121:五年生と一年生
春期休暇を終えた学院には、朝からいつもより少し高い声が満ちていた。
磨かれた石床を行き交う靴音には、まだ歩幅の定まらない足取りが混じっている。開け放たれた窓から入り込む春風が掲示板の紙を揺らし、その前では真新しい制服に身を包んだ生徒たちが、何度も案内図を見上げていた。
その脇を通りながら、フローレンはほんの少しだけ歩調を緩めた。
友人らしい二人組で顔を寄せ合っている子もいれば、ひとりで背筋を伸ばし、周囲を見回している子もいる。皆、袖口も襟元もまだ身体に馴染んでいないように見えた。
自分があの子たちと同じように、真新しい制服でこの学院へ足を踏み入れてから、もう五年目になる。
去年まで自分より先を歩いていた生徒たちは、もう学院にはいない。
「……そっか」
小さく漏れた声は、廊下を抜ける風の中へ溶けていった。何かが急に変わった実感はないのに、新しく入ってきた一年生から見れば、自分たちが学院で一番上の学年なのだと思うと不思議な感じがする。
五年生の教室へ近づくにつれ、周囲の顔も見慣れたものへ変わっていった。開いた扉の向こうには、休暇を挟んだ程度では変わらない賑やかさがあり、そこへ足を踏み入れた途端、窓際からよく知る声が飛んでくる。
「おはよ、フローレン」
机の端へ腰を預けていたレオが、琥珀の瞳を細めて片手を上げた。その隣では、開いていた冊子から顔を上げたルシアンが、朝の光を受けた金髪をわずかに揺らす。
「おはよう、フローレン」
「おはよう。二人とも早いね」
返しながら近づくと、ルシアンの口元に柔らかな笑みが浮かんだ。春期休暇を挟んで久しぶりに学院の教室で向かい合ったせいか、見慣れていたはずの穏やかな表情がどこか懐かしく、胸の内がふっとあたたかくなる。
「僕はさっき着いたばかりだ。レオは随分早く来ていたみたいだが」
そう言われてレオへ目を向けると、本人はいつも通りの気楽そうな顔で肩を竦めた。
「朝早くに弟と妹と待ち合わせて、そのまま教室に送ってきたから」
そう言うと、レオは大きくあくびをした。伸びをするように肩を回し、眠たげに目を細める。
フローレンも自然と、今日から同じ学院へ通うことになった弟の姿を思い浮かべた。
休暇の間は家で毎日のように顔を合わせていたのに、これからは学院でも会うことがあるのだと思うと、なんだか新鮮な気持ちだった。
「で、結局フローレンのとこは第一クラスだったんだっけ?」
レオがふと眉を上げ、何かを思い出したようにこちらを見る。そのまま、軽い調子で問いを投げかけてきた。
「うん。本人は少し不服そうだったけど」
「うちも二人とも第一。三人一緒になったね」
「前に話していた通りになったな」
ルシアンの一言に、フローレンは少し考えてから、去年三人で交わした話を思い出した。
「先生が困るかもって話?」
「ああ」
それを聞いたレオが楽しそうに身を乗り出す。
「また教室に小さいアストリアとルベライトが揃ってるんだもんね」
「確かに弟はよく私と似てるって言われるけど……」
「うちは妹がかなり俺寄り」
くつくつと可笑しそうにレオが笑うと、ルシアンもわずかに目を細めた。
「去年、クラスが同じなら二度見されそうだと話していたな」
「先生、二度見するかな」
「俺、するに一票」
「僕もするんじゃないかと思う」
「ルシアンまで」
三人の笑い声が重なったところで、始業を知らせる鐘が校舎へ響いた。教室のあちこちで椅子が引かれ、休暇中の話を続けていた生徒たちもそれぞれの席へ戻っていく。
フローレンも鞄を置き、自分の席から窓の外へ目を向けた。庭木の枝先では、新しく開いた葉が朝の光を含んで揺れている。
五年生の最初の朝は、思っていたよりもずっと、いつもの学院の続きとして始まっていった。
午前の説明をいくつか終えた頃には、学院中を満たしていた朝のざわめきも少し落ち着き始めていた。新しい時間割や実習予定、五年生向けの進路資料を一通り受け取ったあと、三人は次の授業までの空き時間を使って、別棟の掲示を確認しに向かっていた。
「五年になると、配られる紙が急に増えるね」
束になった資料を抱え直しながらフローレンが言うと、隣を歩くルシアンも自分の手元へ視線を落とした。
