124:遮る視線
午後の合同授業では、特進クラスと第一クラスの五年生が同じ講堂に集められていた。
普段使う教室よりもずっと広い室内には、教壇へ向かって長机が何列にも並び、座席は後方へ行くほど一段ずつ高くなる造りになっていた。
授業開始まではまだ少し時間があり、あちこちで交わされる話し声や椅子を引く音が、高い天井の下でゆるく響いていた。
ルシアンはレオと並んで指定された席につき、机の上に用意されていた今日の課題へ目を通している。
「今日は班ごとかあ」
レオが、課題の下部に記された進行表を指先でゆっくりとなぞった。
「前半で条件を整理して、後半は班ごとに判断をまとめるらしいな」
「ふーん。結構時間かかりそうだね」
そう言って、進行表の最後まで目を滑らせている。
ルシアンももう一度課題へ視線を戻し、続きを確かめようと紙の端へ指をかけた。
その時だった。
斜め後ろ、少し離れたあたりから、聞き覚えのある名前が耳に入った。
「アストリアさんって、やっぱ良いよな」
紙をめくりかけていた指が、そこで止まる。
わざわざ振り返るほどのことではない。声の主たちは第一クラスの男子生徒らしく、数人でまとまって席についていた。
講堂にはほかにも授業前の話し声が重なっている。こちらまで声が届いているとは、恐らく思っていないのだろう。
ルシアンはめくりかけた紙に指を添えたまま、上げかけた顔を戻して手元へ視線を落とす。
「あー分かる。話しやすいし」
「それに普通に結構可愛いだろ」
「髪とか目も綺麗なんだよな」
「前すれ違ったときなんか良い匂いした」
「あ、あと小柄なわりに結構スタイル良くね?」
「おい、どこ見てんだよ」
何でもない調子で交わされる言葉が、周囲のざわめきに紛れることなく、妙にはっきりと耳へ届いた。最後には小さな笑い声まで混じる。
ルシアンは視線を資料へ落としたまま、何も言わなかった。ただ、さっきまで何の抵抗もなく追えていた文字が、なぜか少しだけ頭へ入りづらくなっていた。
どれも間違ってはいない。
フローレンは人懐っこく、誰に対しても穏やかに接する。話しかけられれば自然に笑うし、相手が誰であっても必要以上に構えることがない。
髪や瞳が綺麗なのも知っている。
青緑と紫のあわいを行き来するフローライト色の瞳には、いつも柔らかな明るさが宿っている。
肩を越えて流れる淡い色の髪は、光を受けるたびにわずかに色合いを変える。いつも毛先まで艶やかで、普段から丁寧に手入れされているのがよく分かる。
スタイルについては――考えがそこへ及んだ瞬間、ルシアンは慌てて思考を打ち切り、浮かびかけたものを頭の隅へ押しやった。
「でも、見た目だけじゃないだろ。去年のルベライト領の件、うちの親も知ってたぞ」
「ああ。その前にも、市場街とか薬草園でも何かやってたんだろ?」
「第二クラスから一気に特進まで上がって、それであれだけ実績あるんだから普通にすごいよな」
今度は別の男子が、小さく感心したような声を上げた。
「しかも、あのアストリア商会だぞ」
「そう考えると、結婚相手としても相当条件いいよな」
「急に現実的だな」
「いや、でもそろそろ考え始める時期だろ」
「まあ……それはそうか」
そこで何人かが、少し声を落として笑った。口調には軽さが残っているのに、誰も話そのものを冗談として流してはいない雰囲気が伝わってくる。
「でも、ノクティスと付き合ってるんじゃなかったか?」
誰かがそう口にすると、そこで一度だけ会話が途切れた。けれど、その空白も長くは続かなかった。
「いや、付き合ってないらしいぞ」
「そうなのか?」
「この前、食堂で本人たちが言ってた。二人とも付き合ってないって」
「じゃあ、別に声かけてもいいってことか」
その言葉が聞こえた瞬間、紙の端を押さえていたルシアンの指先に、ほんのわずかに力が入った。薄い紙が、その下で小さく歪む。
けれど、何かを言えるはずもなかった。
事実だった。
フローレンとは付き合っていない。昼休みに聞かれたときも、二人揃ってそう答えた。
それなのに、それを他人の口から聞かされると、なぜか自分で言ったときとはどこか違って聞こえた。
「俺、あとで誘ってみようかな」
