126:友達の輪郭
第二クラスとの合同実習が行われると聞いた時、フローレンが真っ先に思い浮かべたのはエリナの顔だった。
五年生になってからも顔を合わせることはあったものの、同じ課題を囲むのは特進クラスへ移って以来ほとんどない。実習室へ入るなり見慣れた姿を見つけ、フローレンが足を向けるより先に、エリナもこちらへ気づいた。
「同じ班だね」
「そうね。授業で一緒なのはいつぶりかしら」
柔らかく笑う顔につられて、フローレンも頬を緩めた。
広い実習室には、特進と第二クラスの五年生が入り混じっている。四人掛けの卓が十二組用意され、それぞれの上には厚い紙束と封筒、検証用と思われる器具や測定具が並んでいた。
フローレンとエリナのほかに同じ卓へついたのは、特進クラスの男子生徒と第二クラスの女子生徒だった。
全員が席についた頃、教壇の前に立った教師が四種類の封筒を掲げる。
「今日の課題は、過去に起きた事故の再検証です。皆さんには四種類の事例を、三班ずつに分かれて担当してもらいます」
室内のあちこちで、封筒へ視線が集まった。
「同じ事例を受け持つ班同士で相談してはいけません。それぞれ独立して原因を検証し、再発防止策までまとめてください」
今回使われるのは、過去に学院内で実際に起きた小規模な事故をもとに再構成した資料らしい。どの事例も大きな怪我には繋がっていないが、当時の点検記録や使用履歴、聞き取り、材料の検査結果まで一通り揃えられているという。
「一つ、先に伝えておきます。今回の資料に記録の欠落はありません」
教師の言葉に、フローレンはわずかに目を見開いた。隣のエリナと一瞬だけ顔を見合わせる。
「書かれていない条件を探す課題ではない、ということです。必要な情報はすべて手元にあります」
各班に配られた器具では、安全な模擬条件の範囲で四回まで検証を行えるらしい。限られた試行の中で仮説を確かめ、最後に原因と再発防止策を提出する。
「では、始めてください」
教師の声を合図に、紙をめくる音が一斉に実習室へ広がった。
フローレンたちの班に割り当てられたのは、調合用の魔力加熱器に関する事故だった。
ある日の午後、薬液を加熱していた一つの卓で反応が急激に高まり、安全機構が作動。容器と加熱器の一部が破損したものの、幸い怪我人はいなかった。
「まずは事故が起きるまでを順番に見ようか」
男子生徒の提案に全員が頷き、時刻の早い記録から確認していく。
加熱器は当日の朝に点検を受けており、異常なし。事故直前の設定出力も規定の範囲内で、使用していた生徒の手順にも記録上の誤りはない。
「器具そのものの故障じゃないのかな」
第二クラスの女子生徒が事故後の点検記録を開く。容器と加熱器の破損は急激な反応によるものとされ、事故前からの故障を示す痕跡は見つからなかったと記されていた。
「薬品は?」
「検査では全部基準内みたい」
エリナが数枚を見比べながら答える。
薬品の量も濃度も規定どおり。品質検査にも問題はない。一つずつ確認すれば、目立った異常は綺麗に消えていった。
それでも事故は起きている。
フローレンは机の上に広がった記録へ目を走らせた。事故の発生から時間を遡れば、出来事そのものは途切れずに繋がっている。けれど、正しい順序で並んでいるはずの情報が、なぜかひどく見えにくい。
もう一度最初から読み直しかけて、手を止めた。
「……一回、順番を変えてみてもいい?」
「順番?」
エリナが資料から顔を上げる。
「事故が起きた一連の流れじゃなくて、同じ種類の情報をまとめて見たいの。器具のことと、薬品のこと。それから操作した人と、使われた時間」
フローレンは重なっていた紙をいったん崩し、卓の上へ種類ごとに分け始めた。エリナもすぐに意図を汲み、使用履歴の束を引き寄せる。
「じゃあ、私は時間を見るね」
「こっちは薬品をまとめる」
残る二人も加わり、机の上の景色が少しずつ変わっていった。時系列の中に紛れていた記録が、同じ性質のもの同士で隣り合っていく。
「この加熱器、事故の二十分くらい前にも使われてる」
男子生徒が使用履歴を指した。
「しかも高出力だ」
仕様書によれば、高出力で使用した後は内部に魔力が残り、次に作動させた際の加熱にわずかな影響が出るという。事故の卓でも残留量は使用基準の範囲内で、設定出力と併せて確認しても異常とは判断されていなかった。
