、フローレンの中には、今まで知らなかったルシアンの姿がもうひとつ増えていた。
図書室を出たあとは、そのままいつもの自習室へ向かった。
先に来ていたレオと合流すれば、そこから先は普段と変わらない放課後だった。
机には問題集が広がり、そのうち菓子の包みが加わって、気づけば勉強とは関係のない話まで混じっていく。
そんな時間を重ねるうちに、フローレンはこれまで知らなかったルシアンの一面を少しずつ知るようになった。
例えば、レオにからかわれたとき。
いつもならすぐに言葉を返すのに、思いがけないところを突かれると、ふと返事に詰まることがある。そんなときの少しばつの悪そうな顔は、普段の落ち着いた姿よりずっと年相応に見えた。
好みの菓子が卓上に並んだときもそうだった。
本人はいつも通り平然としているけれど、よく見ていれば、ときどきその菓子へ視線が向いている。
思っていたより、よく笑うことにも気づいた。
声を上げるほど大きく笑うことは少ない。
けれど、レオの冗談にとうとう耐えきれなくなったときや、フローレンが何か見当違いなことを言ったときには、小さな笑いが零れる。
特進クラスの首席であること。
公爵家の跡取りであること。
真面目で、丁寧で、何事にも手を抜かないこと。
どれも今まで通り、ルシアンを形作っているものだった。
けれど、それだけではない。
好きな物語があって、好きな菓子があって。
からかわれれば困ることもあれば、くだらないことで笑うこともある。
図書室で知った一つをきっかけに、それまでひとまとまりに見えていたルシアンの中へ、少しずつ違う輪郭が増えていった。
そうして数日が過ぎたころ。
その日は、放課後にいつもの自習室が使えないことになっていた。
別の場所を探してまで勉強する必要もないだろうと話がまとまり、三人での勉強も久しぶりに休みになった。
少し前までなら、空いた時間に何を進めようかと考えていたかもしれない。
けれど今は、予定がなくなったのなら今日は休めばいいのだと、素直に思える。
帰り支度を済ませて校舎を出るころには、陽はすっかり西へ傾いていた。
石造りの壁には夕方の光が柔らかく広がり、寮へ続く道には並木の影が長く伸びている。葉の隙間から零れた光も、風が渡るたび足元でゆるやかに揺れていた。
フローレンは、エリナと並んで歩いていた。
授業のことや、昼休みにあった些細な出来事。
明日の予定まで、取り留めのない話がゆるやかに続いている。
夕方の風が二人の髪を揺らし、会話がふっと途切れたところで、エリナが思い出したように口を開いた。
「そういえば、最近ノクティスさんと随分仲良くなったわよね」
「そう?」
不意にそんなことを言われ、フローレンは隣を見た。
夕方の光を受けたエリナは、どこか楽しそうにこちらを見ている。
「そうよ。ずっとノクティスさんって呼んでいたじゃない」
そこまで言われて、ようやく何のことか分かった。
「少し前から、名前で呼んでいいってことになったの」
「ノクティスさんから?」
「うん。フローレンって呼んでもいいかって聞いてくれて。それで私も、ルシアンって呼んでいいって」
最初に口にしたときにはあれほど意識した名前も、今ではずいぶん馴染んできた。
それでもあの日の中庭を思い出せば、胸の内にはあのときと似た小さな嬉しさが蘇る。
「名前で呼ぶのって、なんかいいね」
「そう?」
「うん。友達として一歩近くなった感じがするから」
素直に答えると、エリナは柔らかな笑みを浮かべた。
その表情に、フローレンはふと入学したばかりのころを思い出す。
「そういえば、エリナのことも最初はメルヴェルさんって呼んでたじゃない?」
「あら、私?」
「うん。入学したばっかりのころ」
一緒に昼食を取るようになり、授業が終わったあとにも話すことが増え始めたころだった。
いつまでも家名に敬称をつけて呼ぶフローレンへ、先にその距離を縮めてくれたのは彼女――エリナ・メルヴェルだった。
「『堅苦しいからエリナでいいわよ。私もフローレンって呼んでいいかしら』って言ってくれたでしょう?」
言われて、エリナも当時を思い出したらしい。
「ああ……そうだったわね」
懐かしむように少し目を細めてから、今度は感心したようにフローレンを見る。
「相変わらず、よく覚えてるのね」
「だって、とても嬉しかったから。忘れないよ」
何気なく答えると、エリナが一拍だけ黙った。
並木を抜けてきた風が二人の間を通り、肩にかかる髪をさらりと揺らす。
「……そういうこと、さらっと言うのね」
「変だった?」
「いいえ」
エリナは小さく首を振った。
「私も嬉しかったわ」
「ほんと?」
「ほんとよ。あのとき、言ってみてよかった」