「おい、抜けがけすんなよ。気になってる奴、結構いるぞ」
「でもアストリアさんなら、初対面で話しかけても普通に受け入れてくれるもんな」
「そこがいいんだよな」
声を潜めながらも、どこか弾んだ調子で言葉が続いていく。
ルシアンは何も言わず、手元の資料をゆっくりと一枚めくった。紙の擦れる音が、指先のすぐそばで小さく鳴る。
口を挟む理由はなかった。
誰がフローレンへ好意を抱こうと、その人の自由だ。彼女へ声をかけることを、自分が止める権利もない。
それくらいのことは、分かっている。
分かっているはずなのに、次の行へ移した視線は、しばらく同じところに留まったままだった。
隣で、レオが一度だけこちらを見た気配がする。
けれど何も言われなかったので、ルシアンも顔を上げなかった。
やがて教師が講堂へ入ってくると、あちこちで重なっていた話し声が少しずつ途切れていく。椅子を引く音や紙を整える気配だけが残り、広い室内はゆっくりと授業前の静けさへ落ち着いていった。
授業が終わる頃には、先ほどの会話もいったん頭の隅へ追いやったつもりだった。
教師の声が途切れると同時に、講堂のあちこちで椅子を引く音が重なり始める。ルシアンも机の上に広げていた課題をまとめ、周囲の流れに合わせるように席を立った。
ふと視線を上げると、少し離れたところでフローレンが同じ特進クラスの女子生徒と話していた。楽しそうに言葉を交わす横顔が、人の動きの向こうにちらりと見える。
その姿へ何気なく目を向けた、その時だった。
斜め後ろに座っていた男子生徒の一人が、仲間に何か言われながら席を立つ気配がした。彼は少し照れたような笑みを浮かべ、列のあいだを抜けてフローレンのほうへ歩いていった。
「アストリアさん」
名前を呼ばれ、フローレンが会話を止めて振り返る。
「はい?」
そこに浮かんだのは、相手を選ばず向ける、いつもの柔らかな笑顔だった。
声をかけた男子生徒も、それに少しだけ緊張を解いたように見えた。
「今度の休みって、空いてる?」
「今度の休み?」
「うん。少し話したいことがあって」
フローレンは不思議そうに目を瞬いたものの、深く考える様子もなく頷いた。
「大丈夫、空いてます」
「本当? じゃあ、休みにまた声かけてもいい?」
「はい、もちろんです」
男子生徒は、少し安心したように笑った。
それから短く言葉を交わし、やがて仲間のもとへ戻っていく。途中、友人たちに肩を叩かれながら何か言われ、気恥ずかしそうに笑っていた。
一方のフローレンは、そのやり取りを特に気にした様子もなく、すぐに先ほどの女子生徒との会話へ戻っていった。
ルシアンは少し離れた場所から、その一部始終を見ていた。
「行く?」
隣のレオが、何気ない調子で声をかけてくる。
「ああ」
いつもどおりに返したつもりが、声にはわずかな硬さが滲んだ。
特進クラスの教室へ戻ると、次の授業まではまだ少し時間があった。
ルシアンは自分の席へ荷物を置き、何気なく廊下のほうへ目を向ける。
開け放たれた扉の向こうには、先ほど講堂で話していた第一クラスの男子生徒が数人、まだ廊下に残っていた。
何人かで立ち話をしながら、ときおり教室の中へ視線を寄越している。何を見ているのかとその先を辿れば、黒板の横で掲示物を確認するフローレンの姿があった。
本人はそんな視線には気づいていないらしい。掲示板に貼られた紙へ少し顔を近づけ、熱心に文字を追っている。外から向けられる視線などまるで知らないまま、ときおり小さく首を傾けては、その続きを読み進めていた。
廊下から小さな声が聞こえた。
「あ、いた」
「やっぱり可愛いな」
「お前、さっき誘ったんだろ?」
ルシアンは一度だけそちらを見た。
それから、ごく自然に席を立った。
「フローレン」
声をかけながら、ルシアンはフローレンの隣へ歩み寄った。
そのまま足を止めると、ちょうど廊下と彼女のあいだを遮るような位置に立つ。
フローレンはすぐに掲示板から目を離し、隣のルシアンを見上げた。
「あ、ルシアン」
「なにを見てるんだ?」
「来週の合同実習の予定表。さっき先生が訂正版に貼り直してたから確認しようと思って」