「進路関係が多いからだろう。春の段階では確認だけでいいものも多いようだが」
話しながら渡り廊下を抜けたところで、フローレンは一年生の教室札が並ぶ一角に気づいた。
「一年生の第一クラスって、この辺りだったよね」
「そうそう。たしか次」
レオが先へ視線を向ける。ちょうど一つ先の教室では、式を終え、ちょうど午前の説明が始まったところらしい。廊下側の大きな窓からは、制服もローブもまだ少し大きい、初々しい新入生たちが席についている様子が見えた。
「いるかな」
フローレンが何となく窓越しに中を覗くと、レオも横から同じ方向へ顔を向けた。ルシアンは二人より半歩後ろに立ち、教室の奥へ静かに視線を向けている。
教壇に立っていたのは、見覚えのある教師だった。四年生の時に特進で魔法理論を担当していた男性教師で、淡々とした語り口調と滅多に崩れない表情を覚えている。今年は一年第一クラスを受け持つらしく、手元の名簿を見ながら一人ずつ名前を読み上げていた。
フローレンたちが足を止めた時、ちょうど教師の声が教室へ響いた。
「ノエル・アストリア」
「はい」
一人の少年が手を上げる。ゆるく波打ったミルクティ色の髪が春の光を淡く弾き、顔を上げた拍子に、青緑へ紫の溶け込む瞳が覗いた。
名簿から顔を上げた教師の視線が、ぴたりと止まった。返事をした少年を見る。いったん名簿へ目を戻したあと、もう一度同じ席を見る。
――誰の目にも明らかな二度見だった。
隣から小さく息を呑むような音が聞こえ、フローレンが目だけを向けると、レオが早くも笑いを堪えている。自分も口元が緩みそうになり、フローレンは慌てて唇をぎゅっと結んだ。
当のノエルは、なぜ二度見されたのか分からないらしい。わずかに首を傾げて教師の顔を見つめている。
「……アストリア、か」
教師は確かめるよう呟くと、何事もなかったように次の名前へ進んだ。その平静を取り戻すまでの僅かな間がおかしくて、フローレンは隣のレオと目を合わせないよう教室の中へ視線を戻した。
何人かの名前が続き、やがて教師の指が名簿の次の行へ移る。
「アルト・ルベライト」
「はーい」
赤髪の少年が元気よく手を挙げる。目元はレオより柔らかいものの、髪の色と琥珀色の瞳だけでも、兄弟だと分かるほどよく似ていた。
教師の眉がほんの少し上がった。アルトを見たあと、名簿へ目を戻し、改めてちらりと彼に視線を送る。
二度見判定としては、ギリギリアウトだろう。
フローレンは咄嗟に口元を手で覆った。横ではレオが声にならない息を漏らし、肩だけを小さく震わせている。
教師はそのまま点呼を続けた。けれど、さらに数人の名前を読み上げたあと、名簿へ落ちていた視線が止まる。
「……ニナ・ルベライト」
「はい」
凛とした返事とともに、少女が顔を上げた。
肩より下まで伸びた赤髪に、琥珀色の猫目。アルトと並べれば双子なのだと分かる顔立ちなのに、目鼻立ちや表情には、アルトよりも色濃くレオの面影がある。
今度は教師が、しばらく視線を外さなかった。
ニナも自分が見られていることには気づいたらしく、姿勢を崩さないまま教師の様子を伺っている。そのすぐ隣にはノエルが座っており、フローレンに瓜二つの少年と、レオに瓜二つの少女が行儀良く横に並んでいた。
「……っ、ふふ」
思わず声が漏れると、レオの肩がさらに揺れた。ルシアンも普段より明らかに目元を緩め、二人の半歩後ろから教室の様子を眺めている。
教師は一度だけ息を整えるように口元を引き締め、次の名前へ移ろうとした。
その時、ふと窓の外へ視線が向く。
真正面からフローレンと教師の目が合った。
一拍遅れて、その視線が隣のレオへ動く。そして窓の外にいる二人と、教室の中に並んだノエルとニナを、教師がもう一度見比べた。
その直後、不自然なほど大きな咳払いが教室に響いた。何人かの一年生が怪訝そうに顔を上げる。
「……失礼。続ける」
何事もなかったように名簿へ視線を戻したものの、先ほどまでより声が僅かに硬い。フローレンは堪えきれず、窓から離れるまで必死に口元を押さえた。
教室から少し距離を取った途端、レオが壁へ片手をついた。
「に、二度見してた……」
笑い声を抑えようとしているせいで、言葉の端まで震えている。
「三回ともしてたね」
