131:総合演習 旧演習棟からの脱出④
受話器の向こうが、一瞬だけ静かになった。
さっきまで聞こえていた足音も止まり、二人が状況を考えているらしい短い沈黙が落ちる。
『……レオ、さっき同じ仕掛けの区画を通ったと言ったな。何があったか、どういう印だったか覚えているか』
『覚えてる。右側の印で別の場所の壁が動く。その先の印でまた別の場所の壁が動いて、その先の印で明かりがついたはず』
『分かった』
ルシアンが短く息を吐く音がした。
『……フローレン。僕たちが明かりをつけるから、安心してほしい』
『大丈夫、すぐ明るくなるよ』
重なるように届いた二人の声に、強張っていた指先の力がほんの少し緩んだ。
「……うん、ごめん……」
『謝らなくていい。――動けるか?』
フローレンは一度目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。開いても閉じても変わらない暗闇の中で、二人の声だけは途切れず耳元にある。
冷たい石壁へ触れたまま、今度は少しだけ深く息を吐いた。
「……うん」
『右側の壁に、別の場所の壁を開ける印があるから、そこに魔力を送ってほしい』
「……分かった」
フローレンは壁から手を離さないようにしながら、ゆっくりと立ち上がった。
指先で石の継ぎ目を辿り、一歩ずつ右へ進んでいく。何も見えないぶん、掌へ返ってくる冷たい壁の感触と、自分が何歩進んだかだけを確かめるように足を運んだ。
『もう少しだと思う』
耳元から届くレオの声に従って、さらに数歩進む。やがて石とは違う、滑らかで平たい冷たさが指先に触れた。
「あった」
小さく息がほどける。青銅板の表面を手探りで確かめ、刻まれた溝を指先で辿った。
「魔力流すね」
青銅板へ杖先を寄せ、慎重に魔力を送り込む。少しして受話器の向こうから、重い石壁が動き出す低い音が響いた。
『開いた! フローレン、そのまま待ってて』
すぐに、受話器の向こうからレオが駆け出す足音が聞こえた。やがて別の魔導印が起動し、今度はルシアンの区画で重い壁が動き始める。
『僕のところが開いた』
『その先! 奥に印があるはず!』
今度はルシアンの足音が聞こえた。
フローレンは暗闇の中で壁に触れたまま、二人が走る音だけをじっと聞いていた。姿は見えなくても、声と足音が途切れず繋がっている。
『あった』
少ししてルシアンの声が届く。
次の瞬間、頭上で小さな作動音がした。
一つ、また一つと鉱石灯が灯り、闇の中へ淡い光が戻ってくる。石壁の輪郭が浮かび、足元の床が見えた。見慣れたはずの景色が戻ってくるだけで、強張っていた身体からふっと力が抜ける。
「あ、ついた……」
石壁。狭い通路。右手を置いたままの青銅板。
たったそれだけの景色なのに、形のあるものが目の前へ戻ってきた途端、張りつめていたものが少しずつほどけていく。
『よかった』
『大丈夫か?』
「……うん」
フローレンはようやく壁から手を離した。ゆっくり息を吐くと、今度はさっきより深く空気が入ってくる。
『確か、天井にも印があったはず』
『そうか。……フローレン、落ち着いたら天井を確認してくれ。急がなくていい』
「うん……ありがとう」
『俺もちょっと休憩したいし。迷路入ってから走りっぱなしで疲れた』
『僕もさっきの課題の出力調整でまだ疲れている』
『いや、それはさすがに疲れ長引きすぎでしょ』
『あれは本当に疲れたんだ。レオみたいに力技で押し切ればよかったな』
『力技もなかなかしんどかったけど。フローレンの調整が一番バランスよかったね』
『ああ、見習わないとな』
受話器の向こうで、いつものようなやり取りが続いていく。
「……私もかなり大変だったよ」
思わず口を挟むと、すぐに二人の笑い声が返ってきた。
姿は見えない。それでも、耳元から届く声はいつもと何も変わらない。そんな二人の会話に混ざっているうちに、速かった鼓動も少しずつ元の速さへ戻っていった。
「……うん、もう大丈夫。ごめん、時間とっちゃったね」
『本当に大丈夫か? 時間は気にしなくていい。今は休憩時間だから』
