132:「――可愛い」
週末の放課後。
いつもの自習室でフローレンとルシアンが問題を解いていると、用事で別行動していたレオが慌ただしげに戻ってきた。
扉を開けるなり申し訳なさそうに眉を下げ、胸の前で両手を合わせる。
「ごめん! 明日、行けなくなった」
机の上へ広げていたノートから顔を上げ、フローレンはきょとんと目を瞬かせる。向かいではルシアンも手を止め、レオへ視線を向けた。
「何かあったの?」
「総合実務演習のグループ課題。今日で終わらせる予定だったんだけど、思ったより時間かかっててさ。明日も集まることになった」
「それなら仕方ないな」
「うん。市はまた今度でも――」
「いやいや、二人は行ってきてよ」
さらりと続けられた言葉に、フローレンは途中まで開きかけていた口を閉じた。隣へ目を向けると、ルシアンもちょうどこちらを見たところだった。ほんの一瞬だけ、視線が重なる。
「せっかく前々から予定合わせてたんだし。俺のせいで二人までやめる必要ないでしょ」
「でも、レオも楽しみにしてたんじゃ……」
「それはそうなんだけど」
レオは分かりやすく肩を落とした。声に惜しそうな色を残したまま、言葉を続ける。
「俺のぶんも、二人で楽しんできてよ」
「うん、そこまで言うなら」
「ああ」
二人が頷くと、レオは安心したようにふっと息を吐いた。さっきまでの申し訳なさそうな表情がほどけ、いつもの柔らかな笑みが戻る。
「じゃあ決まり。面白いものあったら後で教えて」
「うん。何かお土産買ってこようか?」
「ほんと? じゃあ、美味しそうなやつ」
「ずいぶん範囲が広いな」
「あはは。そこは二人の判断に任せる」
結局、話はいつもの調子でまとまった。そのあとは問題の続きをしたり、時折雑談に逸れたりしながら三人で放課後を過ごした。帰りも途中までは一緒で、いつもと変わらない道を並んで歩いた。
けれど女子寮へ向かう道でひとり、フローレンはふと歩みを緩めた。
ルシアンと二人で図書館へ行ったことは、これまでにも何度もある。自習室に二人きりになったことも、一緒に課題へ取り組んだこともあった。帰り道だって、二人で歩いたことは一度や二度ではない。
ただ、休日にルシアンと二人だけで学院の外へ出たことは一度もない。
「……二人だけなんだ」
小さく口にした途端、明日の予定が少しだけ違って見えた。
初夏の市へ行き、気になる店を覗いて、夕方には学院へ戻ってくる。それ自体は、三人で出かけるはずだった時と何も変わらない。
「何……着ていこうかな」
自室へ戻ってからも、なぜか気持ちは落ち着かなかった。胸の奥がそわそわと騒ぐ一方で、どこか浮き立つような軽さもある。
そのせいか、翌日に着ていく服を選ぶのにも、いつもよりほんの少し時間がかかった。
◇
翌朝。
ルシアンが学院の門近くで待っていると、少し離れたところにフローレンの姿が見えた。こちらに気づくなり足を速め、軽い足音を重ねながらまっすぐ駆けてくる。
目の前まで来たところでようやく歩調を緩め、少し弾んだ息のままルシアンを見上げた。
「おはよう、ルシアン」
「ああ、おはよ……う」
すぐ目の前まで来たフローレンを改めて見た瞬間、ルシアンはわずかに息を呑んだ。
休日に私服で出かける姿なら、これまでにも何度か見ている。けれど今日のフローレンは、三人で遊びに出かけるときとは少し印象が違っていた。
淡い色合いのワンピースは柔らかな布地が歩くたびに揺れ、普段よりわずかに華やかな印象を添えていた。長い髪は高い位置で一つに束ねられ、結び目には細い髪紐の上から品の良いベルベットのリボンが巻かれている。
「……久しぶりに見たな、その髪型」
「あ、うん」
フローレンは少し嬉しそうに結い上げた髪へ触れる。
「ルシアンが前に、似合ってるって言ってくれたから。それに、夏なら上げた方が涼しいだろうって言ってたの思い出して」
去年の秋。クラスの女子生徒たちに髪を高く結い上げてもらったフローレンへ、自分が確かにそんなことを言った記憶がある。
半年近く前に自分が何気なく口にした言葉を覚えていて、今日その髪型を選んでくれた。
そう思うと、胸の奥に広がった嬉しさは想像以上のものだった。
「そうか」
無意識のうちに逸らしかけた視線を、ルシアンはもう一度フローレンへ戻した。言葉を選ぶようにわずかに間を置いてから、少しだけ声を落とす。
「とても、よく似合っている。髪も、服も」
「……ありがとう」
返事とともに、フローレンの頬へじわりと赤みが差した。長い睫毛を伏せるようにして視線を外し、両手で頬を包み込む。ふぅ、と細く息を吐いても、その赤みはすぐには引く気配がない。
そんなフローレンの様子に、ルシアンはわずかに眉を寄せた。
「大丈夫か」
二十センチ以上ある身長差を埋めるように、少し上体を屈めて顔を覗き込む。
