7-2 熱
しばらくして、フローレンの羽根ペンが止まった。
紙の上には、さっきまで途切れていた式の続きが数行増えている。
辿った筋道に間違いはない。朝には越えられなかったところも、今はもう通り過ぎていた。
けれど最後の一行を書き終えても、いつものようにそのまま次の考えへは移れなかった。
羽根ペンを持ったまま、フローレンは溜まっていた息をゆっくりと吐き出す。
考えられないわけではない。
どこまで進んだのかも、なぜここで止まったのかも分かっている。次に確かめるべき場所にも、すでに見当はついていた。
ただ、そこへ手を伸ばそうとするたび、頭の奥に薄い重さが一枚ずつ重なっていく。ひとつ考え終えるごとに、次を掴むまでの間が少しずつ長くなっている気がした。
フローレンはとうとう羽根ペンを置いた。
指先を眉間へ添え、そこに溜まったものを散らすように、ゆっくりと押さえる。
「……少し休憩しようかな」
いつもなら、レオに促されてからようやく羽根ペンを置くことの方が多い。
そんなフローレンが自分から休むと言ったことに、レオはほんの一瞬だけ反応を止めた。
「うん。そうしよ」
「お水、取ってくるね」
机の端に置いていた杯は、いつの間にか空になっていた。
水差しは窓辺近くの小さな棚にある。ほんの数歩先だ。
フローレンは椅子を引いた。
昨日、立ち上がった途端に視界が暗くなったことは覚えている。
今度は同じことにならないよう、机に手を添えながらゆっくりと腰を上げた。足元が確かに床を捉えていることまで確かめてから、窓辺へ一歩を踏み出す。
それでも。
次の瞬間、視界が急に狭まった。
「……っ」
床を踏んでいたはずの足から、ふっと感覚が抜ける。
周囲の景色が一度に遠ざかり、目の前にあった机の輪郭さえうまく掴めなくなった。
すぐそばで誰かが何かを言った。
けれど声は膜を一枚隔てた向こう側へ沈み、水の底から届くように輪郭を失っていく。
身体が傾いた。
机へ手を伸ばす。
けれど、探るように伸ばした指先は何にも触れなかった。
そのまま膝から力が抜けかけた瞬間、前から腕が伸び、身体を受け止められた。
「――アストリア!」
低い声が、遠のきかけていた意識を引き戻した。
倒れかけた身体を支えていたのは、ルシアンだった。
片手がフローレンの腕をしっかりと掴み、もう片方の腕は背へ回されている。
自分ではうまく支えられなかった身体の重さを、ほとんど預けるような格好になっていた。
ほんの数秒だったはずなのに、ずいぶん長く感じた。
狭まっていた視界が少しずつ開いていく。
遠く沈んでいた音も戻り、耳のそばで聞こえる呼吸や衣擦れが、ひとつずつ輪郭を取り戻していった。
目の前には、いつもの自習室がある。
机も、椅子も、窓辺の棚も、さっきまでと何も変わっていない。
「……あ」
ようやく自分の足で立っている感覚が戻ってきて、フローレンは浅く息を吸った。
「すみません……」
「謝らなくていい」
間を置かず返ってきた声は、いつもの落ち着いた調子よりわずかに硬かった。
「立てるか?」
「はい。もう、大丈夫です」
そう答えて、フローレンは自分の足へ力を戻した。
床を踏む感覚はもうある。膝も、今度はきちんと身体を支えてくれた。
それでもルシアンは、すぐには手を離さなかった。
フローレンが自分の力だけで立てていることを確かめてから、背へ回していた腕をゆっくりと解く。それでももう片方の手だけは、まだ彼女の腕へ軽く添えられたままだった。
「座ろう」
レオもすでに席を立っていた。
いつもの柔らかな表情は影を潜めている。フローレンの椅子を引き、すぐ腰を下ろせるよう机から少し離した。
「ほら」
「……うん」
二人に促され、フローレンはおとなしく椅子へ腰を下ろした。
座ってしまえば、さっきまで狭まっていた視界が嘘のように落ち着いている。床も机も、もう揺れてはいない。
けれど呼吸だけはまだ少し浅く、胸がいつもより早い間隔で上下していた。
「昨日よりひどくなってるよね」
レオの声は静かだった。
「……昨日?」
「立ちくらみ」
「ああ……」
