↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/29

6-4 違和感


 共通試験が終わってから、フローレンの一日は少しだけ変わった。


 朝、教室へ早く着けば授業が始まるまでの時間に一問だけ。昼休みもエリナとの食事を終えると、残った時間で昨日の続きを開くことが増えた。

 放課後になれば、いつもの小さな自習室へ向かう。


 まとまって勉強する時間が大きく増えたわけではない。

 ただ、これまで何となく過ぎていた短い時間にも、考えてみたいことが入り込むようになっていた。


「最近、本当に問題ばっかりやってるわね」


 隣のエリナは昼食を片づけながら呆れたように笑った。


「そうかも」


 フローレンは少し照れくさそうに頷き、鞄からノートを取り出す。


「前はあんなにしかめっ面してたのに」

「うん。自分でも不思議」


 そう答えて頁を開く。そこには、昨日途中で止めた問題がまだ続きのまま残っていた。


 分からないから嫌だったものが、今は分からないからこそ気になる。

 その違いを考えると、少し可笑しくなった。


「あと少しだけ考えていい?」

「どうぞ。鐘鳴るまでね」

「ありがと」


 そんなやり取りも、いつの間にか珍しくなくなっていた。


 放課後の自習室では、ルシアンが持ってくる問題にも少しずつ変化が出ていた。


 以前より条件が多いものや、一つの考え方だけでは最後まで辿り着けないもの。

 フローレンが解ける範囲が広がるにつれて、机の上に並ぶ紙の種類も増えていった。


「今日はこれを」


 ルシアンが一枚の紙を差し出す。


 フローレンは受け取るなり、どこか楽しげに問題文へ目を通した。


「……難しそう」

「昨日のものよりは」

「やってみてもいいですか?」

「ああ。ただし、今日はこれ一問だけだ」


 まだ紙に目を落とす間もなく釘を刺され、フローレンは思わず顔を上げた。


「まだ始めてもないのに」

「君は終わったら次をやりたがるだろう」

「……そんなことないです」


 そう言いながら、フローレンの視線はそっと横へ逃げた。すぐ隣で、レオが堪えきれないように笑う。


「図星って顔に書いてある」

「……むむ」


 フローレンは小さく唇を尖らせ、そのまま問題文へ視線を落とした。

 

 ひとつひとつを見れば、知らない条件はどこにもない。それでも、どれを先に使えばいいのかは簡単には見えてこない。

 すぐに答えが見つからない時間も、もう嫌ではなかった。羽根ペンを手に、分かっていることから順に確かめていく。


 レオはしばらく黙ってその様子を眺めていたが、やがてルシアンへ視線を移した。

 

 見た目だけなら、いつもと変わらない。けれどフローレンが立ち止まれば静かに待ち、自分で先へ進めば次の問題を選ぶ。そのひとつひとつが、普段のルシアンをよく知るレオには、以前よりずっと楽しそうに見えていた。


「ルシアン、最近ちょっと張り切ってない?」

「何が」

「問題選び」

「必要なものを選んでいるだけだ」

「必要以上に楽しそうだけど」

「……気のせいだ」


 そう言って、ルシアンは読みかけの本へ意識を戻した。

 けれど頁はしばらくめくられない。フローレンの羽根ペンが動くたび、そちらへ向いている意識までは隠せていなかった。


 レオはそれ以上追及しなかった。


 やがて、紙の上を走っていたフローレンの羽根ペンが止まった。


「……ここまでは合ってるはずなんだけど……」


 書いたものを辿り直しているうちに、ひとつの条件で指先が止まった。そこから別の記述へ目を移す。


「あ」


 小さな声とともに、羽根ペンが再び動いた。


 最後まで書き終えたところで、答案をルシアンへ差し出す。彼は受け取った紙面を上から辿り、やがて小さく頷いた。


「合っている」

「ほんと?」

「ああ。途中で一度違う方へ行きかけてるが、自分で戻れている」


 その言葉を聞くなり、フローレンは嬉しさを隠しきれないまま身を乗り出した。


「じゃあ、もう一問――」

「今日はこの一問だけだ」

「……あ」


 伸ばしかけた手が止まる。始める前に釘を刺されたばかりだった。


 隣から、どこか満足げな声が飛んでくる。


「よくできました。おつかれ」


 その言い方に、ふと昔の記憶が蘇った。

 

