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127:水流制御の実習


 翌日の午後、特進クラスの生徒たちは学院の中庭へ集められていた。


 普段は実習前の説明に使われる広場には、今日は白い石板を繋いだ細長い水路が一面に仮設されていた。低い台の上を這うように伸びた水路は、途中で二手に分かれたり緩やかな傾斜を下ったりしながら複雑に入り組み、最後は広場の端に置かれた大きな受水槽へと続いていた。


「今日の課題は、水流の制御です」


 教師が杖を掲げると、水路の起点に置かれた水槽から細い流れが生まれた。白い石の上を滑る水が午後の光を弾き、いくつもの分岐へ枝分かれしていく。


「都市へ水を送る給水路や、農地へ引く用水路では、必要な場所へ必要な量を届けるために流れを調整します。貯水池でも同じです。流れ込む量や下流の状況に合わせて、どこへどれだけ放水するかを変えなければなりません」


 教師は杖先で、水路の途中に取り付けられた制御具を示した。


「こうした設備には、魔力で流量を変える制御具も使われています。ですが、一か所だけを見て出力を変えればいいわけではありません。上流で増やした水は下流へ流れ、その途中にも別の区画があります」


 そこで教師は、広場いっぱいに張り巡らされた水路へ視線を巡らせた。


「今日はその一部を、縮小して体験してもらいます。指定された量の水を制限時間内に受水槽まで運んでください。区画ごとに傾斜や幅が違いますから、流量と勢いを調整しながら次へ繋ぐ必要があります」


 水路の途中には、魔力を流して水の向きや勢いを変えるための制御具がいくつも取り付けられている。出力を上げすぎれば水が溢れ、弱すぎれば途中で流れが滞るらしい。


 今回は四人一組で一つの区画を担当する。迷路のように広場へ張り巡らされた水路はすべて繋がっており、一つの区画で流れが大きく乱れれば、その影響はそのまま次の区画へ及ぶ。


「実際の水路管理でも、自分たちの持ち場だけ見ていればいいとは限りません。前後の流れにも注意すること。それでは五分後に放水を始めます。各自、持ち場についてください」


 合図とともに、生徒たちがそれぞれの持ち場へ散っていく。


 フローレンの班が担当するのは、水路の中ほどにある二つの分岐を含む区画だった。最初の制御具で勢いを落とし、二本に分かれた水を下流でもう一度合流させる。水量そのものは多くないものの、左右の均衡が崩れれば片側だけが溢れやすい構造になっていた。


 フローレンは手のひらで顔のあたりを仰ぎながら、同じ班の女子生徒と制御具の位置を確認する。


「今日、ちょっと暑いね」

「ね。動き回るから余計にね」

「放水が始まる前にローブ置きに行く?」

「うん。ジャケットもいらないかも」


 担当の区画は広い中庭の中でも日を遮るものが少なく、白い石板の上には午後の日差しが明るく降り注いでいた。水路の間を何度も行き来するうちに、既に額へうっすらと汗が滲んでいる。

 フローレンは女子生徒と一緒に濃紺のローブとジャケットを脱いで、班の荷物がある広場の端へ置いた。


「あっちは影になってて涼しそう」

「ほんとだ。いいなあ」


 少し離れた区画では、大きく枝を広げた木の影が水路の半分ほどまで伸びていた。水面を渡った風が涼しげに抜けていく。

 それでも、ローブはさすがに外しているらしい。ときおり吹く風が、制御具を確認するルシアンや班員の濃紺のジャケットの裾をわずかに揺らしている。


「あ、でもあの辺はこっちと同じ感じだ」

「暑そうだね……」

「レオ、背が高いから余計に暑そう……」

「……それ関係ある?」


 フローレンの区画からちょうど対角に位置する区画では、行き来するレオの赤い髪が見えた。

 あちらも日差しを遮るものがほとんどなく、白い石板が陽を弾くたび、反射した光が眩しく目に飛び込んでくる。レオはローブとジャケットを脱ぎ、さらにシャツの袖を肘まで捲りあげていた。


