7-3 何も進まない日
学院医に促され、フローレンは窓際の寝台へ腰を下ろした。
白い布を掛けた寝台は、見た目よりも少し柔らかかった。靴を脱いで身体を横たえると、学院医が肩まで毛布を掛けてくれる。
その重みを受け止めるように、フローレンはゆっくりと息を吐いた。
その途端だった。
「……あれ」
思わず声が零れる。
さっきまで自分の足でここまで歩いてきた。階段も下りたし、学院医の問いにもきちんと答えられた。
だから横になれば、少し身体が楽になるくらいだと思っていた。
けれど実際に寝台へ身体を預けてみると、思っていた以上に力が抜けた。頭を枕から持ち上げることも、毛布の外へ腕を出すことも、今はひどく億劫に感じる。
立っているあいだは紛れていた重さが、自分で身体を支えなくてよくなった途端、急に隠しようのないものになった。
力が入らないわけではない。動かそうと思えば動かせる。それでも今は、毛布の下へ預けた腕も脚も、そのままにしておきたかった。
「どうしたの?」
寝台の脇にいたレオが尋ねる。
「……横になったら、急に身体が重くなった気がして」
フローレンは毛布の下で指先をわずかに動かした。ちゃんと動く。それなのに、もう一度起き上がろうという気にはなれなかった。
「さっきまで普通に歩けてたのに」
「たぶん、急に重くなったんじゃないよ」
レオはすぐには続けず、少し考えるような間を置いた。
「動いてる間は、そこまで気づいてなかったんじゃない?」
「……気づいてなかった」
自分で言ってみると、その方がずっとしっくりきた。
朝から身体にあった重さも、眠気も、妙な寒さも、途中で急に現れたものではなかったのかもしれない。ただ授業を受けて、エリナと話して、問題を考えているあいだは、それより先に意識を向けたいものがいくつもあった。
何もしなくてよくなった今になって、ようやく身体の方へ意識が追いついたような気がする。
「今日はもう、このまま少し休んでいなさい」
学院医が水差しを寝台のそばへ置いた。
「眠れそうなら、そのまま眠ってしまっていいわ。熱が上がったり、気分が悪くなったりしたら、すぐに呼んで」
「はい」
「それから二人も、長居はしないようにね」
今度はレオが先に返事をした。
「はーい」
「分かりました」
二人の返事を聞いて、学院医はひとまず納得したらしい。寝台のそばを離れる前にもう一度フローレンの様子を確かめ、それから奥の机へ戻っていった。
紙をめくる音が、医務室の奥からかすかに届く。薬草を煎じたような淡い匂いの中に、ときおり硝子の触れ合う小さな音が混じった。
フローレンは枕へ頭を沈めたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
横になってからしばらく経つのに、身体の重さはまだ抜けていない。毛布の下へ預けた腕も脚も、動かさずにいられるならそのままにしておきたいような気がした。
寝台のそばにいたレオが、水差しへ手を伸ばす。
「飲めそう?」
「うん。少し飲む」
答えて、フローレンは身体を起こそうと肘をついた。
けれど、思っていたより腕に力が入らない。肩を持ち上げたところで身体が重さに引き戻され、上半身が中途半端なところで止まった。
「あ……」
すぐそばで気配が動いた。
「無理に起きなくていい」
ルシアンが寝台の脇へ寄り、枕へ手をかける。フローレンが身体を支えなくても済むように、もう一つの枕を背へ添え、ゆっくりと高さを整えた。
「これならどうだ?」
「……大丈夫です」
フローレンは力を抜き、重ねられた枕へ背中を預け直した。
さっきより少しだけ身体が起きる。けれど自分の力で支えているところはほとんどなく、そのことが妙に不思議だった。
レオから受け取った杯を、フローレンは両手で包むように持った。水を一口含むと、ほどよく冷えた感触が乾いていた喉をゆっくりと通っていく。
「ありがとう」
「どういたしまして」
レオがいつもの調子で答える。
その間に、ルシアンはフローレンの鞄を寝台の脇へ置いていた。その中にはノートも、さっきまで取り組んでいた問題用紙も収められている。
フローレンはその鞄へしばらく目を留め、それから手元の杯へ視線を落とした。