『そうそう。ただの休憩時間』
二人の言葉に、フローレンはもう一度ゆっくり息を吐いた。身体に残っていた強張りも、今はほとんど消えている。
「……ありがとう。本当に、もう大丈夫。次、いこう。天井だっけ?」
『うん。あ、でも待って。天井の印は――』
フローレンはすでに頭上を見回し、鉱石灯の脇に青銅板を見つけていた。杖先を向ける。
「これ?」
そのまま魔力を流した。
『――うわっ、な、なんだ……!』
突然、耳元でルシアンの声が跳ねる。普段ほとんど聞くことのない慌て方に、フローレンまで思わず肩を揺らした。
『床ごと下に行くやつ』
『それは先に言っておけ……!』
「ご、ごめん!」
慌てて魔力を止めかけた、そのときだった。
『いや、そのままでいい、途中で止めないでくれ!』
『ルシアン、今どの辺?』
『知らない! まだ降りてる!』
いつもの落ち着いた声からは想像もつかない返事に、申し訳なさとともにフローレンの口元から笑いが零れた。さっきまであれほど心細かった暗い通路に、自分の笑い声が小さく響く。
やがて受話器の向こうから、昇降床が止まる重い音が聞こえた。
『……着いた』
『生きてる?』
『かろうじてな』
そのやり取りを境に、三人は再び迷路を進み始めた。
ルシアンが下階で見つけた魔導印へ魔力を流すと、受話器の向こうで重い作動音が響く。今度はレオの区画で床下から足場がせり上がったらしい。
レオがそこを渡り、その先にあった別の印を起動する。すると今度は、フローレンの目の前で石壁がゆっくりと横へ動き始めた。
「私のところ!」
『進んで』
開ききるのを待って、フローレンは新しく現れた通路へ駆け込んだ。
その先で見つけた青銅板には、見覚えのある模様が刻まれている。以前、ルシアンの区画を動かしたものと同じ形だった。
「円の中に横線!」
『僕のところが動くはずだ。流してくれ』
すぐに杖先を向け、魔力を送り込む。淡い光が刻まれた線を走った直後、受話器の向こうから金属の擦れる音が響いた。
ルシアンの前を塞いでいた格子が、ゆっくりと持ち上がっていく。
そこから先は速かった。
どの印が誰の区画へ繋がるのか。どこに動く壁があり、誰が魔力を維持しているあいだに誰が抜けるのか。
フローレンがこれまでの印と道筋を正確に拾い、レオが壁や床に残る可動部の痕跡を見つける。そこへ三人分の情報を集めたルシアンが、次々と進む先を決めていった。
『レオ、その印はまだ離さないで』
『分かってる!』
「ルシアン、こっちの壁、半分までしか開いてない」
『レオ、出力を少し上げて』
『え、これ以上?』
『あと少し』
『はいはい……!』
受話器の向こうでレオが声を張るのとほとんど同時に、目の前の壁が低く唸った。石同士を擦り合わせながら残りの隙間が押し広げられていく。
「開いた!」
『フローレン、今!』
言われるより早く、フローレンは駆け出した。狭い隙間を抜けた直後、背後で壁が動き始める。重い音が追いかけてくる中、前方では別の格子が勢いよく持ち上がった。
『次、右!』
「右!」
『その先は僕が開ける』
角を曲がる。足音が石床を叩き、受話器の中でも別の場所を走る二人の音が重なった。
誰かが印を起動すれば、どこかで壁が動く。道が開けば次の誰かが走り、その先でまた別の仕掛けを動かす。
互いの姿は見えない。それでも、もう誰がどこにいて、次に何をしようとしているのかが不思議なくらい分かっていた。
やがてフローレンの前に、大きな円形の扉が現れた。
その脇には、これまでのものよりひと回り大きな青銅板が埋め込まれている。複雑な術式が幾重にも刻まれ、その中央には《三点を同時に起動せよ》の文字があった。
「着いた……かな」
『俺も大きい扉の前』
『僕もだ』
どうやら三人とも、それぞれの道の終わりまで辿り着いたらしい。
「こっちに《三点を同時に起動せよ》って書いてある」
『同じ』
『なら合わせよう』
フローレンは青銅板の前に立ち、杖を構えた。姿は見えなくても、二人も今ごろ同じように杖を向けているのだと思うと、不思議と呼吸が合うような気がした。
『三、二、一――』