「でも、それなら第三卓も同じじゃない?」
エリナが別の記録を横へ置く。第三卓でも、ほとんど同じ間隔で高出力の使用履歴があった。
「そっちは事故になってないね」
「じゃあ、これだけじゃない」
フローレンはその二枚を並べたまま、今度は薬品の資料へ視線を移した。第三卓で使われた薬品の反応性は、基準の中央付近に収まっている。
事故の卓で使用されていた製造分は、反応性が基準の上限に近い。とはいえ不良ではなく、同じ製造分を使用した第二卓では何事もなく実習を終えていた。
そちらの使用記録では、加熱器の残留魔力は十分に落ち着いていた。
「こっちも問題なし、か」
女子生徒が小さく唸る。
残留魔力の多い加熱器。
反応性が高めな薬品。
どちらにも、事故を起こさなかった例がある。
フローレンは二つの記録を見比べてから、事故卓の資料をその間へ置いた。
「……これ、別々に考えない方がいいかも」
三人の視線が集まる。
「高出力で使われた直後の加熱器だったのは、事故の卓と第三卓。反応性が高めの薬品を使ったのは、事故の卓と第二卓」
そこまで言うと、エリナの目がわずかに大きくなった。
「あ……両方が重なってるの、事故の卓だけ?」
「うん」
男子生徒もすぐに資料を寄せ、三つの卓を比較する。
残留魔力だけなら正常。
反応性の高い薬品だけでも正常。
その二つが重なった時だけ、事故が起きている。
「一つずつは基準内でも、組み合わせた時に安全域を越えた?」
「可能性は高そうだね」
フローレンは頷きながら、卓上の器具へ目を向けた。
「検証してみよう」
使える試行は四回。まずは残留魔力の落ち着いた加熱器と、反応性が基準の中央付近にある模擬液で確かめる。その結果を基準に、残留魔力だけを多くした場合、模擬液の反応性だけを高めた場合、最後に二つを重ねた場合を比べることにした。
設定出力や液量は四回とも揃える。前の試行の影響が残らないよう、毎回器具を初期状態へ戻してから条件を設定し直すことも確認した。
教師が用意した模擬液は、実際の薬液の反応を小さな規模で再現できるように調整されていた。反応速度を示す測定器には、実際の薬液なら安全域を越える条件に相当する位置に赤い目印が付いている。
最初の三回は反応速度に違いこそあったものの、針はいずれも目印の手前で止まった。二つの条件を重ねた最後の試行でだけ、針がその先へ振れた。
「やっぱり」
エリナの声に、フローレンも小さく息を吐いた。
仮説と結果が繋がった瞬間、胸の奥にじわりと嬉しさが広がる。
以前なら、いくつもの条件が同時に並ぶほど、何を起点にすればいいのか分からなくなることがあった。けれど今日は、散らばった情報を自分で分け直し、他の三人が見つけたものを繋ぎながら、一つの形まで辿ることができた。
再発防止策は四人で意見を出し合った。
高出力で使用した後は、残留魔力が十分に落ち着くまで待機する。必要な待機時間は別途検証して定めるとして、使用時刻と出力を記録に残す案をまとめた。
薬品についても製造分ごとの反応性を確認し、加熱器の使用履歴と照らし合わせる。残留魔力が多い状態と反応性の高い薬品が重なる使用を避けるためだ。どちらか一方だけでは問題にならないからこそ、個別の基準だけで安全を判断しない仕組みが必要だった。
全班の検証が終わると、教師が順に提出内容を確認していく。フローレンたちの卓では、記録の並べ方と検証結果を一通り見たあと、教師が顔を上げた。
「では、この事故の原因は加熱器ですか。それとも薬品ですか」
四人は一度顔を見合わせる。
「どちらか一つではないと思います」
フローレンが答えると、教師は続きを促すように視線を向けた。
「加熱器も薬品も、それぞれ単独では規定の範囲内でした。でも、残留魔力が多い状態と反応性が高めの薬品が重なった時だけ、反応速度が大きく上がっています」
「では、どちらかを交換すれば再発は防げますか」
「今回なら、残留魔力の落ち着いた加熱器か、反応性が標準的な薬品に替えれば防げると思います。でも、ただ交換するだけでは、なぜ危険になったのか分からないままです。だから、器具と薬品を別々に確認するだけじゃなくて、組み合わせて危険になる条件も見られるようにした方がいいと思います」
教師は提出用の紙へ目を落とし、書かれた対策まで確認してから頷いた。