そう言って笑うエリナの横顔に、入学したころの面影がふっと重なる。
あの日から重ねてきた時間は、今ではもう、家名で呼び合っていたころを懐かしく思えるほど長くなっていた。
フローレンも自然と笑みを返す。
思えば、あのときも嬉しかった。
それまでより少しだけ近いところから、友人の名前を呼べるようになったことが。
あの日、中庭で感じたものは、きっとそれとよく似ている。
「でも」
しばらく歩いたところで、エリナが前を向いたまま口を開いた。
「あなたがノクティスさんとお友達になるなんて、最初は少し意外だったわ」
「どうして?」
思いがけない言葉に、フローレンは隣を見る。
「だって、ノクティス公爵家の嫡男でしょう。それに特進の首席で……」
エリナは少し考えるように言葉を切った。
「それでいて、あれだけ目立つ容姿をしているんだもの。何というか……近寄りがたいというか」
うまく言葉を探すように、わずかに首を傾げる。
「こっちから気軽に声をかけるには、ちょっと遠い人って感じがするじゃない?」
その感覚はフローレンにも分かった。
初めて会った日の自分にも似たような感覚があったからだ。
特進クラスの首席。
公爵家の跡取り。
背筋を伸ばして座る姿も、落ち着いた声音も、こちらの答えを待つ静かな眼差しも、どこか隙がないように見えた。
自分とはずいぶん違う人なのだと思っていた。
「最初は、私もちょっとそう思ってたよ」
「でしょう?」
「うん。でも、今は全然違うかな」
エリナが興味を引かれたようにこちらを見る。
「違う?」
「話してみたら、知らなかったことがたくさんあったの」
古い本を手にしたとき、紫の瞳に浮かんだ明るい光を思い出す。
好きな菓子には、おそらく本人が思っているよりずっと正直に目が向く。
レオに思いがけないところを突かれれば、返す言葉をなくして居心地悪そうにしていることもある。
意外なところで頑固になって、けれど相手の様子を窺いながら、少しだけ折れてくれることもある。
最初に見えていた姿がなくなったわけではない。
その内側に、それまで見えていなかった一面が少しずつ覗くようになっただけだ。
「友達になってから、前よりいろんなところが分かるようになって」
フローレンは歩きながら、足元に揺れる夕方の光を眺めた。
「でも、きっとまだ知らないこともたくさんあるんだろうなって思うの」
「……そう」
エリナの返事が、なぜか少しだけゆっくりになる。
フローレンは気づかないまま、小さく笑った。
「だから、その……ルシアンのこと、もっと知れたらいいなって」
そのときだった。
隣を歩いていたエリナの視線が、ふいにフローレンの肩越しへ移る。
何かを見つけたように瞳がわずかに開き、やがてその表情に楽しげな色が差した。
「……え、なに?」
「ううん」
エリナは何でもないように首を振る。
「そうね。もっと知れるといいわね」
妙に含みのある言い方だった。
「?」
意味が分からず首を傾げる。すると少し遅れて背後から、石畳を踏む靴音が近づいてきた。
「フローレン」
聞き慣れ始めた声に振り返った。
「あ、ルシアン」
数歩後ろに、ルシアンが立っていた。
西へ傾いた陽が、その横顔へ斜めに差している。
金の髪の縁には夕暮れの光が細く滲み、白い肌にも朱い色が重なっていた。
「今、いいか」
「うん。どうしたの?」
いつもと変わらない、少し低く静かな声だった。
けれど、続く言葉はいつもよりわずかに早い。エリナとの話を遮っていることを気にしているのかもしれない。
「明日の放課後なんだが、レオがまた中庭へ行きたいと言っていた。フローレンもそれでいいか?」
「いいよ。私も行きたい」
「ああ。分かった」
ルシアンは短く頷いた。
それだけの、何でもないやり取りだった。
けれど、隣へ目を向けると、エリナは先ほどから変わらず、どこか楽しそうに二人を見ている。
「……エリナ?」
「何でもないわ」
にこりと笑われても、理由はさっぱり分からない。
もう一度ルシアンを見る。
夕暮れの朱色を帯びた光は変わらずその横顔へ差し、風に揺れた金の髪にも淡い色を残していた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
ルシアンはエリナにも軽く会釈をすると、そのまま来た道を戻っていった。
フローレンはその背を少し見送ってから、再び隣へ向き直る。
エリナの涼やかな表情には、まだどこか楽しげな色が残っていた。
「……本当に何?」
「ふふ、本当に何でもないわ」
夕暮れの道に、二人の声が重なる。
結局その理由を聞き出せないまま、フローレンはエリナと並んで寮への道を歩き出した。