「……なんか、不思議」
「何が?」
「朝は、本当に大丈夫だと思ってた」
レオが寝台脇の椅子へ腰を下ろす。その隣では、ルシアンも少し離れていた椅子を引き寄せた。
「ちょっと眠いなとは思ったし、身体も少し重かったけど……授業は受けられたから」
朝からのことを順に辿りながら、フローレンは自分が大丈夫だと思っていた理由を言葉にしていく。
「先生に当てられたら答えられたし、黒板に書かれたこともちゃんと覚えられた。昼ご飯も普通に食べたし、自分で歩けたし」
「うん」
「問題も、いつもより時間はかかったけど考えられた」
どれも嘘ではない。
できなかったことより、できたことの方がずっと多かった。
「だから……考えられるなら、大丈夫なんだと思ってた」
口にしてみると、自分が何を頼りに「大丈夫」と決めていたのかがよく分かった。
できる。
覚えている。
考えられる。
それなら、まだいつも通りなのだと。
「でも、熱あったんだよね」
フローレンはもう一度、自分の額へ手を当てた。
「今触っても、やっぱりよく分からない」
「君の手も同じくらい温かいだろうからな」
ルシアンに言われて意識を向けてみても、額と掌のどちらがどれほど熱いのかまでは分からなかった。
フローレンはしばらく黙り、杯の中に残った水を見る。
「……身体って、分かりにくい」
「分かりにくい?」
「問題なら、ちゃんと書いてあるのに……」
「何が?」
「条件」
まだまとまりきっていない考えを、ひとつずつ言葉へ置き換えていく。
「何を聞かれてるのかも書いてあるし、必要なこともどこかにある。分からなくなったら、自分がどこまで分かってるのか考えればいいし……」
何を聞かれているのか。
何が分かっているのか。
この条件から何が言えるのか。
どこで止まったのか。
問題なら、立ち止まったときに確かめる場所がある。
「でも身体は、そうじゃないんだなって」
フローレンは毛布の上へ出していた自分の腕を見た。
「朝から少し重かったけど、『これは具合が悪いです』って書いてあるわけじゃなくて。寒いのも、本当に寒いのか、ただ風が当たっただけなのか分からなかったし……立ちくらみだって、昨日は急に立ったからだとばかり」
「それも間違いとは限らないけどね」
「そうなの?」
「急に立ったことも理由の一つだったかもしれない。でも今日のは、それだけじゃなかったんだと思う」
昨日は机へ手をつけば、自分で身体を支えられた。
今日はゆっくり立ったのに、それでも足から力が抜けた。
並べてみれば、違いは分かる。
けれど、そのときの自分には分からなかった。
「……難しい」
「身体は問題文くれないからね」
レオがさらりと言った。
フローレンは一瞬きょとんとしたあと、すぐに納得した。
「本当にそう」
「『今日は熱があります。症状を三つ挙げなさい』とか書いてあれば楽なのにね」
「それなら分かるかも」
「選択肢も欲しい?」
「欲しい」
間髪入れない返事に、レオの声が少し楽しげになる。
「じゃあ、頭が重い。身体がだるい。寒気がする。この三つから選びなさい」
「全部」
「満点」
「嬉しくない」
声にわずかな笑いが混じった。
けれど、それだけでも思ったより身体に響いた。胸のあたりに薄い疲れが残り、フローレンは力を抜いて枕へ背中を預ける。
レオも、それ以上は話を続けなかった。
会話が途切れると、奥の机で学院医が紙をめくる音や、扉の向こうを通り過ぎる靴音が耳に入ってくる。
フローレンは目を閉じた。
眠い。
身体はすっかり休む方へ傾いているのに、頭の中にはまだ今日のことが残っていた。
朝に解きかけた問題。
昼休みに閉じたままだったノート。
さっき自習室で途中まで書き進めた式。
どれも鮮明なまま覚えている。
最後に書いた一行も、その次に見ようとしていた条件も。
鞄の中には、その途中が今もそのまま残っていた。
フローレンはゆっくりと目を開ける。
いつもの放課後なら、今ごろはまだ三人で同じ机を囲んでいるはずだった。
ルシアンは自分の本を読み、ときどきこちらの手元へ気を配る。レオは隣で菓子をつまみ、夢中になりすぎれば休憩を勧めてくる。
