130:総合演習 旧演習棟からの脱出③
三つ目の課題へ続く通路は、それまでより少し長かった。
石壁に沿って二度ほど角を曲がると、小さな前室へ出る。正面には同じ形の扉が三つ並び、その脇の台には耳へ掛けて使う小型の魔導受話器が三つ置かれていた。
「今度は別々みたいだね」
フローレンは三つの扉を見比べてから、手前に立てられた説明板へ目を落とした。
課題は、《三つの区画を連携させ、全員で中央区画へ到達せよ》。
三人はそれぞれ迷路の別の区画へ入り、途中で合流することはできない。厚い壁と天井で完全に隔てられているため、連絡には備え付けの魔導受話器を使用する。
迷路の各所には術式を刻んだ青銅製の魔導印が設置されており、そこへ魔力を流すことで別の区画の壁や格子、昇降設備などが作動するらしい。
「自分のところにある印で、自分の道は開かないということか」
レオが台の上から受話器を一つ取り上げ、興味深そうに手の中で眺める。
「たぶん、そういうことだね」
「さっきより骨が折れそうだな」
そう言うルシアンの紫の瞳には、言葉とは裏腹にどこか楽しげな色が浮かんでいた。
三人で受話器を耳へ掛け、試しに声を交わす。すぐ隣に立っている二人の声が、わずかに音質を変えて耳元へ届くのはなんとも不思議な感覚だった。
「じゃあ、またあとで」
「中央でね」
「ああ」
最後に顔を見合わせてから、それぞれの扉へ向かう。フローレンは左、ルシアンは真ん中、レオは右。三人はほとんど同時に取っ手へ手をかけ、それぞれの区画へ足を踏み入れた。
背後で重い扉が閉まり、鈍い音が細い通路へ響いた。そこから先は石造りの狭い一本道で、天井に等間隔で並ぶ鉱石灯だけが淡い明かりを落としている。
『こっち、いきなり行き止まりなんだけど』
静かな通路の中、耳元から突然レオの声が聞こえてきた。姿は見えないのに、いつもと変わらない調子だけがすぐそばにあるのが少し不思議だった。
「私も。正面が壁」
『僕のところは先へ進める。少し見てくる』
受話器の向こうで、ルシアンの足音がコツコツと小さく響く。
フローレンの正面には、扉のような継ぎ目の入った石壁がある。けれど周囲を見回しても、魔導印らしきものは見当たらない。
しばらくして、ルシアンの声が聞こえてくる。
『印があった。今から魔力を流してみる』
「うん」
直後、正面の壁の奥で歯車の噛み合うような低い音がした。石壁がゆっくり横へ滑り、人ひとりが通れるほどの隙間が開いていく。
「私のところが開いた!」
『そちらが動いたか』
『俺のところは何も起きてない』
開いた隙間を抜け、フローレンはその先へ進む。短い通路の突き当たりには、新しい魔導印が青銅板の上に刻まれていた。
「こっちにもあるよ。流してみるね」
杖先を向け、魔導印へ魔力を送り込む。淡い光が刻まれた線を走った直後、受話器の向こうから金属の擦れる音が響いた。
『あ、開いた。俺の前の格子が上がってる』
「じゃあ次はレオだ」
『とりあえずここ抜けるね』
重い格子が持ち上がる音に続き、レオの靴音が足早に響く。やがて新しい印を見つけたらしく、今度はルシアンの区画から低い作動音が聞こえた。
床下から石の足場がせり上がったらしい。
『お、順番に回ってるね』
『らしいな』
ルシアンが足場を渡り、その先にあった印を起動する。すると今度は、フローレンの左手側で石の擦れる音が響いた。
行き止まりだった壁がゆっくりと横へ動き、新しい通路が姿を現す。
仕組みが分かると、三人の動きは少しずつ速くなった。
魔導印へ流した魔力が動かすのは、石壁だけではない。格子を巻き上げるものもあれば、床下から足場をせり上げるものもある。誰か一人が魔力を流し続けている間に、別の誰かがその道を抜けなければならない仕掛けもあった。
『レオ、そのまま離さないでくれ』
『分かってる! でもこれ結構重い!』
『あと少し――渡った。もういい』
『ふうー、よし……』
直後、受話器の向こうからレオが大きく息を吐く音が聞こえた。どうやら思っていた以上にたくさん魔力が必要だったらしい。
「レオ、お疲れさま」
『ありがと。でもまだ始まったばっかなんだよね……』
