6-4 違和感
共通試験が終わってから、フローレンの一日は少しだけ変わった。
朝、教室へ早く着けば授業が始まるまでの時間に一問だけ。昼休みもエリナとの食事を終えると、残った時間で昨日の続きを開くことが増えた。
放課後になれば、いつもの小さな自習室へ向かう。
まとまって勉強する時間が大きく増えたわけではない。
ただ、これまで何となく過ぎていた短い時間にも、考えてみたいことが入り込むようになっていた。
「最近、本当に問題ばっかりやってるわね」
隣のエリナは昼食を片づけながら呆れたように笑った。
「そうかも」
フローレンは少し照れくさそうに頷き、鞄からノートを取り出す。
「前はあんなにしかめっ面してたのに」
「うん。自分でも不思議」
そう答えて頁を開く。そこには、昨日途中で止めた問題がまだ続きのまま残っていた。
分からないから嫌だったものが、今は分からないからこそ気になる。
その違いを考えると、少し可笑しくなった。
「あと少しだけ考えていい?」
「どうぞ。鐘鳴るまでね」
「ありがと」
そんなやり取りも、いつの間にか珍しくなくなっていた。
放課後の自習室では、ルシアンが持ってくる問題にも少しずつ変化が出ていた。
以前より条件が多いものや、一つの考え方だけでは最後まで辿り着けないもの。
フローレンが解ける範囲が広がるにつれて、机の上に並ぶ紙の種類も増えていった。
「今日はこれを」
ルシアンが一枚の紙を差し出す。
フローレンは受け取るなり、どこか楽しげに問題文へ目を通した。
「……難しそう」
「昨日のものよりは」
「やってみてもいいですか?」
「ああ。ただし、今日はこれ一問だけだ」
まだ紙に目を落とす間もなく釘を刺され、フローレンは思わず顔を上げた。
「まだ始めてもないのに」
「君は終わったら次をやりたがるだろう」
「……そんなことないです」
そう言いながら、フローレンの視線はそっと横へ逃げた。すぐ隣で、レオが堪えきれないように笑う。
「図星って顔に書いてある」
「……むむ」
フローレンは小さく唇を尖らせ、そのまま問題文へ視線を落とした。
ひとつひとつを見れば、知らない条件はどこにもない。それでも、どれを先に使えばいいのかは簡単には見えてこない。
すぐに答えが見つからない時間も、もう嫌ではなかった。羽根ペンを手に、分かっていることから順に確かめていく。
レオはしばらく黙ってその様子を眺めていたが、やがてルシアンへ視線を移した。
見た目だけなら、いつもと変わらない。けれどフローレンが立ち止まれば静かに待ち、自分で先へ進めば次の問題を選ぶ。そのひとつひとつが、普段のルシアンをよく知るレオには、以前よりずっと楽しそうに見えていた。
「ルシアン、最近ちょっと張り切ってない?」
「何が」
「問題選び」
「必要なものを選んでいるだけだ」
「必要以上に楽しそうだけど」
「……気のせいだ」
そう言って、ルシアンは読みかけの本へ意識を戻した。
けれど頁はしばらくめくられない。フローレンの羽根ペンが動くたび、そちらへ向いている意識までは隠せていなかった。
レオはそれ以上追及しなかった。
やがて、紙の上を走っていたフローレンの羽根ペンが止まった。
「……ここまでは合ってるはずなんだけど……」
書いたものを辿り直しているうちに、ひとつの条件で指先が止まった。そこから別の記述へ目を移す。
「あ」
小さな声とともに、羽根ペンが再び動いた。
最後まで書き終えたところで、答案をルシアンへ差し出す。彼は受け取った紙面を上から辿り、やがて小さく頷いた。
「合っている」
「ほんと?」
「ああ。途中で一度違う方へ行きかけてるが、自分で戻れている」
その言葉を聞くなり、フローレンは嬉しさを隠しきれないまま身を乗り出した。
「じゃあ、もう一問――」
「今日はこの一問だけだ」
「……あ」
伸ばしかけた手が止まる。始める前に釘を刺されたばかりだった。
隣から、どこか満足げな声が飛んでくる。
「よくできました。おつかれ」
その言い方に、ふと昔の記憶が蘇った。