 フローレンたちは持ち場に戻ると各々の担当箇所につき、目の前の水路へ集中する。やがて、放水がはじまった。


「あ。右が少し強いかも」

「了解。じゃあ、こっち一段下げるね」


 フローレンは、同じ班の生徒が魔力を調整する横で、水面につけられた目盛りを確認した。左右を見比べ、流れが揃ったところで下流へ合図を送る。


 水量は絶えず細かく変わり、上流の班が出力を調整すれば、少し遅れてこちらの水面にも揺れが伝わってくる。


「次、来るよ!」


 上流から声が飛んだ。


「うん!」


 フローレンは杖を構え、目盛りを見ながら流れを受ける。


 最初の試行では、区画の終端を通過した時点で水量が規定を少し下回っていた。二度目は逆に勢いをつけすぎ、分岐の片側からわずかに水が溢れる。


「今の、最初のところで落としすぎたんじゃない?」

「たぶん。二つ目で戻そうとして上げすぎた」


 四人で記録を見ながら調整箇所を確認し、三度目にはほとんど誤差なく次の区画へ水を送り出すことができた。


 やがて周囲の班も次々と試行を終え、広場を行き交っていた声が少しずつ静まっていく。それを見届けた教師が再び杖を掲げた。


「次は、流入量そのものを大きく変化させます。上流から来る水量は一定ではありません。その場で変化を見て調整してください」


 今度は決まった流れを整えるだけではない。いつ、どの程度増減するか分からない水を受けながら、その都度判断する必要がある。


 教師が術式を起動すると、中庭のあちこちから一斉に声が上がった。制御具に刻まれた線が淡く光り、さっきまで穏やかだった水面が大きくうねる。


「左、増えてる!」

「見えてる。少し待って」


 フローレンは目盛りを確認しながら、杖先から流す魔力を少しずつ絞った。増えた水が石の縁ぎりぎりまで迫り、それでも溢れないところを探して慎重に出力を落としていく。


 どの区画からも、先ほどまでとは違う切迫した声が聞こえてくる。水の流れる音の合間を縫うように短い指示が重なり、中庭には余裕のない緊迫した空気が広がっていく。


 その時、斜め後ろから何かが弾けるような音がした。


 振り向くより早く、隣の区画から溢れた水がまとまった塊となってこちらへ押し寄せた。避ける間もなく頭からまともに浴び、冷たい水が一気に髪から制服までを濡らしていく。


「きゃ……っ」


 思わず目を閉じる。


 耳元で水の落ちる音が続き、前髪から雫がぽたぽたと頬へ伝った。何が起きたのか分からないまま立ち尽くしていると、近くにいた生徒たちから驚いた声が上がる。


 隣の区画で水流を受け止めていた緩衝術式の固定具が、急な流量の変化に耐えきれず一つ外れたらしい。本来なら水路へ戻るはずだった水がその縁を越えて溢れ出し、フローレンが立っていた場所まで一気に押し寄せたようだ。


「アストリアさん、大丈夫!?」

「怪我してない!?」


「う、うん。平気……」


 水を払おうと顔を上げたところで、近くにいた女子生徒の表情が変わった。


「フローレン、あまり動かないほうが良いかも」


 抑えた声とともに視線を落とされ、フローレンもつられるように自分の制服を見る。


「あ……」


 はっと息を詰めた。


 白いブラウスはすっかり水を含み、ぺったりと肌へ張りついていた。普段なら気にも留めない布の薄さが、今はひどく心許なく感じられる。


 事故に気づいた生徒たちが、何があったのかとこちらへ顔を向けている。少し離れたところから近づいてくる男子生徒も見え、フローレンは咄嗟に濡れたブラウスを隠すように自分の身体を抱き、わずかに身を縮める。


 ど、どうしよう……。


 同じ班の女子生徒がすぐに周囲へ声をかけ、先生へ状況を知らせるよう頼んでいる。近くにいた何人かの女子生徒も、タオルを取ってくると言い残して校舎の方へ駆けていった。

 迷う間もなく動いてくれる姿がありがたい。しかし、そのあいだにも事故に気づいた生徒たちの視線がどうしても気になってしまう。


 羽織るものを取りに行きたい。けれど、この格好のまま広場を横切るのも無理だった。どうしよう、どうしようと考えたところで、まともな答えはひとつも浮かんでこない。


 フローレンは濡れたブラウスを隠す腕へ力を込める。


 その瞬間、背後から濃紺の布が大きく広がった。


「――フローレン」


 肩からすっぽりとジャケットを掛けられる。


「……っ」


 驚いて振り返ると、いつの間に来たのか、ルシアンがすぐ後ろに立っていた。少し息を弾ませたまま、フローレンの肩へ掛けたジャケットの端を掴んでいる。


 そのまま身体の向きを変えられ、ルシアンが正面へ回り込んだ。


 一瞬だけ紫の瞳が揺れる。


 けれど視線はすぐにフローレンの顔へ戻り、そこから下へ落ちることはなかった。ジャケットの左右を手探りで引き寄せ、濡れたブラウスが外から見えないよう前をしっかりと重ねる。


