119:「…………寂しくて」
四年生としての授業も、残すところあとわずかになった。
その日の放課後、三人はいつものように教室を出た。廊下には帰り支度をする生徒たちの声が満ち、窓から差し込む夕方の光にも、冬の盛りの頃よりずいぶん長く明るさが残っている。
階段へ向かおうとしたところで、後ろからレオを呼ぶ声がした。振り返ったレオが、廊下の向こうにいる生徒へ軽く手を上げる。
「あ、ごめん。ちょっと行ってくる。先に行ってて。あとで追いつくから」
「分かった」
「じゃあ、またあとでね」
レオは「うん」と返し、そのまま呼んだ生徒の方へ歩いていった。残された二人も、並んで廊下を進む。
窓の外には、冬の終わりを待つ中庭が見えた。枝先はまだ寂しいままだが、積もっていた雪はほとんど消え、石畳の端にわずかに白い名残を残すだけになっている。
しばらく、どちらからも話さなかった。
胸の底には、ここしばらくずっと、うまく言葉にできない何かが沈んでいた。意識を向けても輪郭までは見えてこない。そこには確かに何かあるのに、ただ「ある」ということしか分からない。今まで感じたことのない、曖昧で不安定な感覚だった。
今日はそれがいつもより少し近くにあるような気がして、フローレンは自分から何か話題を振ろうという気にはなれなかった。
気心の知れた二人の間では、沈黙そのものを気まずく思う必要もない。その距離感に身を委ねて、フローレンは隣に並ぶ足音を聞きながら静かに歩いていた。
隣を歩くルシアンも、何かを考えているように感じた。前を向いたまま、その意識がいつもより遠いところにある気がした。
何かを言おうとしているのか、ときおり僅かに息を吸う気配がしては、そのまま言葉にならずに消えていく。
そんな時間が少しばかり続いた。
やがて、隣から聞き慣れた声が落ちる。
「この前、ルベライト伯爵から声をかけられていたな」
「あ、うん」
フローレンは少しだけ瞬きをした。
ルベライト領での実習。集積倉庫で伯爵から告げられた言葉を思い出す。あの時、ルシアンもレオもすぐ近くにいた。
「まだ将来が決まってないなら、どうかって」
「そうか」
短い返事のあと、また沈黙が落ちた。
歩く速度は変わらず、靴音が二つ、コツコツと一定の間隔で廊下に響いていく。
自分から口にした「将来」という言葉。それが胸の底に沈んでいたものをわずかに掻き混ぜたような気がして、フローレンは少しだけ視線を落とした。
それが何なのかは分からない。それでも、底の方にあったものがゆっくり浮かび上がろうとしているようで、理由の分からない落ち着かなさが少し強くなった。
「……家のほうはいいのか」
少しして、ルシアンが尋ねた。声は穏やかだったが、どこか慎重に言葉を選んでいるようにも聞こえた。こちらの答えを決めつけることなく、ただ静かに待つような響きだった。
「うん。兄がいるから。家は兄が継ぐことになってるの」
フローレンは少し考えてから、言葉を続ける。
「私も、卒業したら兄の手伝いをするのかなって、なんとなく思ってたんだけど……伯爵に声をかけてもらって、そっか、家から出るっていう道もあるんだなって」
「そうだな」
「ルベライト領に行くのもいいなって思ったの。今回いろんなところを見て、もっと知りたいとも思ったし」
そこまで話して、フローレンは一度前を向いた。けれど、そこで話を途切れさせることが、なぜだか妙に不安だった。僅かな空白ができれば、さっきから気にかかっているものにまた意識が向いてしまいそうで、その隙間を埋めるように言葉が次々と口をついて出た。
「でも、家の仕事も結構好きなの。兄はすごく優秀だから、父も兄なら安心して任せられるって言ってて。兄もこの学院の特進クラスを卒業してるの」
ルシアンは何も挟まず、隣で聞いている。
「それで……私も去年、今年とだいぶ頑張ったのもあって、兄も前より頼ってくれるようになってて。だから卒業後は一緒に仕事をするのも楽しそうだし。それに来年は弟もこの学院に入学する予定で、弟も兄に似てとても賢いから、たぶん学院でも――」
「フローレン」
名前を呼ばれ、言葉が止まった。
「……?」
顔を上げると、ルシアンは困った顔も、呆れた顔もしていなかった。むしろ、少しだけ笑っている。