「……その感じ、懐かしいかも」
「懐かしい?」
「昔、兄に勉強を見てもらったときも、終わるといつもそんなふうに言われてたの」
その話を面白がるように、レオが身を乗り出した。
「そうなんだ? じゃあ俺もお兄ちゃ――」
「それはやだ」
「せめて最後まで言わせて?」
間髪入れない返事に、レオが心外そうな声を上げる。
フローレンは小さく笑って受け流しながら羽根ペンを置き、差し出された菓子を一つ受け取った。
そんな穏やかな日が、何日か続いた。
春の終わりが近づくにつれ、窓から差し込む光には少しずつ強さが増していった。
昼間には窓を開けたまま授業を受ける日もあり、教室を抜ける風にも、もう早春の冷たさはほとんど残っていない。
フローレンは変わらず授業を受け、エリナと昼食を取り、放課後には二人と勉強した。
ただ、ほんの小さなことが少しずつ増えていた。
「……ふぁ」
ある日の放課後、問題を読んでいたフローレンが小さく欠伸をした。
慌てて手で口元を覆う。
「ごめんなさい」
「眠い?」
言われてみれば、確かに少し瞼が重い。
「……うん、ちょっと」
眠気の理由には、すぐ心当たりがあった。
「昨日、寝る前に続きが気になって」
「遅くまでやってたの?」
「ううん。そんなに遅くないよ。少し見ただけ」
嘘ではなかった。
夜更かしをしたつもりはない。ただ、もう少しだけと続きを追っているうちに、いつもより教本を閉じるのが少し遅くなっただけだ。
「今日は早く寝なよ」
「はーい」
その返事を聞いて、レオはひとまずそれ以上何も言わなかった。
また別の日には、レオに二度名前を呼ばれた。
「フローレン」
一度目の声には、反応がなかった。
「フローレン?」
「……え?」
二度目でようやく顔を上げると、レオが少し首を傾げていた。
フローレンはその顔を見て、一拍遅れて自分が呼ばれていたことに気付く。
「……呼んだ?」
「うん、二回」
「ごめん。ちょっと考えてた」
「それは見れば分かるけど」
フローレンは少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「何だった?」
「休憩するよって話」
「あ、うん」
フローレンは素直に羽根ペンを置き、いつものように菓子へ手を伸ばした。
レオはいつもの調子で菓子の包みを寄せた。
けれど、フローレンが水を飲むあいだだけ、その横顔を少し長く眺めていた。
さらに数日後。
フローレンが問題文へ書き込みをしていると、向かいからルシアンの声がした。
「少し休んだ方がいいんじゃないか」
「え?」
思いがけない言葉に顔を上げると、ルシアンはフローレンではなく、その手元を見ていた。
「指。前より赤くなっている」
言われて、フローレンも自分の手を見る。
羽根ペンが当たる場所に、細い赤みが残っていた。
「あ……」
隣から覗き込んだレオの声が、少しだけ低くなる。
「いつから?」
「えっと……いつからだろう。気にしてなかったから……」
「痛くないの?」
「うん。いま初めて気付いたくらいだし」
ルシアンは赤くなった指先をしばらく見たあと、机の上の問題へ目をやった。
「今日はここまでにしよう」
「でも、まだ――」
「続きは明日でもできる」
すぐに返されて、フローレンは言葉を止めた。
隣ではレオも、いつもの軽口を挟まず静かに頷いていた。
それから何日か経った放課後。
その日の午後は、窓を少し開けていても寒くなかった。
傾き始めた日差しはまだ明るく、机の上へ柔らかな影を落としている。
開いた窓から風が入るたび、机の紙がかすかに鳴る。レオの気軽な声と、それに返るルシアンの短い言葉が、いつものように隣で続いていた。
フローレンは焼き菓子を食べ終え、水を飲んでから帰り支度を始めた。
「今日はここまでだね」
「うん」
ノートを閉じ、重ねた紙を鞄へしまう。
椅子を引いて立ち上がった、その瞬間だった。
視界の端がふっと暗くなる。
「……ん」
足元が一瞬だけ遠のく。身体が傾くより先に、とっさに机へ手をついた。
次の瞬間には、視界は元に戻っていた。
