129:総合演習 旧演習棟からの脱出②
二つ目の部屋は、階段を上がった二階にあった。
大きな扉を抜けると、先ほどの部屋とはうってかわって、開放感のある空間が広がっている。かつては大広間として使われていたのだろう。
けれど、その中央の床が大きく抜け落ちていた。入口側と向こう岸を繋ぐように細い吊り橋が一本渡され、その手前には荷物を運ぶための台車が置かれている。
さらにその脇には、片手でギリギリ抱えられるほどの大きな石碑が三基、隔離枠に収められた状態で等間隔に並んでいた。一基にひとつずつ、赤、青、黄いずれかの魔石が埋め込まれている。
「今度は文字じゃないね」
「それだけでちょっと安心する」
レオが言いながら、入口脇の説明板へ近づく。
課題は、《三基すべてを対岸の保管設備へ移送せよ》。
ただし条件がいくつかあった。
橋の耐荷重は、人ひとりと石碑一基を載せた台車でほぼ上限となる。石碑の搬送時は必ず台車を使用し、橋を渡れるのは台車を押す一名のみ。台車を伴わない渡橋は禁止。
さらに、三基に埋め込まれた魔石のうち青だけは干渉率が高い。
赤と青。黄と青。
この組み合わせが、隔離されていない状態で一定距離以内へ入った場合、過干渉を防ぐため《干渉抑制術》を少なくとも一人が魔石の側で維持する必要がある。
開始時点では三基とも干渉抑制術が施された隔離枠に収められているため、互いに影響しない。なお、一度搬出した石碑は隔離枠に収め直すことができない。
両岸の壁際に設けられた干渉計は共に広間全体の魔石干渉度を指し示す。針が許容範囲を超えた状態が一定時間続くと警告音が鳴り、警告音が五秒以上連続で鳴り続けると過干渉暴発を起こす危険がある。
最後に、もう一つ。
青の魔石が埋め込まれた石碑を最初に搬出すること。
「うーん、つまり」
説明を最後まで読み終えたレオが、青い魔石の埋め込まれた石碑へ目を向けた。
「青がめんどくさいやつ?」
「すごく簡単に言えば、たぶん」
フローレンが苦笑まじりに頷く。その横で、ルシアンも小さく笑った。
「まず指定通り、青から運ぼっか」
「じゃ、俺行くよ」
レオが青の魔石が埋め込まれた石碑を隔離枠から取り出し、慎重に持ち上げて台車へ載せる。
そのまま押し出すと、車輪が吊り橋へ乗ったところで金具が小さく軋んだ。細い橋はレオと台車の重みを受け、わずかに沈むように揺れる。
「うわ、これ結構こわい」
そう言いながらも、声にはどこか楽しむような響きが混じっていた。レオは足元を確かめながら一歩ずつ進み、台車を押して向こう岸まで渡っていく。
橋を渡り切ると、指定された位置へ青い魔石の石碑を降ろした。今はまだ他の魔石がないため、干渉を気にする必要もない。
レオは空になった台車を押し、再び吊り橋を渡って入口側へ戻ってきた。
「一個目終了」
「次は赤だな」
今度はルシアンが赤い魔石が埋め込まれた石碑を台車へ載せた。
レオのときと同じように足元を確かめながら橋を渡っていく。細い吊り橋はそのたびにわずかに軋み、足元も小さく揺れたが、ルシアンは特に気にした様子もなく淡々と台車を押し進めた。
やがて対岸へ着き、赤い魔石の石碑を指定された位置へ近づけた、その瞬間だった。
壁際に設置された干渉計の針が、勢いよく跳ね上がった。
「干渉してる!」
フローレンが声を上げるより早く、ルシアンの手が動いた。杖を抜くなり青と赤のあいだへ向け、その場で素早く術式を組み上げる。
「……早」
入口側から見ていたレオが、感心したように呟いた。
ルシアンは杖先をわずかに動かし、術式の出力を細かく調整していく。高く跳ねていた干渉計の針は細かく震え、上下に振れながら次第に元の位置へ戻っていく。やがて許容範囲の中央近くでぴたりと落ち着いた。
これで、赤い魔石の石碑までは運べた。
しかし、台車は向こう岸側に残ったまま。黄色の魔石が埋め込まれた石碑を運ぶには、台車を入口側へ戻さねばならない。
