6-3 間違いの先
放課後、小さな自習室の扉を開けると、二人はもう席についていた。
窓際ではルシアンが本を開き、レオはいつもの席で小さな包みの紐をほどいている。
机の上には三人分の紙と筆記具、それから見慣れた菓子が並んでいた。
「二人とも、聞いて……!」
扉を開けた勢いのまま、言葉が先に飛び出した。
その声にレオが顔を上げる。案の定とでも言いたげに、口元が楽しそうに緩んだ。
「今日は何ができたの?」
「今日はね――」
そこまで言って、フローレンはふと口を止めた。
一度瞬きをしてから、少しばつが悪そうに視線を泳がせる。
「あ、違う。えっと……こんにちは」
「ああ」
本から顔を上げたルシアンが、いつもと変わらない調子で応じる。
その隣では、レオが笑いを堪えるように唇を結んでいた。
「はい、こんにちは。それで?」
「……む」
からかわれているのが分かったのか、フローレンはわずかに唇を尖らせた。それでも嬉しさは隠しきれず、足早に二人のいる机へ向かう。
「結果が返ってきたの!」
フローレンはいつもの席まで歩くと、腕に抱えていた答案を机へ置いた。重なった紙の一番上には、魔法史の九十二点が見えている。
「おー」
レオが身を乗り出した。
「九十二点。すごいね、フローレン」
「ありがとう。ほかの科目も、前より解けてた」
口にすると、改めて嬉しさが込み上げてきた。
けれど口元の笑みが消えないうちに、フローレンの指はもう答案の途中を辿っていた。
「……それでね、ここを間違えてたの」
「真面目だなあ」
レオは小さく肩を揺らして笑った。
「ちゃんと点数も喜んでるよ?」
「それならよかった」
そう言って頷きながらも、レオはどこか可笑しそうにフローレンを見ていた。
フローレンは魔法史の答案を広げた。
向かいからルシアンも覗き込み、赤い書き込みのある論述へ視線を落とす。
「王都東部の工房の問題か」
「はい。試験の最後にも少し気になってたんですけど……返ってきて改めて考え直して、やっと分かりました」
術式規制を主な理由だと考えたこと。
そのあとで、それに合う資料を選んでしまったこと。
本当は交易路と触媒の流通量にも目を向けていたのに、必要がないと早く決めてしまったこと。
フローレンが順に話すあいだ、ルシアンは口を挟まず答案を見ていた。
「だから次は、必要なものを選ぶ前に、先に答えを決めてないかも確かめた方がいいと思って。せっかく見えてたのに、自分で候補から外してしまったので」
「なるほどねえ」
レオは赤い文字のあたりを指先で辿りながら、どこか懐かしそうに目を細めた。
「前だったら、返ってきた答案見て『何が足りなかったんだろう』って参考書探してたんじゃない?」
「あ……うん。たぶん探してた」
フローレンは少し気恥ずかしそうに笑った。
今でもその姿が簡単に思い浮かぶ。間違いを見つけるたび、足りないものを埋めようと新しい知識ばかり探していたころの自分だ。
「それに、先生にも言われたの。答え方が変わったって」
「先生に?」
「うん。前より書く量は減ったけど、何を考えて答えたのか分かりやすくなったって。今の考え方を続けてみるといいって仰ってた」
レオの目がぱっと輝き、嬉しそうな笑みが広がった。
「よかったじゃん」
「えへへ」
けれど、答案へ目を戻せば気になる赤い書き込みがまだいくつか残っている。
「でも、九十二点だったんだよね。もっとちゃんと考えられてたら、ここも――」
「アストリア」
不意に名を呼ばれて顔を上げる。
ルシアンがこちらを見ていた。
「九十二点だったことより、僕はそっちの方がすごいと思う」
「……え?」
一瞬、何を指しているのか分からなかった。
ルシアンの長い指先が答案の上を辿り、赤い書き込みのそばで静かに止まった。
「試験中に間違えたところを、返されたあとで自分で辿り直したんだろう。どこで考え違いをしたのか見つけて、次はどうするかまで自分で決めている」
声はいつもと変わらず、静かで淡々としている。
けれど、いつもの「前より進めている」とは少し違った。
「薬草学でも、魔法史でも、同じ考え方を使えるようになった。それに、間違えたことまで次に使っている」
伏せられることも、逸らされることもなく、紫の瞳がまっすぐフローレンを見ていた。
「――それは、すごいと思う」
静かな声だったのに、その一言だけが不思議なくらい鮮明に胸へ残った。
フローレンはしばらく言葉を忘れたようにルシアンを見つめた。胸の奥に残った一言が、ゆっくりと熱へ変わっていく。
これまで周囲から、記憶力をすごいと言われることは何度もあった。
一度読んだものを、細かなところまで覚えていられる。そうして覚えてきた知識は、フローレンがこれまで学び続けて積み重ねてきたものだ。
けれど、覚えていられるという力そのものは、自分で手に入れたものではなかった。
今、ルシアンが見ているのはそこではない。
自分で考えたこと。
