133:掴んだ手
市の奥へ進んでいくと、通りがふっと開けて大きな広場へ出た。
そこには何十もの卓や木箱が並び、古びた本が所狭しと積み上げられている。日に焼けた革表紙や、角の擦れた厚い本。風が通るたび、開かれた頁がかすかにめくれ、乾いた紙の匂いが辺りに漂った。
学院都市の古書店だけでなく、近隣の町から訪れた商人や個人の収集家も店を出しているらしい。専門書の隣に物語があり、その横には旅行記や古い地図、年代の分からない雑誌まで無造作に積まれている。
統一感のない品揃えは、何が紛れているのか分からないぶん、宝探しのようで面白かった。
「見てみても良いか?」
そう尋ねながらも、ルシアンの目はすでに近くの卓へ向いていた。並んだ背表紙を順に追い、気になるものを見つけるたびに視線がわずかに止まる。
「うん。私も見てみたい!」
フローレンの声もどこか弾んでいた。
どちらからともなく歩調を速め、二人はほとんど同時に古書の並ぶ広場へ足を踏み入れた。
最初のうちは同じ卓を並んで覗いていたものの、広場に並ぶ本の量は想像していた以上だった。ひとつの店だけでも木箱がいくつも積まれ、少し進めばまた別の卓が目に入る。
何軒か見て回ったところで、フローレンがふと少し離れた一角へ視線を向けた。
「私、あっちの方も少し見てくるね」
「ああ。僕はこの辺りにいる」
「うん」
そう答えると、フローレンは人のあいだを縫うようにして別の卓へ向かっていった。
ルシアンも手元へ意識を戻す。
古い旅行記を何冊かめくり、その隣に積まれていた一冊を手に取った。擦れた表紙には、木の杖を手にした旅人と遠くの山並みが描かれている。どうやら各地を巡る冒険譚らしい。
フローレンも好きそうだ。
そう思った途端、確かめるように顔を上げていた。
人の肩越しに広場を見渡せば、少し離れた卓のそばに見慣れたミルクティ色の髪がある。高く結われたその根元では、先ほど挿したばかりの簪が小さく光を返していた。
すぐに見つけられたことに、ほんの少し安堵する。
けれど次の瞬間、ルシアンの視線が止まった。
フローレンは、そこにいた。
ただし、一人ではなかった。
年頃の近そうな青年が三人、フローレンを囲むほどではない距離から楽しげに声をかけていた。古書を眺めるついでに話しかけた、というには少しばかり会話を続けたそうな雰囲気ではある。
フローレンに慌てた様子はなかった。
いつものように穏やかに笑っている。
商家で育ったこともあって、フローレンは初対面の相手との会話にも慣れている。相手の言葉を無下にせず、それでいて必要以上に踏み込ませない。その加減を、意識している様子もなく自然に取れる人だった。
ルシアンは手にしていた本を静かに閉じた。
今すぐ向かう必要はない。
フローレン自身が問題なく応じているのなら、離れたところから見ていた自分が割って入る方が、かえって不自然だろう。
そう判断して、ひとまずその場に留まった。
けれど、青年たちはなかなかその場を離れなかった。
次々に投げかけられているであろう問いにも、フローレンは笑顔を崩さず答えている。一見しただけなら先ほどまでと何も違わない。
ただ、やりとりが途切れたほんのわずかな間に、一度だけ周囲へ視線を流した。
何かを探すようなその目の動きと、口元に残った少し困ったような笑みを、ルシアンは見逃さなかった。
迷う理由は、もうなかった。
手にしていた本を卓へ戻し、そのまま人のあいだを抜けてフローレンのもとへ向かう。
「――失礼」
青年たちの横から声をかけると、三人が揃ってこちらを振り返った。
「僕の連れです。……そろそろ行こう」
最後だけはフローレンへ向けて告げる。
「あ……うん」
フローレンはすぐに頷いた。
「失礼します」
それでも青年たちへ律儀に小さく頭を下げる。その姿がいかにも彼女らしくて、ルシアンの口元がわずかに緩んだ。
そのまま肘を軽く曲げ、フローレンが手を添えられるよう腕を差し出す。
フローレンは一瞬だけ目を瞬いた。けれど何も尋ねず、差し出された腕へそっと手を置く。
袖越しに伝わる、ごく軽い重みを確かめてから、ルシアンは彼女と並んでその場を離れた。
二人はそのまま、人の流れに紛れるように広場を離れた。