「いいでしょう」
次の班へ向かう背中を見送り、フローレンはようやく肩の力を抜いた。
「終わった……」
「終わったわね」
隣から聞こえた声に顔を向けると、エリナも同じように息を吐いていた。目が合った途端、張りつめていたものがほどけて、二人の間に小さな笑いがこぼれた。
器具を元の場所へ戻し、検証に使った資料をまとめていると、エリナがふと手を止めた。
「ねえ、フローレン」
「なに?」
「さっきの資料の分け方。それもノクティスさんの影響なのかしら?」
思いがけない名前に、フローレンはぱちりと目を瞬いた。
「情報をすぐに整理して、分かりやすくしてくれたでしょう。前にあなたが教えてくれた、ノクティスさんのすごいところによく似てたから」
言われた途端、一年前の昼休みが鮮明に蘇る。特進クラスへ移ったばかりの頃、初めて受けた授業のことをエリナに夢中で話した。
「『みんなが出したものを、すぐに整理してた。何から調べるかとか、何を後にするかとか。聞いてるうちに、ばらばらだったものが一気に分かりやすくなって』?」
エリナが一瞬黙り、それから堪えきれないように笑った。
「そう、それ。……相変わらずね」
「だって覚えてるから」
「そうね。知ってる」
くすくすと笑いながら、フローレンはもう一度先ほどまで使っていた卓を振り返った。
四年生になったばかりの自分は、ルシアンが次々と情報を整理していく様子を見て、ただすごいと思っていた。必要なものを分け、順番を変え、繋がるものを迷いなく拾っていく。そのやり方を何度も近くで見ているうちに、自分の中にも少しずつ残っていたのかもしれない。
「……少しは近づけたのかな」
「少しどころじゃないわ」
エリナが口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「もう、ほぼノクティスさんよ」
「……じゃあ、ほぼ学年首位?」
「ほぼ学年首位ね」
思わず二人で吹き出した。
「それはさすがに言いすぎじゃない?」
「自分で言ったんでしょう」
「エリナが先に言ったんだよ」
笑いながら残りの紙を揃える。実習が始まった時よりも足取りまで軽くなった気がして、フローレンは鞄を抱え直した。
実習室を出たところで、廊下の向こうに見慣れた金色が見えた。
「あ、ルシアン」
声をかけると、少し先を歩いていたルシアンが足を止める。振り返った紫の瞳がこちらを見つけ、その表情がふっとやわらいだ。
「終わったのか」
「うん。ルシアンたちも?」
「ああ。少し前に」
ちょうど廊下の分かれ道まで一緒だったエリナが、「じゃあ、またあとで」と手を振り、第二クラスの生徒たちが集まる方へ向かっていく。
フローレンも手を振り返してから、改めてルシアンへ向き直った。
「聞いて。私たちの班の事故ね、最初はどこを見てもおかしいところがなかったの」
「そうなのか」
「うん。でも、事故が起きた順番じゃなくて、器具とか薬品とか、条件ごとに資料を分け直してみたら見えてきて」
話し始めると、さっきまでの実習の様子が次々と浮かんできた。
「残留魔力が多い加熱器だけなら大丈夫だったし、反応性が高めの薬品だけでも事故は起きてなかったの。でも、その二つが重なってたのが事故の卓だけだったんだよ」
ルシアンは途中で口を挟まず、いつものようにこちらを見ながら聞いている。
「それで、四通りの条件で確かめたら、二つが重なった時だけ危険域に相当する反応が出たの。最後に先生から原因は器具か薬品かって聞かれたから、どっちか一つじゃないって答えたの」
「なるほど。原因が複数に及ぶ事例だったんだな」
「うん」
頷いたところで、先ほどのエリナとの会話を思い出した。
「あ。それでね、エリナが『もうほぼノクティスさんね』って言ってた」
ルシアンがわずかに目を丸くする。
「……僕?」
「うん。前に私が、ルシアンがばらばらの情報をすぐに整理して分かりやすくしてたって話したの、覚えてたみたい」
「はは、そうか」
返ってきたのは小さな笑いと短い言葉だった。
けれど、耳に届いた声が思いのほか柔らかくて、フローレンは一瞬だけ瞬いた。
ルシアンはしばらく考えるようにこちらを見つめ、やがて小さく頷いた。
「状況から条件を分け直して、そこから組み合わせまで自分で辿ったのか」