柔らかな眼差しをそのまま笑みにしたような、見覚えのある表情だった。
「昔に戻ったみたいだ」
「昔?」
「ああ」
紫の瞳が穏やかに細められる。
「――つまり言いたいことは、何だ」
その一言は、胸の底で揺れていたものをゆっくりと掬い上げていく。
分からないことがあると、覚えていることを次々に並べていた頃があった。その頃は、覚えていることひとつひとつはどれも間違ってはいないのに、自分がどこで立ち止まっているのか分からなかった。
そのたびにルシアンは、一つずつ問いを置いてくれた。何が分からないのか。どこまで分かっているのか。今、本当に考えるべきことは何なのか。
フローレンは口を閉じた。
さっきまで滑るように続いていた言葉が、急に出てこなくなる。
廊下の窓から入り込んだ風が、頬にかかった髪をわずかに揺らした。冬の盛りほど刺すような冷たさはもうない。それでも日が傾き始めた空気には薄い冷気が残り、その冷たさだけがやけに鮮明だった。遠くの教室から聞こえる生徒たちの声も、風に細く運ばれ、ひどく遠い場所のもののように聞こえた。
いつの間にか、二人の足は止まっていた。
ルシアンは何も言わず、隣に立ったまま待っている。その沈黙があるからこそ、もう別の話へ逃げることはできなかった。
兄のことも、家の仕事のことも、ルベライト領のことも、来年入学してくる弟のことも、どれも嘘ではない。どれも今、自分が考えていることだった。
けれど、そうやってひとつずつ並べてみても、肝心のものには少しも近づけていない気がした。
フローレンは少し考えあぐねるように、そっと視線を伏せた。靴先の少し先には、窓から差し込んだ淡い光が伸びていた。春へ近づいた夕方の光は廊下の石床を斜めに横切り、いつもより頼りなく薄れて見える。その中で細かな埃が、音もなくゆっくりと舞っていた。
ふと「将来」を考えたときに、はっきりと感じてしまったこと。
学院の朝。昼休み。放課後の教室。三人で机を寄せ、同じ本を覗き込む時間。
何かを話そうと思わなくても、顔を合わせればその日の話が始まる。明日になればまた会えることを疑いもしないまま、「また明日」と別れる日々。
それが、いつまでも続くわけではないのだということ。遠くない先で、終わりが来てしまうのだということ。
「…………寂しくて」
声にしてしまえば、ほんの短い言葉だった。けれど口から零れ落ちた瞬間、それまで形のなかったものが急に輪郭を得て、ずしりと重さを持ったような気がした。
ルシアンが僅かに瞬きをする。
「寂しい?」
「……うん」
問い返した声には、ごく僅かな驚きが滲んでいた。それでも、続きを急かすような気配はなく、変わらず静かにこちらの言葉を待っている。
フローレンはもう一度息を吸った。深く入れたつもりだったのに、胸のどこかでつかえて、思ったほどには呼吸が広がらない。
「将来のことが、急に具体的になったから」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「家に残るのか、ルベライト領に行くのか。それとも、全然違うことをするのか……そういうことを考えてたら、その先にはもう学院がないんだなって思って」
言いながら、自分でも少しずつ分かっていく。何かに迷っていたのではない。ただ、失うのが嫌だった。
「今は、朝になれば同じ学院にいて……昼も、放課後も会えるのに」
ルシアンは黙ってこちらを見ている。
「こうやって話したり、一緒に勉強したり。途中で全然違う話になって、レオが変なこと言って、三人で笑ったり……」
そこまで言ったところで、喉の奥が急に狭くなった。声を出そうとすると、息がうまく通らない。
フローレンは一度唇を閉じ、何でもないように続けようとした。
「そういうのも、今は何も考えなくてもできるけど……でも、卒業したら、そうじゃなくなるんだなって」
最後の方は、自分でも分かるほど声が弱くなった。目の奥が熱くなり、フローレンは慌てて瞬きをする。
こんなところで泣くような話ではないと思った。卒業はまだ先だし、もう二度と会えないと決まったわけでもない。
それなのに、一度言葉にしてしまうと、今までぼんやりと遠くにあった「終わり」が急に足音を立てて近づいてきたように感じた。
「変なの。まだ一年もあるのに」
