128:総合演習 旧演習棟からの脱出①
次の授業まで少し時間が空いた休み時間、フローレンは教室の後ろに新しく貼られた紙の前で足を止めた。
何気なく目を通しただけだったのに、二行目まで読んだところで自然と二人の顔が浮かぶ。振り返れば、レオは自分の席で椅子の背にもたれ、ルシアンはその隣で次の授業に使う資料を開いていた。
「なんか次の総合演習、二人とも好きそうな内容だよ」
「え、なになに」
反応したレオがすぐに立ち上がる。その声につられるようにルシアンも資料から顔を上げ、二人揃ってフローレンのいる掲示板へ寄ってきた。
三人で並んで見る紙には、《第五学年・総合演習》の文字が大きく記されていた。
『場所は旧演習棟。三人一組の班を自由に組み、複数の部屋を順に巡って、それぞれに設けられた課題へ挑む。制限時間内にすべての課題を突破し、演習棟から脱出すること』
「なんか、謎解き脱出ゲームみたいな感じ?」
レオが少し身を乗り出すようにして、もう一度上から読み返す。
「二人とも、小さい頃よく冒険してたんでしょ? こういうのも好きかなって」
「かなり好き。古い演習棟からの脱出ってのが最高」
予想以上に食いついたレオに、フローレンは思わず笑った。掲示へ向けた琥珀色の瞳はぱっと明るく、楽しげな色を浮かべている。
隣ではルシアンも、普段より少し長く掲示へ視線を留めていた。
「ああ。これは面白そうだな」
声こそいつもと変わらず落ち着いているものの、その視線はまだ掲示から離れない。レオほど表には出さなくても、楽しみにしていることは十分伝わってきた。
二人でよく冒険していたという小さい頃も、きっとこんな顔をしながら次はどこへ行こうかと走り回っていたのだろう。そう想像すると、フローレンの胸までつられるように弾んだ。
「三人一組で組分け自由だって。なら一緒に組も」
レオがさらりと言えば、ルシアンも特に迷う様子なく頷いた。
「僕は構わない」
「私も」
「うん。じゃ、それで申請出しとく」
当たり前のように三人で組むことが決まった。
その自然さが妙に嬉しくて、フローレンは口元に笑みを残したまま掲示へ視線を戻した。
数日後。
旧演習棟の前には、いつもの実習とは少し違う空気が流れていた。
学院の端に建つ石造りの建物は、普段使われている演習棟よりひと回り小さい。壁には長い年月を思わせる色むらがあり、開け放たれた入口からは乾いた木材と古い石の匂いが漂っていた。
特進クラス二十四人は三人ずつ八組に分かれ、さらに前半と後半の四組ずつに分けられていた。
「各組には、三つの課題を順に解いてもらいます」
入口前で教師が説明する。
「一つ突破するごとに、鍵片が一枚手に入ります。三枚すべてを集めた班だけが、最後の部屋へ入ることができます」
教師が見本として掲げたのは、手のひらほどの大きさの金属板だった。
円を三つに切り分けたような形をしていて、表面には細い溝がいくつも走っている。ただ、一枚だけを見ても何を表しているのかは分からない。
「なお、課題文に書かれていることだけが判断材料とは限りません。周囲の状況もよく確認してください」
説明を終えると、前半の四組がそれぞれ指定された入口へ向かっていった。
「わ、雰囲気あるね」
扉を前にしたレオは、楽しそうに琥珀色の瞳を輝かせた。いつもより弾んだ声に、期待がそのまま滲んでいる。
長い年月を経た木製の扉には、細かな傷や擦れがいくつも残っていた。金属の取っ手もところどころ光を失い、この棟が使われていた時間の長さを静かに物語っている。
わずかに表情を引き締めながらも、どこか楽しげに目を細め、ルシアンが取っ手に手をかける。
「行こうか」
「うん」
「何が出るかな」
楽しそうなレオの声とともに、三人は最初の部屋へ足を踏み入れた。
「……うわあ」
中を見たレオが、早くも低い声を漏らした。
狭いわけではないが、独特の閉塞感がある部屋だった。上の方にある横に細長い窓からは淡い光が差し込み、室内を漂う埃がその中をゆっくりと流れている。中央には長机があり、その上に問題文らしき紙束が静かに置かれていた。