「うん」
「……すごいな」
穏やかな声とともに、紫の瞳がやさしく細められる。
「自分でそこまで辿り着けたんだな」
「……うん」
褒めてもらえたことが、素直に嬉しかった。
三年生の頃から、自分がどこで止まりやすいのかを知っている人だ。何度も一緒に考え、問いを置いてもらった相手に、今の自分を認めてもらえたのだから、嬉しくなるのは当たり前のはずだった。
なのに、返事をした途端、頬のあたりにふっと熱が集まった。
胸の奥も妙に落ち着かない。ついさっきまで弾んでいた気持ちとは少し違う速さで鼓動が続き、フローレンは理由も分からないまま視線を落とした。
「フローレン?」
すぐに名前を呼ばれる。
「どうした?」
「えっと……」
何でもない、と答えればいいだけなのに、声がうまく続かなかった。
心配したのだろう。身長差のぶんだけルシアンが少し身を屈め、俯いた顔を覗き込もうとする気配が近づく。
フローレンはためらいながら、そっと顔を上げた。
(――あ、近い)
紫の瞳が、思っていたよりすぐそこにあった。
実際には、触れそうなほど距離が縮まったわけではない。それでも、視線が真っ直ぐ重なった瞬間だけ、周りの音が少し遠くなったように感じた。
ルシアンの目がわずかに見開かれる。
次いで、その視線が困ったようにほんの一瞬だけ揺れた。
どうしてそんな顔をされたのか考える余裕もない。頬はまだ熱いままで、この距離から逃げ出したいような、それなのに先に目を逸らしてしまうのも惜しいような、これまで覚えのない感覚だけが胸の内に残った。
先に動いたのはルシアンだった。
それ以上は近づかず、わずかに身体を引いて元の距離へ戻る。
「……具合が悪いわけではない?」
「う、うん。大丈夫」
「なら、いいんだが」
その声がまたやさしく聞こえて、せっかく落ち着きかけた頬が再び熱を持った。
「あ。二人とも、ここにいたんだ」
横から聞き慣れた声が飛んできて、フローレンはほとんど反射的にそちらを向いた。
「レオ」
「そっちも終わった?」
「うん」
「こっちも。うちの班、最後まで聞き取り記録の解釈で意見割れててさ」
いつもの調子で話し始めたレオに、落ち着かなかった意識がゆっくり静まってくる。フローレンはそのまま、自然と続きを尋ねた。
「何が違ったの?」
「同じ言葉を読んでるのに、全員違う意味に取ってたんだよ。ルシアンのところは?」
「僕たちは保管庫の事故だった。そちらとは原因の種類が違ったな」
三人で歩き始めると、話題はそれぞれの班で扱った事例へ移っていった。
廊下には授業を終えた生徒たちの足音が行き交い、あちこちから弾んだ話し声が重なっている。三人もその流れに交じりながら、いつもの歩幅で並んで特進の教室へと向かった。
変わらない二人の声を隣に聞きながら、フローレンも実習の話に笑う。それでも、頬の奥に残った熱だけは、しばらく消えてくれなかった。
その夜、寮の部屋で読みかけの本を開いてからも、昼間のことが何度か頭を掠めた。
実習は楽しかった。条件を自分で整理できたことも、四人で立てた仮説が検証結果と繋がったことも嬉しい。エリナと久しぶりに同じ課題へ取り組めたのも、終わったあとに交わした軽口も、思い出せば自然と頬が緩んだ。
その中に一つだけ、思い返すたびに違う反応を返してくる場面が混じっている。
ルシアンに褒めてもらえたことが嬉しかった。それ自体は何も不思議ではないはずなのに、記憶の中に残っているのは言葉だけではなく、こちらを覗き込んだ時の紫の瞳や、ほんの少し揺れた視線だった。
頁をめくろうとした指が途中で止まる。
思い出しただけなのに、また頬が熱くなる。
褒めてもらえて嬉しかったから。それで説明できると思っていたのに、それだけなら、どうして顔を上げられなくなったのだろう。どうして目が合っただけで、あんなにも胸が騒いだのだろう。
フローレンは開いた本からそっと手を離し、まだ熱の残る頬へ触れた。
大切な友達だと思っている。その気持ちは少しも変わっていない。
ただ、これまでずっとその言葉の中に収まっていると思っていたものが、いつの間にかほんの少しだけ、その輪郭からはみ出していた。
そう気づいてしまうと、昼間の紫の瞳がまた鮮明に浮かぶ。
フローレンはしばらく本へ戻れないまま、静かな部屋の中で頬に残る熱を持て余していた。




