4-4 続きから
ルシアンが開いた頁には、術式の一部に生じた変化に対して、補正式がどの段階で働くかを問う問題が載っていた。
今朝解いたものとは、また使われている条件が違う。
けれどフローレンは戸惑うより先に、問題文を初めから読み始めた。
何を聞かれているのか。
分かっていることは何か。
昨日は尋ねられて初めて考えたことを、今日はもう自分から探している。
フローレンは問題文の横へ短く問いを書き、必要だと思う条件だけを拾い出した。一度ペンが止まったものの、今度は参考書へ手を伸ばさない。少し考えてから、条件のひとつと覚えている補正式の規則との間に線を引く。
その様子をしばらく眺めていたレオが、ルシアンへ顔を向けた。
「今日はずいぶん静かだね」
「考えている途中で、わざわざ口を挟む必要はないだろう」
「昨日はもっと質問してたじゃん」
「今日は自分で進めているからな」
さらりと返された言葉が耳に入り、フローレンのペン先がほんの少し止まった。
自分で進めている。
それだけのことなのに、胸の内側をくすぐられたような気がして、すぐにまたノートへ意識を戻す。
条件から、補正式が働くための規則へ。
そこから、術式内部に起きる変化へ。
一本、また一本と線を伸ばしていく。
「……ここまでは、分かります」
フローレンは最後に引いた線の先へ指を置いた。
「補正式が働くところまでは繋げられました。そのあとの変化も、この規則を使えば……」
記憶にある一節を書き加え、もう一つ先へ線を伸ばす。
「ここまでは行けると思います」
「ああ。そこまでは合っている」
初めから見ていたルシアンは、迷いなく頷いた。
フローレンは小さく息をつくと、再び問題へ向き直った。
補正式が働いた。
ここまでは分かっている。
では、その次は。
いくつかの規則が頭に浮かぶ。その中から一つを選び、書きかけて――止まった。
「……あれ」
今度は、先ほどまでのようには続かなかった。
書いた式を確かめ、その上にある条件へ戻る。
問題文の最後まで読み返してみても、そこから先へ続く一本が見つからない。
何が分からないのかは、昨日よりずっとはっきりしている。
けれど、次に何を見ればいいのかが分からなかった。
フローレンは問題文の一行目へ戻る。
初めから読み直し、条件を拾い直す。
けれど同じところまで来れば、やはり線はそこで途切れた。
眉間へ小さく皺を寄せ、もう一度最初へ戻ろうとしたところで、ルシアンの声がした。
「アストリア」
頁をめくりかけていた指が止まる。
「はい」
「今、分からないのはどこだ?」
フローレンは自分が最後に引いた線の先を示した。
「ここです。ここまでは繋がるんですけど、このあと何を使えばいいのかが分からなくて」
「なら、なぜ最初へ戻る?」
「……何か見落としてるかもしれないと思って」
ルシアンはそれまでフローレンが引いた線を、最初から順に確かめた。
「ここまでの考え方は、自分ではどう思う?」
「合ってる……と思います」
「僕もそう思う」
ルシアンの指先が、線の上を辿っていく。
そして、最後にフローレンが止まったところで静かに止まった。
「なら、全部は戻らなくていい」
「全部?」
「ああ。ここまでは繋がっているんだろう?」
フローレンは頷いた。
「だったら、今いるところから一番近い次を探せばいい。最初から全部を見直したら、もう必要のないものまで候補に戻ってくる」
言われて、フローレンは頁を見つめた。
問題文の最初ではない。
自分の線が途切れている、今いる場所。
ここまでは分かっている。
なら、その次だけを考える。
「……今いるところから」
「ああ」
短い返事を聞きながら、フローレンは最後に書いた式を読み直した。
補正式が働いたあと、術式内部では何が変わったのか。
その変化に直接関係する条件は、どれだろう。
もう一度頁へ意識を戻すと、先ほどまで問題文全体の中に埋もれていた一文が、不意に輪郭を持った。
「あ」
そこからは早かった。
条件を一つ拾い、途切れていた線の先へ繋げる。
覚えている規則を当てはめると、さらにその先へ必要なものも見えてきた。
途中で一度ペンを止めて考えたものの、もう問題文の最初へ戻ることはなかった。
最後の答えを書き終える。
「……できました」
ルシアンは書き込みを順に確かめ、最後の式まで目を通した。
「ああ。合っている」