フローレンも目尻へ滲んだ涙を指先で拭いながら、何とか声を整えた。
「最後はもう二度見ではなく凝視だったな」
ルシアンまで可笑しそうに言うものだから、レオがまた吹き出しかける。
「最後、俺ら見た時の顔見た?」
「見た。もうあれ、完全に笑ってたよね」
「誤魔化しきれていなかったな」
三人はしばらく笑いを引きずったまま、残りの掲示を確認しに廊下を歩いていった。
昼休みになると、一年生第一クラスの前には朝より幾分落ち着いた空気が流れていた。教室から出てくる新入生たちの中に見慣れた髪色を見つけ、フローレンは小さく手を上げた。
「ノエル」
「あ、姉さん」
こちらへ駆け寄ってきた弟を間近で見ると、身内ながら改めてよく似ていると思った。瞳の色も、柔らかな髪の癖も、頬から顎へ続く輪郭も、まるで四年前の自分を見ているようだった。
「初日どうだった?」
「まだほとんど説明だけ。でも、さっき、先生がぼくの名前を呼んだあと変な顔してた」
思いがけず本人から指摘され、フローレンの口元がまた緩んだ。
「気づいてたの?」
「だって、二回見られたから。寝癖でもついてたかな」
ノエルが頭の後ろの方を軽く押さえつけながら言う。その仕草までどこか幼い頃の自分に似ている気がして、フローレンは何も乱れていない髪を見ながら、笑いを飲み込んだ。
そのとき、教室から赤髪が二つ続けて現れた。先に出てきた少年はレオを見つけるなりぱっと表情を明るくし、迷いなくこちらへ駆け寄ってくる。
「兄上!」
「おー。初日お疲れ」
「全然疲れてないよ。昼ごはん食べたらそっちの棟も見に行こっかな」
挨拶の直後に飛び出した言葉へ、少し遅れて出てきた少女が眉を寄せた。
「アルト。午後も説明があるって言われたでしょ」
「その前に行けばいいじゃん」
「どのくらいかかるかも分からないのに?」
「時間かかりそうなら引き返せば良いし」
「行ったことない場所なんだから、時間がかかりそうって判断がそもそもできないでしょ」
「行けば分かるって!」
「分かるわけないでしょ!」
二人の間で、言葉が息つく間もなくぽんぽんと跳ねていく。レオはすっかり慣れた様子で弟と妹を交互に眺めていた。
「はいはい。探検は午後の説明終わってからね。俺が時間あったら案内するから」
「ほんと?」
「兄上が一緒ならいいけど……」
同時に勢いを落とした双子が何だか素直で可愛らしくて、フローレンは思わず頬を緩めた。つい先ほどまであれほど言い合っていたのに、レオが間に入った途端、二人ともすんなり矛を収めている。
その時、弟のアルトがふとフローレンを見て小さく首を傾げた。妹のニナもつられるようにこちらへ視線を移す。
「兄上、そちらのかたは?」
「ああ、そっか。二人は会ったことなかったね」
レオに促され、フローレンは双子へ向き直った。商会で父や兄の客人へ挨拶する時と同じように、自然と背筋を伸ばし、柔らかく笑みを浮かべる。
「初めまして。フローレン・アストリアと申します。お兄さんとは学院で仲良くさせていただいています」
年下扱いしない丁寧な挨拶に、双子もつられるように姿勢を整えた。
「僕はアルト・ルベライト。こっちは双子の妹のニナです」
「ニナ・ルベライトです。アストリアさん、初めまして。いつも兄がお世話になっています」
双子は二人で横に並んで頭を下げる。その角度もタイミングも完全に揃っていて、フローレンは目元を和らげて笑った。
そこで、いつの間にかフローレンの近くに寄ってきていたノエルが、ツンツンとローブを引っ張ってくる。
「あ。改めて紹介するね、私の弟のノエル」
「……ノエル・アストリアです」
「初めまして。俺はレオ・ルベライト。この双子の兄」
レオが気楽そうに片手を上げると、ノエルは少し姿勢を正して挨拶を返した。そして、その隣に立つルシアンの方へ向き直る。
「初めまして。ルシアン・ノクティスだ」
ノエルは一度ルシアンを見上げ、同じように礼儀正しく挨拶を返す。そしてふと考え込むように目を伏せ、すぐに何かを思い出したように「あ」と声を上げる。
「なるほど。姉さんがよく話してる、レオさんとルシアンさん」
「……あれ? そんなに話してた?」
「手紙の八割、会話の六割ってとこ」