そうしているうちに、ノートには少しずつ続きが増えていく。
今日は違った。
羽根ペンは手の中にない。
自分は白い寝台の上で、ただ横になっている。
それでも学院の時間は、いつもと同じように進んでいた。
やがて、壁の向こうから鐘の音が届いた。
くぐもった余韻が静かな医務室に残るなか、フローレンはぽつりと呟いた。
「……今日、何も進まなかった」
レオがこちらを見る。
「何も?」
「うん。朝の問題も途中だったし、昼も何もやらなかったし。自習室でも最後まで解けなかった」
少し間を置く。
「一日あったのに」
焦っているわけではない。
明日までに何かを終わらせなければならないわけでもない。
ただ、ここ最近は毎日ほんの少しずつ、昨日までになかったものが増えていた。
昨日分からなかったことが、今日は少し分かる。
止まったところから、次の日にはもう一歩進める。
そんなふうに、昨日の自分の続きへ進んでいくことが楽しかった。
今日は、その続きがない。
「でも、今日分かったこともあったでしょ」
レオが言った。
「身体のこと?」
「うん。朝はよく分からなかったことが、今は少し分かるようになった」
フローレンは考える。
身体は思っていたより分かりにくい。
考えられることと、元気であることは同じではない。
確かに、それは朝の自分が知らなかったことだった。
「……そうかも」
けれど、寝台の脇に置かれた鞄を見ると、やはり少しだけ落ち着かなかった。
「でも、勉強は……昨日までずっと、少しずつ先へ行ってたから。今日だけ、その続きがないのが変な感じ」
フローレンは毛布の上に置いた自分の手を見る。
いつもならまだ羽根ペンを握っているはずの手が、今日はじっとしている。
少しの沈黙のあと、ルシアンが口を開いた。
「昨日までやったことが、なくなるわけじゃない」
フローレンは顔を上げる。
「今日進まなかったからといって、戻ったわけでもない」
静かな声だった。
いつも問題を前に話しているときと、それほど変わらない。
「覚えたことも、できるようになったことも、そのまま残っている。続きは、またできるときに始めればいい」
――忘れない。
それは誰より、自分自身がよく分かっている。
覚えたことだけではない。
どこまで分かっているかを確かめることも、条件を繋ぐことも、以前のように最初から全部やり直さなくてもいいことも。
そこまで考えたところで、以前ルシアンに言われた言葉が意識に上った。
『全部は戻らなくていい。今いるところから一番近い次を探せばいい』
あのときは、問題の中の話だった。
けれど今日休んだからといって、自分が昨日までいた場所がなくなるわけではない。
次に始めるときは、最初からではなく、止まったところからでいい。
「……そっか」
毛布の上で、フローレンはゆっくりと指を開いた。
「休んでも、最初には戻らないんだ」
「ああ」
ルシアンの短い返事が返ってくる。
フローレンはもう一度その言葉を胸の内で確かめた。
今日、続きを進めなくても。
昨日までの続きは、ちゃんとそこに残っている。
「じゃあ」
レオが、そこで少しだけ声の調子を明るくした。
「今日の課題、決めよっか」
「……課題?」
思いがけない言葉に、フローレンがレオを見る。
レオは人差し指を一本だけ立てた。
「寝る」
「……それだけ?」
「それだけ、じゃないよ。最高難度の課題だから」
「最高難度なんだ……」
「そうそう。難しくても、今後のために絶対やった方がいいやつ」
いかにももっともらしく言われて、フローレンは少し考える。
「……課題っていうよりただの休憩じゃない?」
「いや、課題」
「そこ押し切るんだ?」
「だってフローレン専用の特別課題だからね」
あまりにも迷いなく言い切られて、フローレンの声に小さな笑いが混じった。
「なにそれ」
「ほら。笑ってないで課題やって」
「最高難度のやつ?」
「最高難度のやつ」
レオが毛布を示す。
「……分かりました」
「よし。いい返事」
まだ少し可笑しさを残したまま、フローレンは身体を枕へ沈めた。
さっきまで胸のどこかに引っかかっていたものは、完全になくなったわけではない。