「……その感じ、懐かしいかも」

「懐かしい?」

「昔、兄に勉強を見てもらったときも、終わるといつもそんなふうに言われてたの」


 その話を面白がるように、レオが身を乗り出した。

 

「そうなんだ? じゃあ俺もお兄ちゃ――」

「それはやだ」

「せめて最後まで言わせて?」


 間髪入れない返事に、レオが心外そうな声を上げる。

 フローレンは小さく笑って受け流しながら羽根ペンを置き、差し出された菓子を一つ受け取った。

 

 そんな穏やかな日が、何日か続いた。

 


 春の終わりが近づくにつれ、窓から差し込む光には少しずつ強さが増していった。

 昼間には窓を開けたまま授業を受ける日もあり、教室を抜ける風にも、もう早春の冷たさはほとんど残っていない。


 フローレンは変わらず授業を受け、エリナと昼食を取り、放課後には二人と勉強した。


 ただ、ほんの小さなことが少しずつ増えていた。


「……ふぁ」


 ある日の放課後、問題を読んでいたフローレンが小さく欠伸をした。

 慌てて手で口元を覆う。


「ごめんなさい」

「眠い?」


 言われてみれば、確かに少し瞼が重い。


「……うん、ちょっと」


 眠気の理由には、すぐ心当たりがあった。


「昨日、寝る前に続きが気になって」

「遅くまでやってたの?」

「ううん。そんなに遅くないよ。少し見ただけ」


 嘘ではなかった。

 

 夜更かしをしたつもりはない。ただ、もう少しだけと続きを追っているうちに、いつもより教本を閉じるのが少し遅くなっただけだ。


「今日は早く寝なよ」

「はーい」


 その返事を聞いて、レオはひとまずそれ以上何も言わなかった。

 

 また別の日には、レオに二度名前を呼ばれた。


「フローレン」


 一度目の声には、反応がなかった。


「フローレン?」

「……え?」


 二度目でようやく顔を上げると、レオが少し首を傾げていた。

 フローレンはその顔を見て、一拍遅れて自分が呼ばれていたことに気付く。


「……呼んだ?」

「うん、二回」

「ごめん。ちょっと考えてた」

「それは見れば分かるけど」


 フローレンは少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。


「何だった?」

「休憩するよって話」

「あ、うん」


 フローレンは素直に羽根ペンを置き、いつものように菓子へ手を伸ばした。


 レオはいつもの調子で菓子の包みを寄せた。

 けれど、フローレンが水を飲むあいだだけ、その横顔を少し長く眺めていた。

 

