8-1 ルシアンの葛藤
それから数日が過ぎた。
春の名残を留めていた風にも、少しずつ次の季節の気配が混じり始めていた。午後の日差しは以前より長く校舎に留まり、開け放した窓辺にも、もう肌寒さはほとんど残っていない。
中庭の木々はいつの間にか若葉の淡さを脱ぎ、風に揺れるたび、重なった葉のあいだから細かな光を地面へ零していた。
フローレンの体調は、すっかり元へ戻っていた。
自習室で倒れかけた翌々日には学院へ戻り、その後も熱がぶり返すことはなかった。
立ち上がる前には一度身体の調子を確かめる。疲れを感じれば休む。放課後の問題も、しばらくは一問まで。最初の数日はどこか意識して守っていたそれらも、今では少しずつ新しい習慣として馴染み始めていた。
だからルシアンも、以前のように何度も彼女の顔色を確かめることはなくなった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
「ルシアン」
呼ばれて、開いていた本から顔を上げる。
放課後の特進クラスには、もう生徒の姿もまばらだった。
帰り支度を終えた者たちの声が廊下の向こうへ遠ざかり、残された教室には、紙をめくる乾いた音と窓から吹き込む風の気配だけが漂っている。
その窓際に、鞄を肩へ掛けたレオが立っていた。
「何だ」
「今日さ、自習室やめない?」
「……なぜ」
ルシアンの眉がわずかに寄る。
このところ放課後になれば、三人で図書館脇の小さな自習室へ向かうのがすっかり習慣になっていた。
フローレンに渡す一問の課題も、すでに選んである。
机の端に伏せていた一枚の紙へ目をやると、レオもその視線を追った。
「もう問題用意してるところ悪いんだけどさ」
レオは楽しそうに目を細めた。
「今日は外行かない? お菓子、持っていくから」
「外?」
「中庭。せっかく天気もいいし」
言われて、ルシアンは窓の外へ視線を移した。
西へ傾き始めた陽はまだ十分に明るい。雲の少ない空の下では、梢がゆるやかに揺れている。
確かに、わざわざ狭い部屋へ籠もるには惜しい日だった。
「フローレンも誘ってさ」
その名を耳にした瞬間。
頁の端へ添えていたルシアンの指が、ふと止まった。
『……というか、いつまでアストリアって呼ぶの』
数日前、静かな医務室で聞いたレオの声が、何の前触れもなく耳の奥へ蘇った。
あのあと何を言おうとしていたのかなど、最後まで聞かなくても分かる。
『もうそろそろ俺みたいに、フローレンって呼ん――』
そこで言葉は途切れた。
すぐそばでは、フローレンが眠りに落ちかけていた。
ルシアンが本をめくる手を止めて視線を上げると、レオもそれ以上は続けなかった。
結局、その話はあの日きりになった。
ルシアンから蒸し返すこともなく、レオも二度目を口にしなかった。
忘れていたわけではない。
ただ、改めて考えるほどのことでもないと思っていた。
――今までは。
「……ルシアン?」
目の前からもう一度名を呼ばれ、意識が教室へ戻る。
「聞いてる?」
「ああ」
「今ちょっと聞いてなかった顔してたけど」
「聞いていた」
そう返して、本を閉じた。
栞を挟み、用意していた課題と一緒に鞄へ収める。
「中庭だったな」
「うん」
レオの視線が、ルシアンの手元をちらりと掠めた。
「問題もやる?」
「……今日はやらない」
「へえ」
返ってきた声には、どこか楽しげな響きがあった。
「何だ」
「別に?」
「なら、その顔は何だ」
「普通の顔だけど」
「嘘をつけ」
レオは答える代わりに、くつくつと喉を鳴らした。
いつものことだ。
こちらが問い詰めたところで、こういうときのレオは面白がるばかりでまともに取り合わない。
ルシアンはそれ以上追及せず、椅子を戻した。
二人で教室を出ると、窓から流れ込んだ風が制服の裾をさらりと揺らす。石造りの廊下には傾いた陽が長く差し込み、歩くたび二人の影も形を変えながら足元についてきた。
「フローレン、まだ教室かな」
「おそらく」
「なんで分かるの?」
「この時間なら、いつもあの廊下を通って自習室へ来るだろう」
「ふうん」
