8-2 ルシアンの勇気
中庭へ足を踏み出すと、風の匂いが少し変わった。
石造りの校舎に囲まれた一角には、傾き始めた午後の日差しがまだたっぷりと残っている。枝葉の重なりを抜けた光が芝の上へ細かな模様を落とし、風が渡るたび、その輪郭をゆっくりと揺らしていた。
授業を終えた生徒の姿もちらほらと見える。けれど、高い壁に声が反響する廊下とは違い、遠くの話し声も笑い声も葉擦れの中へほどけて、ひとつの柔らかなざわめきになっていた。
「ここでいい?」
少し先を歩いていたレオが、木陰に置かれた丸い石卓を指す。
「私はどこでも」
「僕も構わない」
「じゃ、決まり」
レオは石卓を囲む腰掛けの一つへ迷いなく腰を下ろし、肩に掛けていた鞄を卓上へ置いた。
フローレンがその隣へ、ルシアンが向かいへ腰を下ろす。場所は違っても、気づけばいつもの自習室とよく似た並びになっていた。
レオは待っていましたとばかりに鞄の留め具を外し始める。
「今日はちょっと多めに持ってきたんだ」
「そんなにあるの?」
「三人で食べても余るくらい」
「それは多すぎない?」
「余ったら持って帰ればいいでしょ」
言いながら、レオは何やら大事そうに鞄の中を探っている。
ルシアンはその様子を眺めながら、何気なく二人へ目を向けた。
三人で。
いつからだろう。
そんな言葉を、わざわざ意識することさえなくなっていた。
自習室へ向かうときも、席を選ぶときも、レオが菓子を持ち込むときも。
誰かが確かめたわけでもないのに、初めから三人であることを前提に物事が進むようになっている。
少し前までなら、存在しなかったはずの習慣だった。
けれど今では、それを不思議に思う方が難しかった。
「はい、お待たせ」
レオがどこか得意げに、鞄から取り出した包みを卓上へ広げる。
折り重なっていた紙がほどけると、焼き菓子の甘い香りに、果実のやわらかな酸味が混じった。
掌に収まるほどの小さな菓子が、ところ狭しと並んでいる。
赤い実を散らしたもの。薄く切った果肉を重ねたもの。細かく煮た果実を生地の中央へ詰めたもの。形も中身も少しずつ違い、表面に塗られた蜜が午後の光を淡く弾いていた。
「わ、美味しそう」
フローレンがぱっと顔を明るくする。
「でしょ。何種類かあるよ」
「どれにしよう……」
「そんな真剣に悩む?」
「だって、どれも美味しそうなんだもん」
フローレンが一つずつ見比べているあいだに、レオがふとルシアンへ視線を向けた。
「……何だ」
「何も?」
「今、僕を見ただろう」
「いやあ、果実入ってるなと思って」
「それでなぜ僕を見る」
レオは答えず、いかにも楽しそうに目を細めた。
そのやり取りを聞いていたフローレンも、何かに気づいたらしい。
選びかけていた菓子から顔を上げ、ルシアンを見る。
「あ。果実」
「……そうだな」
「ノクティスさん、好きですよね」
「まだ覚えていたのか」
「覚えてますよ」
あまりにも当然のように返され、ルシアンは一瞬言葉を止めた。
彼女にとって、覚えていること自体に特別な意味はない。
見聞きしたことを細かなところまで覚えていることも、それを本人が特別なこととして扱っていないことも、今ではもう分かっている。
それでも。
自分が何気なく口にした好みまで、彼女の中にはきちんと残っている。
そのことを意識すると、心のどこかにごく淡い温度が残った。
フローレンは再び卓上へ目を落とし、迷っていた菓子の一つへ手を伸ばす。
その様子を見届けてから、ルシアンも手近なものを一つ取った。
薄く焼かれた生地には、ほどよい柔らかさが残っている。噛めば果実のほのかな酸味が広がり、あとから蜜の甘さが追いかけてきた。
確かに、自分の好みに合っていた。
「美味しいね」
「でしょ?」
「これ、何が入ってるの?」
「林檎と杏と……あと何だったかな。もう一つ言ってたんだけど」
「ふうん……」
フローレンはもう一口食べてから、手元の菓子を改めて眺めた。
「今度、そのお店教えて」
「いいよ。学院からそんなに遠くないし」
「じゃあ今度行ってみようかな」
何でもない会話が、風の通る石卓の上をゆるやかに行き来する。
ルシアンも菓子をもう一口、口へ運んだ。
穏やかな午後だった。
問題用紙を広げる音もない。
答えを待つ時間も、どこまで進んだかを気にする必要もない。
ただ三人で座り、菓子を食べながら取り留めのない話をしている。
それだけの時間が、何の違和感もなく過ぎていく。
