5-2 見せたくて
放課後。
授業棟から図書館へ向かう廊下を、フローレンはいつもより少しだけ早足で歩いていた。
鞄の中には、午前の薬草学で使った答案が入っている。
昼休みにレオと会ったとき、今日も同じ自習室を借りられたと聞いていた。
すでにルシアンにも伝えてあるらしい。
図書館の脇へ続く細い廊下へ入ると、昼間の賑わいは少しずつ遠のいていった。
開いた扉から紙と古い革表紙の乾いた匂いが流れてくる。返却された本を積んだ台車が、かすかな車輪の音を残して角の向こうへ消えていった。
突き当たり近くの木の扉まで来て、フローレンは足を止めた。
少し息が弾んでいる。
緊張しているわけではない。
早く話したいという気持ちに急かされるまま歩いていたら、いつの間にか歩調が速くなっていたらしい。
呼吸をひとつ整え、扉を軽く叩く。
小さな音が消えるより先に、「どうぞ」と聞き慣れ始めた声が返ってきた。
フローレンは、逸る心のまま扉を開けた。
「できたの!」
椅子に座っていた二人が、ほとんど同時に顔を上げた。
一拍置いて、レオの猫めいた目が楽しげに細くなる。
「とうとう挨拶より報告が先になったね」
「……あ」
扉を閉めかけた手が止まった。
「こんにちは……」
「はい、こんにちは」
しおらしく言い直したフローレンへ、レオがいかにも満足そうに返す。
向かいでは、ルシアンも読んでいた本を閉じながら、わずかに口元を和らげていた。
「それで、何ができたんだ?」
「あのね――」
今度こそ扉を閉めると、フローレンはもう迷うことなく机へ向かった。
数日前までは座るだけでも少し緊張していた場所に、今は自然と椅子を引いている。
向かいにはルシアン。隣にはレオ。いつの間にか決まりつつある三人の位置へ収まると、フローレンはすぐに鞄を開いた。
「今日の薬草学でこれが出たの」
午前の答案を取り出し、机の中央へ広げる。
二人の視線が自然とそこへ集まった。
「お、正解」
答案の端に付けられた印へ、レオがすぐに気づく。
「うん」
フローレンが嬉しそうに頷く。
ルシアンも同じ印を確認してから、少し首を傾けた。
「教師が正解だと言っているんだろう?」
「はい」
「なら、僕が確かめる必要はないと思うが」
「……それはそう、なんですけど……」
確かに、その通りだった。
正解かどうかを知りたいわけではない。
それなら授業中にもう分かっている。
けれど、教師に答えを認められたときから、この紙を二人のところへ持ってくるつもりだった。
なぜだろう。
少しだけ考えて、フローレンは机の上の答案へ視線を落とす。
「……見せたくて」
それが、一番近かった。
ルシアンの紫色の瞳が、わずかに見開かれる。
けれど何かを尋ねることはなく、机の上の答案へ改めて視線を落とした。
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
あまりに普段と変わらない調子だったため、フローレンもそれ以上考えることなく、机の上へ身を寄せる。
「これ、最初はいつもみたいに、ルミナ草について知ってることを答えようとしたんです」
「まるまる全部?」
隣からすかさず声が飛んできた。
フローレンがじとりと一瞥しても、レオはどこ吹く風で笑っている。
「……レオ」
「何も言ってないよ」
「悪意があった」
「ないない」
「絶対あった」
小さく言い合っていると、向かいからルシアンの声が重なった。
「それで?」
フローレンは答案へ視線を戻す。
「――あ、えっと。書こうとしてから、何を聞かれてるのか先に考えたんです」
授業で教師が黒板へ書いた二つの情報が、頭の中へそのまま蘇る。
「三日前に開花して、使うのが六日後。それなら、採取に適した時期と保存できる日数、それから乾燥させたときのことだけ分かれば答えられるって」
「ほかの知識は?」
「使いませんでした。根の性質も、生育する場所も覚えてたけど、今回聞かれてることには関係なかったから」
迷いのない答えに、ルシアンは手元の答案へ目を落とした。
「必要なものだけ選んだのか」
「はい」
フローレンの声が少し弾んだ。
「それで、なんですけど」
一度、言葉を切る。
授業が終わったあと、答案を見ながら気づいたこと。
まだ輪郭の柔らかなそれを、確かめるように言葉へしていく。
「気づいたんです。これ、術式の問題と同じだなって」
ルシアンが顔を上げた。
隣のレオも口を挟まず、続きを待っている。
「出てくるものは全然違うのに、最初に何を聞かれてるのか考えて、必要なものを選んで、そこから何が言えるのか考えたら答えが出て」
フローレンの指先が、答案の文字をゆっくりと辿る。
紙の上には、術式問題のような線は一本もない。
「線、引いてないのに」
そう口にすると、なんだか少し可笑しかった。
「同じことしてた」