笑おうとしたが、息だけが小さく震えた。
頬に何か冷たいものが触れる。一瞬、窓から入った風かと思った。けれど次の瞬間、もう一筋、同じ場所を辿って落ちていく。
「……あれ」
指先で触れると、濡れていた。自分でも意味が分からず、フローレンは何度か瞬きをする。そのたびに滲んだ視界の端から、また新しい涙が零れた。
「わ、ごめん。別に、そんなつもりじゃ……」
急に恥ずかしくなり、反射的に顔を背けた。濡れた目元を見られたくなくて、少し俯くように身体まで横へ向ける。
ルシアンは何も言わなかった。その沈黙が、かえって優しかった。
フローレンは目元を拭うこともできないまま、途切れた話をどうにか最後まで続けようとした。
「卒業まで……お別れまで、あと一年しかないんだって……実感しちゃって」
口にすると、胸の奥がまた強く締まった。
お別れ。
自分で選んだ言葉なのに、その響きだけがやけにはっきりと耳に残る。
「そしたら、ちょっと寂しくなっ――」
最後まで言えなかった。
袖越しに、腕へ触れる感触があった。次の瞬間、身体がわずかに引かれる。
「……っ」
強い力ではなかった。それでもまったく予想していなかったせいで、フローレンの足が半歩だけ向きを変える。背けていた身体がルシアンの方へ戻り、揺れた髪が肩からさらりと落ちた。
一瞬、呼吸を忘れた。
ルシアンに腕を取られている。そのことを理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。
少なくとも、これまでフローレンに触れる時には、ひとこと置いてから手を伸ばす人だった。
けれど今は、言葉より先にその手が腕へ触れている。
布越しなのに、触れられたところだけが妙にはっきりと分かった。大きくて、あたたかい手だった。
フローレンは驚いて顔を上げかけたものの、濡れた目元を思い出し、すぐにまた視線を伏せようとした。
「こっちを見てくれ」
低い声が落ちる。いつもの穏やかな声音とは少し違う。決して強くはないのに、聞き流すことのできない響きに、思わずフローレンの動きが止まる。
廊下の奥では、まだ誰かの笑い声がしている。窓から入り込んだ風が壁際の紙を揺らし、乾いた音を立てた。放課後の賑わいは、まだそこかしこに残っている。
それなのに今は、そのどれもが遠かった。聞こえるのは、自分の小さな呼吸と、すぐ近くにいるルシアンの低い声だけだった。
フローレンは濡れた睫毛を伏せたまま、浅く息を吸う。
泣いた顔を見られるのは恥ずかしかった。目元が赤くなっていることも、きっと分かってしまう。
けれど、もう一度「こっちを見て」と言わせることの方が、もっと駄目な気がした。
ゆっくりと顔を上げる。
最初に視界へ入ったのは、制服の襟元だった。襟に施された金色の刺繍が夕方の光を拾い、淡く輝いている。
そこからさらに視線を上げると、滲んだ景色の中で、紫の瞳だけが妙にはっきりと見えた。
ルシアンは、まっすぐフローレンを見ている。いつもと同じ瞳のはずなのに、その揺るぎない眼差しを正面から受けると、胸の奥がそわりと落ち着かなくなった。
それまで腕に触れていた手が僅かに動く。フローレンの視線が自分のほうへ向いたことを確かめると、指先の力がゆっくりと緩み、そのまま静かに離れていった。
袖越しに残っていた感触も、少しずつ薄れていく。寂しいと一度口にした心は頼りなく揺れ、離れる指先と共に薄れゆく温度にすら、どこか心細さを感じてしまう。
けれど、それが完全に消えてしまう前。
「……僕は」
ルシアンがゆっくりと、言葉を選ぶように口を開いた。
「来年も君と共に過ごしたい」
フローレンは瞬きをした。
来年。
また朝になれば顔を合わせて、昼になれば話して、放課後には机を囲む。今までは当たり前のことだったはずなのに、それが最後の一年間だと思うと、その一つ一つがひどく大切なものに感じられた。
「……うん」
ようやくそれだけを返す。声が少し掠れていたが、ルシアンはしっかり聞き取ったらしい。ほんの僅かに肩の力が抜けるように見えた。
けれど、彼はまだ何かを言おうとしていた。唇が一度開き、また閉じる。何を言うべきか迷っているような間だった。
窓の外をゆっくり流れていた雲が動き、床へ落ちた光の輪郭が僅かにずれた。遠くで扉の閉まる音がひとつ響き、やがてその余韻が消える。