 さらに数日後。


 フローレンが問題文へ書き込みをしていると、向かいからルシアンの声がした。


「少し休んだ方がいいんじゃないか」

「え?」


 思いがけない言葉に顔を上げると、ルシアンはフローレンではなく、その手元を見ていた。


「指。前より赤くなっている」


 言われて、フローレンも自分の手を見る。

 羽根ペンが当たる場所に、細い赤みが残っていた。


「あ……」


 隣から覗き込んだレオの声が、少しだけ低くなる。


「いつから?」

「えっと……いつからだろう。気にしてなかったから……」

「痛くないの?」

「うん。いま初めて気付いたくらいだし」


 ルシアンは赤くなった指先をしばらく見たあと、机の上の問題へ目をやった。


「今日はここまでにしよう」

「でも、まだ――」

「続きは明日でもできる」


 すぐに返されて、フローレンは言葉を止めた。

 隣ではレオも、いつもの軽口を挟まず静かに頷いていた。


 それから何日か経った放課後。


 その日の午後は、窓を少し開けていても寒くなかった。


 傾き始めた日差しはまだ明るく、机の上へ柔らかな影を落としている。

 開いた窓から風が入るたび、机の紙がかすかに鳴る。レオの気軽な声と、それに返るルシアンの短い言葉が、いつものように隣で続いていた。


 フローレンは焼き菓子を食べ終え、水を飲んでから帰り支度を始めた。


「今日はここまでだね」

「うん」


 ノートを閉じ、重ねた紙を鞄へしまう。


 椅子を引いて立ち上がった、その瞬間だった。


 視界の端がふっと暗くなる。


「……ん」


 足元が一瞬だけ遠のく。身体が傾くより先に、とっさに机へ手をついた。


 次の瞬間には、視界は元に戻っていた。


 目の前には見慣れた机があり、開いた窓の向こうには夕方の空が見えている。


 それでも、机の縁を掴んだ指だけはすぐには離れなかった。


「フローレン?」


 レオの声がすぐ近くで聞こえる。


「……あ、うん。大丈夫」

「立ちくらみ?」

「たぶん。急に立ったからかな」


 ようやく机から手を離す。

 もう視界に異常はなかった。


 ルシアンも立ち上がる。

 確かめるような視線が、フローレンへ向いた。


「少し座ってから帰るか?」

「大丈夫です。もう平気」

「本当に?」

「はい」


 フローレンがそう言い切っても、ルシアンの視線はすぐには離れなかった。

 しばらくして、ようやく小さく頷く。


 廊下にはまだ夕方の明るさが残っていた。

 窓から差す光は春先よりも濃く、長く伸びた三人の影を床の上へ落としている。


 寮へ向かって歩き出してからも、レオは何度か隣のフローレンへ目をやった。ルシアンもいつもよりわずかに歩調を緩めている。

 けれど本人が普段と変わらない足取りで歩いているうちに、話題は自然と他愛のないものへ変わっていく。


 気付けば、レオの話は明日の菓子へ移っていた。


「明日のお菓子は蜂蜜のにしようかな」

「前の果実入りのはもうないのか」


 何気なく返された一言に、フローレンとレオが揃ってルシアンを見る。


「……何だ」

「いや、ルシアンがお菓子の希望を言うの珍しいなって」

「聞いただけだ」

「でも、あれ好きだったでしょ」


 思いがけない話に、フローレンもつい口を挟んだ。


「好きだったんですか?」

「……嫌いではない」

「それ、好きってことじゃないの?」

「まあ……そう言えなくもない」


 曖昧な返事に、レオがすかさず畳みかける。


「素直に言わないと持ってこないよ?」

「あれが一番美味しかった」


 あまりにも素直な予想外の即答に、フローレンがわずかに目を見開く。


「よし、両手いっぱいに買ってくる」

「いや、さすがにそんなには食べられない」

「真面目か」


 レオの軽い声に、ルシアンの律儀な返事が重なる。フローレンもそのやり取りに混ざりながら、三人は並んで廊下を歩いていった。

 そうしていつもの声が、夕方の学院に途切れず続いていく。

 

 その途中で、フローレンはふと自分の腕を擦った。


「……上着、持ってくればよかったな」


 小さなつぶやきに、ルシアンがフローレンの方を向いた。


「寒いのか?」

「あ、……少しだけ」

「大丈夫か?」

「はい。もうすぐ寮なので」


 そう答えながら、フローレンはもう一度腕を擦った。


 そのやり取りを聞いていたレオが、何気なく窓の方へ目を向ける。


 薄いカーテンが風を含んでゆっくりと膨らみ、やがて元の形へ戻った。

 入り込んでくる風に、肌を刺すような鋭さはない。窓辺に残った昼の気配を撫でながら、廊下の空気をわずかに動かしているだけだった。


 石造りの壁にも、まだ一日のぬくもりが残っている。開け放した窓のそばを通っても、レオの袖口がかすかに揺れる程度だった。


 ルシアンはまだ少し気にしているようだったが、フローレンが普段と変わらない足取りで歩いているのを確かめると、それ以上は何も言わなかった。


 レオも口には出さない。

 窓の外では、日を浴びた校舎の壁がまだ明るさを抱えている。その景色からフローレンへ戻した視線だけが、しばらく彼女の横顔に残っていた。



【 お知らせ 】


ここまでお読みくださり、ありがとうございます。


これまで朝夕の1日2話更新でしたが、次話の7-1からは、毎日20:10ごろの1日1話更新へ変更いたします。


これから少し長めのお話が増えてくるため、ゆっくりお付き合いいただければと思い、この形にしてみることにしました。


ここまで追いかけて読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。

更新のペースが少し変わりますが、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。