それでも、ルシアンの意識の片隅には、先ほど決めたことが残っていた。
本人に聞くと決めたのだから、あとは聞けばいい。
難しいことではないはずだった。
「アストリア」
「はい?」
呼びかけると、フローレンがすぐに顔を上げた。
片手には、まだ半分ほど残った菓子。
こちらを見つめる瞳に、素直な疑問が浮かんでいる。
「……一つ、聞いてもいいか」
「はい。何ですか?」
返事はいつも通りだった。
そこまで来てから、ルシアンはほんの少しだけ迷った。
友人かどうかを、本人へ直接尋ねる。
頭の中で考えていたときには、何もおかしいとは思わなかった。
自分はそう思っている。なら、相手も同じなのか聞けばいい。それだけのことだ。
けれど、いざ本人を前にすると、これは普通わざわざ口にして確認するものなのだろうか、という疑問が遅れて浮かんできた。
――やめておくか。
そう考えて、すぐにそれも違うと思った。
聞かなければ結局、フローレンの気持ちを自分の推測だけで決めることになる。
ルシアンは一度だけ息を置いた。
「僕たちは、その……」
そこで言葉が止まる。
フローレンが待つように瞬きをした。
「友人、だよな?」
ひとたび言ってしまえば、ひどく短い問いだった。
フローレンの目がぱちりと瞬く。
「はい。もちろんです」
答えは、ほとんど間を置かずに返ってきた。
今度はルシアンが瞬きをする。
もう少し考えるのかと思っていた。あるいは、突然何を聞くのかと戸惑われる可能性も考えていた。
けれど、彼女の声には迷いらしい迷いがない。
「……そうか」
「え?」
あまりにも短く返したからだろう。
フローレンの眉尻がわずかに下がる。
「ごめんなさい。もしかして……違いました?」
「いや、違わない」
「よかった」
ほっとしたように息をつき、フローレンが笑った。
「私は、その……もう友達だと思ってました」
あれこれ考えた末に自分が辿り着いた答えを、フローレンは迷うことなく同じものとして返してきた。
自分だけではなかった。
そう分かると、胸の内に残っていたわずかな迷いも、あっけないほど簡単にほどけていった。
「……何、その確認」
すぐ横から声がして、ルシアンは眉を寄せた。
レオは口元を押さえているものの、隠しきれない笑いが目元にまで滲んでいる。
「お前は黙っていてくれ」
「いや、だって今さらすぎない?」
「だから確認したんだ」
「確認しようと思うところが、すごくルシアンらしいというか……」
レオは堪えきれないように肩を揺らした。
「笑うな」
「笑ってないって」
どう聞いても信用できない。
問い詰めたところで余計に面白がられるだけなのは分かっている。ルシアンはそれ以上相手にせず、改めてフローレンへ向き直った。
友人だという認識は、互いに同じだった。
ならば、次に確かめることはもう決まっている。
「それなら」
ルシアンが切り出すと、フローレンは手にしていた菓子を少し下ろした。何だろうと待つようにこちらを見上げ、小さく首を傾げる。
頬にかかった髪がさらさらと揺れた。
ここまで確かめられたのなら、あとは初めて会ったころから変わらない呼び方について、本人の意思を聞けばいい。
頭の中では、すでにそこまで筋道を立てている。
けれど。
その先の言葉を口へ運ぼうとしたところで、思考とは別の場所にわずかな躊躇いが生まれた。
アストリアではなく、フローレン。
胸の内でなぞるだけならできた名を、今度は本人へ向けて声にする。
そう意識した途端、何でもないはずの一言が、先ほどまでとは少し違う重みを持った。
ルシアンは一度息を吸った。
石卓へ置いていた指先が、ほんの少しだけ動く。
「――フローレン、と呼んでもいいか」
ようやく口にすると、フローレンの瞳が大きく見開かれた。
すぐには返事がない。
菓子を持ったまま一度瞬きをして、それから確かめるようにルシアンの顔を見る。思いがけないことを言われた驚きが、まだその表情には残っていた。
ただ、それは困惑とは少し違っていた。
やがて意味を受け取ったように、張っていた目元からゆっくりと力が抜けていく。
その変化を見つめながら、ルシアンは返事を待った。
断られたなら、今まで通りに戻せばいい。
そう考えていたし、実際それで二人の関係そのものが変わるわけではない。
それなのに、答えが返ってくるまでのわずかな間だけは、妙に長かった。
風が木々のあいだを通り抜け、頭上で葉が重なり合う。