「もし、できることなら」
ルシアンは視線を逸らさないまま、ほんのわずかに息を吸う。窓から入った風が、金色の髪を柔らかく揺らした。
「――これからも、君と一緒にいたいと思う」
静かな声だった。低く抑えられた声には、先ほどまでの迷いがもうなかった。一語ずつ確かめるように、大切なものを手渡すときのような柔らかさを帯びている。それなのに、その言葉は不思議なくらい真っ直ぐに胸の奥へ落ちてきた。
フローレンはすぐには返事ができなかった。喉の奥がまた詰まり、先ほどまでとは違う理由で、息がうまく入ってこない。
――来年も、これからも。
その言葉の広がりに気づいた瞬間、胸の内側を何かがかすめる。まるで、卒業したあと続いていく時間の中に、自分のいる場所を残してくれているかのようだった。
胸の奥がじわりと熱を持つ。嬉しいというだけなら、もっと素直に笑えたはずなのに、なぜか鼓動まで落ち着かなくなって、フローレンは小さく息を飲んだ。
ルシアンは急かさず、ただこちらを見ている。
「…………うん」
やっと声にすると、視界がまた滲んだ。一粒、二粒、ぽろぽろと涙が頬を伝う。
ルシアンの眉が僅かに寄る。足がわずかに動いてこちらへ踏み出しかけるも、すぐに止まった。片手も僅かに持ち上がったまま行き場をなくし、指先だけが小さく曲がる。
「だから、その……」
そこで珍しく言葉に詰まった。普段ならもっと迷いなく話す人なのに、今は何を言えばいいのか探しているようだった。
「寂しがらなくていい」
フローレンは目を瞬いた。
胸に残っていた不安なものが、ほんの少しずつほどけていく。変わらず続く未来が見えたわけでもないのに、ルシアンの言葉を受けて、頼りなく揺れていた気持ちがゆっくり落ち着いていくのがわかった。
また涙が零れた。
今度こそルシアンが明らかに困った顔をする。
「……フローレン」
「ご、ごめん。止まらなくて……」
「いや、謝ることではないんだが……」
そう言いながら、ルシアンの手が一度持ち上がった。今度は先ほどよりもはっきりとこちらへ伸びかけて、けれど途中で止まる。
その指先がどこへ向かおうとしているのか、フローレンには分からなかった。頬へ触れようとしているようにも、髪へ手を伸ばしかけたようにも見えた。
普段なら真っ直ぐこちらを見る紫の瞳にも、今だけは何かに迷うような揺らぎがあった。その奥に、ひどく温かなものが一瞬だけ灯った気がする。
どうしたいのかまでは分からない。ただ、どうにかして自分を宥めようとしてくれていることだけは伝わってきて、そのことが素直に嬉しかった。なのに、そこで安心して終わるはずの気持ちの奥に、もう少しだけ何かを待っているような感覚が残る。
けれどルシアンは、結局そのまま触れることはしなかった。行き場をなくした手をゆっくり引き戻し、一度小さく息を吐く。それから何かを思いついたように制服の内側へ指を差し入れ、角まできちんと揃えて折られた白いハンカチを取り出した。
白い布が、すっと目の前へ差し出される。
「涙を拭いてくれ……その」
珍しく、言葉の続きがすぐには出てこない。
「……どうしたらいいか分からなくなる」
「……え」
一瞬、意味が取れず、フローレンは目をぱちりと瞬かせた。
ルシアンも、口にしてから自分の言葉に気づいたようだった。僅かに目を見開いたあと、紫の瞳がすっと横へ逸れる。普段ならほとんど見ることのない、ひどく困り果てた表情だった。
どうしてそんな顔をするのだろうと思うのに、なぜか胸の奥が先ほどとは違う意味でざわついた。そわそわと落ち着かない感覚が広がり、頬が妙に熱くなっていく。
「……いや。今のは忘れてくれ」
「……」
「あ、忘れるのは無理なのか……」
眉を寄せたルシアンは大きく息を吐き、ついにその場にしゃがみ込んでしまった。そんな彼の姿を見て、どこか張りつめていた空気がふっと緩んだ。つい先ほどまで胸を満たしていた重さは、いつの間にか少し遠のいている。
フローレンは涙の残る目で小さく笑った。
それを見上げたルシアンの表情もようやく緩む。どこか安堵したように息を吐く姿を見ていると、随分困らせてしまったらしいことだけは分かった。
フローレンはルシアンの横へしゃがみ、差し出されたままだったハンカチをようやく受け取った。
