123:引っかかる一言
次の日。
昼休みの食堂は、今日も多くの生徒で賑わっていた。
食器の触れ合う音に、途切れない話し声や笑い声が幾重にも重なっている。その中を縫うように進み、フローレンは空いていた長机の一角へ腰を下ろした。
隣にはレオ、正面にはルシアン。
自習室で自然と落ち着いたその並びは、いつの間にか、どこにいても三人にとって馴染みのある形になっていた。
「五年生になってから、急に毎日忙しくなってない?」
レオはパンをちぎりながら、半ばぼやくような口調で言った。ルシアンも否定する様子はなく、小さく頷く。
「進路関係の予定も増えるから、去年より忙しく感じるかもしれないな」
「あっという間に一学期終わっちゃいそう」
フローレンは苦笑しながらスープへ匙を入れた。温かな湯気がふわりと立ち上り、三人のあいだを静かに漂った。
学院で過ごせるのは、あと一年。
春を迎える前は、その言葉を思ってどこか名残惜しい気持ちにもなった。けれど、実際に新学期が始まってみれば、感傷に浸る余裕などほとんどない。目の前の予定をひとつずつ追っているうちに、日々は慌ただしく過ぎていく。
短いはずの一年は、最初からずいぶんと忙しい。
「あ、そういえば。昨日、一年生組を案内したんでしょ?」
フローレンがふと思い出したようにレオへ顔を向けると、彼は気軽に頷いた。
「したした。アルトがよく違う方向に走って行こうとするから、その度ニナに止められてた」
「あの二人はいつもそんな感じなんだね」
フローレンが可笑しそうに笑う。そのやり取りを聞いていたルシアンも、そこで静かに言葉を添えた。
「ルベライトの家でも、昔からよくニナの大声が響いていたな」
「へえ、そうなんだ」
フローレンは今度はルシアンへ視線を移し、少し目を丸くした。けれど、小さなニナがアルトを追いかけて声を張り上げる姿は、実際に見たことがなくても何となく想像できる。
思い浮かべるだけで、つい笑みがこぼれた。レオも楽しそうに頬を緩め、そのまま小さく笑いを返した。
「昨日はノエルも一緒だったよ。あの三人、もう結構仲良くなってるみたい」
「よかった」
弟が学院でうまく馴染めているらしいことに、フローレンの表情もふっとやわらいだ。
昔から少し考えすぎるところも、譲らないところも知っている。だからこそ、そんなノエルの隣に自然と並んでくれる相手がいることが、思っていた以上に嬉しかった。
その時、すぐ近くから名前を呼ばれた。
「フローレン、ここ座ってもいい?」
振り向くと、同じ特進クラスの女子生徒が数人、昼食の載った盆を手に立っていた。
「もちろん」
フローレンがいつものように人懐っこく笑いかけて応じると、女子生徒たちもつられるように笑った。
そのまま空いていた隣の席へ腰を下ろし、気づけば三人だけだった会話の輪にも、いつの間にか彼女たちの声が混じっている。
「午前の授業、最後のところ難しくなかった?」
「途中から条件増えたあたり?」
フローレンが答えると、女子生徒の一人が「そうそう」と身を乗り出した。
「私、あそこ完全に途中で分からなくなった」
「最初の条件だけ抜き出してから考えると分かりやすかったよ」
「ああ、そっか。全部一気に見てたから混乱したのかも」
話題はそのまま授業から進路資料へ移り、やがて流行りの雑貨や服飾品など女子生徒同士の会話が賑やかに続いていく。
レオは時折そこへ軽く口を挟んだが、正面に座るルシアンは自分から会話へ入ってくることはなかった。
それでも、フローレンが楽しそうに話している間、彼の紫の瞳は幾度となくフローレンのほうへ向けられている。
◇
その様子を、隣の席にいた女子生徒の一人が何気なく見ていた。
ルシアン・ノクティスのことは、一年生の頃から知っている。
今までも、穏やかな人ではあった。
誰に対しても丁寧で、話しかけられればきちんと応じる。公爵家嫡男だからと高くとまったところもなく、誰に対しても分け隔てなく接する。
けれど、同じクラスで何年もその姿を見てきた彼女の中では、ルシアンはどちらかといえば静かな人物だった。年齢よりもずっと大人びていて、常に穏やかで、感情を大きく表情へ出すことは少ない。
だからこそ、最近になって時折見かける表情が少し気になっていた。
「ねえ、フローレン。秋の実習ってもう希望決めてる?」
隣の友人が尋ねると、フローレンはすぐには答えず、少し考えるように視線を落とした。
「……うーん、悩んでる。資料は読んだけど、まだ実感がなくて……」
そう答えたあと、ふと正面を見る。
「ルシアンは決めてる?」
「僕はノクティス領の実習に希望を出すつもりだ。領務の現場に入れる機会だから」
「もう決まってるんだ。すごいね」
「……まだ提出まで期間がある。じっくり考えて決めたらいいんじゃないか」
「うん、そうする」
フローレンが素直に頷いて笑った。
その瞬間、向かいにいるルシアンの目元がふっと緩む。
ほんの僅かな変化だった。
声の調子が大きく変わったわけでもなければ、特別な言葉をかけたわけでもない。