ルシアンが台車を押して戻れば、向こう岸には青と赤だけが残る。その間、干渉を抑える者がいなくなる。
「……あ。これ、戻れないね」
向こう岸に立つルシアンと、その背後にある赤と青を見比べて、フローレンはようやく気づいた。
「ああ」
ルシアンも対岸から答えた。杖はまだ青と赤のあいだへ向けられ、干渉を抑える術式が保たれている。
隣でレオが腕を組み、吊り橋の向こうを眺めた。
「じゃあ赤戻す?」
フローレンは返事をする前に、頭の中でいまの配置を組み直す。
赤を戻す。そのあと黄色を向こうへ運ぶ。
けれど、その順番では向こう岸に青と黄色が残ることになる。
「それだと次に黄色を運んだ時、今度は青と黄色で同じことになるよ」
「あ、そっか」
レオが小さく声を漏らした、その直後だった。
「戻すのは青だ」
対岸から届いたルシアンの声に、フローレンとレオの視線が揃って青い魔石の石碑へ向く。
「青?」
「干渉の原因になっているのは青だけだ。赤と黄色なら、こちら側に一緒に置いても問題ない」
少しの間。フローレンも頭の中でもう一度配置を入れ替え、今度こそ筋が通るのを確かめる。隣ではレオも納得したように頷いていた。
「なるほど。せっかく最初に運んだのに戻すのか」
「そうなるな」
ルシアンは《干渉抑制術》を維持したまま、青い魔石の石碑を台車へ載せ直すために抱える。赤と青の距離が変わるにつれ、壁際の干渉計の針が細かく震え、わずかに上下する。
そのたび、張られた術式の光が点滅するように微妙に強さを変えた。ルシアンが針の動きを逐一追いながら、魔力の出力を細かく調整しているらしい。
干渉計の針を見ていたフローレンは、思わず眉を寄せた。
「ルシアン、そこまで細かく合わせなくても大丈夫だよ!」
「……分かっている」
短く返ってきた声とは裏腹に、杖先から流れる魔力の出力はまたわずかに変わった。
針は許容範囲の中に収まっている。多少針が振れたところで、すぐに危険な数値へ届くような幅でもない。
それでも針が少し傾くたび、ルシアンの出力もすぐに追いかけるように変化する。ほんの僅かなずれまで拾って整え、また動けばすぐに合わせ直す。
あれだけ緻密な魔力操作を続ければ、神経も使うし相当疲れるはずだ。それが分かっているからこそ、フローレンには余計に気になった。
「あ。また合わせた……」
「あれ、もう無意識なんだよ。多分」
入口側から心配そうにルシアンを見るフローレンの隣で、レオが苦笑した。
「昔からああなんだよね、ルシアン。必要以上に細かく調整しちゃうの」
「そうなの?」
フローレンはもう一度、向こう岸のほうへ目を向けた。
授業の中で、ルシアンが出力の調整に困っている姿を見た記憶はない。
むしろ細かな揺れまできれいに整える正確性と緻密さは、教師から褒められることのほうが多かった。フローレンにとっては、それもずっと彼の得意なことのひとつだった。
けれど今は、わずかに乱れるたび、ルシアンの手元から流れる魔力がそれを追うように細かく変わっている。
整ったと思った次の瞬間には、また別の揺れを追うように魔力が動く。
「授業でやるくらいなら大丈夫なんだろうけど。今みたいな不安定なのに高干渉なやつは相性悪いね。だいぶ神経すり減らしてると思う」
「そうなんだ……」
得意だからこそ、気づいた乱れをそのままにできないのかもしれない。
そう思って見れば、いつもなら頼もしく映る正確さが、今は少しだけ心配なものに見えた。
ルシアンの様子を見ていたレオが、少し呆れたように声を飛ばす。
「そんなすぐに過干渉暴発するような数値にはなってないって!」
「ああ、分かっている。分かってはいるんだが……」
返ってきた声には、焦りと諦めの色がわずかに滲んでいた。
それでもルシアンは最後まで干渉計の針へ意識を向け、ようやく台車へ固定する。