目の前には見慣れた机があり、開いた窓の向こうには夕方の空が見えている。
それでも、机の縁を掴んだ指だけはすぐには離れなかった。
「フローレン?」
レオの声がすぐ近くで聞こえる。
「……あ、うん。大丈夫」
「立ちくらみ?」
「たぶん。急に立ったからかな」
ようやく机から手を離す。
もう視界に異常はなかった。
ルシアンも立ち上がる。
確かめるような視線が、フローレンへ向いた。
「少し座ってから帰るか?」
「大丈夫です。もう平気」
「本当に?」
「はい」
フローレンがそう言い切っても、ルシアンの視線はすぐには離れなかった。
しばらくして、ようやく小さく頷く。
廊下にはまだ夕方の明るさが残っていた。
窓から差す光は春先よりも濃く、長く伸びた三人の影を床の上へ落としている。
寮へ向かって歩き出してからも、レオは何度か隣のフローレンへ目をやった。ルシアンもいつもよりわずかに歩調を緩めている。
けれど本人が普段と変わらない足取りで歩いているうちに、話題は自然と他愛のないものへ変わっていく。
気付けば、レオの話は明日の菓子へ移っていた。
「明日のお菓子は蜂蜜のにしようかな」
「前の果実入りのはもうないのか」
何気なく返された一言に、フローレンとレオが揃ってルシアンを見る。
「……何だ」
「いや、ルシアンがお菓子の希望を言うの珍しいなって」
「聞いただけだ」
「でも、あれ好きだったでしょ」
思いがけない話に、フローレンもつい口を挟んだ。
「好きだったんですか?」
「……嫌いではない」
「それ、好きってことじゃないの?」
「まあ……そう言えなくもない」
曖昧な返事に、レオがすかさず畳みかける。
「素直に言わないと持ってこないよ?」
「あれが一番美味しかった」
あまりにも素直な予想外の即答に、フローレンがわずかに目を見開く。
「よし、両手いっぱいに買ってくる」
「いや、さすがにそんなには食べられない」
「真面目か」
レオの軽い声に、ルシアンの律儀な返事が重なる。フローレンもそのやり取りに混ざりながら、三人は並んで廊下を歩いていった。
そうしていつもの声が、夕方の学院に途切れず続いていく。
その途中で、フローレンはふと自分の腕を擦った。
「……上着、持ってくればよかったな」
小さなつぶやきに、ルシアンがフローレンの方を向いた。
「寒いのか?」
「あ、……少しだけ」
「大丈夫か?」
「はい。もうすぐ寮なので」
そう答えながら、フローレンはもう一度腕を擦った。
そのやり取りを聞いていたレオが、何気なく窓の方へ目を向ける。
薄いカーテンが風を含んでゆっくりと膨らみ、やがて元の形へ戻った。
入り込んでくる風に、肌を刺すような鋭さはない。窓辺に残った昼の気配を撫でながら、廊下の空気をわずかに動かしているだけだった。
石造りの壁にも、まだ一日のぬくもりが残っている。開け放した窓のそばを通っても、レオの袖口がかすかに揺れる程度だった。
ルシアンはまだ少し気にしているようだったが、フローレンが普段と変わらない足取りで歩いているのを確かめると、それ以上は何も言わなかった。
レオも口には出さない。
窓の外では、日を浴びた校舎の壁がまだ明るさを抱えている。その景色からフローレンへ戻した視線だけが、しばらく彼女の横顔に残っていた。
【 お知らせ 】
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
これまで朝夕の1日2話更新でしたが、次話の7-1からは、毎日20:10ごろの1日1話更新へ変更いたします。
これから少し長めのお話が増えてくるため、ゆっくりお付き合いいただければと思い、この形にしてみることにしました。
ここまで追いかけて読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
更新のペースが少し変わりますが、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。




