122:間違いない
入学から数日が過ぎ、一年生の教室にも少しずつ和やかな空気が生まれ始めていた。
まだ互いの名前を覚えきれていない生徒も多いものの、隣の席に座る相手や、よく声を交わす顔から順に少しずつ見慣れたものへ変わっていく。
ルベライト伯爵家の令嬢ニナも、隣に座るノエル・アストリアとは、いつの間にか何度も名前を呼び合うようになっていた。
「では、この条件が成立するものとして――」
教壇から落ち着いた声が響く。
ニナは黒板に視線を向けながら、教師が示した条件を手早くノートへ書き写す。まだ新しい教本の紙は少し硬く、頁をめくるたび乾いた音が教室のあちこちから重なっていた。
「先生、いいですか」
すぐ隣から声が上がる。
書き進めていた手が、そこでぴたりと止まった。
教師もまた、一拍だけ間を置いてノエルへ顔を向ける。わずかに目元を動かしただけだったが、見覚えのある展開をどこか察したような顔つきだった。
「……なんだ?」
「そもそも、その条件は成立するのでしょうか」
「……」
「仮に成立しないとすると、ここでは――」
「……アストリア」
「はい」
「ここでは成立するものとして考える、だ」
「ですが」
「アストリア」
教師は諭すように言った。あくまで穏やかだったが、その声には静かな区切りがあった。ここから先は譲らないのだと、言葉にせずとも分かる。
「今は、成立する前提で話を進める。続きは後で聞こう。それでいいな?」
「……はい」
納得したのかしていないのか分からない声で返し、ノエルはようやく上げていた手を下ろした。
教師は何事もなかったように授業を再開する。けれど隣では、ノエルがまだ黒板の条件式をじっと見つめていた。
ニナはどこか呆れを滲ませながら、小さく息を吐く。
「もう……また疑いすぎ」
「だってさあ……」
聞こえるか聞こえないかの声で返しながら、ノエルが不満そうに眉を寄せる。
「成立するって言われたんだから、今は成立するの」
「それは分かるけど、本当に成立するかどうかは別の話でしょ」
「だから、その別の話は後で聞くって先生も言ってくれたじゃない」
「……うん」
返事だけは素直だった。
もっとも、顔を見ればまだ何か言いたそうなのは明らかだ。ニナが呆れ半分に前へ向き直ると、ノエルと反対側の斜め前の席から、今度は小さく紙の擦れる音がした。
視線を動かせば、双子の兄アルト・ルベライトが大きく息を吐いて満足げにペンを置いている。
「はあー終わった終わった」
授業中に何を……と思って軽く覗き込んだニナは、すぐに呆れた視線を向けた。
どうやら、今日出されそうな課題の部分を、先に終わらせようとしているらしい。机の上の教本は、教師の説明する箇所より少し先の頁が開かれている。
「……アルト」
「なに?」
悪びれた風もなく、アルトは後ろを振り返る。
「それ、間違ってる」
「え?」
控えめに指先で示した先を見て、しばらく考え込むアルト。やがて、その顔に分かりやすくしまったという色が浮かぶ。
「……あ、条件見逃してた」
「もう……」
ノエルは慎重すぎるが、アルトは詰めが甘すぎる。
入学して初めてできた友達のノエルは、双子の兄であるアルトとは正反対の性格だった。それなのに、どこか意気投合して三人で過ごすことが多い。
これからの学院生活でこの二人にとことん振り回されるような気がして、ニナはため息ともつかない息をひとつ零した。
昼休みになると、アルトは待ってましたとばかりに席を立った。
「なあ、ニナ。兄上のところ行こうよ。昼ごはん誘おう」
「え、でも急に行っても、兄上にも予定があるんじゃない?」
「断られたら、そのまま俺らだけで食堂行けばいいじゃん」
「そういう問題じゃなくて――」
言っている間にも、アルトはもう扉の方へ身体を向けている。
ニナは早々に止めるのを諦め、机の上の教本を整えた。どうせこのまま放っておけば一人で五年生の教室まで行くだろう。それなら自分も一緒に行ったほうが、アルトが迷惑をかけそうになったときすぐに止められるかもしれない。
「ノエルも行く?」
「ぼくも?」
声をかけると、隣で教本を閉じていたノエルが顔を上げた。
「お姉さんもいるだろうし、一緒に行こうぜ」
アルトが当然のように言い、ノエルは少し考えてから席を立った。
「うん、じゃあ行こうかな」
三人は連れ立って教室を出ると、そのまま並んで廊下へ足を踏み出した。
一年生の教室が並ぶ棟を抜けて上級生側へ近づくにつれて、廊下を行き交う生徒たちがだんだんと大人びて見えるようになる。たった数年しか違わないはずなのに、上級生は制服の着こなしも歩き方も一年生とは随分と違う。そんな上級生がたくさん並ぶ廊下へ入ると、自分たちだけが一段と小さくなったような気がした。