「よかった……」
知らず詰めていた息が、ゆっくりとほどけていく。張っていたものが胸の内から抜けていくのに合わせるように、フローレンの口元にも自然と笑みが浮かんだ。
その様子を見ていたレオが、机へ片肘をつきながら言った。
「今の、昨日とだいぶ違ったね」
「そう?」
フローレンが聞き返すと、レオは朝から増えた何本もの線を指先で追った。
「だって最初に止まるまで、ルシアンほとんど何も言ってないじゃん」
「アストリアが自分で進めていたからな」
ルシアンが当然のように答える。
「途中で詰まっても、どこまで分かっているかは自分で説明できていた。昨日より先まで、自分で進めている」
そう改めて言われて、フローレンはノートの上に残った線へ目を落とした。
昨日より先まで、自分で進めた。
その事実が、じわりと胸の奥へ染みてくる。
朝、一人で問題を解ききることができた。
今の問題はまた途中で分からなくなったけれど、昨日と同じ場所で立ち止まったわけではなかった。
「……はい」
滲み出る嬉しさを噛みしめるように頷く。
すると隣で、レオが小さく笑った。
「あ、今のも褒めてたってことでいいよね?」
「……ああ、そのつもりだが」
「分かりにくいんだよなあ、ルシアンの褒め方」
レオの言葉に、フローレンもつられて笑う。
「でも、今のは褒めてくれてるんだなって伝わってきました」
「よかったじゃん。今度はちゃんと伝わって」
レオがルシアンを見て得意そうに笑う。
「なぜお前が得意げなんだ」
ルシアンが呆れたようにレオを見る。
軽いやり取りの余韻が、三人の間にしばらく残っていた。
やがてフローレンがノートへ目を戻すと、先ほどまで途切れていた線が目に入った。
これまでは、分からなくなれば問題の最初へ戻っていた。条件を拾い直し、それでも進めなければ、まだ何か知らないことがあるのだと思って新しい知識を探した。
けれど今は、そこまでに繋いだものを残したまま、その先だけを考えてもいいと知っている。
フローレンは最後に引いた線へ指先を置いた。
「今から、隣の類題をやってみてもいいですか?」
「こっちを?」
「はい。今度は最初から戻らないで、どこまで一人でできるか試してみたいです」
ルシアンは問題を確認するように頁へ目を遣ったあと、ノートをフローレンの方へ向けた。
「ああ」
「じゃあ、やります」
迷いなく答えて、フローレンは新しい頁を開いた。
その横で、レオが楽しそうに笑う。
「今日のフローレン、止まらないね」
「だって、分かるようになると面白いんだもの」
答えてから、フローレンはふと手を止めた。
少し前までなら、応用問題を前にしてそんなことを口にする自分など想像もしていなかった。
けれど今は、それが不思議なくらい自然だった。
「やってみるといい」
ルシアンが何でもないことのように言う。
「時間はまだある」
壁際の時計へ目を向ければ、帰るにはまだ少し早い。
フローレンは頷いて、改めてペンを走らせた。
しばらくして問題を解き終える頃には、机の上の紙にも新しい線が増えていた。
満足して顔を上げると、先ほど見た時計の針もいつの間にか進んでいる。そろそろ帰り支度を始める頃合いだった。
フローレンが羽根ペンを置くと、二人もそれぞれ手元のものを片づけ始めた。使っていた教本を閉じ、フローレンもノートを鞄へしまう。
「今日も、ありがとうございました」
フローレンがノートを鞄へしまい、ルシアンも自分の本を重ねた。
「途中まで君が自分自身で進めていた。僕は止まったところで一つ言っただけだろう」
「でも、その一つがなかったら、また最初から全部見直してました」
そこまで言って、フローレンは少し考える。
「明日も、自分でやってみます」
「ああ」
ルシアンの返事は短かった。
その隣で荷物をまとめていたレオが、顔を上げる。
「じゃあ、次はどこまで行けるか楽しみだね」
「うん」
フローレンは頷き、それから少しだけ笑った。
「解けたら、また二人に見せてもいい?」
「楽しみにしてる」
レオがすぐに返す。
少し遅れて、ルシアンも「ああ」と短く頷いた。
三人で机の上を片づけると、昨日と同じようにレオが最後に扉を押さえた。
廊下へ出る前に、フローレンは鞄の中のノートへそっと手を添える。
昨日より、自分で繋いだ線が増えた。
明日は、この続きからもう少し先へ行ってみたい。