「ルシアンのジャケットが濡れ――」


「いいから」


 周囲には届かないほど低く静かな声が、すぐ近くに落ちた。


 フローレンは続きを飲み込む。


 肩から掛けられたジャケットは自分のものよりずっと大きく、腰から下までも余裕をもって覆ってくれるほどだった。フローレンもそっと前を押さえると、ようやく周囲の視線から切り離されたような気がした。


「……ありがとう」


 顔を上げる。


 急な出来事への驚きと恥ずかしさで、まだ目の奥が少し熱い。自分の身体がわずかに震えていることにも、今になって気がついた。

 それでも、どうしようと思ったそのときに駆けてきてくれたことが何より嬉しくて、胸の奥に広がるものに押されるように、フローレンの口元には小さく安堵の笑みが浮かんだ。


 ルシアンの紫の瞳が、ぴたりと止まる。


「……?」


 濡れた睫毛のまま見上げると、その視線がほんの一瞬だけ行き場をなくした。


 次いで、ルシアンはわずかに顔を背ける。


「……とにかく、着替えた方がいい」


 いつもより少しだけ言葉が早い。


 ちょうどそこへ、校舎へタオルを取りに行ってくれていた女子生徒たちが、何枚かを腕に抱えて駆け戻ってきた。

 フローレンの肩に掛かったジャケットへ気づくと、張っていた表情が少し和らぐ。そのまま一人が、急いでタオルを差し出してくれた。


「フローレン、こっち。先生が空いてる準備室を使っていいって」

「替えの制服も借りられたよ」

「うん。ありがとう」


 フローレンはもう一度ルシアンを見る。


「じゃあ……行ってくるね」

「ああ。身体を冷やさないように」


 借りたジャケットの前を押さえたまま、女子生徒たちについて歩き出す。


 数歩進んでから振り返ると、ルシアンは同じ場所に立ったまま、まだこちらを見送っていた。


 


 準備室へ入る直前、女子生徒の一人が借りてきた替えの制服を渡してくれた。


「びっくりしたね」

「うん……まさかあんなに飛んでくると思わなかった」

「ゆっくり着替えて。先生も、合流は落ち着いてからで良いって」

「うん、ありがとう」


 濡れた髪から水気を拭き取り、ひんやりと貼り付いていた薄いブラウスを脱ぐ。借りてもらってきた制服に袖を通す頃には、ようやく身体の冷たさも少しずつ和らいできた。


 椅子の背には、ルシアンのジャケットが掛けられている。


 そっと持ち上げてみると、やはり自分のものよりずっと大きい。肩幅も袖の長さも違い、さっき自分が包まれていた時には気づかなかったほど重みがあった。


 内側にはブラウスから移った水気がまだ残っている。それでも襟元や袖には濡れていない場所があり、指先で触れると、そこにはほんのわずかに温もりが残っていた。


 ルシアンがごく近くにいる時に感じる淡い香りが、まだそこにある。


 フローレンはジャケットを腕に抱えたまま、先ほどの光景を思い返す。

 

 周囲の視線から庇うように掛けてくれたジャケット。急いで来てくれたのか、少し息が弾んでいた。ジャケットが濡れてしまうと言いかけたときに、ただ「いいから」とそのまま貸してくれた。前を合わせるときも、透けた制服を見ないようにしてくれていた。


 ひとつひとつの優しい気遣いに、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。

 腕の中のジャケットへ目を落とし、フローレンはそっと頬を緩めた。


 

 

 中庭では、外れた固定具と緩衝術式の確認が進められていた。


 大きな事故ではなかったため、実習そのものは安全確認の間だけ中断されるらしい。教師と数人の生徒が水路を見て回る傍らで、ルシアンは濡れた石床へ散った小さな金具を拾っていた。


 一つを手に取り、次へ伸ばしかけたところで指が止まる。


 フローレンが水をまともに浴びるのが見えた時には、もうジャケットへ手をかけていた。あれだけ濡れれば冷えるだろうと思い、そのまま脱いで駆け寄った。


 けれど、距離が縮まるにつれて別のことにも気づいた。


 水を含んでぺったりと肌へ貼りついた、白いブラウス。フローレンはそれを隠すように両腕を身体の前へ回していた。いつもより身を小さく縮め、それでも、事故に気づいた周囲の視線は少しずつ彼女へ集まり始めていた。