「あ、いた」
何の気負いもなさそうに先を歩いていたアルトが立ち止まって、大きな声を上げる。
その指先を追い、ニナも五年生の教室へ目を向けた。
開いた扉の少し向こうで、兄が数人の生徒と話している。赤くて長い三つ編みは遠目からも目立つので、探すまでもなかった。
その近くの窓際には、兄の幼なじみのルシアン・ノクティスが立っていた。差し込む光が金髪を透かし、彼の輪郭のあたりを淡くきらめかせている。
ルシアンは昔からよく家へ遊びに来ていたので、ニナやアルトとも顔見知りだ。
彼はちょうど同じクラスらしい男子生徒から一枚の紙を受け取り、その内容へ軽く目を通してから顔を上げた。
ひとことふたこと交わし、ルシアンは穏やかに笑った。相手の生徒も頷いてその場を離れていく。
その近くの席では、ノエルの姉のフローレン・アストリアが机に向かって座っている。
彼女とは入学初日に初めて会ったが、初対面のとき自分たち双子を年下扱いせず、丁寧に挨拶してくれたのを覚えている。
後になってノエルから聞いた話では、家はそこそこ大きな商家らしい。そう思えば、物腰の柔らかな佇まいも、人懐っこさの滲む表情も、どこか腑に落ちるものがあった。
フローレンは机の上へ広げた何枚かの資料を見ながら、傍らに立つルシアンに何か話しかけた。ルシアンはフローレンの方へ向き直ると、同じ紙へ目を落とす。
(え、近い)
肩が触れるほどではないし、何か特別なことをしているわけでもない。ただ机の上の紙を一緒に見ているだけだったが、その距離はあまりにも近く、そしてその距離が二人の空気感のなかでひどく自然だった。
フローレンが顔を上げて何かを言う。
その瞬間、ルシアンの表情が柔らかくほどけた。
つい先ほど別の生徒と話していたときも、ルシアンの表情は穏やかだった。けれど今は、同じ笑みのなかでも、目元が随分と優しく柔らかく見える。
先日、ノエルとフローレンを見比べて「本当に似ているな」と笑った時にも、彼は同じような表情をしていた。そしてその表情を受け取るフローレンも、明るく自然な微笑みを浮かべている。
ニナはつい、二人から視線を逸らせずにいた。
「……やっぱり、そうだよね」
確信めいた音を含んだ独り言に、隣のアルトが一瞬こちらを伺った。が、特に触れることもなく兄の方へ視線を戻す。
初日は初対面だったから、そう見えただけなのかもしれないと思った。
けれど、今日も同じだった。
あれはもう間違いない。
「兄上!」
アルトの声に、レオが振り返った。
「お、アルトじゃん。ニナとノエルも」
話していた生徒たちへ軽く手を上げてから、レオがこちらへ歩いてくる。ニナたちの前まで来ると、長身を少し折るようにして三人を見下ろした。
「何かあった?」
「お昼ごはん、兄上と食べようかなって」
「あー、ごめん! 今日は先約があるんだ」
「そっかあ……分かった」
「だから言ったじゃない」
ニナが横から言うと、アルトは少しだけ残念そうに肩を落とした。
「せっかく来てくれたのに悪いな。放課後は空いてるから、前に言ってた棟の案内の続きしようか?」
「え、ほんとに?」
「うん。午後は実習だから、少し遅くなるかもしれないけど。教室の前で待ってて」
「分かった!」
途端に表情を明るくしたアルトを見て、レオが楽しそうに目を細めた。
二人のやりとりを聞きながら、ニナは兄の向こうへもう一度視線を送る。
こちらの様子には気づかず、ルシアンとフローレンは相変わらず窓際の席で何枚かの紙を見比べていた。
何を話しているのかまでは聞こえない。ただ、ときおり二人の表情がやわらぎ、そのあいだに小さな笑いが交わされているのだけは分かった。
入学初日から引っかかっていたものが、ニナの中で完全に答えになっていた。あとは答え合わせをするだけだ。
「兄上、ひとつ聞きたいんだけど」
「ん、なに?」
「あの二人は付き合ってるんだよね?」
「…………へ?」
レオは不意を突かれたように、一瞬動きを止めた。答える代わりに、ニナの視線を追ってゆっくりと顔を向けた。そのまま窓際へ目を留め、しばらく何も言わない。
数拍待っても返事がなく、ニナはわずかに眉を動かした。やがて待ちきれなくなったように、さっきと同じ言葉をもう一度繰り返そうとする。
「だから! あの二人は――」
「いや、まって、声大きい」
慌てたようにレオが手を伸ばし、三人を教室の入口から少し離れた窓際へ促した。そこまで移動すると周囲を一度見回し、膝へ片手をつくように身を屈めて三人と目線を合わせる。
声も、先ほどよりずっと低くなった。
「それは俺にも分かんないの」
「え、なんで?」
「なんでって……本人たちが何にも言わないから……」
「でも、どう見ても付き合ってるし!」
「いや、だから声……!」