ルシアンはすぐには答えなかった。
ほんの数日前まで、フローレンは術式問題の中でさえ、どの知識を使えばいいのか分からずに立ち止まっていた。
それが今は、教えた覚えのない別の教科で、自分から同じ道筋を辿っている。
「……早いな」
吐息ほどの声は、机の向こうへ届く前にほどけた。
フローレンは気づかない。
答案の上へ置いた指先をゆっくりと動かしながら、別の可能性を追っている。
(薬草学でも同じだった。それなら――)
「これって、ほかの教科にも使えるんじゃないでしょうか」
レオがわずかに眉を上げる。
けれどフローレンの意識は、もう二人から少し離れたところへ向かっていた。
「たとえば、魔法史とか……」
昨日の授業が鮮やかに浮かぶ。
「王国魔術改革のところ。あれも、改革が起きた年を覚えるだけじゃなくて……その前に交易路が変わって、都市部の魔術師が増えて、それから術式規制が……」
ひとつ口にするたび、次の知識が引かれるように続いていく。
「出来事を条件みたいに考えたら、繋げられるのかな」
そう呟いた途端、また別の問題が浮かんだ。
「魔法生物学も……生息地が変わった理由を聞かれる問題があったよね……。気候と餌と魔力濃度が書いてあって……あれも全部使おうとしないで、必要なものを探せば……」
言葉が途切れる。
フローレンがぱっと顔を上げた。
「……試してみたい……!」
声まで明るく弾み、青緑と紫の入り混じる瞳には、星が瞬くような煌めきが宿っていた。
ひとつ見つければ、その先にまた別の道が見つかる。
頁の上だけにあった線は、いつの間にか薬草学へ伸び、その先の教科へまで枝を広げようとしていた。
そんなフローレンを、ルシアンは黙って見つめていた。
最初の一本を引いたのは、自分だった。
問題文と法則のあいだに、ただ細い線を一本。
そこから何が言えるのかを、一つずつ問いかけただけだ。
ほんの数日前のことなのに。
今、目の前にいるフローレンは瞳を輝かせながら、自分が示したことのない場所へまで次々と線を伸ばそうとしている。
思っていたより、ずっと早い。
そう認識すると同時に、胸の奥を何かが不意に掠めた。
驚きに似ている。
けれど、それだけではない。
分からなかったものが分かるようになるところを見るのは悪くないと、以前そう思った。
今はもう、その程度の言葉では少し足りなかった。
自分が渡した小さなきっかけを手に、目の前の少女がみるみる先へ進んでいく。
もっと見てみたい。
次はどこへ繋ぐのか。
どこまで行くのか。
そんな思いが浮かぶ。
机の向こうで、フローレンはまだ何かを考えている。
頬にはわずかに朱が差し、フローライトのような瞳は、次に試したいものを見つけるたびに輝きを増していた。
いつの間にか、ルシアンの視線はその横顔に少し長く留まっていた。
その視線を、レオが横からそっと拾う。
フローレンが楽しそうなのは、もう珍しくない。
ここ数日、問題が解けるたびに何度も見てきた。
けれど。
(……へえ)
猫のような目が、ゆっくりと細くなる。
ルシアンが、こんな顔をするのは知らなかった。
驚いているだけではない。
感心しているだけでもない。
いつもなら静かに澄んでいる紫色の瞳に、今はほんの少し柔らかな温度が混じっている。
「ルーシアン」
「…………」
返事がない。
レオの口角がゆっくりと持ち上がっていく。
「ね。すごい成長だね、フローレンは」
「……っ」
その名を耳にした途端、ルシアンの視線が揺れた。
「ああ。……そうだな」
「……あはは!」
とうとう堪えきれずに漏れた笑い声へ、ルシアンの眉が寄る。
「……なぜ笑う」
「いやー? なんでもない」
「絶対に何かあるだろう。言ってみろ」
「ないってばー」
追及するルシアンを軽くあしらいながら、レオはもう一度だけ隣へ目をやった。
当のフローレンは、そんな二人のやり取りなど耳に入っていないらしい。
すでに鞄の中を探り、魔法史の教本を取り出していた。
「あの、ノクティスさん。今から少しだけ――」
「あれ? 今日は薬草学のそれを見せに来ただけだったんじゃなかったの?」
レオが笑いながら割って入る。
「あ……そうだった」
勢いのまま教本を開きかけていた手が止まる。
フローレンは名残惜しそうに頁へ目を落とし、そのまま目に見えて肩を落とした。
ルシアンが小さく息を吐く。
その口元には、消えきらない柔らかさがまだ淡く宿っていた。
「特に予定もない。見ようか」
「いいんですか?」
途端にフローレンが顔を上げる。
「ああ」
返事を聞くや否や、教本が机の上へ置かれた。
ぱらり、と頁が開く。
午後の光の中へ、紙をめくる乾いた音が小さく響いた。
薬草学の答案の隣に、新たな科目の頁が並ぶ。
そこにはまだ、一本の線もない。
けれどフローレンの指先はもう、その最初の一点を探し始めていた。