橋へ台車を押し出す頃には振れ幅が小さくなり、やがて針が一定の位置へ収まる。
それを確かめてから、ルシアンは術式を解いた。
青い魔石の石碑を載せた台車が入口側へ戻ると、フローレンはすぐにルシアンの顔を見た。
ルシアンは凝り固まったものをほぐすように肩をゆっくり回し、ふう……と大きく息を吐く。
そのまま眉間へ指を当てて揉む姿に、思っていた以上に負担がかかっていたのだと分かった。
「ルシアン、大丈夫?」
思わずそばへ寄ると、ルシアンは顔を上げた。
「大丈夫だ」
そう答える声はいつも通りだったけれど、眉間にはまだ薄く皺が残っている。
先ほどまで魔力を細かく合わせ続けていたせいか、表情にもどこか疲れが残って見えた。
「だから言ったじゃん」
隣から飛んできたレオの声には、呆れと、ほんの少しの苦笑が混じっている。
「……返す言葉もない」
ルシアンは短く息を吐いてから、今度こそ観念したように答えた。
次は黄色い魔石が埋め込まれた石碑を運ぶ番だ。
フローレンは空いた台車へ手をかけ、そのまま隔離枠の内側に残っている黄色い魔石の石碑のそばまで押していった。
「私が行くね」
そう言って隔離枠の側へ台車をつけたところで、後ろからルシアンの声が飛んでくる。
「黄を隔離枠から外したら、青と干渉する」
フローレンは入口側に戻ってきた青い魔石の石碑へ目を向けた。
隔離枠の中にある今は何も起きていない。
けれど黄色を外へ出せば、すぐ干渉は始まる。
「先に杖構えとく」
言いながら、フローレンは腰の杖へ手を伸ばした。
杖を抜き、黄色と青のあいだへ意識を向ける。
まだ静かな干渉計の針を見ながら、フローレンはいつでも術式を展開できるよう杖先をわずかに持ち上げた。
黄色い魔石の石碑を隔離枠から取り出した瞬間、先ほどと同じく干渉計の針が弾かれたように大きく振れた。
「……っ」
思っていた以上に強い干渉で、フローレンは慌てて青と黄色の間へ術式を展開した。想定していたより強めの魔力を流す。
振れ幅そのものが大きいだけではなく、動き方にも一定の形がない。少し収まったと思えば、次の瞬間にはまた大きく跳ねる。
それに合わせて流す魔力の強さを変えながら、フローレンは杖を握る指先へ意識を集めた。
思っていたより、ずっと難しい。
さっきルシアンは、これを素早くほぼ静止するところまで抑えていた。改めてそう思うと、あの細かな調整がどれほど緻密だったのかがよく分かった。
やがて激しく揺れていた針が少しずつ落ち着き、ようやく許容範囲の内側での細かな上下に収まる。
フローレンはそこで小さく息を吐き、空いた手を台車へかけた。
「じゃあ行くね」
「気をつけて」
ルシアンの声に頷き、ゆっくりと台車を橋へ押し出す。そして干渉計の針が安全域まで戻ったところを確認して、術を解いた。
黄色い石碑を対岸まで運び、先に置かれていた赤の隣へ慎重に降ろす。すぐに干渉計を見たが、針は動かない。フローレンは赤い魔石と黄色い魔石の石碑を交互に見比べ、改めて干渉計の針を確認する。
二つの間に反応がないことを確かめ、振り返って入口側へ声を上げた。
「大丈夫!」
そう返して、フローレンは空になった台車を押しながら吊り橋を渡って戻った。車輪が橋板を鳴らすたび、細い橋が足元でかすかに揺れる。
入口側へ降り立つと、残っているのは青い魔石の石碑だけだった。
「最後だね」
「うん」
レオが青い魔石の石碑をもう一度台車へ載せる。何度も行き来させられたそれを見て、少し可笑しそうに眉を上げた。
「青、やっぱりめんどくさいやつだったね」
「うん、たしかに」
「最初に運ぶという条件がなければ、簡単だったな」
少し離れた壁際から、ルシアンの声が飛んできた。まだ疲れが残っているのか、今は壁へ背を預けて休んでいる。
そのひと言に、レオとフローレンは揃って青い魔石の石碑を見た。頭の中でもう一度手順を並べ直し、ほとんど同時に意味へ行き着く。
