120:三人で並んで
階段へ差しかかる頃には、二人の間にもすっかりいつもの空気が戻っていた。少し前まで廊下の途中で泣いていたことが、自分でも不思議なくらい遠く感じられる。
次年度の案内に載っていた授業の話をしながら、フローレンは手の中のハンカチをそっと畳み直した。ルシアンもいつも通りの穏やかな調子で応じている。
「五年生になると、やっぱり学院の外へ出る授業も増えるんだね」
「ああ。四年生より、もう少し実務に近い内容になるらしい」
「楽しみ」
「君はそう言うと思った」
小さくこぼれた笑い声に、フローレンも笑い返す。そんな何気ないやり取りまで、もう先ほどまでと変わらないものに戻っていた。
ちょうどその時、後ろから軽い足音が近づいてきた。聞き慣れた声も、それを追うように廊下へ響く。
「お待たせ」
振り返ると、レオが片手を上げながらこちらへ歩いてくる。少し急いだらしく、いつもより僅かに歩幅が大きい。
「思ったより話が長くなっちゃった」
「大丈夫。そんなに待ってないよ」
「二人は何の話してたの?」
「五年生の授業のこと」
「ああ、あれか。俺もまだちゃんと見てないんだよね」
そう言いながら二人に追いついたレオが、そのまま何気なくフローレンへ顔を向ける。一度通り過ぎかけた視線が、すぐに戻ってきた。
そして、ぴたりと動きを止めた。琥珀色の瞳が、今度は確かめるようにフローレンの顔を見る。
「……あれ、フローレン」
「どうしたの?」
フローレンは普通に聞き返した。もう涙は止まっているし、気持ちもずいぶん落ち着いている。自分ではすっかりいつも通りに戻ったつもりだった。
けれどレオは少しだけ顔を寄せ、今度は目元をじっと見る。フローレンは何を見られているのか分からず、小さく首を傾げた。
「なんかちょっと、目赤くない?」
「……え」
「大丈夫?」
「あ……そうかな」
途端に先ほどのことを思い出し、フローレンは少しだけ視線を泳がせた。手の中にはまだ、ルシアンから借りた白いハンカチがある。
隣のルシアンは何も言わなかった。普段の彼なら、レオが「大丈夫?」と尋ねた時点で一緒になってフローレンを気遣う様子を見せるだろうが、……今日は妙に静かだった。
レオの琥珀色の瞳が、そんなルシアンのほうへ移る。それからもう一度こちらへ戻ってきた頃には、先ほどまでの軽い表情が少しだけ薄れていた。
「……俺のいない間に、なんかあった?」
問い詰めるような声ではない。けれど、冗談で聞いているのではないことはすぐに分かった。いつもの軽さを引っ込めて、真面目にこちらの答えを待っている。
フローレンは慌てて口を開こうとしたが、その前にレオがルシアンを見る。
「……泣かせたの?」
「ちがうの」
ほとんど反射的に声が出た。思ったより大きな声になり、フローレン自身が少し驚く。
ルシアンはというと、否定するでも弁解するでもなく、珍しく完全に黙り込んでいる。何もなかったと言えばいいだけなのに、それができないらしい。
――実際、何もなかったわけではない。
フローレンにも、さっきのことをレオに誤解なく説明するのは少し難しいと分かった。
「私が勝手に、ちょっと泣いちゃって」
「いきなり涙は出ないでしょ」
レオは責めるような口調にはならなかった。ただ、少しだけ眉を寄せて、まっすぐこちらを見る。
「何、どうしたの」
その声音を聞いて、フローレンは僅かに肩の力を抜いた。問い詰めたいわけではなく、ただ心配してくれているのだとすぐに分かる。
「……将来のこと、考えてたら、急に寂しくなっちゃったから」
「将来? 寂しく?」
「うん」
もう一度口にすると、胸の奥にほんの僅かな痛みが戻った。けれど先ほどのように、息が詰まるほどではない。
「卒業したら、ルシアンやレオとも、今みたいに毎日気軽に会えなくなるって思って」
レオは黙って聞いている。さっきまで浮かべていた心配そうな表情も、そのままだった。
「一緒に勉強したり、話したり……そういうのも、当たり前にはできなくなるんだなって思ったら、急に実感しちゃって。それで……」
言葉の終わりに、少しだけ困ったように笑った。話しているうちに、ほんの少しだけ先ほどの気持ちが戻ってきたような気もする。
レオはすぐには何も言わなかった。一度きちんとフローレンの言葉を受け止めるように、小さく頷く。
「なるほど……そっか」
軽く流すでも、そんなことで泣いたのかと笑うでもなかった。ただそれだけを返してから、少し考えるように前を向く。
けれど、その時間は長くは続かなかった。レオはすぐにまたフローレンへ顔を向ける。
「でもさ」
「うん?」
「また会えばいいじゃん」
「……え」
あまりにもあっさりと言われて、フローレンは目を丸くした。思わずレオの顔を見返す。隣ではルシアンも面食らったように目を瞬かせている。
「いや、まあ、今みたいに毎日ってわけにはいかないかもしれないけどさ」
レオはごく当たり前のことを話すように続ける。そこには励まそうと気負う様子すらなかった。
「学院みたいに毎日会えなくても、大切な友達なのは変わらないでしょ。学院の外で友達と会っちゃいけないなんて決まりもないよね?」
「……それは」
言われてみれば、その通りだった。フローレンは一度瞬きをして、今まで自分が考えていたことを頭の中でもう一度辿る。
卒業すれば、今と同じ毎日は終わる。けれど、そこで何もかもが途切れるわけではない。