昨日は、視界が暗くなっても机へ手をつけばすぐに戻った。
今日は違う。何かにつかまろうと思うより先に足から力が抜けて、自分ひとりでは身体を支えられなかった。
「でも、もう平気――」
そこまで言って、フローレンは言葉を切った。
ルシアンが、まっすぐこちらを見ていた。
紫色の瞳には、普段よりわずかに強い色がある。どうやら今度は、「大丈夫」という言葉だけで引くつもりはないらしい。
「アストリア」
「はい?」
「……顔が赤いように見える」
言われて、フローレンは自分の頬へ手を当てた。
「そう、ですか?」
「……」
ルシアンはすぐには続けなかった。
わずかな間を置いてから、ルシアンは静かに尋ねた。
「少し、額に触れてもいいか?」
「……え?」
予想していなかった問いに、フローレンの反応が一拍遅れる。けれど、何を確かめようとしているのかはすぐに分かった。
「はい。大丈夫です」
返事を待ってから、ルシアンが手を伸ばす。
近づいた手の甲が、前髪に触れないようそっと額へ添えられた。ほんの短い接触だったが、確かめるにはそれで十分だった。
「……やっぱり熱い」
「え?」
手が離れたあと、フローレンも同じように自分の額へ触れてみた。
朝と同じだった。自分の手では、普段とどれほど違うのかまではよく分からない。
「そうですか?」
「ああ。熱があると思う」
ルシアンがゆっくりと手を下ろした。
隣ではレオも、普段の軽さが消えた真剣な目でフローレンの様子を確かめている。
「朝からそんな感じだった?」
「そんな感じって?」
「例えば……だるかったり、頭が重かったり」
すぐには答えず、フローレンは今日一日の感覚を順に辿った。
朝の教室では、いつもなら途切れず続く思考が、ひとつ進むたびにわずかに遅れていた。
昨夜は早めに休んだはずなのに、瞼の奥には目を閉じればそのまま眠れてしまいそうな重さも残っていた。
「朝は……少し身体が重かったかも」
「頭は?」
今度はルシアンが尋ねる。
「痛くはないです。ただ……」
フローレンは言葉を探しながら、自分の感覚へ意識を向けた。
痛みとは違う。けれど朝からずっと、頭の奥には何か薄いものが沈んでいるような感覚が消えずに残っている。
「頭も少し……重い感じがします」
「寒気は?」
レオの問いに、フローレンは一拍置いた。
昼休み、袖口から覗いた手首へ風が触れたとき、考えるより先に反対の手でそこを覆った。その感覚は今も鮮明に残っている。
「……少し」
「昨日も帰り道で寒そうにしてたよね」
「うん」
「今も?」
フローレンは自分の腕へそっと手を添えた。
部屋の空気に、冷え込んでいるような気配はない。窓から入り込む風もやわらかく、春先のように肌を刺すものではなかった。
それでも、身体の表面ではなく、その少し内側にだけ、薄い冷たさが居座っているように感じる。
「……うん。少しだけ」
言葉にして確かめるたび、それまで一つずつ見過ごしていた感覚が、少しずつ輪郭を持ち始めた。
身体が重い。
頭も重い。
少し寒い。
それに、立ち上がったときの眩みは、昨日より明らかに強かった。
朝には、どれもそれぞれ別の理由で説明できるような、小さなことにしか思えなかった。眠いのは少し疲れているから。身体が重いのも、そのせいかもしれない。寒さだって、風に当たったからだと思えばそれまでだった。
けれど今、こうして一つずつ並べてみると、もう同じようには思えない。
「フローレン」
レオが静かに名前を呼んだ。
いつもの軽い調子は、もうその声には残っていなかった。
「この何日か、眠かった日もあったよね」
「……うん」
「呼んでも気づかなかった日もあった」
「それは、考えてて……」
「うん。たぶん、それもあったと思う」
レオは否定しなかった。フローレンの言葉もそのまま受け取ったうえで、続きを口にする。
「指も赤くなってた。昨日は立ちくらみして、そのあと寒いって言ってた」
ここ数日の出来事が、一つずつ言葉にされていく。
フローレンは黙って聞いていた。