妙に含みのある返事だった。
ルシアンは隣を見る。
レオの口元には、何やら意味ありげな笑みが浮かんでいた。
「何だ」
「何も?」
「お前はさっきからそればかりだな」
「だって、本当に何も言ってないし」
そう言いながら楽しそうなのだから、信用できるはずもない。
ルシアンは小さく息を吐いて前へ向き直った。
けれど、先ほどから妙に耳へ残っているものがある。
――フローレン。
レオが彼女を呼ぶときの名は、思えば出会ったころからずっとそうだった。
レオはフローレン。
フローレンもレオ。
それに対して、自分はアストリアと呼ぶ。
彼女から返ってくるのは、いつもノクティスさんだ。
これまで、その違いをわざわざ切り取って考えたことはなかった。
初めて顔を合わせた日、彼女はフローレン・アストリアと名乗った。
自分もルシアン・ノクティスだと返した。
互いについてほとんど何も知らなかったのだから、家名で呼び合うのはごく自然だった。
それから何度も同じ机を囲んだ。
最初は一問の応用問題だった。
やがて持ち込まれる課題が増え、教科も増えた。レオの菓子が机に並ぶようになり、気づけば誰に確かめることもなく、それぞれ同じ席へ腰を下ろすようになっていた。
フローレンの敬語がふと抜けたことも、何度かあった。
本人は気づくたびに慌てて言い直していたが、自分は以前、気にしないと伝えたこともある。
けれど、次に会えばまた元へ戻る。
ノクティスさん。
ときおり言葉遣いが崩れることはあっても、その呼び方だけは、初めて会った日から変わらなかった。
それも彼女らしいのだろうと、今まではただそう思っていた。
――では、今はどうだろう。
初めて会ったころと同じなのだろうか。
角を曲がりながら、ルシアンはわずかに視線を伏せた。
考えるまでもない。
同じではなかった。
「あ、いた」
レオの声に顔を上げる。
第二クラスの教室から、ちょうどフローレンが出てくるところだった。
隣には、いつも一緒にいる女子生徒の姿もあった。何か可笑しな話でもしていたらしく、こちらへ気づくより先に、フローレンが楽しそうに笑った。
その姿を認めた途端、ルシアンの歩みがほんのわずかに緩む。
顔色は悪くない。
足取りにも重さは見えなかった。友人へ向けている笑顔にも、先日のような鈍い疲れは残っていない。
もう何度も確かめたことだった。
体調は戻っている。
本人も以前より自分の身体へ気を配るようになった。
だから今さら気にする必要はない。
そう分かっているのに、目に入れば確かめてしまう。
そのことに気づいたのは、ひと通り見終えてからだった。
「おーい、フローレン」
レオが軽く片手を上げる。
声に気づき、フローレンがこちらを向いた。
「あ、レオ。ノクティスさんも」
青緑と紫の入り混じる瞳が、二人を順に映す。
友人へ何か短く告げて手を振ると、フローレンは鞄を抱え直しながらこちらへ歩いてきた。
「今から自習室ですか?」
「今日は違うよ」
「え?」
フローレンが目を瞬く。
レオは待っていましたとばかりに、肩へ掛けた鞄を軽く叩いた。
「今日は中庭でお菓子を食べる」
「……勉強は?」
「しない」
「しないの?」
ひどく意外そうな声だった。
フローレンの視線がレオから移り、今度はルシアンへ向けられる。
まるで、本当にそれでいいのかと確かめるような眼差しだった。
なぜそこで自分を見るのだろう。
そう思いながらも、その眼差しが返事を待っていることだけは分かった。
「……たまにはいいんじゃないか」
答えると、フローレンの瞳が少しだけ丸くなった。
「じゃあ行こっか」
レオが先へ足を向けた。
「今日のやつ、フローレンも好きだと思うよ」
「何?」
「見てからのお楽しみ」
「教えてくれてもいいのに」
「開ける楽しみがなくなるでしょ」
二人のやり取りが、そのまま歩調に乗って続いていく。
ルシアンも隣へ並び、三人で中庭へ向かって歩き始めた。
レオが何か言えば、フローレンが返す。
フローレンが笑えばレオが声を上げ、ときにはルシアンもそこへ言葉を挟んだ。
いつも自習室で交わしているものと、そう変わらない会話だった。