会いたければ、また会えばいい。毎日ではなくても、一緒に勉強したり、話したりすることまでできなくなるわけではなかった。
そんな簡単なことを、どうして今まで思いつかなかったのだろう。途端に、張りつめていたものが少しだけ可笑しく思えてくる。
「……確かに」
思わず笑うと、レオもにっと笑った。フローレンが納得したのを見て、ようやくいつもの調子が戻ってくる。
「でしょ?」
それから、急に楽しそうに目を細めた。
「というかさ。泣くほど寂しいって思ってくれたの?」
「……え」
「それは結構うれしいなあ」
先ほどまでの真面目な声音はどこへやら、レオはすっかりいつもの調子に戻り、満足そうに笑っている。
「……もう」
フローレンは少しだけ唇を尖らせた。真面目に話したのに、と抗議するように見れば、レオはますます楽しそうに笑う。
「ごめんごめん。でも本当にうれしくてさ」
ひとしきり笑ったあと、レオの視線がふと隣のルシアンへ向いた。
「もー、ルシアンが泣かせたのかと思ってびっくりしたじゃん」
レオがあっけらかんと笑うと、ルシアンは僅かに眉を寄せる。ようやく普段通りの反応が返されたことに、フローレンは少しだけ安心した。
「……進路の話を振ったのは僕だったから、ある意味泣かせたことになるのかと」
「相変わらず真面目だなあルシアン」
「それに……」
そこで言葉が止まる。何か言おうとしているらしいが、続きは出てこなかった。
レオが面白そうに片眉を上げる。けれど、それ以上追及するつもりはないらしく、そのまま口元だけを楽しそうに緩めた。
フローレンは、先ほど廊下で困り果ててしゃがみ込んでいたルシアンを思い出した。胸の奥がまた少しだけ温かくなって、自然と笑みがこぼれる。
「ルシアンのこと、困らせちゃった」
少し照れながら彼を見ると、紫の瞳がこちらへ戻ってくる。
「ごめんね」
「いや、僕は……」
ルシアンは口を開きかけたまま、続く言葉を探すように一度黙った。
「……別に、困った……わけ、では」
そこまで言って、それ以上は続かない。先ほどの様子を思い出せば、とても説得力があるとは言えなかった。
レオの頬が緩み、次の瞬間には小さな笑い声がこぼれる。
「珍しく、かなり困ってたってことだね」
「レオ」
「そんなに困るの、あのとき以来じゃない? ほら、五歳くらいの頃にルシアンが公爵の書斎で――」
「……おい、レオ」
少し低くなった声にも迫力はなく、レオはますます可笑しそうに笑う。
「はいはい」
フローレンもつられて笑った。さっきまで少しだけ残っていた重さも、三人の声に紛れていく。
三人でまた歩き出す。並んで進む靴音が三つに戻ると、それだけでいつもの帰り道らしくなった。
けれど数歩進んだところで、フローレンはふと隣のルシアンを見上げた。先ほどレオが言った言葉が、もう一度頭の中に浮かぶ。
「……ルシアン」
「ん?」
「卒業してからも、会おうね」
ルシアンが足を緩めた。それにつられて、フローレンもほんの少し歩幅を落とす。
一瞬だけ紫の瞳が大きくなり、それからすぐに穏やかに細められた。
「ああ。もちろんだ」
その返事を聞いて、フローレンは笑った。さっき廊下で交わした言葉とは少し違う。それでも、同じところへ繋がっているような気がした。
「あー……あと一年かあ」
反対側で、レオが大きく伸びをした。上げた腕をそのまま後ろへ反らしながら、少し遠い目をして廊下の先を見る。
「五年生になったら、また忙しくなるんだろうな」
「実習も増えるみたいだね」
「でも、楽しそうじゃない?」
「レオもそう思う?」
「うん。四年生で結構いろんなことやったからさ。次は何があるんだろうって」
話しながら、三人は玄関へ続く階段を下りていく。踊り場の大きな窓からは傾きかけた夕日が差し込み、階段に長い影を落としていた。三人が一段ずつ下りるたび、靴音が高い天井の下へ軽く響いている。
フローレンは一度だけ、二人の顔を見た。ルシアンもレオも、ごく普通に次の一年の話をしている。
この一年で、三人とも少しずつ変わった。学院の外へ出ることも増え、自分たちだけではどうにもならないことにも何度も出会った。
お互いに頼って、任せて、信じて。そうやって、三人で歩んできた一年間だった。
「五年生も頑張ろうね」
フローレンが二人を見ると、ルシアンがすぐに頷いた。
「ああ」
「もちろん」
レオも笑って答える。その返事に、フローレンも嬉しそうに目を細めた。
玄関を抜けると、外の空気はまだ少し冷たかった。けれど風の中には、冬の盛りにはなかった軽さがある。
三人の話題は、すぐに次の授業のことへ移り、そこから昼食の話になった。気づけばまったく別の話へ逸れていて、誰かが何かを言えば、また誰かが返す。
笑い声がひとつ重なれば、そこからまた次の話が始まった。そんな他愛もない会話は途切れる気配もなく、夕方の道へ続いていく。
三人はいつものように並んだまま、校舎をあとにした。
春は、もうすぐそこまで来ていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
四年生編はここで完結となります。
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明日からは、最終章の五年生編へ入ります。
それぞれの進路を考えていく五年生編。
引き続きお楽しみいただければ嬉しいです……!




