4-3 次の一問
放課後。
図書館の脇へ続く廊下まで来ると、授業棟に残っていた賑わいも次第に薄れていった。
返却された本を積んだ台車が、磨かれた床の上をゆっくりと通り過ぎていく。開いた扉の向こうには高い書架が並び、紙と古い革表紙の乾いた匂いがほのかに漂っていた。
昨日も通った廊下を、フローレンは急く気持ちを抑えながら歩いていた。
頭にあるのは、鞄の中のノートと、朝に自分で引いた何本かの線ばかりだ。
小さな自習室の前まで来ると、レオが扉を開けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
中へ入ると、すでにルシアンが席についていた。
机の上には教本が二冊と、何枚かの紙が整えて置かれている。昨日とほとんど変わらない光景。それなのに今日は、机の上に並んだものより先に、席についているその姿へ目が向いた。
「ノクティスさん、こんにちは」
「ああ。アストリア」
ルシアンが読んでいた本から顔を上げる。
「レオから聞いた。朝、自分で問題を解いたそうだな」
「……っ、はい! あの、それがこれで――」
返事をしながら、フローレンはもう鞄へ手を入れていた。
ノートを取り出し、朝に解いた頁を開く。そのまま机の向こうへ差し出しかけたところで、隣にいたレオから声がかかった。
「フローレン」
「なに? レオ」
「まだ座ってもないよ」
「……あ」
言われて初めて気づいた。
椅子に腰を下ろすことさえ忘れ、ノートだけを先にルシアンへ差し出していたらしい。
「ご、ごめんなさい」
「別に謝ることではないだろう」
ルシアンはわずかに間を置くと、空いている椅子を示した。
「時間はある。落ち着いて見せてくれるか?」
「……はい」
おとなしく席につくと、隣から小さく息を漏らす音がした。
フローレンがそちらを見る。
「……レオ」
「何も言ってないよ」
「笑ってる」
「それはまあ、ちょっとだけ」
何かひと言くらい言い返したい気もしたが、フローレンは喉まで出かかった言葉を飲み込む。代わりに少しだけ唇を尖らせると、レオの笑みがますます深くなった。
昨日はこの部屋へ入ってから席につくまで、何をするにも少し身構えていた。
今日は緊張する暇さえなく、早くノートを見てもらいたい気持ちの方が先に立っていたらしい。
そのことに気づくと、今さらじわりと恥ずかしさが込み上げてくる。
フローレンは誤魔化すようにノートを机へ置き直した。
「これか」
「はい」
「見ても?」
「もちろんです」
許可を得てから、ルシアンがノートを自分の方へ少し寄せる。
朝に書いた問題文と三つの条件。その間には、フローレン自身が引いたいくつかの線が残っている。
ルシアンはすぐに答えを見るのではなく、最初の書き込みから順に頁を辿っていった。
「どう考えた?」
昨日と同じ問いだった。
けれど今日は、自分の中に答えがある。
「最初に、何を聞かれているのかを確認しました。それから分かっている条件だけを書いて……途中で、第一式に必要な魔力が増えたなら、その分だけ多く配られるんだと思ったんです」
フローレンは自分の書いた文字を指で示した。
「でも、全体へ供給される量は変わらないって書いてあったから。だったら、増えた分はどこから来るんだろうって」
頁を追っていたルシアンの手が止まった。
そこには、小さな文字で一文だけ書き残してある。
『増えた分はどこから?』
「これは?」
「そのとき、自分で思ったことです」
ルシアンは、その一文をもう一度確かめた。
ほんの短い沈黙だった。
昨日は、自分ではなく向かいから投げかけられていた問いだった。
「それで、全体の量が変わらないなら、第一式へ多く回る分だけ第二式と第三式への配分が減るって気づいて。そこから維持に必要な最低量を見ました」
フローレンが説明する間、ルシアンはときおり書き込みを確かめながら、最後まで口を挟まずに聞いていた。
話し終えると途中の式をもう一度確認し、最後の答えまで目を通す。
「合っている」
「……本当ですか?」
「ああ。考え方も問題ない」
朝、自分ひとりで答えを確かめたときとは違う嬉しさが、遅れて胸へ満ちてきた。
正しいとは思っていた。
それでも、昨日の自分を見ていた相手からそう言われると、同じ頁が少しだけ誇らしく見える。
「昨日は、最初の条件から先へ進むところで止まっていた」
ルシアンは昨日の頁と朝の頁を見比べた。
「今日は途中で一度止まっても、自分から別の条件に目を向けている。昨日より、自分で進めるところが増えたな」
「……うん」
嬉しさにつられるように頷いてから、フローレンははっとした。
「あ……えっと、はい」
慌てて言い直すと、ルシアンがわずかに眉を上げる。
「別に、僕は気にしないが」
「でも」
「……話しやすい方でいい」
それだけ言うと、ルシアンは特に気にした様子もなくノートへ意識を戻した。
「……はい」
結局いつもの敬語に戻ったフローレンを見て、レオが喉の奥で小さく笑った。
机の上には、昨日の頁と今日の頁が並んでいる。
壁際の時計が控えめな音で規則正しく時を刻む。先ほどまで少し浮ついていたフローレンの気持ちも、その音を聞くうちにようやく落ち着いてくる。
そんな中、レオが身を乗り出して朝の頁を覗き込んだ。
「というかルシアンさ、そこはもうちょっと褒めてもいいんじゃない?」
「どういうことだ?」
何のことか本気で分からないらしいルシアンに、レオが指先で朝の頁を示す。
「フローレンが一人で解いたとこ」
「今言っただろう。昨日より自分で進めていると」
「それ、褒めてるっていうより報告なんだよな……」
レオが呆れ半分にフローレンを見る。
言われてみれば、確かに褒められたというより、採点結果と変化を伝えられたような気もする。
けれど、不思議と物足りなくはなかった。
「わたしは嬉しかったよ?」
フローレンがそう返すとレオは目を少し瞬き、その口元にはにんまりと笑みが広がった。
そのままルシアンへ顔を向ける。
「よかったね、ルシアン」
「なんで僕に言うんだ」
すぐに返しながら、ルシアンはほんの一瞬だけフローレンへ顔を向けた。
けれど目が合うより先に、またノートへ戻ってしまう。
その横顔は、少し困っているようにも、わずかに照れているようにも見えた。
やがてルシアンは朝の頁をもう一度最初から確認すると、ノートをフローレンの前へ返した。
「思っていたより早いな」
「え?」
「昨日の考え方を、そのまま同じ問題に使っただけではない。別の問題でも、自分で問いを作ることができている」
そこで一度言葉を切り、机の上に置いてあった教本へ手を伸ばす。
「これなら、次はもう少し違う形でも試せそうだ」
何頁かめくり始めたルシアンを見て、今度はレオが口を挟んだ。
「え、もう新しい問題するんだ?」
「そのつもりだが」
「いや、俺はいいけどさ」
レオは椅子の背へ軽く身体を預け、面白そうに笑った。
「なんだかんだルシアンも結構やる気じゃん」
「……別にいいだろう」
「ははっ」
妙に楽しげなレオを横目に、ルシアンは釈然としない顔で教本をめくり続ける。
やがて一つの頁で手を止めた。
「アストリア。これをやってみるか?」
「はい!」
返事は、昨日よりずっと早かった。
ルシアンが教本を机の中央へ向け直す。
フローレンが身を寄せて頁を覗き込み、その隣でレオも椅子を少し机へ寄せた。
昨日と同じ小さな机の上で、三人の間に一冊の教本が開かれた。