ただ今日は、三人のあいだに教本も問題用紙もない。
何かを尋ねる必要もない。
答えを導く必要もない。
それでも会話は途切れず、三人分の足音とともに廊下の先へ連なっていった。
「そういえばフローレン、昨日言ってた本どうだった?」
「あ、読んだよ。面白かった」
「もう?」
「昨日借りたから」
「あれ、図書館でも指折りの長編なんだけど。……え、一晩で?」
「そうなの?」
フローレンが不思議そうに首を傾げる。
それから、隣を歩くルシアンへ顔を向けた。
「ノクティスさんは、あの本読んだことありますか?」
ルシアンは、ふと答えるのを忘れた。
「……ノクティスさん?」
続きを待つように、フローレンがわずかに顔を傾ける。
「……いや。読んだことはある。去年だ」
そう返すと、フローレンはすぐに目を輝かせた。
「最後の章、どう思いました?」
「僕は、その一つ前の章の方が――」
読んだのは一年ほど前だったが、印象深かった場面はいくつか記憶に残っている。
自分が面白いと思った箇所を挙げると、フローレンはすぐ別の場面を返し、その前後にあった出来事まで繋げて話し始めた。
「そこ、私も好きでした」
「なら、その少し前は?」
「あそこも。あの場面があるから、最後の選択に繋がったのかなって思って」
「僕は少し違うと思った。あれより前に――」
「あ、なるほど! 確かにそうとも読めますね」
思ったことを口にすれば、違う考えが返ってくる。
どちらが正しいわけでもない。ひとつの答えへ辿り着く必要もなかった。
ただ、一冊の本について話しているだけだ。
何かを教えるためではない。
彼女がどこで立ち止まっているのかを探すためでもない。
レオを介さなくても、二人のあいだには自然と言葉が行き来していた。
それを意識した途端、それまで何でもなかったはずの会話が、ほんの少しだけ違って聞こえた。
勉強の話をしているときと似ている。
けれど、もっと軽い。
教える側も教わる側もなく、ただ互いの持っているものをひとつずつ差し出していく。
そんな時間が思いのほか心地よいことを、ルシアンは初めてはっきりと自覚した。
「二人とも」
少し先を歩いていたレオが振り返った。
「俺がいること忘れてない?」
「忘れてないよ?」
「そう? ずいぶん盛り上がってたけど」
「それならレオも読めばいいのに」
「あの、立方体みたいな分厚さの?」
「少し長かったけど、面白かったし。おすすめ」
「フローレン、『少し』の意味分かってる?」
「え? 国語辞典の頁数から教えようか?」
「いや、このやり取り二回目」
レオが声を立てて笑う。
ルシアンの口元にも、つられるように淡い笑みが浮かんだ。
「レオ」
フローレンが少し不満そうに名を呼ぶ。
「だって、レオとも語り合いたいの」
「読み始めたら徹夜になりそうだからやだ」
「一緒にお話ししたいですよね? ノクティスさん」
今度は、自分へ話が振られる。
「……レオはあれだけ長いと、読み終わるまで十日はかかる」
「え、そんなに……?」
「短編や資料なら早いんだが」
「……そうなんですね」
フォローしたつもりだったが、フローレンの目元にはかえって気遣わしげな色が浮かんだ。
「ちょっと、フローレンの前で俺のささやかな弱点ばらさないで」
「ああ、すまない。うっかりしていた」
「全然すまないと思ってない声……!」
「あ、ごめんレオ。もう覚えちゃった」
「フローレン……! 早く忘れて!」
「えー、無理だよ」
弾む声が、三人分の足音へ重なって廊下を流れていく。
ルシアンもその軽いやり取りに言葉を返しながら、意識の一部だけは別のところへ引かれていた。
レオ。
フローレン。
そして、ノクティスさん。
呼び名が飛び交うたび、これまで何とも思わなかった違いだけが、妙にはっきりと耳へ残る。
家名で呼ばれるのが嫌なわけではない。
敬語を使われることにも、何か問題があるわけではなかった。
学院では、家の立場にかかわらず互いを家名で呼ぶ者も珍しくない。親しくなっても丁寧な言葉遣いを崩さない者だっている。
