5-1 別の科目へ
それから二日が過ぎた。
フローレンは相変わらず、応用問題を前にすれば何度も立ち止まった。
翌朝に挑戦した問題では、条件を一つ見落としたまま先へ進んでしまった。放課後にルシアンから指摘され、ようやく途中の線がずれていたことに気づいた。
別の問題では、必要な知識を探しているうちに以前の癖へ引き戻され、関係のありそうな法則を片端から書き始めかけた。
けれど、一度間違えたところは、次に似た問題へ向き合ったときには少し違って見えた。
条件を拾う手が止まれば、昨日どこを見落としたのかが浮かぶ。
分からなくなって最初へ戻りかけたときには、『全部は戻らなくていい』という声が、聞いたときと変わらない調子で耳の奥へ蘇った。
昨日より少しだけ先まで。
止まったなら、今いる場所からもう一度。
そうして進んだり戻ったりするうちに、ノートには新しい線が少しずつ増えていった。
午前の授業を告げる鐘が鳴る。
薬草学の実習室には乾いた葉と土の匂いが薄く漂っていた。
窓辺には鉢植えの薬草がいくつも並び、春の陽を受けた葉先がつややかに光っている。
棚に収められた硝子瓶の中では、細かく刻まれた根や乾燥花が淡い影を落としていた。
教卓の上には、一株の《ルミナ草》が置かれている。
細長い葉の先に宿る光を見た途端、少し前の合同授業が鮮やかに蘇った。
『では、この《ルミナ草》について――アストリア。説明しなさい』
教科書に書かれていることを最初から順に答え、古い呼び名についての注釈まで口にしかけて途中で止められたのが、つい先日のことだ。
「今日は、少し考えてもらおう」
白髪混じりの教師が、教卓のルミナ草へ手を添えた。
「この株は三日前に開花した。これを使って調合を行うのは今日から六日後だ」
教師が黒板へ二つの情報を書き留める。
開花――三日前。
調合――六日後。
「この場合、いつ採取し、どのような状態で保存するのが適切か。理由とともに答えなさい」
実習室に、ぱらぱらと紙をめくる音が広がった。
多くの生徒が教科書へ手を伸ばし、頁を行き来しながら必要な箇所を探し始める。
フローレンは机の上の紙へ視線を落としたまま、頭の中へ次々と浮かぶものを追っていた。
ルミナ草についてなら、知っている。
採取に適するのは、開花から三日以内。
採取したものは七日以内であれば、生のまま調合へ用いることができる。
乾燥保存をした場合には、効力がおよそ三割低下する。
それだけではない。
根には魔力の流れを安定させる性質がある。
古代エルディア地方では旅人の携帯薬として用いられ、『夜灯草』とも呼ばれていた。
日当たりのよい湿地を好み、葉の魔力光は日没後に強まる。
頁を開かなくても、どの知識も同じ鮮明さでそこにある。
フローレンは羽根ペンを取り、紙へ向けた。
そしてそのまま最初の一文を書きかけて――止まる。
今、何を聞かれている?