そう言って、紙の一箇所を指差した。
「ああ、それか」
「うん。あ、この実習内容ってさ――」
そこからフローレンは、ごく自然に掲示の話へ移った。変更された日程と内容について、予定表に書かれた説明の一部が少し分かりづらかったらしい。
ルシアンもそのまま隣に立ち、彼女と同じ紙へ目を向けた。該当する箇所を追いながら、書かれている内容をひとつずつ確かめていく。
わざわざ場所を移す理由もなかった。
フローレンもまた、すぐ隣にルシアンが立っていることを気に留めた様子はなく、時折掲示と彼の顔を見比べながら話を続けている。
「あ、ここ。私たち同じ班だよね?」
「ああ。レオも同じだ」
「ほんとだ。――レオ!」
フローレンが掲示から顔を離し、教室の中へ向かってレオを呼んだ。
「え、なに?」
少し離れた席にいたレオが顔を上げる。呼ばれた理由を探すようにこちらを見てから、そのまま席を立って歩いてきた。
「来週の合同実習、ここが変更になったみたい」
「あー、ほんとだ」
レオはフローレンの反対側へ回ると、示された箇所を確かめるように掲示へ顔を寄せた。
そうして三人で同じ紙を覗き込めば、いつの間にかフローレンを真ん中に、左右へルシアンとレオが並ぶ形になる。
その時だった。
「あ」
フローレンがルシアンの背中越しに廊下へ顔を向けた。その視線を追うと、先ほど講堂で声をかけてきた男子が立っている。
目が合ったのか、向こうがこちらへ軽く手を上げた。フローレンも気づくと表情をやわらげ、小さく手を振り返す。
ルシアンは隣に立ったまま、そのやり取りを何も言わずに見ていた。
「知り合い?」
レオが何気なく尋ねる。
「ううん。さっき初めて話したの」
なんでもない風にフローレンはそう答えると、予定表へ視線を戻しながら続ける。
「今度の休み空いてるかって聞かれて」
「へえ」
「話したいことがあるんだって」
「心当たりあるの?」
「ううん」
レオが一度、廊下にいる男子へ目を向けた。男子はときおりちらりと中を伺うような様子はあったが、数人で固まったまま自然な様子で談笑している。
「会うのって、二人で?」
「多分、そうかな?」
「ふーん」
少しだけ考えるように間を置き、それからレオはいつもの調子で笑った。
「まあ、気をつけなよ?」
「?」
フローレンはぱちりと瞬きをした。何を言われたのか測りかねたように、わずかに首を傾げる。
「わかった」
どう見ても分かっていない返事だった。
レオは一瞬、何か言いたげな表情を浮かべた。けれど、結局それ以上は何も言わなかった。
ルシアンも、何も言わなかった。
言うべきことが思いつかなかった、という方が近いかもしれない。
今度の休みに、フローレンがあの男子生徒と二人で会う、ただそれだけのことだ。止める理由はない。やめたほうがいいと口を挟む理由も、どこにもない。
誰と話し、誰と時間を過ごすのか。それを決めるのはフローレン自身で、自分が何か言うようなことではなかった。
そんなことは、分かっている。
分かっているはずなのに。
胸の内に残ったものだけが、どうにも理屈どおりには収まってくれなかった。
「ルシアン?」
不意に名前を呼ばれ、意識が引き戻された。
顔を上げると、フローレンがこちらを見ている。
自分はいつから黙っていたのだろう。フローレンの視線は心配した様子でまっすぐ自分へ向けられていた。
「なんかぼーっとしてる。大丈夫?」
「ああ、すまない。大丈夫だ」
そう答えると、フローレンは安心したように笑った。
その表情を見れば、普段ならそれだけで自然と気持ちもほどけるはずだった。
けれど今日は、どういうわけか胸のどこかに小さな引っかかりが残ったままだった。
先ほどの男子生徒が友人たちと話している。何気なくそちらへ目をやったとき、彼がまたこちらに視線を向けていることに気付いた。
ルシアンは、ほんの半歩だけ立ち位置をずらした。
それだけで、隣に立つフローレンの姿がちょうど自分の肩で隠れる。
理由を考えるより先に動いていた。
なぜそうしたのか自分でも分からないまま、ルシアンは再びフローレンの示す予定表へ視線を戻した。
隣では、レオが何も言わずこちらを見ていた。