そして。
部屋の壁一面が、細かな文字でびっしりと埋め尽くされていた。
上段から下段まで、隙間なく並ぶ条件文。途中には数値表や補足事項まで差し込まれ、別の壁には計算に使うらしい係数が何列にもわたって記されている。
「これ、時間内に解かせる気ないでしょ」
「本当に多いね……」
フローレンも端から端まで見渡す。
条件文ひとつひとつは読める。けれど、それぞれが別の条件を参照し、さらにいくつかの例外規定まで混ざっているらしい。素直に上から照らし合わせながら読み進めていたら、制限時間どころか日を跨いでしまいそうな勢いだ。
二人が半ば唖然と壁を見上げている横で、ルシアンだけはすでに正面に置かれた問題文へ目を走らせていた。
問題文も決して短くはなく、条件らしい文が幾重にも並んでいる。けれどルシアンは戸惑う様子も見せず、一つずつ拾うように視線を滑らせていた。
しばらく沈黙したまま読み進め、やがて小さく息を吐く。
「――よし。フローレン、とりあえず壁のここからここまでの条件文を全部覚えてくれるか?」
「え?」
ルシアンの長い指が、左側の壁の一番上から右側の壁の一番下までを順に示す。
「内容は理解しなくても大丈夫だ。書かれている文字を上から順に覚えていってくれ」
フローレンは一度瞬きをしてから頷いた。
「うん、分かった」
フローレンはまず左側の壁へ目を向けた。左上から右下へ、細かな文字の並びをなぞるように視線を滑らせていく。
内容を理解しながら読むのなら、一文ずつ意味を追う必要がある。けれど今は、それをしなくていい。文字を読むというより、壁面そのものを一枚の像として頭の中へ写し取るように、視線だけを素早く走らせた。
正面、右側の壁も同じように確認する。すべてを収め終えると、フローレンはルシアンへ顔を向けた。
「覚えたよ」
「早……」
レオは目を見開き、壁とフローレンを交互に見た。ルシアンも一瞬目を瞠ったものの、すぐにその表情を和らげ、どこか感心したようにフローレンを見る。
「助かる。じゃあ、『第三供給路』と『許容値』が出てくる箇所。それぞれ前後三文を頼む」
「第三供給路は――」
フローレンが記憶した箇所をそのまま口にする。
ルシアンは聞きながら手元の紙へ短く書き留め、必要な部分だけを抜き出していった。
「次。『補正率』が出てくるところ」
「二か所あるよ。最初は左の壁の上から十九行目で――」
「両方頼む」
読み上げた情報を、ルシアンが整理していく。
壁に散らばっていた条件が少しずつ削ぎ落とされ、数値と数式へ変わっていった。
しばらくして、ルシアンのペン先が止まった。紙面いっぱいに並んだ式をひと通り見直すと、そのままレオへ差し出す。
「レオ、計算を頼む」
「はいはい」
気軽に受け取ったレオが、紙を見た途端に眉を寄せる。
「……これ、俺ひとりでやる量じゃなくない?」
「できるだろう?」
「できるけど……」
少し不服そうに唇を尖らせながらも、レオの手はすぐに動き始めた。渡された紙へ目を落とした次の瞬間には、もうペン先が走っている。
複数の数値を素早く整理し、難解な式にもかかわらず途中式をほとんど迷わず繋いでいく。フローレンが横から追っていても、計算の手は絶えず動き続けている。
やがて、紙の上を休みなく走っていたペン先が、最後の数字を書き切って短く跳ねた。そこでようやく、レオの手が止まる。
「出た。ここの値は十八・四」
「それなら第三条件は除外できるな。フローレン、『第三条件を満たさない場合』から始まる段落」
「うん。ええと――」
またフローレンが文章を引き出す。
ルシアンが組み替え、レオが計算する。
一度では終わらなかった。結果を出すたびに次に必要な条件が変わり、三人の間を情報と紙が何度も行き来した。
やがて壁一面に広がっていた文字の海は、少しずつ一つの答えへ収束していく。
「これで最後」
レオが最後の数値を書き込み、紙をルシアンへ戻した。