遠くでは誰かの笑い声が上がった。卓上に広げた包みの端も風を受けて小さく浮き、かさりと乾いた音を立てる。
そんな普段なら気にも留めない音ばかりが、やけにはっきりと耳へ届いた。
「もちろんです」
やがて返ってきた声は、思っていたよりも明るかった。
フローレンの目元がふわりと和らぐ。
「……いいのか」
「はい」
頷いてから、フローレンは一度だけ視線を手元へ落とした。けれどすぐにまた顔を上げると、今度は少し照れくさそうに頬を緩める。
「嬉しいです」
「……嬉しい、のか?」
「だって、今までずっとアストリアだったから……」
その答えは、ルシアンが予想していたものとは少し違っていた。
「だから……なんだか、少し距離が近くなった感じがします」
柔らかな声でそう続けられ、ルシアンはわずかに目を見開いた。
自分だけではなかったのだと思う。
家名で呼び合うことそのものを、彼女が遠いと感じていたのかは分からない。
けれど少なくとも、名前で呼ばれることを彼女は嬉しいと思っている。
先ほど自分が感じた、これまでよりひとつ近い場所へ手を伸ばすような感覚。
同じものではないにしても、その変化をフローレンもまた受け取ってくれたらしい。
それが分かると、胸の内に残っていた緊張が少しだけほどけた。
ルシアンは一度視線を落とす。
胸の内では、すでに一度なぞった名前だった。
けれど今度は、そこにいる彼女へ向けて声にする。
「…………フローレン」
「はい」
すぐに返事が来た。
ただ名前を呼んで、相手が答えただけ。
それだけのことなのに、胸の内でなぞったときよりも、その名はずっと近くに響いた。
フローレンは、呼ばれた余韻を確かめるように一度だけ瞬きをした。
それから少しだけ視線を落とし、手元の菓子へ目をやる。
「なんだか不思議ですね」
「何がだ?」
「ノクティスさんに、フローレンって呼ばれるの」
言いながらもう一度顔を上げる。その表情には、まだわずかな照れが残っていた。
「でも、嬉しいです」
ルシアンは返事をしかけて、ふと口を閉じた。
今、確かにひとつ変わった。
自分はもう彼女をアストリアとは呼ばず、本人の許可を得てフローレンと呼んだ。
それなのに。
――ノクティスさん。
耳に残ったその呼び方を、頭の中でもう一度繰り返す。
ルシアンはしばらく黙り、それからわずかに首を傾げた。
「……一つ聞いてもいいか」
「はい?」
フローレンがきょとんとこちらを見る。
「なぜ僕は、まだ『ノクティスさん』なんだ?」
「え?」
今度こそ、フローレンの動きが止まった。
菓子を持ったまま目を丸くし、何を問われているのか分からないという顔でルシアンを見返している。
その隣で、レオがふいに俯いた。
噛み殺しきれなかった笑いが、喉の奥でかすかに鳴る。
ルシアンは横目で一度だけ睨んだが、今度は何も言わなかった。
どうせ問い詰めたところで、また面白がられるだけだ。
互いに友人だと確認した。
自分は彼女を名前で呼ぶことになった。
それなら、片方だけ以前のままなのは不自然ではないのか。
「えっと……」
フローレンが困ったように瞬きをする。
「だって、ノクティスさんはノクティスさんなので……」
「説明になっていない」
「ええ……」
ますます分からないという顔をされ、ルシアンは少し考えた。
どう聞けば伝わるのか。
「レオは?」
「レオです」
「僕は?」
「ノクティスさんです」
「……そこがおかしいと言っている」
とうとうレオが吹き出した。
ルシアンは一瞬じっとりとした視線をレオへ向けたが、今は目の前の疑問を解く方が先だった。
「三人とも友人なら、僕だけ違うのは不自然じゃないか」
「そうかなあ……」
「そうだろう」
即座に返すと、フローレンはますます困ったように首を傾げた。
しばらく考え込むように視線を落とし、手元の菓子を指先でそっと持ち直す。
やがて何かに思い当たったのか、ふと顔を上げた。
「でも……レオは最初からレオだったので」
「最初から?」
「はい。最初に名前を聞いたとき、ルベライトさんって呼ぼうとしたんです」
ルシアンは少し目を見開いた。
それは初耳だった。
「でもレオが、同い年なんだからレオでいいって。さんもいらないって言ったから」
言われて、ルシアンはゆっくりと隣へ目を向ける。
「……そうなのか」
「そうだよ?」
「聞いていない」
「いや、報告するようなことでもないでしょ」
レオは至極当然という顔で、手にしていた菓子を口元へ運ぶ。