「内容、ほぼ俺らじゃん」
レオが声を立てて笑う。
自分では特別意識したことがなかった。勉強のことも、授業のことも、三人で街へ行った日のことも、家で何か話せば自然に二人の名前が出ていたのだろう。
ルシアンのほうは少し意外そうに瞬きをしたあと、ノエルへ穏やかに笑いかけた。
「僕たちも君のことは聞いている」
「ぼくの?」
「ああ。兄君に似て優秀だと」
「……いえ。兄も姉も特進ですが、ぼくは第一なので」
ノエルは少し不満そうに眉を寄せた。
「それは、入学試験でいつもみたいに問題文を前提から疑って時間が足りなくなったからでしょ」
「だって、提示されてた条件が必ずしも成立するとは限らないと思ってさあ……」
「何にでも慎重なのはノエルの良いところなんだけどね」
少し拗ねたように唇を尖らせる弟の襟元が僅かに折れているのに気づき、フローレンは話しながら指先でそっと整えた。ノエルも文句を言うことなくされるがままになっている。
そんな姉弟の様子をどこか楽しそうに見ていたルシアンが、ふと二人を見比べるように視線を動かした。
まずフローレンへ向き、次にノエルへ移る。もう一度フローレンへ戻ってきた紫の瞳は、スッと緩やかに細められた。
「聞いてはいたが、……本当に似ているな」
その声とともに浮かんだ笑みは、普段よりもさらに柔らかかった。
春の日差しの中で、ルシアンの表情がふっと優しくほどけている。フローレンもつられるように頬を緩めた。
顔を見合わせて笑ったあと、何気なく視線を横へ動かすと、双子がよく似た顔でこちらを見ていた。
アルトは何かを確かめるように、フローレンとルシアンへ交互に目をやっている。その隣では、ニナも同じように二人を見比べたあと、ふいに兄のレオへ視線を移した。
レオは気付いた様子もなく、アルトの肩を叩く。
「それよりアルト、昼ごはん食べた?」
「あ、まだ」
「ほら、昼休み終わらないうちに行ってきな。ニナもまだでしょ」
「うん、まだ。ノエルも一緒に行く?」
「……行く」
三人はそのまま食堂の方へ歩き出した。数歩進んだところでニナだけが一度振り返り、ルシアンとフローレンへもう一度視線を向ける。
目が合う前に、ニナは何事もなかったように前へ向き直った。フローレンは一瞬だけ首を傾げたものの、すぐに遠ざかっていく三人の背中へ視線を戻した。
「いやあ、ほんとに見事だったね」
下級生たちを見送ったあと、レオが朝の出来事を思い出したように笑った。
「誰が?」
「先生」
「そっち?」
思わず聞き返すと、レオは楽しそうに頷いた。
「先生、今年一年で慣れてくれるかな」
「たしか、五年生の授業も担当すると書いてあったな」
ルシアンが資料を思い返すように視線を上げた。フローレンは一年生の教室と、自分たちの五年生教室を交互に思い浮かべ、また少し可笑しくなる。
「一年生と五年生の授業で混乱しそう」
「俺、三つ編み解いてフローレンの隣座ろっかな」
「ねえ、やめてあげて」
笑いながら、三人は五年生の教室へ向かって歩き出した。廊下には午後の授業へ向かう生徒が増え始め、少し離れた階段からは一年生らしい明るい声も聞こえてくる。
「今年、騒がしくなりそうだね」
フローレンが言うと、レオは満足そうに目元を緩めた。
「いいじゃん。楽しそうで」
三人の歩幅は、示し合わせたわけでもないのに自然と揃っていた。開いた窓から入り込んだ春風が、三人の髪を頬の横でふわりと揺らしていく。
五年生。
あと一年なのだと考えれば、急に短くも思えた。それでも今は、春期休暇の前と同じように隣に二人がいて、新しく学院へ入ってきた家族のことや、これから始まる授業の話をしながら歩いている。
「今年もよろしく、二人とも」
ふと口にすると、レオが少し意外そうにこちらを見たあと、すぐにいつもの明るい笑顔を浮かべた。反対側ではルシアンも紫の瞳を柔らかく細めている。
「こちらこそ」
「よろしくね、フローレン」
二人の声を聞いて、フローレンも自然と頬を緩めた。
窓の外では、若い葉の間を抜けた光が石畳の上で細かく揺れていた。その春の明るさを横目に、三人は変わらない歩幅で五年生の教室へ戻っていく。
やわらかな春の気配に包まれながら、学院での最後の一年が賑やかに幕を開けた。