ルシアンは受け取るなり全体を一度だけ確認した。視線が式の上を端から端まで滑り、最後の数値で止まる。
「合ってる。解除番号は四七二六」
正面の壁際に設けられた入力盤へ、ルシアンが四桁の数字を順に打ち込んでいく。
最後の数字を押した、その瞬間だった。ほんのわずかな間を置いて、部屋のどこかから硬い金属音が響く。
――ガチャッ。
三人そろって、息をふうっと吐いた。どうやら答えは正しかったらしい。
「やった」
思わず声を弾ませ、フローレンは正面の大扉へ駆け寄った。取っ手に手をかけ、そのまま体重を預けるように押してみる。
けれど、扉は動かなかった。
「あれ?」
今度は取っ手を握り直し、少し力を込めて手前へ引く。重い感触だけが腕へ返ってきて、やはり扉はぴくりともしない。
横からレオも手を添えた。二人で力をかけても結果は同じで、古びた大扉は固く閉ざされたままだった。
「……違った?」
「いや」
ルシアンは先ほどの音を思い返すように小首を傾げ、わずかに目を細める。
「明らかに錠が外れた音だったが……」
そう言うなり、ルシアンはもう一度問題文へ視線を戻していた。どこかに見落としがないか確かめるように、細かな文字の列を端から追っていく。
フローレンも頭の中に写し取った壁面を思い起こした。
どこか記憶を違えた箇所があっただろうか。それとも、解除番号とは別にもう一段階、何か条件が残されているのか。
「――ねえ」
少し離れたところから、レオの声がした。
二人そろって振り返ると、レオは正面の大扉ではなく、部屋の隅へ目を向けている。
「こっちじゃない?」
その視線の先を辿って、フローレンはようやく気がついた。
壁際に、小さな扉が一つある。
正面の大扉に比べればあまりにも目立たず、古びた壁と同じ色合いのせいか、最初に見たときには壁の一部としか思えなかった。
レオが小さな扉の前にしゃがみ込み、足元へ指を向けた。
「こっちは床に擦れた跡がある。取っ手も、最近触られてるっぽい」
言われて目を凝らすと、扉の前だけ薄く積もった埃がわずかに乱れている。何度か開閉されたのだろう、床にも弧を描くような細い擦れ跡が残っていた。
一方で、正面の大扉の足元には埃がほとんど均一に積もったままだ。
「あ……」
その違いを見た瞬間、フローレンの頭に最初の問題文がそのまま浮かび上がった。
「最初の指示、『扉を開けろ』だった」
ルシアンもすぐに意味へ辿り着いたらしい。正面の大扉から小さな扉へ視線を移し、わずかに頷く。
「『正面の扉を開けろ』とは書いてなかったな」
三人で顔を見合わせ、そのまま小さな扉へ近づいた。
レオが取っ手へ手をかける。今度は先ほどのような重い抵抗もなく、古びた扉はあっさりと内側へ開いた。
「……開いた」
レオが少し拍子抜けしたように呟く。
扉の先には、短い通路が続いていた。その奥に、小さな台座がひとつ置かれている。
三人で近づくと、台座の上には一枚の金属板が載せられていた。
「一枚目」
フローレンはそっと手に取った。手のひらに収まる扇形の板はひんやりと冷たく、表面には見本で見たものと同じ細い溝がいくつも刻まれている。
どうやら、これで最初の課題は突破できたらしい。
「危な。最初から引っかかるところだったね」
「レオが気づいていなかったら、また一から条件を確認し直してたな」
ルシアンの言葉に、先を歩いていたレオの足がぴたりと止まった。
ゆっくり振り返った顔には、さっきまでの余裕がきれいに消えている。
「……あの尋常じゃない量の計算を、一からやり直してた可能性あった?」
「ああ」
ルシアンは何でもないことのように頷いた。そのあまりにあっさりした返事に、レオの表情が一瞬だけ固まる。
何か言い返すでもなく数拍黙ったあと、胸元へそっと手を当てて長く息を吐いた。
「危な……」
心の底から安堵したようなその様子に、フローレンの口元も自然と崩れる。堪えようとしたものの間に合わず、小さな笑い声が零れた。