朝よりもずいぶん人が増えている。通りへ出ても賑わいは途切れず、肩を寄せ合うように行き交う人や、大きな荷物を抱えた買い物客を避けながら進まなければならなかった。
しばらく歩き、人波が少し緩んだところで、ルシアンは隣へ視線を向けた。
「割り込んですまなかった。困っているように見えて」
「うん。実はちょっと困ってた」
フローレンは眉尻を下げ、少しばつが悪そうに笑った。先ほどまで青年たちへ向けていたよそ行きの笑みとは違って、今度はどこか肩の力が抜けている。
「なかなか話を終わらせてくれなくて。どうしようかなって思ってたところだったから、助かった」
そう言ってから、フローレンは一度だけ前へ視線を戻した。行き交う人々を眺めるようにして少し間を置き、それからまたルシアンを見る。
その口元には、ほんの少し照れたような笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう」
「ああ」
短く返しながら、ルシアンもわずかに口元を緩めた。
あのとき見えた小さな変化を見過ごさずに済んだことが、今になって静かに胸へ落ちてくる。
通りには相変わらず人の声が満ちていた。店先から響く呼び声も、すれ違う人々の笑い声も絶えない。
その賑わいの中を、二人はまた並んで歩いていった。
そのまま少し進んだところで、フローレンがふと自分の手元へ目を落とした。
さっき差し出されたルシアンの腕へ、まだそのまま手を添えている。
「――あ。ごめん、いつまでも……」
自分の手に気づいた途端、フローレンは少し慌てたように指を緩めた。袖に添えられていた手が離れかけ、そこにあったわずかな重みがふっと薄れる。
「いや――」
ルシアンは思わず声をかけた。けれど、その先の言葉を続けるより早く、人の波のかたまりがすぐ横を抜けていく。
その際、大きな荷物を抱えた人がすれ違いざまに避けきれず、肩をフローレンへぶつけた。
「きゃっ」
小さく息を呑む声がして、フローレンの身体が人の流れに押されるように傾いた。
考えるより早く、ルシアンは腕を伸ばしていた。離れかけていた手を掴み、そのまま引き留める。
「大丈夫か?」
「う、うん」
フローレンは小さくよろめきながらも、すぐに身体を起こした。
もう支える必要はない。それなのに、咄嗟に掴んだ手だけが、取り残されたようにそのまま重なっていた。
触れ合った掌から、じんわりと自分のものではない体温が伝わってくる。細い指の感触も、それが自分の手の中にあることも、意識してしまえば驚くほど鮮明だった。
今なら、何でもないように離せる。
そう分かっているのに、ルシアンの指はすぐには動かなかった。
フローレンもまた、何も言わないまま手を引かない。
すぐそばを誰かが通り過ぎ、続いて別の誰かの話し声が流れていく。
人の波だけが途切れることなく、歩調の緩んだ二人の横を過ぎていった。
「――人が多くて危ない」
ルシアンは前を向いたまま唐突に言った。
「それに、はぐれたら困る」
「そうだね。はぐれたら、すぐに見つけられないかも」
「ああ。それに今みたいなことも、またあるかもしれない」
「うん。これだけ人が多いと、どうしてもね」
理由ばかりが、妙にすらすらと並んでいく。
実際、朝より人は増えているし、ついさっきフローレンがぶつかられたばかりだ。
どれも間違ってはいない。
そこまで言って、一瞬だけルシアンの声が途切れる。
「だから、その……」
隣から視線を感じた。
横目に見れば、フローレンが何も言わずこちらを見上げている。急かすこともなく、ただ続きを待つような眼差しだった。
そのあいだも、繋いだ手はほどけないままだ。
周囲では人の声や店先の呼び込みが絶えず重なっているのに、繋いだ手の感触だけがやけにはっきりと意識に残った。
ルシアンは一度だけ息を整えた。
それでもフローレンへ顔を向けることはできず、前を向いたまま口を開く。
「嫌でなければ、手はこのままで」
自分でも驚くほど小さな声だった。人々のざわめきに紛れてしまいそうなのに、フローレンにはきちんと届いたらしい。
彼女は一度、繋がれた手へ視線を落とした。
「――うん」
短い返事とともに、繋いだ指先へほんの少し力が返ってくる。
ルシアンもそれを確かめるように、包んだ手をわずかに握り返した。




