4-1 最後まで
翌朝。
いつもより少し早く家を出たせいか、教室にはまだ数えるほどしか生徒がいなかった。
朝の光は窓際の机を先に照らし、磨かれた天板の上へ細長く伸びている。誰も座っていない椅子の背には、淡い明るさが静かに積もっていた。
遠くの廊下を渡る足音も、まだまばらだった。これから少しずつ人の声に満たされていく教室が、一日の始まりを待つようにひっそりとしている。
フローレンは自分の席へ鞄を置き、教科書と筆記具を取り出した。最後に机の上へ載せた一冊のノートを見て、ほんの少しだけ手を止める。
いつもと同じ表紙。
けれど頁を開けば、そこには昨日初めて残されたものがある。
一本は、ルシアンが引いた線。
その次の頁には、フローレン自身が初めて引いた一本の線。
昨夜、家へ帰ってからも何度か開いた。
問題文のどこを見て、何を思い出し、どう考えたのか。頁を辿れば、そのとき自分が何につまずき、どこから先へ進めたのかまで鮮やかに蘇ってくる。
条件。第二則。増えた魔力。そして、上がった出力。
どれも昨日より前から知っていたことだった。
違うのは、その間に道があると知ったことだけだ。
フローレンは自分で引いた一本の線へ指先を触れた。黒い線は紙の上をほんの数センチ走っているだけなのに、昨日まで別々に並んでいた二つの知識を確かに結んでいる。
『分からなくなったら、そこで止まればいい』
昨日聞いた言葉が、不意に耳の奥へ蘇った。
今日は、向かいに誰もいない。
何を見るべきか尋ねてくれる人も、どこで立ち止まったのかを見つけてくれる人もいない。
自分だけでなら、どこまで行けるのだろう。
「……やってみようかな」
誰に聞かせるでもなく呟き、基礎術式学の教本を開く。昨日扱った頁を通り過ぎ、少し先まで読み進めたところで、一つの応用問題に目が留まった。
三つの基礎式が一つの供給源から魔力を受け取る術式。
全体へ供給される魔力量は一定で、各式への魔力は必要量に応じて自動的に配分される。通常はいずれの基礎式も、稼働を維持するために必要な最低量を上回っている。
その状態で、第一式の稼働に必要な魔力量だけが増加した場合、術式に最初にどのような変化が起こるか。
問題文には三式それぞれの現在の配分量と維持に必要な最低量、それに再配分の規則も示されていた。
昨日とは、出てくる言葉からして違う。
それでも、知らないことを問われているわけではなかった。
フローレンはノートの新しい頁へ問題を書き写した。最後の一文字まで書き終えると、その下にはまだ何もない余白が広がっている。
これまでなら、ここから関係しそうな知識をできる限り書き出していた。基礎式の性質。魔力の供給方法。配分の規則。思いつくものを一通り並べ、それでも解けなければ参考書を探す。
分からないのだから、まだ何かを知らないのだと思っていた。
気づけば、教室の後方にある小さな書架へ顔を向けていた。昨日の朝にも使った参考書が、見慣れた背表紙をこちらへ向けて並んでいる。
いつもの癖のまま椅子から立ち上がりかけて、止まった。
「……違う」
まだ何も考えていない。
分からないからといって、知らないものがあるとは限らない。
昨日、そのことを初めて知ったばかりだった。
フローレンは座り直し、もう一度ノートへ向き合った。
何からだっただろう。
そう考えたとき、昨日一つずつ尋ねてもらったことを思い出した。あのときは問われるたびに答えていただけだったけれど、今日はその続きを尋ねてくれる相手はいない。
なら、自分で探してみればいい。
「……何を聞かれてる?」
声にすると、それだけで問題文の見え方がほんの少し変わった。
第一式に必要な魔力量が増えたあと、術式に何が起こるのか。
頁の端へ短く書き留める。
昨日なら、ここで次の問いかけてもらった。
今日は、その続きを自分で見つけなければならない。
フローレンはもう一度、問題文へ目を戻した。
「分かってることは……」
全体へ供給される魔力量は一定。
第一式の必要量だけが増える。
三つの基礎式には、それぞれ稼働を維持するための最低量がある。
一つずつ拾って書けば、それだけで筆が止まった。
三行。
その周りには、手つかずの余白が広々と残っている。
以前なら、この程度の書き込みでは到底安心できなかった。白い部分が多いほど、まだ拾えていない知識がどこかにあるように思えてしまう。
もっと書いた方がいいのではないか。
まだ何か足りないのではないか。
馴染み深い考えに促され、ペン先が空白へ滑りかける。
そこでフローレンは、もう一度三行の文字へ意識を戻した。
――この条件から、何が言える?