確かに、その通りだった。
フローレンとどう呼び合うことになったのかなど、わざわざ自分へ知らせるような話ではない。
けれど、今になって聞くと、その何気ないやり取りが妙に重要なものに思えた。
レオは、最初から自分でそう言ったのだ。
家名ではなく、名前でいい。
敬称もいらない。
だからフローレンも、それをそのまま受け取った。
では、自分は。
ルシアンは記憶を辿る。
フローレンの敬語がふと抜けたとき、気にしないと伝えた。けれど、それは彼女がいつもの丁寧さを崩したあとで、気にする必要はないと返しただけだった。
自分の方から、呼び方を変えていいと言ったことはない。
敬語はいらないとも、ルシアンと呼んでいいとも、一度も伝えていなかった。
「ノクティスさんは」
フローレンの声に、ルシアンは顔を上げた。
「最初からずっと、ノクティスさんだったから」
「……ああ」
「最初に会ったとき、すごくちゃんとした人だと思ったし……私もちょっと緊張してたので」
言いながら、当時を思い出したのか、フローレンが少しだけ懐かしそうに目を細める。
「ずっと敬語で話してたから、それがそのまま普通になっちゃったというか。急に変える方が、なんだか変な感じがして」
ルシアンは黙ってその言葉を聞いていた。
思い返せば、初めて顔を合わせた日のフローレンは、今よりずっと硬かった。
背筋を伸ばして丁寧に名乗り、問いかけるたびに慎重に言葉を選んでいた。もっとも、それは自分も大差なく、レオに呆れられるほど互いに畏まっていたのだから、どちらか一方だけの話ではない。
あのころには、それが自然だった。
互いのことをほとんど知らず、どんな距離で接すればいいのかも分からない。
だから家名で呼び、丁寧な言葉を選んだ。
けれど、そのあと何度も同じ時間を過ごした。
今では問題がなくても話せるし、用事がなくても三人でこうして座っている。
変わったものはいくつもあるのに、呼び方だけが初めて会った日の形を残していた。
そして、その形を変えてもいいのだと、自分の方から示したことは一度もなかった。
「……分かった」
考えがまとまり、ルシアンは顔を上げた。
「今言う」
「え?」
唐突な言葉に、フローレンが目を瞬く。
「僕にも敬語はいらない。名前も、ルシアンでいい」
しばらく返事がなかった。
フローレンは意味を確かめるようにルシアンを見つめ、それから一度、ゆっくり瞬きをする。
名前のことだけを話していたはずなのに、思いがけずその先の話し方まで差し出されたからだろう。
手元へ落ちかけた視線がまたこちらへ戻り、戸惑いと驚きの入り混じった表情のまま、ようやく口を開いた。
「……敬語も一気にですか?」
「レオには使っていないじゃないか」
「またレオ……」
「レオは友人で、僕も友人だ。なのに三人の中で僕だけ呼び方も話し方も違うのは、やはり不自然だろう」
「うん、まあ筋は通ってるね」
横からレオが面白そうに口を挟む。
「でも……」
フローレンはまだ少し戸惑っているようだった。
「名前はともかく、敬語は急には難しいかもしれません」
「なぜ」
「なぜって……ずっとこうだったからです」
「なら、今から変えればいい」
「そんな簡単に言うけど……」
フローレンは考えるように手元へ目を落とした。
何度か言葉を探すように唇を開きかけては、結局そのまま閉じる。
その様子を見ているうちに、ルシアンも少し考え直した。
一気に呼び方も話し方も、というのはさすがに一足飛びすぎるか。
特に、長く馴染んだ話し方はあっさり切り替えられるものではないかもしれない。
「……分かった」
「え?」
「敬語は、すぐでなくてもいい」
フローレンが顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。今この場で、無理に変える必要はない」
張っていた表情から、わずかに力が抜けた。
それを見てから、ルシアンは一つだけ付け加える。
「ただし、名前は変えてほしい」
「……そこは譲らないんですね」
「僕は変えたからな」
そこで一度言葉を切る。
「……あれも、僕としてはそれなりに思い切ったんだ」
一拍遅れて、フローレンの目が丸くなった。
それから堪えきれなかったように、小さな笑い声が零れる。
「そんなに、名前で呼んでほしかったんですか?」
「三人で僕だけ違うのは、やはりおかしいだろう」
「あ、気にしてたんだ」
真面目に答えているだけなのに、フローレンはますます楽しそうに笑う。
