7-1 異変
翌朝。
教室には、まだ朝の静けさが残っていた。
開け放たれた窓から風が入り、窓辺で紙の擦れる音が小さく鳴った。春の終わりを含んだ空気にはもうほとんど冷たさがなく、朝の明るさが教室の奥まで届いている。
昨日、寮へ戻ってからはいつもより早めに休んだ。
帰り道に感じていた寒さも、部屋へ戻って暖かな服に着替え、温かい食事を取るころには気にならなくなっていた。立ちくらみも、あの一度きりだ。
今朝も、目を覚ました身体はいつもとそう変わらなかった。
だからフローレンはいつものように教科書と筆記具を取り出し、最後に一冊のノートを机の上へ載せた。
頁を開けば、昨日途中で止めた問題がそのまま残っている。
「……少しだけ」
始業まではまだ時間がある。
朝のうちに一問。
最近ではすっかり馴染んだ過ごし方だった。
羽根ペンを手に取り、問題文へ視線を落とす。
何を聞かれているのか。
問いはすぐに分かった。
与えられている条件をひとつずつ拾う。使えそうな知識は、いつも通り迷いなく引き出せた。
昨日どこまで考えていたのか。
どの条件を拾い、何と何を繋ごうとして、なぜそこで手を止めたのか。
意識を向ければ、そのとき紙のどこに何を書いたのかまで、昨日と変わらない鮮明さで辿ることができた。机へ差していた光も、頁の端が風にわずかに揺れたことも、思い出そうとすればすぐに浮かぶ。
覚えているものは、いつもと変わらない。
フローレンは昨日の続きをなぞるように、羽根ペンの先を紙へ触れさせた。
ここまでは分かっている。
使うべき知識も、その先へ続く道筋も、どこかへ消えてしまったわけではない。
それなのに、次の一行がすぐには出てこなかった。
紙に触れた羽根ペンは、わずかに傾いたまま動かない。
「……あれ」
書くべきことが分からないわけではなかった。
この条件と、この法則をまず繋ぐ。そこまではきちんと見えているし、頭の中にある知識も少しも曖昧になってはいない。
それなのに、そこから先へ考えを運ぼうとすると、いつもよりひと呼吸ぶん遅れる。普段なら浮かんだそばから紙へ落ちていくはずのものが、今日は手を伸ばして取りにいかなければ届かない場所にあるようだった。
フローレンは羽根ペンを止めたまま、もう一度問題文へ目を通す。
並んでいる文字は鮮明だった。条件も変わらない。法則へ意識を移し、頭の中でもう一度二つを並べてみる。
やはり、繋がる。
その確信をひとつずつ確かめてから、止まっていた羽根ペンが紙の上を動き始めた。
さら、と羽根ペンが紙を擦る音がした。
一行。
その下へ、もう一行。
いったん書き始めてしまえば、内容そのものにおかしなところはなかった。辿った筋道も、選んだ法則も間違ってはいない。
ただ、一つを書き終えて次へ移ろうとするたび、思考のあいだにほんのわずかな空白が挟まる。
いつもなら、そのまま途切れず続いていたはずなのに。
フローレンはそこで手を止めた。
羽根ペンを持ったまま、溜まっていた息をゆっくり吐き出す。
――眠いのだろうか。
昨夜はいつもより早めに休んだはずだった。眠りが浅かった覚えもない。
それでも、目を閉じればそのままもう一度眠れてしまいそうな重さが、瞼の裏に薄く残っている。
「……昨日、ちょっと疲れたのかな」
ぽつりと呟いて、フローレンは自分の額へ手を当てた。
掌に触れる肌は、熱を持っているようには感じない。頭のどこかが痛むわけでも、喉に違和感があるわけでもなかった。
ただ、身体の奥に薄い重さだけが残っている。
立ち上がれないほどでもないし、机に伏せたくなるほどでもない。いつもより少しだけ動き出すまでに時間がかかる――そう言ってしまえば、それだけのことだった。
けれど身体の重さは、昨日の頁や誰かの言葉のように、記憶の中から取り出して並べ比べられるものではない。
これが本当に普段と違うのかと問われると、フローレンにもはっきりとは分からなかった。
考えることはできる。
昨日のことも、何ひとつ曖昧になっていない。
問題だって、いつもより少し時間はかかるけれど、ちゃんと先へ進めている。
それなら、きっと大丈夫だ。
そう結論づけると、フローレンは額から手を離した。羽根ペンを持ち直し、もう一度ノートへ意識を戻す。