近づいたぶんだけ、頬に残る赤みも、伏せかけた睫毛の影もよく見えた。朝のやわらかな光がその横顔を淡く照らし、ほんの一瞬、周囲の気配まで遠のいたように感じる。
思ったより近くで視線が交わった。フローレンは一度だけ目を瞬かせる。
「……熱はないからね?」
「……」
その一言で、半年前の夕暮れの廊下が鮮やかに蘇る。
熱を疑い、問いかける前に伸びた手。触れる寸前で止まった指先の、その先にあった白い額。ゆっくりと重なった視線。触れることなく下ろされた手と、妙に意識へ残った額とのわずかな距離。
あの頃はまだ、理由が分からなかった。
「……そうか」
ルシアンはゆっくりと上体を起こした。半年前のように、熱を確かめようと額へ手を伸ばすことはしなかった。
わずかに距離が戻ると、フローレンが不思議そうにこちらを見上げている。頬を包んでいた手はもう下ろされ、そこに残る赤みも先ほどより少しだけ薄くなっているように見えた。
「ルシアン?」
「いや、なんでもない。行こうか」
半年前には分からなかった、意識に残った距離の理由を、今はもう知っている。
そう思った途端、耳のあたりへじわりと熱が集まった。ルシアンはそれを誤魔化すように視線を外し、門の向こうへ目を向けた。
学院都市の中心部では、夏を迎える前の市が開かれていた。
大通りから広場へかけて、普段よりずっと多くの店が軒を連ねていた。初夏向けの薄手の布やつばの広い帽子、陽を受けてきらめく硝子細工。色鮮やかな菓子や香草を並べた店からは甘い匂いと青々しい香りが漂い、行き交う人々の声に店主たちの呼びかけが重なっている。
まだ朝のうちだからか、歩くのに困るほどの混雑ではない。二人は並んで通りを進み、気になるものを見つけるたびに足を止めながら、いつもよりゆっくりと広場の奥へ向かった。
「あ、可愛い」
不意にフローレンが歩みを止めた。
視線の先には、小さな天幕を張った髪飾りの店がある。金属細工へ色とりどりの硝子石を嵌め込んだものや、小さな花をかたどった飾りが所狭しと並び、細い鎖の先に硝子石を垂らした簪も、風を受けてかすかに揺れていた。
「見てみるか?」
「いい?」
「ああ」
返事を聞くなり、フローレンは嬉しそうに店先へ歩み寄った。並んだ髪飾りへ次々と目を向けるその横顔を追うように、ルシアンも隣へ並んだ。
ひとつひとつ丁寧に眺めていたフローレンが、やがて二本の小さな簪を手に取った。片方には淡い青緑の硝子石。もう片方には、乳白色の小さな花が細やかにあしらわれている。
「どっちも綺麗……」
光へ翳すように持ち上げ、角度を変えながら見比べている。その横顔はいかにも楽しそうで、硝子石を映したフローライトの瞳まで明るくきらめいて見えた。
「今日の髪型にも合いそうだな」
「……うん」
フローレンはふたつを並べるようにして見比べ、決めかねたように小さく首を傾げた。しばらく迷ったあと、ふと顔を上げる。
「ルシアンは、これとこれならどっちが良いと思う?」
「僕?」
「うん」
ルシアンは、真面目な顔で二本の簪を見比べた。
淡い青緑の石は光の角度によって色を変え、どこかフローレンの透明感のある瞳を思わせる。一方の乳白色の花は繊細な意匠だが落ち着いた印象で可愛らしい。彼女の柔らかな髪色にはどちらもよく馴染むだろう。
どちらも良い。迷う気持ちもよく分かる。
しばらく見比べた末に、ルシアンは花の細工が施された方へ指を向けた。
「どちらも似合うと思うが、こちらの方がより君の雰囲気に合うと思う」
「……こっち?」
「ああ。髪の色にも合うし、今日の服にも似合うんじゃないか」
フローレンは言われた方の簪へ視線を落とした。改めて手の中でそっと角度を変え、乳白色の花を確かめるように眺めている。
「じゃあ、こっち……買おうかな」
さっきまであれほど迷っていたはずなのに、決めるまでにはほとんど時間がかからなかった。
選んだのはあくまで彼女自身だ。それでも、自分の言葉をそのまま受け取ってくれたように思えて、胸にじんわりと温かなものが広がっていく。
その小さな嬉しさを持て余すように、ルシアンはもう一度、彼女の手の中の簪へ視線を落とした。
フローレンが簪を差し出すと、店主の女性は会計の手を動かしながら、ふと二人を見比べた。そして目元を和らげ、にっこりと親しげな笑みを浮かべる。
「あら、恋人に選んでもらったの? 良いわねえ」
「…………」
「…………」
ほんの一拍、時間が止まったような間が落ちた。
違います、と言えばそれで済む。
けれどルシアンも、隣にいるフローレンも、なぜかすぐにはその言葉を口にしなかった。
店主は二人の沈黙を気に留めた様子もなく、丁寧に包んだ簪をフローレンへ差し出す。
「大事に使ってね」