「…………」


 ルシアンは手元の金具を見たまま、静かに息を吐いた。自分の気持ちに少し整理がついた、今なら分かる。


 あの状態のフローレンを、他の男子に見られたくなかった。――もう自分の中では、その気持ちに言い訳を並べることもなかった。


 しかしそれ以上に困るのは、そのあとの方だった。


 自分が貸した濃紺のジャケットに包まれたまま顔を上げたフローレンの、少し潤んだ瞳。赤く染まった頬。

 あの状況でさぞ落ち着かなかっただろうに、それでもこちらの瞳をまっすぐ見つめて、どこか安心したように笑った。その表情までが、妙に鮮明に残っている。


 あれは、大変よろしくない。


 思い出した途端、また顔に熱が集まった。ルシアンは拾った金具を手にしたまま一度しゃがみ込み、空いている手で額を押さえる。気持ちを落ち着かせるように、細く長く息を吐く。


「ルーシアン」


 聞き慣れた声が頭上から落ちてきた。


「……なんだ」


 まだ気持ちをうまく切り替えられず、ルシアンは顔を上げないまま短く応じた。実習が中断されたことで、離れた区画を担当していたレオが、いつの間にかすぐそばまで来ていた。

 レオは暑さを逃すように片手で顔を扇ぎながら、フローレンの姿が消えた校舎の方へ視線を向けた。


「災難だったね、フローレン」

「ああ」


 ひとつ息を吐いて、ルシアンは立ち上がった。拾った金具を近くの箱へ収めると、そのまま顔を上げる。気づけば、視線はレオと同じくフローレンの姿が消えた校舎へ向いていた。


「風邪を引かなければいいが」

「結構濡れちゃってた?」


 レオは校舎へ視線を送ったまま、少し気がかりそうに尋ねた。


「俺、反対側にいたから、なんか水飛んだなーくらいしか分かってなくて」


「ああ、勢いのついた水流をまともに浴びていたからな。髪だけではなく、制服も濡れて、す――」


 口に出しかけたところで、ルシアンの声が不自然に止まった。うっかり言うつもりのなかったことまで滑り出しかけて、どう繕うべきかと一瞬だけ言葉に詰まる。


「す?」


 レオがこちらへ顔を向ける。途中で途切れた言葉の先を待つように、ほんの少し眉を上げたまま視線を寄越した。


「……す、水滴が、ついていた」

「水滴が?」

「そうだ」


 妙に頑なになった返事に、レオが数秒黙る。

 

「勢いのついた水流をまともに浴びてたんだよね?」

「ああ」

「……水滴がついてたの?」

「……そうだと言っている」

「……」

「……」


 レオはしばらく呆れたような顔をしていたが、やがて口元に笑いが滲んだ。どうやらもう堪える気もないらしい。


「いや、もうほんと下手……」


 そう言うなり、喉の奥で小さく笑いを漏らす。ひとたび零れた笑いはなかなか収まらず、最後には肩まで楽しそうに揺れていた。


 分が悪いと悟ったルシアンは、それ以上レオには取り合わなかった。残っていた金具を拾うためにもう一度屈み、そのまま何事もなかったように手を動かし始めた。


 


 しばらくして安全確認が終わると、実習は途中から再開されることになった。


 中庭へ戻ると、試運転中の水路に再び細い流れが戻っていた。フローレンは借りた制服へ着替え、まだ少し湿った髪を肩へ垂らしていた。

 腕には、ルシアンの濃紺のジャケットを軽くまとめて抱えている。


 先に気づいたのはレオだった。


「あ、戻ってきた。大丈夫なの?」

「うん。もう平気」

「寒くない?」

「大丈夫だよ。ちゃんと拭いたから」


 答えながら近づくと、その隣にいたルシアンとも目が合った。

 いつもきっちりと制服を着こなしている彼が、今はシャツにネクタイだけの少しくだけた姿で立っている。見慣れない装いに、フローレンはまた妙に落ち着かない気持ちになった。


「ルシアン」


 抱えていたジャケットを少し持ち上げた。


「これ、濡らしちゃったから。ちゃんと乾かしてから返すね」

「ああ。でも急がなくていい」

「うん」


 そこで一度言葉を切り、フローレンは小さく笑った。


「……さっき、本当にありがとう」


 ルシアンの紫の瞳がわずかに見開かれ、そして困ったようにほんの一瞬だけ迷う。


「……ああ」


 短い返事のあと、ふっと視線が重なった。

 どちらからともなく、柔らかな微笑みがこぼれる。

 するとさっきまで胸の奥に残っていた落ち着かなさも、交わす視線の間でゆるゆるとほどけていくようだった。

 

「おーいふたりともー。五分後に再開するって」


 レオは既に持ち場へ戻ろうと数歩先へ歩き出しながら手を振っている。フローレンとルシアンもレオへ手を振り返し、それぞれの持ち場へと戻っていった。


 すぐそばでは、水路を流れる水が午後の光を細かく弾いて輝いていた。

 

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