「おはよう、フローレン」
やがて、教室の入口から聞き慣れた声が届いた。
フローレンが顔を上げると、エリナが鞄を肩に掛けたまま、こちらへ歩いてくるところだった。
「あ、おはよう」
「今日も朝から問題?」
「うん。昨日の続き」
エリナは呆れ半分に笑いながら、自分の席へ鞄を置いた。
「本当に好きになったわねえ」
「面白いんだもの」
そう答えても、エリナはすぐには授業の支度に移らなかった。フローレンの顔をひとつ確かめるように見て、ふと首を傾げる。
「……あれ。今日は報告ないのかしら」
「え?」
「いつもなら『ここまで分かった』とか教えてくれるじゃない」
「そんなに話してる?」
「話してるわよ」
迷いのない返事に、フローレンは少しだけ困ったような顔をした。
「……まだ途中だからかな」
「そう?」
エリナはそれ以上深く考えた様子もなく、鞄から教科書を取り出し始めた。
フローレンも開いたままのノートへ意識を戻す。
昨日までなら、同じように途中で立ち止まっても、もう少し心が先へ向いていた気がする。
問題がつまらなくなったわけではない。答えの先を知りたい気持ちだって、なくなったわけではなかった。
ただ今日は、その面白さへ手を伸ばすまでに、いつもより少し時間がかかる。
すぐそこにあるはずなのに、薄い布を一枚隔てた向こう側から眺めているような、ひどく曖昧な遠さがあった。
始業の鐘が鳴った。
教室の静けさがほどけ、あちこちで椅子を引く音や教科書を開く音が重なる。フローレンは途中まで進めた頁をもう一度だけ見てから、羽根ペンを置いた。
「……続きは、あとで」
自分に言い聞かせるように呟き、ノートを閉じて机の端へ寄せる。
その日の授業は、表面だけを見ればいつも通りに過ぎていった。
教師に当てられれば答えられた。黒板へ書かれたものも、一度目を通せばいつもと変わらない鮮明さで頭に残る。授業についていけないわけでも、何かを忘れてしまうわけでもない。
昼休みにはエリナと昼食を取り、食後には昨日読んだ本の話もした。話しかけられればいつも通り答えたし、可笑しな話にはちゃんと笑った。
ただ、自分から次の話題を広げることが、いつもよりすこしだけ少なかった。
昼食を食べ終えたあとも、すぐにノートへ手を伸ばす気にはならなかった。
机の上には、朝の途中で閉じたノートがそのまま置かれている。
いつもなら昼休みの残り時間を惜しむように頁を開いていたのに、今日は表紙へ目をやっても、もう少しあとでいいような気がした。
窓から入る昼の明るさは、教室の奥まで十分に届いていた。
春の終わりを含んだ空気はやわらかく、開け放した窓のそばでも、机に置かれた紙の端がときおり揺れる程度だ。
その風が袖口を抜け、覗いていた手首を撫でた。
フローレンは考えるより先に、反対の手でそこを覆う。
「寒い?」
「……ううん」
向かいのエリナに尋ねられ、すぐに首を振った。
「ちょっと風が当たっただけ」
「窓際じゃない方へ行く?」
「大丈夫だよ」
本当に、耐えられないほどではなかった。
手で覆ってしまえば気にならなくなる程度で、わざわざ席を移るほどのことには思えない。
エリナも「そう」と頷くと、それ以上は気に留めず片づけを始めた。
やがて予鈴が鳴る。昼休みのざわめきが少しずつ収まり、教室には午後の授業を迎える空気が戻ってきた。
放課後になり、フローレンはいつもの自習室へ向かった。
今日は休もう、という考えは浮かばなかった。
具合が悪いというほどではない。朝から身体にまとわりついている薄い重さも、普段通りに動いているうちにいつの間にか消えるだろうと思っていた。
図書館の脇から続く廊下へ入る。
何度も通った道は、もう道順を意識する必要もない。考えごとをしていても、足は自然と突き当たり近くの扉までフローレンを運んでいく。
扉を開けると、机の向こうにはすでに二人がいた。レオの前には菓子の包みが置かれ、ルシアンはいつもの席で開いた本へ目を落としている。見慣れた光景に、ほんの少し気持ちがほどけた。
「こんにちは」
声をかけると、レオがすぐにこちらを向いた。
「こんにちは」
いつもと変わらない軽い調子が返ってくる。その向かいでは、ルシアンも読みかけの頁から顔を上げた。
