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7-4 今日は休む日


 翌朝、目を覚ましたときには、身体の重さはずいぶん薄れていた。


 部屋の中はもう朝の明るさに満たされていた。窓辺から入り込む淡い光が、見慣れた家具や寝台の輪郭を静かに浮かび上がらせている。


 フローレンは枕に頭を預けたまま、すぐには身体を起こさなかった。


 これまでなら、目を覚ましたあとの動きに迷うことなどなかった。起きると決めるより先に身体を起こし、そのまま一日を始めていたはずだ。


 けれど今朝は、まず自分の内側へ意識を向ける。


 頭に痛みはない。

 昨日は考えようとするたび奥の方へ沈んでいた重さも、今はほとんど感じなかった。


 毛布の中で手を握り、ゆっくりと開いてみる。足首を動かしても、昨日のようにそれだけで億劫になることはない。片腕を外へ出せば朝の空気が袖口から肌へ触れたが、すぐ毛布の中へ逃げ込みたくなるような寒気もなかった。


「……大丈夫そう」


 小さく呟いてから、フローレンは自分で少し可笑しくなった。


 朝起きて、こんなふうに身体の具合を一つずつ確かめたことなど、これまで一度もない。


 目が覚めれば起きる。お腹が空けば食べる。眠ければ寝る。

 身体のことを考えるといっても、せいぜいそのくらいだった。


 けれど昨日、自分では「大丈夫」だと思っていた身体にも、いくつもの変化は確かに起きていた。


 何も感じていなかったわけではない。

 眠さも、重さも、寒さも、そのときの自分はちゃんと知っていた。

 ただ、それぞれが何を意味しているのかを、うまく読み取れていなかっただけだ。


 フローレンはゆっくり身体を起こし、寝台の縁へ腰を下ろした。足を床へつけても、すぐには立ち上がらない。


 足の裏には、きちんと床の硬さがある。少し待ってみても視界は暗くならず、頭の重さが戻ってくることもない。


 そこまで確かめてから、両足へ静かに力をかけた。


「……平気」


 立ち上がった身体は、何事もなく自分の重さを支えていた。


 昨日、何度も口にしたのと同じ言葉だった。

 けれど今朝のそれは、ただそう思いたかったから出たものではない。

 自分の身体へ意識を向けて、一つずつ確かめたあとで言えた。


 その小さな違いが、フローレンには少しだけ嬉しかった。


 朝食のころには、食欲もいつも通り戻っていた。それでも昨日のことがある以上、自分の判断だけで教室へ向かう気にはならない。


 フローレンは制服を整えると、授業が始まる前にもう一度医務室を訪れた。


 学院医に診てもらうと、熱はほとんど下がっていた。


「ずいぶん良くなったみたいね」

「はい。身体も軽いです」

「そう。よかったわ」


 学院医の声にも昨日ほどの慎重さはない。


 これなら今日は、そのまま教室へ戻っていいと言われるのだろう。

 そう思っていたフローレンに、学院医は診察を終えると、ごく当然のことのように続けた。


「でも、今日は一日休みなさい」

「え」


 思わず声が出た。


「もう熱は下がってるんですよね?」

「ええ」

「頭も重くないですし、寒くもないです」


 昨日よりずっと調子はいい。今朝は起き上がる前から、自分の身体へ意識を向けて一つずつ確かめてもきた。


 そう伝えると、学院医の表情がわずかに和らいだ。


「ちゃんと自分の身体を見られたのは偉いわね」