昨日までなら、その問いそのものがなかった。
今も答えがすぐに浮かぶわけではない。それでも、昨日のように、今ある条件を一つずつ見てみようと思えた。
第一式に必要な魔力が増える。
なら。
「……第一式に、その分だけ多く回る?」
そこまでは分かる。
けれど、それだけでは問題の答えにならない。
フローレンは問題文を読み返した。
全体へ供給される魔力量は、変わらない。
その中から、第一式へ回す量だけを増やす。
「……あれ」
二つの条件を並べたところで、初めて引っかかった。
「増えた分って……どこから来るの?」
自分の口から零れた問いに、フローレンは一瞬だけ動きを止めた。
昨日、投げかけてもらった問いのどれとも違う。
問題文を追っているうちに、自然と浮かんだものだった。
胸の奥に小さな引っかかりを残したまま、もう一度三つの条件を見る。
全体の量は変わらない。
第一式へ回す量だけが増える。
なら、その分だけ。
「……ほかに回る魔力が、減る」
今度は迷いが少なかった。
問題文にある二つの条件の間へ、ペン先を置く。
さら、と紙を擦る音とともに、自分の手で一本の線を引いた。
第一式へ回す魔力が増える。
そのぶん、第二式と第三式へ配られる魔力は少なくなる。
そこまで繋がったところで、また筆が止まった。
以前なら、ここで再び「分からない」に戻っていただろう。
けれど今は、そこで考えることまで止めたくはなかった。
フローレンはもう一度、自分の引いた線を辿った。
第一式へ回す魔力が増える。
残る魔力が減る。
第二式と第三式へ回る量も減る。
ここまでは分かる。
なら、その先は。
頁の上に書き出していたもう一つの条件へ意識が向いた。
三つの基礎式には、それぞれ稼働を維持できる最低量がある。
「あ……」
今度はすぐに意味が繋がった。
配られる魔力が減れば、いずれその最低量へ近づいていく。問題文に示された配分量と維持に必要な量を見比べれば、どちらが先に限界へ届くのかも分かる。
フローレンのペンが再び動き始めた。
二つの数値を確かめ、短い式を書く。途中で一度だけ計算をやり直したものの、頁の初めへ戻ることも、後ろの書架が気になることもなかった。
最後の答えを書き終える。
最初に停止するのは第二式。
それによって三式の均衡が崩れ、術式全体も正常な稼働を維持できなくなる。
ペン先が紙から離れた。
フローレンはすぐには動かなかった。
問題文から、自分で引いた線へ。
そこから途中の式を辿り、最後に書いた答えまで。
もう一度確かめる。
間違っていない。
「……できた」
声にして初めて、じわりと実感が追いついてきた。
昨日も問題は解けた。
けれど昨日は、立ち止まるたびに次の問いを置いてもらった。その問いを頼りに、一歩ずつ先へ進んだ。
今日は違う。
途中で分からなくなった。
知らないものを探しに行きかけた。
一つの条件だけを追いかけて立ち止まり、別の条件へ戻ることもできた。
それでも戻ってきた。
自分で次に考えることを探して、最後まで辿り着いた。
フローレンの口元が、知らずほころぶ。
「……面白いかも」
「何が?」
「わ……!」
すぐ後ろから返事がして、フローレンは勢いよく振り返った。
そこには、いつの間に来ていたのか、エリナが鞄を肩に掛けたまま立っている。
「びっくりした……」
「こっちの台詞よ。さっきから何度もおはようって言ったのに」
「あ……ごめん。おはよう」
「おはよう」
エリナは呆れ半分に笑いながら自分の席へ鞄を置き、そのままフローレンの机へ身を寄せた。
「朝から何してるの?」
「これ」
フローレンはまだ頬に残る笑みのまま、ノートを少しエリナの方へ向けた。
エリナはフローレンが書いた文字や線に目を滑らせた。眉間へ深々と皺を寄せると、何とも言えない顔でフローレンを見る。
「……朝から応用問題?」
「うん」
「やだもう。私に朝から頭使わせないで」
「見せただけだよ」
「見ただけで疲れたわ」
いかにも大仕事を終えたようなため息がおかしくて、フローレンはくすくすと笑った。
「でもね、これ、一人で解けたの」
「え?」
エリナが再びノートへ向き直る。
「この前からずっと悩んでた問題?」
「それとは別。昨日、問題の考え方を教えてもらったから、新しい問題で試してみたくなって」
「へえ……」
もう一度問題文と書き込みへ目を遣るものの、やはり途中で諦めたらしい。エリナは「うん、分からないわ」と潔く顔を上げた。
「私には相変わらず何が何だかだけど」
そこで言葉を切ると、今度はノートではなくフローレンの顔をじっと眺めた。
「なんだか、楽しそうね」
「……そう?」
「うん。前から本を読んでるときや勉強してるときは楽しそうだったけど、応用問題をやってるときはいつも、もっとこう……」
エリナは自分の眉間へ人差し指を当てると、わざとらしくぎゅっと顔をしかめてみせた。
「こんな顔してた」
「そんなに?」
「してたしてた」
フローレンは反射的に、自分の眉間へ指を触れた。
以前も、同じように言われたことがある。
指先でそっと確かめても、今日はエリナが真似たような深い皺はできていないらしい。
「今日は皺、ない?」
「ないわね」
迷いのない返事に、フローレンは少しだけ笑った。
「むしろ、朝からずいぶんご機嫌」
「そんなに分かる?」
「分かるわよ。さっきからずっとニコニコしているもの」
「……そうかなあ」
「そうよ」
言われて初めて気づいたように頬へ手を添えると、エリナがまた笑った。
いつの間にか教室には生徒の姿が増えていた。扉が開くたびに朝の挨拶が交わされ、椅子の脚が床を擦る音や鞄の留め具を外す小さな音が、静かだった室内へ少しずつ重なっていく。
廊下の向こうから届く声も先ほどより近くなり、止まっていた一日の時間がゆっくり動き始めていた。
フローレンはその賑わいの中で、もう一度ノートへ目を戻した。
昨日とは違う頁に、自分だけで引いた線が何本か残っている。
どれも綺麗な線ではない。
迷った跡も、書き直した式も、そのまま残っている。
けれど、その先にはちゃんと答えがあった。
始業の鐘が鳴るまでには、まだ少し時間がある。
フローレンは一度置いたペンを取り直すと、開いたままの教本をもう一頁だけめくった。