向かいからはレオの含み笑いまで聞こえてきたが、ルシアンは今度こそ何も言わなかった。
二人がなぜそこまで可笑しそうなのかは、やはりよく分からない。
ただ、先ほどまで戸惑っていたフローレンの表情がすっかり明るくなったことだけは、悪くないと思った。
ひとしきり笑ったあと、フローレンは少しだけ姿勢を正した。
「じゃあ……」
そこで一度、言葉を探すように視線が揺れる。
先ほどまでなら何の迷いもなく口にしていたはずの呼び名を、今度は使わないよう意識しているのだろう。
やがて、様子を窺うようにルシアンを見る。
「……ルシアン、さん」
「さん、は必要ない」
「うう……」
即座に返され、フローレンが困ったように笑みを浮かべる。
「いきなり呼び捨てって結構難しいです」
「名前を呼ぶだけだろう」
「ノクティスさんだって、さっきフローレンって呼ぶまで結構間がありましたよね?」
「……」
返す言葉がなくなった。
隣では、レオが何とも言えない顔でこちらを見ている。
今度ばかりは、少しだけ分が悪い。
ルシアンは手元の菓子へ視線を落とす。
珍しく言い返せずにいるその様子がおかしかったのか、向かいではフローレンがまた楽しそうに笑っていた。
けれど、その笑いもやがてゆっくりと収まっていく。
風に揺れた髪を耳へ掛け、フローレンはもう一度こちらを見た。
先ほどよりも、その眼差しは少しだけ真剣だった。
「……ルシアン」
不意に、自分の名前が聞こえた。
ルシアンの指が止まる。
何度も聞いてきた名前だった。
家族からも、教師からも、気心知れた友人からも。
けれど、フローレンの声で、家名も敬称も伴わず、それだけを聞くのは当然初めてだった。
ほんの一瞬、返事が遅れる。
「……っ、ああ」
ようやく応じると、フローレンが少し照れくさそうに笑った。
「なんか、変な感じ」
「嫌か?」
「ううん」
フローレンはすぐに首を振る。
「やっぱり、ちょっと近くなった感じがして」
「……なら、それでいい」
「分かりまし――」
言いかけたところで、フローレンがぴたりと止まる。
一度唇を閉じ、ほんの少し考えてから言い直した。
「……分かった」
今度は、敬語にならなかった。
ルシアンは思わず彼女を見る。
「今、直したな」
「だって」
「無理に直さなくてもいいと言っただろう」
「でも、せっかくならやってみようかなって」
そう言って、フローレンは少しだけ得意そうに笑った。
「ただ、たぶんまた敬語になりますよ」
「構わない」
「そのときは?」
「別に何も言わない」
「名前は?」
「言う」
「そこは厳しい……」
思わず零れたような声に、今度はルシアンの口元にもわずかに笑みが浮かんだ。
呼び方ひとつを変えただけなのに、いつものやり取りまで少しだけ違って聞こえた。
そのあとも、フローレンの言葉遣いは、ルシアンへ向けるときだけ何度か元へ戻った。
かと思えば、次の瞬間には。
「レオ、それ取って」
「はいはい」
「ありがとう」
こちらには初めから何の迷いもない。
その差を耳にするたび、ルシアンは改めて思った。
レオと自分とでは、フローレンとの関係の始まり方も、その距離の縮まり方も違うのだ。
なら、少しずつでいい。
いつか、意識しなくても気楽な言葉が出てくるようになれば、それでいい。
――名前だけは、できれば早く慣れてほしいが。
やがて話はまた別のものへ移り、本のことや菓子のことを取り留めもなく話しているうちに、午後の日差しはいつの間にか少し傾きを増していた。
葉の影が石卓の上をゆっくりと移動し、開いた包みの端を風が時折かすかに揺らしている。
卓上に残っていた菓子も、いつの間にかあと一つになっていた。
「……ルシアン、これ食べる?」
不意に名前を呼ばれ、ルシアンは顔を上げる。
先ほどのように、返事が遅れることはなかった。
「ああ」
フローレンが包みをこちらへ寄せる。
ルシアンは最後の一つを手に取り、それから何気なく彼女を見た。
「ありがとう、フローレン」
今度は、呼ぶまでに間を置かなかった。
フローレンが一瞬だけ目を丸くする。
けれど、すぐに嬉しそうに笑った。
初めて会った日に選んだ呼び方が変わっても、それまで二人が重ねてきた時間まで変わるわけではない。
ただ、あのころには自然だったほんの少しの遠さが、今の二人にはもう要らなくなっていた。
風に揺れた木漏れ日が、三人のあいだを静かに渡っていった。