思わず上がったニナの声に、レオがますます身を縮める。
その横ではアルトも今さらというようにフローレンたちの方を見て、素直に頷いた。
「俺も普通に付き合ってると思ってた」
「だよね?」
味方を得て、ニナは兄へ向き直る。
「兄上も、付き合ってるとは思うでしょ?」
「ん? まあ、いや、うーん……」
途端にレオの目が泳いだ。どうやら返答に困ったらしく、わずかに視線を逸らして間を置く。
「なにそれ」
「俺が決めることじゃないからなあ」
ニナがわずかに眉を寄せると、レオはそれを受けるように困った笑みを浮かべた。けれど、返す声だけは先ほどより少し落ち着いている。
「とにかく、二人が何も言ってないから、周りがとやかく言うことじゃないの」
「えー」
どう考えても納得できない。
黙っていても、その不満は隠しきれていなかったらしい。レオは一度こちらの顔を眺め、それから仕方なさそうに苦笑をこぼした。
「そんな顔しない」
「だって」
「だってじゃない」
ニナが唇を尖らせていると、ずっと黙っていたノエルが小さく口を開いた。
「ぼくも、二人が付き合ってるとは聞いてない」
「そうなの? お姉さんと仲良さそうなのに」
「姉さんも全部ぼくに話すわけじゃないし」
それはそうかもしれない。
けれど、ノエルの声にはまだ何か考えているような響きがあった。視線を送れば、さっきの授業で疑問を呈したときと似たような表情をしている。
「でも、ルシアンさんの話よくするんでしょ?」
「するよ。でも、レオさんの話もする」
「同じくらい?」
「うーん、同じくらい……だと思う」
少し考えてから、ノエルは眉間へ薄く皺を寄せた。
「手紙だと二人一緒によく出てくるし」
「じゃあ分かんないじゃん」
「うん、そうなんだよね……」
ニナはますます納得できなくなった。
目の前で見れば明らかなのに、兄もノエルもどうしてそこまで慎重なのだろう。
「あれ? 何の話してるの?」
突然近くから声がして、ニナの肩が跳ねた。
振り返ると、いつの間にかフローレンがこちらへ歩いてきていた。人懐っこい笑みを浮かべるフローレンの隣にはルシアンもいるが、特段変わった様子はない。
ニナは、反射的に口を閉じた。
「放課後、こっちの棟を案内するって話」
レオが何食わぬ顔で答える。話しかけられる直前の話題ではなかったが、決して嘘ではない。
こういうときの躱しかたが上手いな、とニナは改めて隣の兄の姿を見上げた。
フローレンは特に疑う様子もなく、「あ、そうなんだ」と笑った。ルシアンも同じように下級生三人へ穏やかな眼差しを向けただけで、それ以上追及することはなかった。
やがてレオへ顔を寄せると、声を潜めて何事かを耳打ちする。
「あ、もうそんな時間か。……俺たち、そろそろ実習の準備に行かなきゃ。じゃあ、また放課後」
「うん。楽しみにしてる」
アルトが兄へ手を振り、ニナとノエルもそれぞれ別れの挨拶をした。
三人で教室を出て、廊下の角へ差しかかる。曲がればもう教室の中は見えなくなるというところで、ニナはふと肩越しに振り返った。
すると、まだこちらを見ていたフローレンと、ちょうど目が合う。彼女はにこりと笑い、小さく手を振ってくれた。
どうやら、姿が見えなくなるまで見送ってくれていたらしい。ほんの些細なことなのに、そういう気遣いを当たり前のようにしてしまえる人なのだと思うと、ニナの中でフローレンへの印象がまたひとつ柔らかくなる。つられるように小さく手を振り返し、そのまま廊下の角を曲がった。
昼食を終えて第一クラスへ戻る頃には、アルトの興味はすっかり放課後の学院探検へ移っていた。
「東棟の先って何があるんだろ」
「あとで兄上に聞けばいいでしょ」
「先に見に行ってみてもよくない?」
「兄上が案内してくれる意味がなくなっちゃうじゃない」
さっきまでの話など忘れたように先を歩くアルトの背中を見ながら、ニナは呆れて息を吐く。
その隣では、ノエルがいつになく静かだった。
「ノエル、本当に何も聞いてないの?」
「……何を?」
「お姉さんとルシアンさんのこと」
「聞いてないよ」
返事はすぐだった。
けれど、そのまま数歩進んだところで、ノエルの歩みが僅かに緩む。
「……ただ」
「ただ?」
今度は、少しだけ言葉を探す間があった。
「なんか、あんな風に笑うのは見たことないかも」
ニナは思わず瞬きをした。
けれど、そう口にしたノエル自身も理由までは分からないらしい。しばらく何かを考えるように黙ったあと、そのまま前へ視線を戻した。
少し先を歩いていたアルトが、そこで振り返る。
「二人とも遅いよ」
「今行く!」
ニナはすぐに声を返し、ノエルと並んで歩調を速めた。
やがてアルトに追いつく頃には、三人の足音がまた同じ速さで重なっていた。