「今!」
三人が同時に魔力を流し込む。青銅板に刻まれた術式へ淡い光が走り、細かな溝を伝って一気に全体へ広がった。
直後、壁の奥から歯車の噛み合う重い音が響く。続いて錠の外れる硬い音がして、正面の円形扉が中央から二つに分かれ、ゆっくりと左右へ開いていった。
その向こうにあったのは、三方向から通路が集まる円形の部屋だった。
フローレンが一歩、中へ踏み出す。
ほとんど同時に右側の通路からレオが現れ、向かい側からルシアンも姿を見せた。
「会えた」
レオが嬉しそうに笑った。
「本当だね」
ずっと耳元から聞こえていた二人が、今はちゃんと目の前にいる。たったそれだけのことが妙に嬉しくて、フローレンの口元にも自然と笑みが浮かんだ。
ルシアンはそんなフローレンをまっすぐ見つめる。
「もう大丈夫か?」
「うん。本当に大丈夫」
「そうか」
返事を聞いて、ルシアンの表情がわずかに和らいだ。その隣では、レオもようやく安心したように柔らかく笑っている。
部屋の中央には、小さな台座が一つだけ置かれていた。
「三枚目」
レオがそこへ近づき、最後の扇形の鍵片を手に取る。これで三枚すべてが揃った。
すると間を置かず、反対側の壁から硬い音が響いた。次の扉の錠が外れたらしい。
「これで最後かな」
「たぶんね」
三人は顔を見合わせ、同じ扉をくぐった。
その先にあったのは、これまでの部屋よりもずっと簡素な空間だった。正面には大きな両開きの扉。その手前には、丸い台座が一つ置かれているだけで、ほかに目立つ仕掛けらしいものは見当たらない。
「……今度こそ、あれが出口かな」
レオが正面の扉を眺めながら言った。
「第一課題のあとだと、ちょっと疑いたくなるね」
「さすがに最後まで同じ引っ掛けは使わないだろう」
そう言うルシアン自身も、すぐに扉へ向かおうとはしなかった。念のためというように部屋の隅々へ視線を巡らせている。
それを見て、フローレンとレオもつられるように周囲を確かめた。
台座の上には、三枚の鍵片を収められそうな浅い円形の窪みがあった。
三枚を並べてみると、扇形の縁がぴたりと噛み合い、一つの円になる。ただ、表面に刻まれた細い溝はところどころで途切れたままだった。
フローレンが境目を見比べながら鍵片の位置を入れ替え、ルシアンが全体の術式を確かめる。何度か向きを変えるうちに、ばらばらだった線が一続きの模様へと繋がった。
「これで合ってると思う」
三枚をそのまま窪みへ収める。
けれど、しばらく待っても何も起こらなかった。
「まだ何かある?」
レオが円盤の縁へ指を掛ける。確かめるようにわずかに力を加えると、三枚を組み合わせた鍵片が崩れることなく、窪みの中でひとまとまりになって回った。
「あ、動く」
三人の視線が台座へ集まる。よく見ると、窪みの上側には小さな刻みが一つ入っていた。
「こっちにも同じ印があるよ」
フローレンが円盤の外周を指す。そこにも同じ形の刻みがある。
「向きを合わせるのか」
レオがゆっくりと円盤を回し、二つの刻みを重ねた。
――カチッ。
小さな音と同時に、鍵片へ刻まれた溝を淡い光が駆け抜ける。次の瞬間、正面の大扉から重い錠の外れる音が響いた。
三人そろって顔を上げる。
重い両開きの扉が低い音を立てながら、ゆっくりと左右へ開いていった。
「……今回は正面の扉だったね」
レオがどこか安心したように言う。第一課題を思い出したらしく、フローレンとルシアンも顔を見合わせて笑った。
開いた扉の先には、旧演習棟の長い廊下が伸びていた。窓から差し込む明るさに、ようやく外へ戻ってきたような心地がする。
「終わったね」
「ああ」
「楽しかった」
レオが満足そうに笑う。
「途中、だいぶ大変だったけどね」
「たしかにな」
二人の視線が揃ってこちらへ向いた。ほんの少しだけ様子を窺うような色が残っているのに気づいて、フローレンは今度こそ迷わず笑い返す。
「もう大丈夫。それより、早く出よう」
三人で並んで、開いた扉をくぐった。
しばらく別々の区画を進んでいた三人の足音が、今度は同じ廊下に重なって響いていった。