それでも、長く同じクラスで過ごしてきたからこそ分かる程度に、その表情はいつもより優しく、そして柔らかかった。
――ノクティスさん、そんな顔するんだ。
思わずそう考えたところで、隣の友人と目が合った。
相手もわずかに目を見開いていて、どうやら気づいたのは自分だけではなかったらしいと分かる。
更にもう一人も、ちらりと確かめるような視線をルシアンへ向けた。それからフローレンへ目を移し、こちらを見る。
三人のあいだを、言葉の代わりに短い視線が行き交った。誰も何も言わないまま、それでも同じことを考えているのだけは、なんとなく伝わってきた。
フローレンはすでに別の話題へ戻っている。
ルシアンも会話へ割って入ることはなかった。ただ、楽しそうに話す彼女へ向ける眼差しには、先ほどの柔らかさがまだ僅かに残っている。
去年までだって、二人は仲が良かった。
フローレンとルシアン、そしてレオ。三人で行動している姿はよく見かけたし、互いを大切な友人として見ていることも知っている。
それなら、今の様子だってその延長なのかもしれない。
それでも。
何も変わっていないと片づけてしまうには、さっき見たものが少しだけ気になった。
やがて、ひとつの話題が落ち着き、会話のあいだに短い間ができた。
女子生徒は、もう一度隣の友人へ視線を向ける。ちょうど向こうもこちらを見ていて、すぐに目が合った。
どうやら、気になっているのは自分だけではないらしい。
ほんの一瞬迷ったものの、同じ疑問を抱いているらしい友人の視線に、ためらいがほどけた。気づけば、考えていたことがそのまま言葉になっていた。
「ねえ、フローレン。あのさ……」
「……どうしたの?」
何も知らない様子で首を傾げるフローレンに、少しだけ声を落とす。
「フローレンとノクティスさんって……付き合い始めた?」
◇
「え?」
思いもよらない問いに、フローレンはぱちりと目を瞬いた。言葉の意味を飲み込むまで、ほんの一拍かかる。
正面では、ルシアンもわずかに目を見開いていた。どうやら彼にとっても、まったく予想していなかったらしい。
そして、どちらからともなく口を開く。
「付き合ってないよ?」
「付き合ってはいない」
言い回しこそ少し違ったものの、二人の声はほとんど同時に重なった。
一瞬だけ、卓のあいだに妙な間が落ちる。
賑やかな食堂の中で、揃った返事だけが妙にはっきりと響いた。長机の横を通りがかった数人の男子生徒が、わずかにこちらに顔を向け、そのまま通り過ぎていく。
質問した女子生徒はその瞬間、パチリと目を瞬いた。それから、思わず口をついて出たような調子で呟く。
「……え、まだ?」
「まだ?」
フローレンがそのまま聞き返す。
「あ」
口にした本人が、しまったという顔をした。
「いや、今のは忘れて」
「え?」
「ほんと、気にしないで」
隣の女子生徒まで妙に素早く話を畳みにかかる。
フローレンは少し腑に落ちなかったものの、それ以上尋ねる前に別の話題を振られ、会話はそのまま流れていった。
やがて昼休みの終わりが近づき、食堂のあちこちで席を立つ生徒の姿が増え始めた。フローレンたちも食器を片づけ、それぞれ荷物を手に立ち上がる。
三人で食堂を出れば、隣にレオ、もう片側にはルシアン。いつもの並びも、廊下を進む歩調も、少しも変わらなかった。
レオが午後の授業について何気なく話し始め、ルシアンがそれへ答える。そのやり取りを聞きながら、フローレンも自然と言葉を挟んだ。
そうして三人の会話は、昼休みの続きのように途切れることなく続いていった。
それなのに、フローレンの頭の片隅にはまだ、先ほどの一言が残っていた。
――まだ。
付き合っていないと答えたとき、返ってきたのは「そうなんだ」ではなく「まだ?」だった。
フローレンは小さく首を傾げた。
どうして彼女たちがそう思ったのかは、やはり分からない。ただ、意味も分からないまま忘れてしまうには、あの一言だけが妙に鮮明だった。
賑やかな食堂で交わされたはずの短い言葉が、今もどこか耳の奥に残っている。
「フローレン?」
名前を呼ばれ、昼休みのことへ向いていた意識がふっと引き戻された。耳の奥に残っていたあの言葉が遠のき、代わりに目の前の声がゆっくりと輪郭を取り戻していく。
隣では、ルシアンが少し覗き込むようにこちらを見ていた。
「どうした?」
「……ううん」
フローレンは一度瞬きをした。それから、頭の隅に残っていたものをそっと追いやるように、いつもの笑みを浮かべる。
「なんでもない」
ルシアンもそれ以上は尋ねなかった。二人のあいだにはいつもと同じ空気が戻り、それ以上、何かが変わるわけでもなかった。
隣ではレオが午後の予定を確認し、ルシアンがそれへ答えている。聞き慣れた二人の声が、歩調に合わせるように途切れ途切れに続いた。
フローレンもその隣を歩きながら、ときおり言葉を添える。そうして三人は、いつもと変わらない足取りで五年生の教室へ戻っていった。
けれど歩いているあいだも、
――まだ。
その一言が、なぜかしばらく頭から離れなかった。