「ああ」
フローレンは扉を閉め、いつもの席へ向かう。
椅子を引き、肩から外した鞄を机の脇へ下ろしたところで、ひとつ息をついた。
ほんのわずかな間だった。
けれどレオの目は、その一連の動きを何気ない様子で追っていた。
「今日はどうだった?」
席へ着くのを待っていたように、レオが何気ない調子で尋ねる。
「普通だったよ」
「普通?」
「うん。授業もいつも通り」
答えながら、フローレンは鞄を開いた。取り出したのは、朝から使っていた一冊のノートだった。
「これ、朝からやってたんだけど、途中で時間になっちゃって」
「へえ。じゃあ今日はそれの続き?」
「うん」
開いた頁には、朝に書いた途中までの式と条件が残っている。フローレンがそれを机の中央へ少し寄せると、向かいのルシアンも読んでいた本を閉じた。
「昨日の問題か」
「はい。ここまでは分かってるんですけど……」
フローレンは朝に辿ったところを、もう一度指先でなぞっていく。
どこまで分かっているのかは説明できる。次に確かめるべき場所も、おそらく間違ってはいない。
それなのに、そこから先へ考えを運ぼうとすると、頭の奥へ何か重たいものが沈んでいるようだった。
思考そのものが消えているわけではない。
ただ、ひとつ掴んで次へ渡すまでに、いつもより余計な時間がかかる。
羽根ペンを手にしたまま問題文を読み直す。条件へ戻り、朝と同じところをもう一度確かめる。
紙の上を行き来する視線に合わせて、羽根ペンの先もわずかに動いては止まった。
「……」
レオは声をかけず、その様子をしばらく眺めていた。
少し前までなら、問題へ向かっているフローレンの変化は、黙っていても分かりやすかった。
行き詰まれば羽根ペンが宙で迷い、新しい繋がりを見つければ急に紙の上を走り出す。答えまで辿り着いたときには、本人が何も言わなくても、その喜びが仕草の端々からこぼれていた。
考えて、迷って、気づいて、また先へ進む。
そのたびに、彼女の周りには小さな動きが絶えなかった。
今日は、それがない。
フローレンは同じように問題を見て、同じように考えている。けれど羽根ペンが止まっている時間ばかりが、いつもより少し長かった。
今日は、静かだった。
「フローレン」
「……ん」
返事はあった。
けれど、フローレンが顔を上げたのは、それからほんの一拍あとだった。
「なに?」
「いや」
レオはいつもの軽い調子を崩さないまま答えた。
「呼んでみただけ」
「なにそれ」
フローレンは少しだけ呆れたように息を漏らし、また問題へ向き直る。
止まっていた羽根ペンが、ゆっくりと紙の上を進み始めた。
レオもそれ以上は何も言わなかった。
一度なら、何でもない。
フローレンはもともと、一つのことへ夢中になると周りが見えなくなることがある。問題に入り込んでしまえば、呼びかけへの反応が遅れるくらい、そう不思議なことではない。
それだけなら、たぶん気にも留めなかった。
けれど、ここ数日のことを思えば、どうしても引っかかる。
寝る前まで続きを追っていた夜があった。
二度名前を呼んで、ようやく返事が返ってきた日もあった。羽根ペンを握る指には、本人さえ気づいていなかった赤みが残っていた。
昨日は、立ち上がった途端に机へ手をついた。
その帰り道では、まだ昼のぬくもりが残る廊下で腕を擦り、上着が欲しいと口にしていた。
どれも、それだけを取り上げれば大したことではない。
少し寝るのが遅くなった。少し集中しすぎた。少し指を使いすぎた。急に立ったから眩んだ。風に当たって冷えただけ。
そうやって一つずつなら、いくらでも理由をつけられる。
レオは頬杖をついたまま、フローレンの横顔を眺めた。
羽根ペンは動いている。
考えることもできている。
けれど、ひとつ書き終えて次へ移るたび、ペン先がわずかに止まる。その短い間が、今日はやけに目についた。
小さな自習室には、紙をめくる音と羽根ペンの走る音が静かに重なっていた。見慣れた机を囲む時間も、いつもと何も変わらないように見える。
レオは何も言わなかった。
ただ、これまで別々のものとして見ていた小さな変化が、もうばらばらには見えなくなっていた。