形式だけを見れば、今のままでも何ひとつおかしくはなかった。
ただ。
レオが「フローレン」と呼ぶ。
彼女が「レオ」と返す。
その二人のあいだにはなく、自分とのあいだにだけ残っているものがある。
薄い硝子を一枚立てたような、ほんのわずかな隔たり。
視界を遮るほどではない。
声だって問題なく届く。
これまでは、その存在を意識したことさえなかった。
それなのに一度そこへ意識が向いてしまうと、呼び名を交わすたび、その薄い境目だけが妙にはっきりと浮かび上がった。
――そもそも。
自分は彼女を、何だと思っているのだろう。
教える相手。
まず浮かんだその言葉は、口にするまでもなく今の関係には少し狭すぎた。
レオに頼まれて初めて会ったころなら、それで足りただろう。
一問の問題を挟んで向かい合い、彼女がどこで立ち止まっているのかを探した。自分は問いを置き、彼女はそれを辿った。
あのころは、それだけだった。
けれど、今は違う。
それだけの相手なら、体調を崩したあと、姿を見るたびに顔色まで確かめる必要はない。
こうして問題を一枚も開かず、一冊の本について言葉を交わしているだけの時間を、思いのほか心地よいと感じることもないだろう。
すぐ前では、レオとフローレンがまた何か話している。
開け放たれた窓から風が渡るたび、赤い三つ編みと長いミルクティ色の髪が、それぞれやわらかく揺れた。
――友人。
浮かんだ言葉は、驚くほど簡単だった。
レオについてなら、考える必要もない。
ずっと昔から友人だ。
では、フローレンは。
――友人、だろう。
そう思う。
少なくとも、自分はそのつもりだった。
問題がなくても一緒にいられる。
特別な用事がなくても、こうして話していられる。
彼女が笑っていれば、そのまま笑っている方がいいと思う。
これを友人と呼ばないのなら、ほかに何と呼べばいいのか分からなかった。
そこまで考えてから、ルシアンはふと気づいた。
自分がそう思っているだけで、フローレン本人がどう思っているのか聞いたことは一度もない。
途端に眉間へ力が入った。
「……難しい顔してるね?」
いつの間にか隣へ戻ってきたレオが、横から顔を覗き込んでくる。
「別に」
「絶対なんか考えてたでしょ」
「考えてはいた」
「何を?」
「……言いたくない」
「えー」
不満そうな声を上げながらも、レオはそれ以上追及しなかった。
その向こうで、フローレンも何の話だろうとでも言いたげにこちらを見ている。
「どうしたんですか?」
「……何でもない」
返しながら、またその柔らかな敬語が耳へ残った。
友人だと思っている。
なら、まずはそれを確かめればいい。
そして本当に互いにそう思っているのなら。
いつまでも、初めて会ったころと同じ呼び方でいる必要もないのではないか。
筋道としてはおかしくない。
レオが言ったから変えるわけではない。
考えてみれば、今の関係には、家名のままの呼び方が少し遠く感じられただけだ。
それなら本人に聞けばいい。
彼女が望まないなら、今まで通りにすればいい。
そこまで整理してしまえば、いつもの自分ならそれで終わるはずだった。
けれど。
その先にあるたった一つの名前を実際に口にするところまで考えると、なぜか思考がほんの一拍だけ止まった。
フローレン。
以前から知っている名前だ。
何度もレオの口から聞いた。
自分だって、彼女と初めて会う前から知っていた。
それなのに、家名を伴わないその名だけを自分の声で呼ぶことを思い浮かべると、これまでよりひとつ近い場所へ手を伸ばすような感覚がした。
ルシアンはわずかに目を伏せる。
フローレン。
ルシアンは、その名を胸の内で一度だけなぞった。
中庭へ続く扉が開く。
途端に、明るい午後の光と風が廊下へ流れ込み、三人の制服や髪を一度に揺らした。
先を歩いていたフローレンの長い髪がふわりと持ち上がり、陽を透かした毛先が肩の向こうへさらさらと流れていく。
ルシアンはその背を見つめ、静かに息をついた。
まずは、聞いてみよう。
自分たちは友人なのか。
そこから先は、その答えを聞いてから考えればいい。