間髪入れずに返ってきた声がおかしくて、フローレンは通路を進みながら小さく笑った。
何度か仕掛けを動かすうちに、魔導印へ刻まれた模様と、それによって作動する設備に一定の対応があることが分かってきた。
「さっきと同じ三本線の印がある」
『三本線なら俺の区画じゃない? 前の格子を上げたやつ』
『試してみよう』
魔力を流すと、案の定レオの側で壁が動く。
フローレンは一度見た印の形も、それによって動いた設備も忘れない。レオは壁の擦れや床の継ぎ目から可動部を見つけ、ルシアンは二人から集まる情報を組み合わせて次の道を判断していった。
やがて、最初は一つ動かすたびに確かめていた仕掛けも、少しずつ先を予想できるようになっていた。
『フローレン、その先は左じゃなくて右だ』
「でも右は行き止まりだったよ?」
『壁の下に擦れた跡ない?』
レオに言われて足元へ目を凝らす。右側の壁だけ、床際に積もった薄い埃が途切れていた。
「あ。ある」
『そこ動く壁だと思う』
『それなら開く印は僕の先にあるはずだ。少し待って』
受話器の向こうでルシアンの足音が小さく響く。少しして、目の前の石壁の奥から低い作動音が響いた。
床を擦りながら壁が横へ滑り、隠されていた細い通路が姿を現す。
「開いた!」
『行って』
フローレンは開いた隙間へ身体を滑り込ませ、そのまま新しい通路の先へ進んだ。
通路の先、角をひとつ曲がったところで、背後から鈍い音が響いた。
振り返る間もなく、通ってきた壁が閉じる。
それとほとんど同時に、天井に並んでいた鉱石灯が一斉に消えた。
「……っ」
視界が、完全に途絶えた。
目を開いているはずなのに、自分の手さえ見えない。ほんの少し前までそこにあった壁も、足元の石床も、通路がどこまで続いているのかも、闇の中へすべて溶けてしまったようだった。
普段なら、一度視界に入れば頭に残る。部屋の広さも、扉の位置も、人がどこに立っていたかも、あとからいくらでも思い出せる。
けれど、ここは初めて足を踏み入れた場所だった。
どれだけ目を凝らしても、新しい景色はひとつも頭の中へ入ってこない。前に何があるのか。次の壁まではどれくらいあるのか。自分が今どれほどの空間に立っているのかさえ、確かめる術がなかった。
周囲の輪郭だけを突然奪われたような感覚に、胸の奥がきゅっと縮む。息を吸ったはずなのに、うまく肺まで届かない。
フローレンは咄嗟に手を伸ばした。指先が冷たい石壁へ触れた瞬間、ようやくそこに何かがあることだけは確かめられる。
その感触を手放さないように身体を寄せ、ゆっくりその場へしゃがみ込んだ。
『フローレン?』
耳元からルシアンの声がした。
返事をしようとして口を開く。けれど、喉の奥がきつく狭まったようで、声にならなかった。
『次、そっちに印ない?』
続いてレオの声も届く。
「…………」
二人の声だけは、暗闇の中でもはっきりと聞こえていた。それなのに、こちらからは何も返せない。
『……フローレンの声が聞こえなくなった』
『こっちも。何かあったのかな』
『フローレン?』
返さなくてはと思う。心配させてしまうと分かっているのに、息を吸うたび喉が固くなる。唇を動かしても、かすかな呼気ばかりが零れて、どうしても声にならなかった。
「……ご、ごめん……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
『フローレン?』
「……ま、真っ暗で……」
『真っ暗?』
レオがすぐに反応した。
『あ、俺さっき同じ仕掛けの区画通ったかも。何にも見えない区画。そこなら確か、右側に印が――』
そこまで言って、不意に言葉が途切れた。
いつもの調子で道を教えかけていた声が、心配そうなものに変わる。
『……フローレン?』
『大丈夫か?』
続いたルシアンの声にも、先ほどまでとは違う気遣わしげな響きが混じっている。
フローレンは壁に触れた手へ、ぎゅっと力を込めた。指先に返ってくる冷たさだけが、今いる場所を確かめられる唯一のものだった。
「…………ちょっと、苦手で……ごめん」
口にした途端、最後の言葉がわずかに掠れた。自分でも分かるほど、声が震えていた。