 そこを褒められるとは思っていなかった。フローレンは少し遅れて返事をする。


「……はい」

「でもね。熱が下がったからといって、すぐに昨日までと同じように動いていいとは限らないの」

「……そうなんですか?」

「今日はもう一日、ゆっくりしておきなさい。食べて、眠って、身体を休める。明日の朝も調子がよければ、そのとき教室へ戻ればいいわ」


 授業には出られそうだった。

 歩くこともできるし、考えることだってきっとできる。


 そう思ったところで、昨日聞いたルシアンの声が意識に上った。


『今日進まなかったからといって、戻ったわけでもない』


 フローレンはしばらく学院医を見て、それから素直に頷いた。


「……分かりました」


 今度は、それ以上「できること」を並べなかった。


 寮へ戻っても、まだ朝は始まったばかりだった。


 その日は、思っていたより長かった。


 いつもなら教室にいる時刻に、自室の窓辺で鐘の音を聞く。今ごろは何の授業かも、どの教室にいるはずだったかも分かるのに、今日はそこへ向かう必要がない。


 窓の外を眺め、少し眠くなれば寝台へ戻った。

 目が覚めれば水を飲み、昼になれば食事を取る。

 何かを終わらせるでもなく、次の何かを始めるでもなく、そんな小さなことだけで午前が過ぎていった。


 昼を過ぎるころには、身体の重さはほとんど消えていた。眠気も薄れ、じっとしていることの方が少し退屈に思えるほどになっている。


 窓の外では、薄い雲が春の終わりの空をゆっくり流れていた。朝から変わらずそこにある部屋も、時間が移るにつれて少しずつ違う表情を見せている。


 寝台のそばには、昨日ルシアンがまとめてくれた鞄が置かれていた。


 その中にはノートがある。

 途中のままになっている問題も、その中に挟まれている。


 最後に書いた一行も、その次に確かめようとしていた条件も、記憶の中には鮮明に残っていた。


 フローレンはしばらく鞄を見つめる。


 開こうと思えば開ける。

 身体も、ノートを取り出して考えるくらいなら何の苦もない。


 続きを見たい。


 その気持ちは、休んだからといって少しも薄れていなかった。


 けれど今度は、手を伸ばす前に一度だけ考えた。


 ――今日は休む日だ。


 鞄の中の頁は、明日になってもそこにある。

 どこまで考えたのかも、その先で何を見ようとしていたのかも、自分の中から消えたりはしない。


 フローレンは膝の上に置いていた手を、そのまま動かさなかった。


「今日は、いいや」


 そう決めてみると、思っていたほど心はノートの方へ引かれなかった。


 続きを知りたい気持ちは、変わらずにある。

 次に頁を開いたら、あの条件からどこへ繋げようか。考え始めれば、きっとまた夢中になるだろう。それを想像することさえ、少し楽しみだった。


 けれど、楽しみにしていることと、今すぐ始めなければならないことは違う。


 フローレンは鞄から離れたまま、窓の外へ目を向けた。


 春の終わりの空を流れていた薄い雲が、ゆっくりと遠ざかっていく。形を変えながら空の端へ向かうその様子を、今日は行き先も考えず、ただ眺めていた。


 何も書かなかった一日が挟まっても、それまで書いたものは消えない。


 そう知ったあとの休息は、昨日とは少し違っていた。

 時間を持て余しているはずなのに、何かをしなければと急かされる感じがない。

 何もしないまま過ぎていく午後を、フローレンは初めてそのまま受け入れていた。


 