それでも、「何もしない時間」と思っていたものに、今日やるべきこととして名前をつけられると、少しだけ受け入れやすくなる。
フローレンは毛布を胸元まで引き上げた。
今日は、進む代わりに休む。
そう思うと、ただ止まっているだけだった時間が、先ほどまでとは少し違って感じられた。
「じゃあ……寝ます」
「ああ」
ルシアンが答えた。
「ゆっくり休むといい」
「はい」
目を閉じかけて、フローレンは一度だけ二人を見る。
「二人は?」
「もう少しいるよ」
レオが寝台のそばで答えた。
「眠るまではいる。寝たら帰るから」
「……ありがとう」
それだけ確かめると、フローレンは今度こそ目を閉じた。
明るかった医務室が瞼の向こうへ遠ざかる。
何も見なくなると、代わりに耳へ届くものが少しずつ増えた。
奥から聞こえる羽根ペンのかすかな音。
ときおり廊下を通り過ぎていく靴音。
隣に、もっと近い気配が二つある。
すぐそばで、紙が静かに返った。
ルシアンが本を開いたのだろう。
それから少しして、二人の抑えた声が聞こえた。
「さっき、すごい勢いだったね」
「何がだ」
「アストリアって呼んだとき」
「倒れそうだったんだから仕方ないだろう」
「まあね」
短い間があった。
そして、さらに抑えた声の会話が続く。
「……というか、いつまでアストリアって呼ぶの」
「どういうことだ」
「もうそろそろ俺みたいに、フローレンって呼ん――」
言葉が不自然なところで止まった。
紙をめくる音も、一度途切れる。
その先が少し気になったけれど、フローレンは目を開けなかった。
耳を澄ませていれば、また何か聞こえるかもしれない。
そう思ったのに、いつまで待ってもレオの声は続かなかった。代わりに、ほど近いところで紙が一枚返り、医務室にはまた静かな時間が戻ってくる。
やがて、身体の重さが少しずつ寝台の柔らかさへ馴染み始めた。
頭も、腕も、脚も。
自分で支えていなくていいのだと思うと、身体のあちこちから余計な力が抜けていく。
そのとき、肩に掛かっていた毛布の端がわずかに滑った。
首元へ触れた空気に、フローレンは身を縮めかける。
直そうとは思った。
けれど毛布の中から腕を出すことさえ、今は少し億劫だった。
まあいいか、とそのままにしていると、不意に肩のあたりで布が動いた。
ずれていた毛布がそっと引き上げられ、首元まで戻ってくる。
「……ありがとう」
目を閉じたまま呟いた。
一拍置いて、ルシアンの声が返る。
「起きていたのか」
「まだ少し」
「……早く寝る」
「はい」
どうやら今度こそ、本当に眠らなければならないらしい。
フローレンは声に小さな笑いを滲ませ、それからゆっくり息を吐いた。
今日は、いつもの放課後とは何もかもが違った。
自習室の机はない。
問題用紙も広げていない。
羽根ペンも握っていない。
三人で菓子を分けながら、昨日の続きへ線を足していく時間でもない。
自分だけが寝台に横たわっている。
それなのに、不思議と一人になった気はしなかった。
少し離れたところから、レオの気配がする。
すぐそばでは、ときおりルシアンの本の頁が返る。
目を閉じていても、それだけで二人がまだそこにいると分かった。
問題を解いていなくても。
何か新しいことをできなくても。
いつもの机を離れたからといって、それまで三人のあいだに積み重なってきた時間まで置いてきてしまうわけではないらしい。
そう思うと、肩から力が抜けた。
今日、新しい線は引かなかった。
けれど、昨日までに繋いだものは消えていない。
紙の上だけではなく。
たぶん、自分がまだうまく名前をつけられないところにも。
そこまで考えたところで、続きはもう浮かばなかった。
廊下の靴音が遠ざかる。
学院医の羽根ペンが紙を掠める音も、ルシアンが頁を返すかすかな音も、次第に眠気の向こうへ沈んでいった。
フローレンはもう、それを追いかけようとはしなかった。
今日は、ここまででいい。
毛布の重みと、すぐそばに残る二人の気配に身体を預ける。
やがて呼吸は静かに深くなり、最後まで耳に残っていた頁の音も聞こえなくなった。
更新頻度と時間、元に戻しました!
三年生編の終わりまで、朝夕更新いたします。
一緒に完走していただけるとうれしいです。