「……あ、そっか」
先にその意味へ辿り着いたのはレオだった。
「その場合は赤と黄色を順番に運んで、青を最後に運べば良いだけなのか」
「ああ。それじゃあ味気ないから、条件を足したんだろう」
「なんか先生たちも何気に課題作り楽しんでない?」
「そうかも」
三人で顔を見合わせ、なんとも言えない笑いがこぼれる。けれど課題はまだ終わっていない。レオは気を取り直すように台車の取っ手を握り、再び吊り橋へ足を踏み出した。
橋板を軋ませながら、青い魔石の石碑を載せた台車が少しずつ対岸へ近づいていく。赤と黄色の魔石が干渉圏内へ入った。
その瞬間。
壁際の干渉計の針が跳ねて許容範囲を超え、警告域まで一気に上がった
「う……っわ、強……!」
レオの声が跳ねる。台車を押したまま素早く杖を抜き、《干渉抑制術》を展開した。
けれど今度は、青と赤、青と黄色の二つの干渉が同時に重なっている。干渉計の針は大きく振れたまま、なかなか許容範囲へ戻ってこない。
「レオ! こちらから手伝うか?」
入口側からルシアンの声が飛んだ。
「そんな状態で手伝ったらルシアン神経使いすぎて卒倒するって!」
切迫した状況には似つかわしくないほど明るく笑いながら、レオが返す。
次の瞬間、術式へ流れ込む魔力が一気に強まった。
細かく均すのではなく、大きな出力で二つの干渉をまとめて押さえ込むつもりらしい。激しく振れていた針がぐっと下がり、許容範囲の際まで戻る。それでも完全には安定せず、境界線の内外を危うげに上下し続けた。
短い警告音が鳴る。
レオはそのたび出力を素早くずらし、針を引き戻した。警告音が止んだ隙に台車を進め、また鳴ればすぐに調整する。そうしてぎりぎりの状態を保ったまま、少しずつ最後の受け台へ近づいていった。
何度か警告音を鳴らしながらも、どうにか青い魔石を受け台まで運び込む。
三基すべてが所定の位置へ収まった、その瞬間だった。
低く唸るような作動音が部屋に響く。
赤、青、黄。
三つの受け台から淡い光が立ち上がり、それぞれの魔石を囲うように向こう岸側の隔離機構が作動した。直前まで危うく上下していた干渉計の針が、するすると下がっていく。
「……終わった」
レオが長く息を吐いた。ようやく杖を下ろすと、空になった台車を押して吊り橋を渡ってくる。
ちょうど入口側へ戻ってきたところで、今度は壁の奥から小さな機械音がした。三人がそちらを見るのとほとんど同時に、壁の一部がゆっくりと開いていく。
中に収められていたのは、一枚目と同じ扇形の金属板だった。
「二枚目」
フローレンはそれを取り出し、持っていた一枚目の隣へ並べてみる。どちらの表面にも細い溝がいくつも刻まれていて、つながりそうな線もいくつか見えた。
けれど、二枚だけではまだ全体が何を描いているのかまでは分からない。
「あと一枚だね」
レオも横から覗き込み、二枚の金属板を見比べた。
「二人とも、ちょっと疲れてない?」
フローレンが二人の顔を見比べると、レオは答える代わりに肩をぐるりと回した。
「俺は最後、調整めんどくて魔力出しすぎた」
「僕は……」
そこで言葉を濁したルシアンに、レオがすかさず顔を向ける。
「気になって調整しすぎた?」
ルシアンは一瞬だけ黙った。否定する言葉を探すような間のあと、諦めたように小さく息を吐く。
「……そうだな」
珍しく素直に認めたのがよほど可笑しかったのか、レオが堪えきれずに吹き出した。その笑いにつられて、フローレンも小さく笑う。
少し先では、三つ目の課題へ続く扉がすでに開いていた。向こうには短い通路が伸び、その先はここからではまだ見えない。
「じゃ、次行こっか」
レオが二枚の鍵片を手の中で持ち直す。三人はそのまま並んで、開いた扉へ向かった。
歩調に合わせるように、レオの手の中で二枚の金属板がかすかに触れ合い、小さな音を鳴らしていた。