目元をそっと押さえれば、柔らかな布に、頬に残っていた涙が吸い込まれていく。
「もう大丈夫」
「……本当に?」
「うん」
「そうか」
ルシアンが僅かに笑う。その声に先ほどまでの張りつめた響きはなく、いつもの穏やかさが戻っていた。
フローレンもつられて口元を緩める。泣いたあとの目元にはまだ熱が残り、鼻の奥にもわずかな違和感がある。それでも、胸の中を塞いでいたものは、ずっと軽くなっていた。
立ち上がって裾を軽く払い、二人はまた歩き出した。
廊下には夕方の光が長く伸びている。窓の外に残っていた雪はほとんど消え、濡れた石畳が淡い光を返していた。
さっきまで止まっていた時間が、少しずつ元の速さへ戻っていくようだった。
フローレンはルシアンの隣を歩きながら、手の中のハンカチへ視線を落とす。白い布には、使ったところだけ僅かに皺が寄っていた。
きれいに畳まれていた形を崩してしまったことが妙に申し訳なく思えて、指先でそっと折り目を整える。
ルシアンの言葉は、まだ胸の中に残っている。
――これからも、君と一緒にいたい。
思い返すたび、胸の奥に柔らかな熱が灯る。嬉しい。それだけでは足りないような気もしたけれど、今はまだ、それ以上の言葉を探す必要はないようにも思えた。
(……あ)
そこで気づいた。
自分は、まだ何も返していない。
そのことに意識が向いたところで、足がほんの少しだけ遅くなった。隣を歩いていたルシアンも、それに合わせるように歩幅を緩める。
フローレンは一度口を開いた。
「……ルシアン」
小さな声だった。それでもルシアンには届いたらしく、すぐにこちらを振り向く。
「ん? どうした?」
ひどく柔らかい声だった。先ほどまでの切迫した響きも、困った様子もない。その声色にはこちらの様子を気にかけるような優しさだけがしっとりと残っていて、フローレンは一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
また目が熱くなりそうになる。フローレンは小さく息を吸った。
窓の外を覆っていた薄い雲が、ゆっくりと流れていく。その隙間から差し込んだ光が廊下を一段明るく染め、二人の影が床の上へ長く伸びていった。
開いた窓から吹き込んだ風が、頬をそっと撫でる。まだ冬の名残を含んではいるものの、先ほどまでよりどこか軽く、春の近さを思わせるような風だった。
フローレンは、さっきルシアンがそうしたように、まっすぐ彼の瞳を見つめた。
「私も、一緒にいたい」
ほんの短い言葉だった。けれど口にした瞬間、自分が思っていた以上に大切なことだったのだと分かった。
ルシアンの足が止まり、フローレンもつられるように立ち止まる。紫の瞳が僅かに見開かれた。
何かを言おうとしたのか、唇がほんの少し動く。けれど声にはならず、短い沈黙だけが二人の間に落ちた。
窓から入った風が、フローレンの髪を揺らす。その風はそのままルシアンの金色の毛先を微かに掠め、廊下の奥へ吹き抜けていった。
揺れた毛先がゆっくりと落ち着く頃、ルシアンの目元もまた、静かに和らいでいく。
「……ああ」
低く、静かな返事だった。それだけなのに、不思議なくらい胸の奥へ響いた。
フローレンが小さく笑みをこぼし、ルシアンもそれを受け取るように笑った。
いつも見慣れているはずの穏やかな笑顔だった。それなのに、今だけはほんの少し距離の近いところへ向けられているように見えて、胸の奥に柔らかな熱がじわりと広がった。
もう一度歩き出したルシアンの隣へ並ぶと、さっきまでより少しだけ足取りが軽くなったように感じた。
涙と一緒に、胸の底に溜まっていたものまで少しずつ流れていったようだった。そのあとにはルシアンの言葉が残り、空いた場所をあたたかく満たしてくれているような感覚があった。
卒業したあとのことは、まだ何も決まっていない。自分がどこで何をするのかも、ルシアンがどんな日々を過ごすのかも分からない。
それでも、今から別れを決めてしまう必要はないのだと思えた。
隣を歩く足音が、一定の間隔で続いている。フローレンは手の中のハンカチをそっと握り直した。
まだ少し湿った布の向こうに、きれいな折り目が残っている。
そのまま二人は、夕方の廊下を並んで歩いていった。