 翌朝、学院へ続く道を歩く足取りは、すっかりいつもの軽さを取り戻していた。


 梢を渡った風が頬や髪に触れていく。少し歩幅を広げても息は乱れず、身体の内側の重さも、もうどこにも感じない。


 風に触れても、寒くない。


 ただ心地よい朝の空気として通り過ぎていく。


 その当たり前の感覚が、今日は妙に新鮮だった。


 これまで「元気」であることを、わざわざ確かめる必要などなかった。

 足を出せば思ったところへ身体が運ばれること。息をしても胸が重くならないこと。外の空気を、そのままの温度で感じられること。


 普段なら意識の表へ出てこない小さな感覚が、いくつも重なって一日の始まりを支えている。


 昨日までなら、そんなことを考えもしなかった。


 教室へ入ると、エリナはすぐにフローレンを見つけた。


「フローレン!」


 駆け寄ってくるなり、顔を覗き込まれる。


「もう大丈夫なの?」

「うん。もう熱も下がったし」

「ほんとに?」

「ほんとに」


 そう答えても、まだ安心しきれないらしい。エリナは顔色を確かめるように、しばらくフローレンを見ていた。


「今日も無理しないでよ?」

「うん」

「面白そうな問題見つけたら、休むの忘れそう」

「忘れないよ」


 すぐに答えたものの、ほんの少し考えてから付け足す。


「……たぶん」

「そこ、たぶんなのね」


 呆れたような声がおかしくて、フローレンも笑った。


 席へ着き、教科書と筆記具を机の上へ揃える。始業まではまだ少し時間があり、いつもの癖で鞄へ手を入れたところで、指先がノートの角に触れた。


 取り出しかけて、止まる。


 体調はいい。

 問題だって、きっといつも通り考えられる。


 けれど、それならなおさら急ぐ必要はなかった。


「……放課後にしよう」


 指先を離し、ノートは鞄の中へ残す。


「何が?」

「ううん。こっちの話」


 エリナへそう返したところで、今度は別の話題が飛んできた。


 フローレンは自然にそちらへ向き直る。


 始業の鐘が鳴るまでの短い時間は、ノートを開くことなく、昨日聞けなかった話の続きや他愛のないやり取りの中で過ぎていった。


 