礼を言って店を離れ、賑わう通りをしばらく並んで歩いた。さっきまでと同じように人の声が行き交い、どこかの店から甘い菓子の匂いも漂ってくる。
それなのに、二人のあいだにだけ先ほどの言葉がまだ残っているような気がした。
少しして、フローレンがそっと口を開く。
「……なんか、勘違いされちゃったね」
「……ああ。そうだな」
それきり、会話はいったん途切れた。
きちんと訂正すればよかったな、と言えばいいだけなのに、その言葉は不思議と出てこなかった。
ルシアンは何も言わないまま、少し先の人波へ視線を向けた。
しばらく黙って歩いたあと、フローレンがふいに沈黙を破った。
「せっかくだから、今つけてもいい?」
先ほどのことにはそれ以上触れないまま、包みを開いて買ったばかりの簪を取り出す。乳白色の小さな花が、朝の光を受けて淡くつやめいた。
「もちろん」
「でも、自分だと位置が見えにくいかも」
そう言ってから、フローレンがそっとこちらを見る。ほんの少しためらうような間を置いて、簪を持った手をルシアンの方へ差し出した。
「……お願いしても?」
「僕が?」
「うん」
思いがけない頼みに、ルシアンは一瞬だけ言葉を止めた。けれど断る理由などあるはずもなく、差し出された簪へ手を伸ばす。
「分かった」
人の流れを避けるように広場の端へ寄ると、ちょうど噴水のそばの木陰にベンチがあった。通りの賑わいはすぐそこにあるのに、水の落ちる涼やかな音が重なるだけで、辺りは少しだけ静かに感じられる。
フローレンがそこへ腰を下ろし、ルシアンは簪を手にしたまま彼女の後ろへ回った。
結い上げられた髪の根元には、髪紐を覆い隠すように上品なベルベットのリボンが巻かれている。
ルシアンは結び目を確かめ、その端を指先で慎重に摘み、軽く引いた。
するり……と少し重みのある柔らかな布が、しっとりした感触を残しながら指の間を抜けた。
「…………」
「……?」
いつの間にか止まっていた手に気づいたのか、フローレンが肩越しに振り返りかけた。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
結った髪そのものを解いたわけではない。髪を留めている細い髪紐はそのままで、フローレンの髪は先ほどと変わらず高い位置に結われている。
ただ――ついさっきまでフローレンが身につけていたものを自分の手でほどいたという事実に、妙に落ち着かない気分になった。
ルシアンは手の中のリボンを丁寧に畳むと、余計なことを考えないよう、今度は簪へ視線を移した。
「……どの辺りに挿すのが正解なんだ?」
「うーん……結び目の少し上かな」
「ここか?」
「もう少し右かも」
髪を傷めないよう、ルシアンは指先に神経を集中させた。フローレンの言葉を頼りに少しずつ位置と角度を変え、髪の流れを崩さないよう慎重に簪を差し込んでいく。
ようやく収まりの良い場所を見つけて、そっと手を離した。
「この辺りか?」
「たぶん。ちょっと鏡で見てみるね」
フローレンは手鏡を取り出し、顔を傾けながらそっと自分の姿を覗き込む。
途端にその表情がぱっと明るくなった。
「うん、すごく良い!」
フローレンは手鏡を少し右へ傾け、今度は反対側へ傾ける。角度を変えるたびに淡く光を受ける簪を、何度も鏡の中で確かめていた。
半年前、女子生徒たちに髪を高く結い上げてもらっていたときも、こんな反応をしていたなと思い返す。
そのときも、口元には少しはにかむような笑みが浮かんでいて、瞳の奥には隠しきれない嬉しさがきらきらと滲んでいた。
似合っていると思ったし、その場でそう伝えた記憶がある。
その日と違うのは、高く結い上げた髪の根元に、つい先ほど自分が選び、自分の手で挿した乳白色の花があること。
「どう? 似合って――」
弾んだ声とともに、フローレンがこちらを振り返る。
期待を含んだ瞳がまっすぐ自分を捉える、そのほんの少し前。考えるより先に、言葉が口をついて出た。
「――可愛い」
こぼれた言葉が自分の耳へ届いてから、ルシアンはようやく何を口にしたのか気づいた。
けれど、それは紛れもなく本心だった。
高く結われたミルクティ色の髪も、その根元で淡く光る乳白色の花もよく似合っている。何より、それを嬉しそうに見ていた彼女の表情まで含めて、そう思った。
フローレンは目を丸くしたまま、しばらく何も言わなかった。驚いたように開かれていた唇が、ようやく小さく動く。
「あ、りがと……う?」
「……なんで疑問形なんだ」
「だって……」
言葉を探すように視線がふらりと逸れる。けれど結局、その先は続かなかった。
代わりにフローレンは片手を上げ、確かめるように簪の飾りへ指先を添えた。乳白色の小さな花がその動きにかすかに揺れる。
わずかに俯いた頬には、先ほどよりもはっきりと赤みが差していた。