どれも覚えている。いつ、どこで、どんなことがあったのかも曖昧ではない。けれどそれらを、同じものの一部として並べたことは一度もなかった。
「……全部、別のことだと思ってた」
「俺も、最初はね」
レオの声はやわらかかった。責めるような響きはどこにもない。
けれど、いつものように軽く流してしまうつもりもないことだけは伝わってきた。
「でも、今日はちょっと違うかな」
そのやり取りを聞いていたルシアンが、ふいに机の上へ手を伸ばした。
開いたままになっていたフローレンのノートを閉じる。ぱたん、と頁を挟む乾いた音が、小さな自習室に思いのほかはっきりと響いた。
「今日は終わりだ」
「……え」
フローレンの目が、閉じられたノートへ落ちる。
「でも、少し座ってたら戻るかも――」
「昨日は、それで戻った」
ルシアンの声は静かだった。けれど、いつものように相談する余地を残した言い方ではなかった。
「でも今日は違う。昨日は自分で机につかまれた。今日は支えがなければ倒れていた」
フローレンは何も返せなかった。
昨日は、自分の手で身体を支えられた。今日はそれすら間に合わず、ルシアンに受け止めてもらわなければ床へ崩れていた。
並べられた事実には、言い返せるところがひとつもない。
ルシアンも、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。
ただ閉じたノートを机の端へ寄せ、代わりにフローレンへ向き直る。
「医務室へ行こう」
隣のレオも、今度は迷わず頷いた。
「うん。俺もそれがいいと思う」
「……そこまでしなくても」
つい口から出たものの、声には自分でも分かるほど迷いが混じっていた。
大丈夫だと言い切るには、さっき足から力が抜けた感覚がまだ身体に残っている。机へ伸ばした手が届かなかったことも、ルシアンに支えられなければ倒れていたことも、もう「少し眩んだだけ」では済ませにくかった。
「行って何ともなかったら、それで安心できるでしょ」
レオの声はやわらかい。無理に言い聞かせるのではなく、ひとつの選択肢をそっと差し出すような言い方だった。
フローレンは二人を順に見た。
レオはすでに菓子の包みを閉じている。ルシアンも自分の本には戻らず、机に広がっていたフローレンの紙を一枚ずつ揃えていた。
どうやら二人の中では、本当に今日の勉強はもう終わったらしい。
「……分かりました」
少し間を置いてから、フローレンは頷いた。
「医務室、行きます」
「うん」
返事を聞いて、レオもようやくひとつ息をついた。
フローレンは自分も荷物をまとめようと、机へ手を伸ばした。
けれど指先が届くより先に、ルシアンがノートの上に、散らばっていた問題用紙をまとめて揃えた。
「そのままでいい」
「え?」
「僕が片づける」
「でも、自分でできます」
「分かってる」
返事は間を置かずに返ってきた。
ルシアンは揃えた紙をノートに挟み、フローレンの鞄へ収めていく。
「できるかどうかの話じゃない」
その一言に、フローレンは続けかけていた言葉を飲み込んだ。
ルシアンが何を言いたいのかは、それだけで十分に分かった。
そこまで言われてしまえば、もう手を伸ばす理由もない。フローレンはおとなしく膝の上へ手を戻した。
「……ありがとうございます」
「ああ」
返ってきたのは、いつも通りの短い声だった。
隣では、レオが使っていた椅子を机の下へ戻していた。
「じゃあ、今度はゆっくり立とうか」
「うん」
昨日、立ち上がった途端に視界が暗くなったこと。それから、ついさっき足から力が抜けた感覚が意識に上る。
フローレンはすぐには腰を上げなかった。両足をきちんと床につけ、ひとつ息を整える。足の裏に固い床の感触があることを確かめてから、椅子の端へ身体を寄せた。
ルシアンもフローレンの鞄を持ったまま、すぐそばを離れない。もしまた身体が傾けば、すぐ支えられる距離にいた。
「大丈夫そう?」
レオの声に、フローレンは自分の身体へ意識を向ける。
「……うん」
机に手を添えながら、ゆっくりと腰を上げた。
膝を伸ばしても、視界はそのままだった。足元が遠ざかるような感覚もない。少し待ってみても、さっきの眩みは戻ってこなかった。
