125:誰のこと見てた?
翌日。
昼休みも、そろそろ半ばに差しかかろうとしていた。
特進クラスの教室には、早々に食事を終えた生徒たちの話し声があちこちで重なり、緩んだ空気が漂っている。
そんな中、開いた扉のところへ一人の男子生徒が姿を見せた。
「アストリアさん、いる?」
入口から名前を呼ばれ、少し離れたところにいたフローレンが顔を上げる。
「あ、はい」
ルシアンも、その顔には見覚えがあった。
昨日の合同授業の際に、講堂でフローレンへ声をかけていた第一クラスの男子生徒だった。
フローレンはすぐに席を立ち、そのまま教室の外へ向かった。
開け放たれた扉の向こうには、声をかけてきた男子生徒のほかにも三人が立っている。廊下の壁際で待っている様子を見ると、どうやら皆で連れ立って来たらしい。
窓際の席にいたルシアンは、静かに手元の本へ視線を戻した。
窓の外では薄い雲がゆっくり流れ、差し込む光が時折わずかに翳る。
「昨日の話かな」
向かいに座るレオが、何気ない調子で言った。
「ああ」
ルシアンも短く返した。それ以上言葉を続けることなく、頁へ目を落とす。
紙面の文字を追っていると、廊下の向こうから声がかすかに届く。楽しげな響きだけが、不思議とはっきり耳に残った。
何を話しているのかまでは、教室の中からではほとんど分からない。時折、「贈りもの」だとか「店」だとか、途切れ途切れの言葉だけが届き、そのあとにフローレンの声と男子たちの声が重なる。
フローレンも最初のうちは、相手の様子を見ながら話を聞く側に回っているようだった。
けれど、しばらくすると空気が変わった。
廊下へ視線だけ送れば、フローレンは先ほどよりもずっと気安い様子で男子たちと話している。
何かを尋ねられて笑い、今度は自分から何かを説明するように手を動かした。
どうやら最初に呼びに来た男子の用件については、ある程度話がついたらしい。
その後もすぐに会話が終わる様子はなかった。
一人が何かを尋ねれば、フローレンが頷く。別の一人が話を続ければ、今度はそちらへ身体を向けて耳を傾けている。
いつの間にか、五人で普通に談笑していた。
ルシアンはそっと視線を引き戻し、開いたままの本へ目を落とした。
けれど、しばらくすると開いた扉の向こうがまた気にかかった。意識して見ようとしたわけでもないのに、視線はいつの間にか廊下へ流れている。
フローレンはまだ男子生徒たちと話していた。先ほどよりも表情がよく動き、何かを聞いてはニコニコと笑っている。ときおり相手の言葉に頷きながら、今度は自分から何かを話しているようだった。
会話の内容までは聞き取れない。それでも、あの輪の中でフローレンがすっかり話に馴染んでいることだけは分かった。
「休みに二人で……って、何の話なんだろうね」
レオがごく普通の調子で口にした。
「さあな」
「贈りものの相談とかかな。フローレン、最近クラス問わずよく相談受けてるし」
「ああ」
ルシアンは視線を上げないまま、短く答える。
レオはそこで一度言葉を切り、ルシアンの横顔へちらりと視線を向けた。
「それとも……もしかして告白とか?」
ルシアンはとうとう何も答えなかった。
手元の本へ視線を落としたまま、指先だけが頁の端に触れている。普段ならとっくに先へ進んでいるはずなのに、その一枚だけがいつまでもめくられなかった。
レオも、それ以上すぐには続けなかった。返事のない沈黙をそのまま受け止めるように、しばらく何も言わずにいる。
廊下から、フローレンのやわらかな笑い声が聞こえる。
「そういえば、あの男子たち講堂でフローレンのことすごい褒めてたね」
「ああ、そうだったな」
今度は返した。
自分でも、ひどく愛想のない返事だと思った。
それでも、取り繕う気にはなれなかった。
いつの間にか、視線はまた廊下へ戻っている。
自分でも何度目か分からなかった。
フローレンを誘っていた男子が何かを話している。フローレンもそれに答えながら、時折楽しそうに笑っていた。
そこへ隣の男子も会話へ加わる。今度は勉強に関する話題でも出たのか、フローレンは少し表情を明るくして身振りを交えながら話し始めた。
他の男子たちも興味を惹かれたように、フローレンの話へ熱心に耳を傾けている。
やがて、そのうちの一人が何かを言った。次の瞬間、フローレンが口元に手を添えながら、楽しげに明るい笑い声をこぼした。