ここ数日、基礎術式学の応用問題で何度も自分へ投げかけてきた問いだった。
もう一度、黒板を見る。
いつ採取するのか。
六日後まで、どのような状態で保存するのか。
フローレンの視線が、黒板の二行から手元へ戻る。
三日前に開花した。
採取に適するのは、開花から三日以内。
六日後に使う。
採取したものは、七日以内なら生のまま使える。
乾燥させれば、効力が落ちる。
そこまで辿ったところで、先ほどまで一緒に浮かんでいた別の知識へ意識が向いた。
根の性質。
古い呼び名。
生育に適した土地。
どれも間違ってはいない。
覚えていることにも変わりはない。
けれど。
「……今は、使わない」
声にならないほど小さく、唇だけが動いた。
今回聞かれていることには、必要がない。
フローレンは手元の紙へ視線を戻した。
開花から三日目なら、今日が採取できる最後の日になる。
使用するのは六日後。七日以内なら生のまま調合へ使えるのだから、効力の落ちる乾燥保存を選ぶ必要はない。
羽根ペンが紙の上を滑り始めた。
書き終えた答えは、思っていたより短かった。
紙にはまだ、白いところが多く残っている。
以前なら、その余白を見るだけで何かを書き漏らしているような気がしたかもしれない。
フローレンは自分の答えを読み返し、もう一度だけ黒板へ視線を上げた。
問われていることには、答えている。
古い呼び名も、根の性質も、ここへ加えたところで答えには近づかない。
それ以上を書き足す理由はなかった。
フローレンは静かに羽根ペンを置いた。
「では、確認しよう」
教師が実習室を見渡す。
「アストリア」
「はい」
名前を呼ばれ、フローレンは席を立った。
視界の端に、教卓のルミナ草が映る。
少し前は、同じ薬草を前にして、知っていることを端から答えていた。
今も、この薬草について覚えていることは何ひとつ変わっていない。
「開花から三日目なので、今日採取します。調合に使うのは六日後なので、乾燥させず、生のまま保存します」
一度、息を継ぐ。
「採取したルミナ草は七日以内であれば生のまま調合に使えます。乾燥させると効力が三割ほど落ちるため、今回の場合は生のまま保存するのが適切です」
そこで口を閉じた。
根についても知っている。
古い呼び名も、どの土地で育つのかも。
けれど、続けなかった。
教師は短く頷いた。
「正解だ。座っていい」
「はい」
席へ戻る。
それだけだった。
途中で言葉を止められることもなく、周囲から笑いが起こることもない。
椅子へ腰を下ろすと、机の上には短い解答と広い余白が残っていた。
少し前なら落ち着かなかったはずの白さが、今日は妙にすっきりとして見えた。
やがて授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
張っていた空気がほどけ、生徒たちは一斉に道具を片づけ始める。
硝子器具が触れ合う澄んだ音へ、椅子の脚が床を擦る音や楽しげな話し声が重なっていった。
フローレンが羽根ペンをしまっていると、隣からエリナが顔を寄せる。
「今日は先生に止められなかったわね」
「……?」
「前にルミナ草を当てられたときは、途中で止められてたでしょ」
言われて、あの日の教室に広がった小さな笑いまで思い出す。
フローレンは気恥ずかしさを隠すように、教科書を鞄へ押し込んだ。
「もう忘れてください……」
「さすがに忘れないわよ。あんなに綺麗に教科書を最初から読んでいくんだもの」
「読んではないよ」
「あ、そうね。見てはいなかったものね」
エリナの目元に、からかうような笑みが浮かんだ。
「でも今日は、ずいぶんすっきりしてた」
「すっきり?」
「答えが。聞かれたことだけ答えて終わったから」
そう言われて、フローレンは手元の紙へ目を落とした。
確かに短い。
ほんの数行しかないのに、不思議と何かが欠けているようには思えなかった。
「どうしたの?」
エリナが横から覗き込む。
「ううん……」
返しながら、フローレンはもう一度自分の答えを目で辿った。
何を聞かれているのか。
最初に、それを考えた。
そこから必要な知識を探して。
今あるものから、何が言えるのかを考えた。
――あれ。
今まで、この順番で考えていたのは基礎術式学だった。
外部魔力。
第二則。
補正式。
今日はもちろん、そのどれも出てこなかった。
目の前にあったのは、薬草が開花した日と、調合へ使う日。
そこへ、自分の持っている薬草の知識を当てはめただけだ。
それなのに。
考えた順番は、同じだった。
「……同じだ」
「何が?」
不思議そうな声が返る。
フローレンはすぐには答えず、教卓の上に残るルミナ草へ目を向けた。
紙の上に線はない。
けれど、問いから必要な知識を拾い、その先へ進んだ。
何を聞かれているのか。
何が分かっているのか。
そこから何が言えるのか。
それは、術式でなくても変わらなかった。
「……これ」
フローレンは答案を持ち上げた。
「もしかして、他の科目でも使えるのかな」
「何が?」
もう一度尋ねられて、ようやくエリナを見る。
説明しようとして、やめた。
まだ、自分でも確かめていない。
「ううん。なんでもない」
答案を鞄へしまう。
けれど、思いついたばかりのそれは一緒には収まってくれなかった。
――他の科目でも、使えるのかもしれない。
まだ確かめてもいない可能性が、胸の奥でふわりと膨らむ。
早く次の授業でも、このやり方を試してみたい。そう思うと、鞄を閉じる指先がわずかに弾んだ。