「平気」
今度は、自分でも確かめてからそう言えた。
それでもレオはすぐには歩き出さなかった。フローレンが自分の足で一歩を踏み出し、そのまま身体を支えられるのを見届けてから、ようやく隣に並んだ。
三人で自習室を出る。
廊下には、まだ夕方の明るさが残っていた。
昨日と変わらず窓は開け放たれ、外から入り込む風が石造りの廊下をゆるやかに抜けていく。昼のぬくもりを残した壁や床は、まだ冷えきるにはほど遠かった。
フローレンは二人のあいだを歩いた。
歩けないわけではない。何も考えずにいれば、足取りだって普段とそれほど変わらないように思える。
けれど一度、自分の身体へ意識を向けてしまうと、それまで見過ごしていたものがひとつずつ浮かび上がってきた。
階段では、一段下りるたびに身体を運ぶのがいつもより少し億劫だった。窓のそばを通れば、首元を抜けていく風が妙に冷たく感じられる。座っていたときには薄く沈んでいるだけだった頭の重さも、歩き始めてから少しずつ輪郭を増していた。
フローレンは考えるより先に、制服の襟元へ指を添えた。
その仕草を、隣のレオは見逃さなかった。
けれど今度は何も尋ねず、ただ歩幅をわずかに緩める。
反対側のルシアンも、それに気づいたらしい。声をかける代わりに、同じ速さへ足を合わせた。
誰も急かさないまま、三人は並んで廊下を進んでいく。
三人分の靴音だけが、夕方の静かな校舎にゆっくりと重なっていた。
医務室へ着くと、室内には薬草を煎じたような淡い匂いが漂っていた。
窓際には白い布を掛けた寝台がいくつか並び、その向こうには薬瓶や乾燥させた薬草の束が整然と収められている。
奥の机で書き物をしていた学院医が、三人の気配に気づいて顔を上げた。
「あら。どうしたの?」
問いかけられて、フローレンは傍らの二人へちらりと目をやった。
レオもルシアンも何も言わない。ただ、それぞれ静かにこちらを見ている。
フローレンはひとつ息を置いてから、今日一日のことを順に口にした。
「昨日、立ち上がったときに少し立ちくらみがあって……今日は朝から、身体と頭が少し重かったです」
言葉は、さっき二人に尋ねられたときよりも素直に続いた。
何がいつもと違うのか。今ならもう、自分でもひとつずつ分かっている。
「それと、少し寒くて。さっき立ち上がったときに、また眩んで……」
自分で並べてみると、朝には大したことがないと思っていたものが、少し違って聞こえる。
「そう。食事は?」
「普通に食べました」
「気分が悪かったり、どこか痛かったりは?」
「それはないです」
学院医はフローレンの顔色を確かめると、続けて熱を測った。
示された値を見て、ほんのわずかに考える間を置く。
「少し熱があるわね。高い熱ではないけれど、今日はもう休みなさい」
フローレンが返事をするより先に、学院医は穏やかな調子で続けた。
「疲れが重なっていたのかもしれないし、季節の変わり目で体調を崩しただけかもしれないわ。今のところ重い症状はなさそうだから、今日はよく眠って様子を見ましょう」
「はい」
フローレンは素直に頷いた。
それから、確かめるように自分の額へ手を当てる。
掌に触れる肌は、言われてみればいつもより少し温かいような気もした。それでも自分の体温と自分の手では比べようがなく、やはりはっきりとは分からない。
「……熱、あったんだ」
小さく零れた声が、薬草の淡い匂いの残る医務室に吸い込まれていく。
朝から授業を受けた。
昼食もいつも通り食べたし、自習室へだって自分の足で歩いてきた。
問題を解くのには少し時間がかかったけれど、考えることそのものができなくなったわけでもない。
だから、大丈夫なのだと思っていた。
けれど振り返ってみれば、朝からずっと、身体には見過ごしていた小さな変化がいくつもあった。
眠気も、重さも、寒さも。ひとつずつなら気に留めるほどではなかったものが、今になってようやく同じところへ集まっている。
窓の外には、昨日と変わらない春の終わりの空が広がっていた。