その表情を見た途端、胸のどこかに引っかかっていたものが、また静かに輪郭を持った。
さすがにもう、まったく分からないわけではない。
男子たちがフローレンを褒めていた時も。
彼女が休みの日に誘われた時も。
今こうして、楽しそうに話している姿を見ている時も。
――面白くない。
少なくとも、そんな気持ちを抱えていることだけは自分でも分かっていた。
「ルシアン」
レオの声に呼ばれ、ようやく廊下から視線を引き戻した。
「なんか、機嫌悪くない?」
「そんなことはない」
つい、考えるより先に答えていた。
けれどその返事がどうにも自分の感覚と噛み合っていないことに気づく。
そんなことはない、ことはない。
レオの指摘はあまりにも的確だった。
「なんか珍しいね、そんな顔するの」
その言葉に、ルシアンは黙ったまま少しだけ眉を寄せた。
自分でも正体を掴めずにいる感情が、知らぬ間に表情にまで滲み出ていたらしい。
ひとつずつ整理しようとしても、普段なら難なく辿れるはずの思考が、今日に限ってうまくまとまらない。こんな感覚は、これまでほとんど経験したことがなかった。
目の前ではレオが少し心配そうな表情でこちらを覗き込んでいる。
なんでもないと答えてもよかった。気のせいだろうと、そのまま話を流してしまうこともできた。
けれど、こちらを案じる幼なじみの表情を見ていると、どうしてもそうする気にはなれなかった。
自分の中で何が起きているのか、レオなら少しは分かってくれるのではないか。そんな思いに、知らず知らずのうちに縋っていた。
ルシアンはそっと視線を逸らし、ほとんど独り言のような頼りない声で問いかけた。
「……僕は、どんな顔をしている」
レオは、ゆっくりと目を瞬いた。
すぐに答えは返ってこなかった。
ルシアンは視線を逸らしたまま、身じろぎもせずにいた。自分から尋ねておきながら、今さらレオの顔を見ることさえ躊躇われる。
それでも、ぽつりとこぼした問いを、彼ならきっと聞き流さずにいてくれる。そんな小さな期待を抱き、ルシアンは何も言わず、ただ返事を待っていた。
少ししてそっと視線を向けてみれば、レオは静かにこちらを見ていた。
いつものような笑みはない。膝の上で指を組み替え、何かを確かめるように少しだけ首を傾けた。
「……なに言っても怒らない?」
「怒らない」
「ほんとに?」
「ああ」
「じゃあ、言うけど……」
そこまで言って、レオは一度言葉を切った。
言いかけた言葉の先を探すように視線を落とし、やがてまっすぐこちらを見る。
開け放たれた窓から、春の風がゆっくりと入り込む。
頬をそっと撫でた風が机の上の紙を揺らし、差し込む陽光が開いた頁を淡く照らした。
廊下から届く笑い声も、教室を満たしていたざわめきも、いつしか遠くへ引いていく。
その中で、目の前のレオが小さく息を吸う気配だけが、不思議なほどはっきりと感じられた。
「とられたくない、って顔」
ルシアンは、思わず息を呑んだ。
レオの言葉を頭の中でもう一度辿ろうとする。しかしそれもうまくいかないまま、確かめるような言葉がこぼれた。
「……とられる? 何を」
「何を……って」
レオの口が、続きを言いかけた形で止まった。
ルシアンを見つめたまま、ゆっくりと唇を閉じる。
答えを待つこちらに、レオは困ったようにわずかに眉を下げた。
それでも、先ほどの言葉を冗談にして引っ込めることはなかった。少し考えたあとでわずかに息を吐き、机の上へ身を寄せる。
「じゃあさ、ルシアン」
少しひそめた声は、随分と穏やかだった。
こちらがはっきり顔を上げたのを確かめてから、レオは次の言葉を続けようとしていた。
その間の取り方に、ふと覚えのあるものを感じた。
これは、実習や課題で考えが途中で止まった相手へ、こちらから問いかけるときの間の取り方だ。
どこまで分かっているのか。そこから何が考えられるのか。自らの力で答えを導き出せるよう、一歩進むための問いを置く。
それはフローレンだけでなく、幼なじみの彼にも昔からずっとそうしてきた。
今は自分が、その問いを待っている。
そう気づいた時、レオが静かに口を開いた。
「――さっき、誰のこと見てた?」
ルシアンは答えなかった。
ただ、ひとつの問いが胸の内へ落ちた瞬間、視界の端をミルクティー色の髪がふわりと掠めた。




