4-2 喜びの行き先
昼休み。
午前最後の授業が終わってからしばらく経ち、校舎には昼休み特有の緩んだ気配が漂っていた。
廊下の壁際で話し込む生徒や、教室の前で友人を待つ生徒。授業中には同じ方向へ流れていた時間が、このひとときだけは思い思いの場所へほどけている。
フローレンもエリナと昼食を済ませ、第二クラスの教室へ戻る途中だった。
「フローレン」
少し後ろから名前を呼ばれ、フローレンは歩みを止めた。隣を歩いていたエリナも、つられるように足を止める。
振り返ると、廊下の向こうからレオがこちらへ歩いてくる。長い赤髪をゆるく編んだ三つ編みが、歩調に合わせて背中で揺れていた。
「レオ」
レオが二人のそばまで来ると、エリナはフローレンとレオを交互に見た。
「じゃあ、先に戻ってるわね」
「うん。またあとで」
軽く手を振って去っていくエリナを見送り、フローレンはレオへ向き直った。
「今日、昨日のやつ使えそうだった?」
「昨日の?」
「ほら、問題の考え方」
今日の授業で応用問題でも出ていれば、昨日のことが少しくらい役に立っただろうか。レオはその程度のつもりで聞いたのだろう。
けれどフローレンの頭に浮かんだのは、授業ではなく朝のノートだった。
自分で引いた線。
途中で書き直した式。
最後まで辿り着いた答え。
「授業では使わなかったんだけど、今日ね、一人で応用問題を一問解けたの」
「ほんと?」
レオの表情がぱっと明るくなる。
「うん。基礎術式学の教本の百二十八頁、第三問の左側にあった応用問題なんだけど、最初に何を聞かれてるのか考えて、それから条件を見てね。途中で一回分からなくなったんだけど――」
一度言葉を切ったはずなのに、次に話したいことがすぐに浮かんだ。
「書いた条件をもう一回見てたらね。『増えた分って、どこから来るんだろう』って、自分で思ったの」
話しているうちに、朝に感じた面白さがもう一度鮮やかになってくる。
気づけばフローレンはほんの少しレオの方へ身を寄せ、ノートもないのに、指先で線を繋ぐような仕草までしていた。
「昨日ノクティスさんに聞かれたことを、そのまま思い出したんじゃなくて。問題を見てたら、自分で気づいたの」
「へえ。すごいじゃん」
「……すごい、かな」
そこで初めて、話に合わせて動いていた自分の手に気づいた。
いつの間にか、ずいぶん夢中になって話していたらしい。そっと手を下ろし、レオへ傾いていた身体も元に戻す。
途端に、今さら気恥ずかしさが追いついてきた。
「だって昨日初めてやったんでしょ? それを今日もう一人でできたんだから」
フローレンはまだ少し照れくさくて、「うん」と小さく笑った。
「それに、今のフローレン見てたら分かるよ。楽しそう」
「……また言われた」
「また?」
「朝も友達に言われたの。応用問題やってるのに楽しそうだって」
レオはそれを聞くと、納得したように頷いた。
「そんなに分かる?」
「分かるよ」
返事には迷いがない。
「前は応用問題の話になると、困った顔してたから」
「……そんなに?」
「そんなに」
朝にもよく似た返事を聞いたばかりだった。
思わず眉間へ手をやりかけて、フローレンは途中でやめた。
その仕草に気づいたレオの口元が、楽しげに緩む。
「それも、朝も同じことした?」
「……した」
「やっぱり」
「だって、そんなに顔に出てると思わなかったんだもん」
少しだけ恥ずかしい。
けれど嫌な気はしなかった。
さっきまで夢中になって話していた熱が、まだ身体のどこかに残っている。自分では気づかなかっただけで、それが表情にも滲んでいたのかもしれない。
そこでふと、鞄の中のノートを思い出した。
昨日は、問いを頼りに線を辿った。
今日は別の頁に、自分だけで引いた新しい線がいくつも残っている。
昨日教えてもらったやり方で考えてみたら、ここまでできた。
そう伝えたら、どんな言葉が返ってくるだろう。
「……ノクティスさんにも、見てもらいたいな」
考えていたことが、そのまま口から零れた。
言ってから、自分でも少しだけ驚く。
正解していることは、もう自分で確かめた。
それでも、昨日自分がどこで止まっていたのかを知っている相手に、今日の頁を見てもらいたいと思った。
「いいんじゃない?」
レオはごく自然に頷いた。
「じゃあ放課後、また三人で集まろっか」
「うん」
昨日三人で囲んだ机の続きを、今日もまた同じ三人でする。
そう思うと、それが不思議なくらい自然なことに感じられた。
「このあとルシアンの予定聞いとくよ。昨日の部屋も使えるか確かめておく」
「うん。ありがとう」
廊下の向こうで、昼休みの終わりを知らせる鐘が鳴った。
途中だった会話を切り上げる声や、教室の中へ戻っていく足音があちこちで重なる。先ほどまでのんびりしていた廊下にも、次の授業へ向かう時間が戻ってきた。
「じゃ、あとで」
「また放課後ね」
レオと別れ、フローレンも第二クラスの教室へ戻る。
鞄の中には、朝に解いたばかりのノートが入っている。
朝には、自分ひとりで最後まで辿り着けたことがただ嬉しかった。
今はその一頁を、早く二人に見せたかった。