間違えて、そこからもう一度考え直したこと。
教わったことを繰り返し試しながら、少しずつ自分のものにしてきた部分だった。
胸の内が急に騒がしくなった。何かが次々と込み上げてくるのに、どれも上手く名前をつけられない。頬ばかりが困るほど熱くなっていく。
「……あ、どうしよう」
何か言わなくてはと思うのに、うまく言葉にならない。ただ、さっきの「すごい」が何度も胸の内に蘇って、そのたびに熱い頬が溶けそうになる。
「……嬉しい、です」
ようやく見つけた言葉を口にした途端、二人のあいだに一拍、ふっと静かな間が落ちた。
ルシアンがわずかに目を見開く。
「……そうか」
それだけ答えて、彼は答案へ視線を戻した。
紙の端に添えられていた長い指が、ほんのわずかに動く。置き場所を迷ったように一度だけ位置を変えて、それきり静かになった。
ほんの小さな仕草だったのに、フローレンの目はなぜか、その指先を追っていた。
「うんうん」
二人のあいだに残っていた静かな間へ、隣から妙に納得した声が差し込んだ。
フローレンが振り向くと、レオは菓子をひとつ摘まんだまま、どこか満足そうな顔で二人を見比べている。
「……なに?」
「ん、別に?」
問い返しても、レオは肩を小さく揺らしただけで、それ以上は何も言わなかった。
「それより、せっかくいい点だったんだからさ。今日はお祝いしようよ」
そう言って、ほどいていた包みをフローレンの方へ押し出す。中には小さな焼き菓子がいくつか並んでいた。
「これお祝い用だったの?」
「いや、普通のおやつ」
「あ、ちがうんだ」
「いまお祝い用になった」
あまりにも堂々と言うので、フローレンは思わず笑ってしまった。
さっきまで頬に集まっていた熱が、笑いと一緒に少しずつほどけていく。
「じゃあ、いただきます」
「どうぞどうぞ。ルシアンも」
「僕もいいのか?」
「三人で食べた方が美味しいでしょ」
さくり、さくりと小さな音が重なる。
ほろほろ崩れる生地には、ほんのり蜂蜜の甘さが混じっていた。フローレンはその甘みと食感をのんびり楽しみながら、机に広げた答案へもう一度目を落とす。
九十二点の数字のそばには、いくつもの丸と赤い書き込みが残っている。
どこで間違えたのかも、その次にどう考えればいいのかも、もう分かった。
赤い書き込みをもう一度ゆっくりと目で辿る。
そうしているうちに、視線が答案の端を越え、その隣に置かれた一枚の紙で止まった。
「……あ。これ、今日やる問題ですか?」
フローレンが紙へ手を伸ばしかけると、ルシアンも何を指しているのか気づいたらしい。
「ああ」
「見ても?」
ルシアンが小さく頷く。
それを見届けるとフローレンは紙を手元へ引き寄せ、最初の数行へ視線を落とした。
これまで解いてきたものより、条件が多い。
一つずつなら知っていることばかりなのに、どこから手をつければいいのかはすぐには見えてこなかった。
「……難しそう」
「一応、別のものもあるが」
「ううん」
答える声は、自分でも驚くほど早かった。
フローレンはもう一度問題へ目を落とす。
「やってみたいです」
その言葉を受けて、ルシアンの声がほんの少しだけやわらいだ。
「今の君なら、そう言うだろうと思った」
胸の奥に残っていた熱が、また小さく揺れる。
けれど今度は、その意味を考えるより先に、目の前の問題へ意識が引かれていった。
何を聞かれているのか。
どこまでなら分かるのか。
フローレンの指先が、問題文をゆっくりと辿る。
「……もう始めるんだ」
隣から、仕方がないなと言いたげな小さな笑いが零れた。
「だって、気になるんだもの」
「お祝いのお菓子まだ残ってるよ?」
フローレンの視線が問題の上でしばし迷い、それからようやく菓子の包みへ向く。まだまだ、甘い誘惑には打ち勝てない。
「……じゃあ、もう一つだけ」
「はい、どうぞ」
差し出された焼き菓子を受け取り、フローレンは紙から一度手を離した。
急ぐことなく最後まで食べ終えて、水をひと口。
指先に菓子の欠片が残っていないのを確かめて、ようやく羽根ペンへ手を伸ばした。
「よし」
小さく呟き、真新しい紙を自分の前へ引き寄せる。
机の端には、返された答案が重なっている。
その隣では、新しい問題の余白へ、またひとつ最初の文字が落ちていった。
紙をめくる音と、ときおり交わされる声が、今日も三人のあいだを静かに満たしていた。
【 お知らせ 】
次話の6-4まではこれまで通り朝夕の1日2話更新、
7-1からは毎日20:10ごろの1日1話更新へ変更する予定です。
7-1以降は少し長めのお話が増えてくるため、ひとまずこの形で続けてみようと思っています。
これまで朝夕の更新を追いかけてくださっていた皆さま、本当にありがとうございます。
更新のペースが少し変わりますが、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。