 放課後。


 図書館の脇へ続く廊下を歩いているうちに、見慣れた扉が少しずつ近づいてくる。


 気づけば、いつもより歩幅がわずかに大きくなっていた。自分でもそれがおかしくて、フローレンは足取りを元へ戻しながら小さく笑う。


 一日空いただけなのに、ずいぶん久しぶりのような気がした。


 扉の前で足を止め、軽く叩く。


「どうぞ」


 中から聞き慣れた声が返ってきた。


「こんにちは」

「フローレン」


 真っ先に顔を上げたレオは、挨拶を返すより先に数秒こちらを見ていた。


 顔色だけではない。

 歩いて入ってきたときの足取りや、立っている姿勢まで見ているらしい。


 以前なら、ただ見られているとしか思わなかっただろう。けれど今は、その視線が何を確かめているのか、フローレンにも少しだけ分かった。


「今日はどう?」

「大丈夫。頭も重くないし、寒くもないよ」


「立ちくらみは?」


 今度は、向かいにいたルシアンが尋ねた。


「ないです。今朝も、立つ前に少し待ってみました」


 そう答えると、それまでフローレンの様子を確かめていた紫色の瞳から、ほんのわずかに力が抜けた。


「そうか」


 返ってきたのは、それだけだった。


 けれど自分がちゃんと気をつけたことまで伝わったような気がして、フローレンは少し嬉しくなる。


「昨日はちゃんと休んだ?」


 レオの確認は、まだ一つ残っていたらしい。


「休んだよ」

「本当に?」

「本当に。問題も開かなかった」


 すると、レオの眉が少し上がった。


「おお」

「なに、その反応」

「いや。ちゃんと課題やったんだなって」

「最高難度の?」

「そうそう」

「何点?」

「満点」

「やった」


 昨日一日ここへ来なかっただけなのに、扉を開ける前にはどこか久しぶりに感じていた。その感覚も、いくつか言葉を交わしているうちに、いつの間にか薄れていた。


 フローレンはいつもの席へ腰を下ろす。


 向かいにはルシアンがいて、隣にはレオがいる。机の中央には三人分の菓子が置かれ、紙包みからほのかに甘い香りがしていた。


「今日は何?」


 包みを見ながら尋ねると、レオが待っていたように答える。


「果実入り」


 フローレンは反射的に向かいを見た。


「よかったですね」

「なぜ僕を見る」

「だって、一番美味しかったって言ってたから」


 ルシアンは一瞬だけ黙った。


「……その話は忘れてくれてもよかったんだが」

「無理です」


 間を置かずに答えると、隣でレオが吹き出した。


「それは相手が悪いって」

「……分かっている」


 諦めたような返事に、また三人のあいだへ小さな笑いが広がった。


 変わっていない。


 一日ここへ来なかったからといって、何かがずれてしまったわけでもない。自分の席も、二人の声も、机を囲む空気も、昨日までと同じ場所にあった。


 フローレンは鞄を開き、今度こそ一冊のノートを取り出した。


 頁をめくると、二日前に途中で閉じた問題がそのまま現れる。


 朝に書いた式。

 自習室で付け足した数行。

 最後に羽根ペンを止めた場所。


 そして、その先に残る余白。


 フローレンはすぐには羽根ペンを取らず、頁の上をゆっくりと辿った。


 どこまで分かっているのか。

 どの条件を次に使おうとしていたのか。

 なぜ、あの場所で手が止まったのか。


 どれも分かる。


 二日という時間が挟まっても、そこまで考えた道筋は少しも曖昧になっていなかった。最初の一行からもう一度辿り直さなくても、二日前の自分が立っていたところへ、そのまま意識を置くことができる。


「……ちゃんと残ってる」


 思わず零れた声に、レオが反応した。


「何が?」


 フローレンは頁を見たまま、少しだけ笑った。


「続き」


 羽根ペンへ手を伸ばす。

 その指先が軸へ触れる直前、向かいから聞き覚えのある声が飛んできた。


「今日は一問だけだ」


 フローレンの手が止まる。

 顔を上げると、ルシアンはいつもと変わらない真面目な表情でこちらを見ていた。


 二日前にも聞いた言葉だった。


 あのときは、まだ始めてもいないのにと思った。

 もっとやりたいのに、と少しだけ不満にもなった。


 けれど今日は、その言葉の受け取り方が違った。


「わかりました」


 素直に答えると、隣から妙に感心したような声がする。


「おお」

「なに?」

「今日は素直だね」

「いつも素直だよ」

「この前は『まだ始めてもないのに』って顔してたけど」


 フローレンはレオを見る。


「……顔に出てた?」

「かなり」


「出ていたな」


 思いがけず向かいからまで加勢されて、フローレンは唇を少し尖らせた。


「ノクティスさんまで」

「事実だ」

「……もう問題やります」

「ああ」


 何事もなかったように自分の本へ戻るルシアンの向こうで、レオがまだ楽しそうにしている。


 フローレンも羽根ペンを手に取った。


 問題を解きたい気持ちは、少しも薄れていない。一日ここへ来なかったぶん、その先がどんなふうに繋がるのか、むしろ以前より早く知りたいくらいだった。


 もっと考えたい。

 もう少し先まで行ってみたい。


 それでも、今日は一問だけ。


 一問終わったら休めばいい。

 まだ考えたければ、その気持ちは次に頁を開くときまで持っていけばいい。


 そう思えることと、目の前の問題が楽しみなことは、少しも矛盾しなかった。


 フローレンは二日前に止まった行へ指を置いた。


 ここまでは分かっている。

 なら、見るべきなのはその次だ。


 一つの条件を確かめ、そこから使えそうな知識へ意識を向ける。紙に残された式と結びつけながら少し考えると、止まっていた先へ自然に道筋が続いた。


「あ……」


 羽根ペンの先が紙へ触れる。


 さら、と乾いた音を立てて、二日前に止まった式の先へ新しい一行が書き足された。


 書き始めてしまえば、不思議なほどいつも通りだった。


 机の中央には、まだ開けていない三人分の菓子がある。向かいではルシアンが自分の本を読み、隣からはレオが紙包みを弄るかすかな音がする。


 昨日にはなかった、いつもの放課後。


 けれど、昨日という空白を埋めるために急ぐ必要はなかった。


 閉じた頁は、閉じた場所のまま待っていた。

 そこまで考えたことも、三人で過ごしてきた時間も、何ひとつ最初へ戻ってはいない。


 フローレンはもう一度、羽根ペンを動かす。


 二日前に止まった線の先に、新しい線がひとつ増えた。

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