118:いつもの放課後
ルベライト領から学院へ戻って、数日が過ぎた。
実習で使った記録はすでに提出し、授業もいつもの時間割へ戻っている。窓の外にはまだ冬の色が濃く残っていたが、集積倉庫で地図や在庫表を囲んでいた数日間は、少しずつ日常の向こう側へ遠ざかり始めていた。
その日の夕方、寮へ戻ったルシアンは、入口で一通の封筒を受け取った。
ノクティス家から届いたものだった。
自室へ戻り、上着を壁際の衣装掛けへ掛ける。机の前へ腰を下ろして封を切ると、見慣れた父の筆跡が数枚の便箋に整然と並んでいた。
最初に書かれていたのは、領内の近況だった。
冬のあいだ大きな問題はなく、春へ向けた準備も予定どおり進んでいるらしい。母や屋敷の者たちについても短く触れたあと、話題はルシアンたちが参加した実習へ移っていた。
『ルベライトから、今回の件について聞いた。予想外の降雪だったそうだな。無事に実習を終えたようで何よりだ』
そこまで読んで、ルシアンの視線は自然と先の行へ滑っていく。
『それから、アストリア商会の令嬢が随分と興味深い働きをしたそうだな』
視線が止まった。
父の手紙に、フローレンのことが書かれている。それだけのことが、思っていた以上に不思議に感じられた。
父とフローレンには面識がない。
これまで彼女は、ルシアンにとって学院で共に過ごす友人だった。けれど今、父の手紙の中には、アストリア商会の令嬢として彼女のことが記されている。
ルシアンはそのまま続きを追った。
『ルベライトも随分と評価しているようだ。卒業後の進路が決まっていないのなら、自領へ迎えたいとまで言っていた』
そこで、また視線が止まる。
その話自体は、すでに知っていた。
伯爵がフローレンへ直接そう告げた時、ルシアンもすぐ近くにいた。驚いた彼女が「考えてみます」と答えるところまで、きちんと聞いている。
けれど、父の手紙にまで同じ話が書かれているのを見ると、受ける印象は少し違った。
あの場で学生を励ますために口にした言葉ではない。実習が終わったあと、親交のある父へ話すほどには、ルベライト伯爵は本気で彼女の卒業後の選択肢として考えているのだろう。
ルシアンの目が、もう一度同じところへ戻る。
伯爵がフローレンを評価したことに、不思議なところはない。今回の実習で彼女が考えたことも、その後の動きも、ルシアン自身よく知っている。
必要な情報を覚えるだけでなく、以前よりずっと柔軟に繋げて考えられるようになった。
それに今回は見せる機会がなかったが、彼女には商業の知識もあり、対人面でも申し分なく円滑な関係を築くことができる。
優秀な人材を求めるのは当然だ。
そう考えれば、何もおかしくはない。
それなのに、手紙を読む手はすぐには次へ進まなかった。
卒業後、フローレンがルベライト領で働く。
頭に浮かんだのは、数日前まで滞在していた集積倉庫だった。あの広い机の前で職員と話しながら資料を整理する姿も、山あいの町を歩く姿も、容易に想像できる。
似合わないとは思わなかった。
むしろ、あの場所でも彼女なら自然にやっていけるのだろうと思う。
そこまで考えて、ルシアンは便箋から視線を外した。
窓の外はすでに薄暗い。冬の日は短く、学院の建物にも夜の色が降り始めていた。暮れかけた空は淡い灰青に沈み、その下には冷えた夕闇が静かに広がっている。
ルシアンはしばらくそれを眺め、それから手紙へ目を戻した。
読み止めていたところから、残りの文章をゆっくりと辿っていく。先ほどまで胸の内にあった考えはいったん脇へ置き、今はただ、並んだ文字をひとつずつ拾った。
最後まで読み終え、便箋を折り直す。封筒へ戻しかけたところで、手が一度止まった。
もう一度開いても、書いてあることが変わるわけではない。分かっていて、それでも同じ箇所へ目を落とす。
――卒業後の進路が決まっていないのなら、自領へ迎えたいとまで言っていた。
ルシアンはしばらくその一文を眺めたあと、今度こそ便箋を封筒へ戻した。
翌日の放課後。
特進クラスの教室には、授業を終えた生徒がまだ何人か残っていた。窓際では二人の女子生徒が課題について話し、後ろの席からは男子生徒が次の試験範囲を確認する声が聞こえる。
教室の中央では、いつものようにフローレンとレオが机を寄せていた。
「ルシアン」
名前を呼ばれ、そちらを見る。
フローレンが開いた本の上へ指を置いている。目が合うと、こちらへ来るように小さく手招きした。
「これなんだけど。ここの条件って、この前の問題と同じように考えていいのかな」
「どこだ?」
「ここ」
フローレンが椅子を少しずらし、隣に一人分の場所を空ける。ルシアンはいつものようにそこへ座り、机の上へ開かれた頁を覗き込んだ。
「この条件なら、前と同じところから始めていい。ただ、そのあとが少し違うな」
「やっぱり?」
「ああ。こっちは最初から値が一つ決まっているだろう」
ルシアンが該当する箇所を指すと、フローレンも同じところへ顔を寄せる。視線が指先を辿り、やがて納得したように小さく頷いた。
「あ、そっか。じゃあ先にこっちが出るんだ」
「そうだ。それが分かれば、残りは繋がると思う」
「うん。やってみる」
フローレンは自分の紙へ戻り、すぐにペンを動かし始めた。
真剣になると少しだけ寄る眉も、考えながら時折ペン先を止める癖も、何も変わらない。昨日の手紙にあった「卒業後」という言葉と、目の前にいる彼女が、うまく同じ景色の中へ収まらなかった。
「ルシアン?」
不意に呼ばれ、視線を戻す。
フローレンがペンを持ったまま、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「そう?」
フローレンは僅かに首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。すぐにまた問題へ向き直り、書きかけだった式の続きを辿っていく。
向かいでは、レオが別の本から顔を上げた。
「二人とも、そこ終わったらこっちも見て。俺、さっきから同じところ三回読んでる」
「それは読んでるとは言わないんじゃない?」
「フローレンまでそういうこと言うようになった……」
「だって三回読んで分からないんでしょ?」
「正論が痛い」
レオが机へ伏せると、フローレンが楽しそうに笑った。ルシアンもつられて口元を緩める。
「どこで止まってるんだ?」
「ここ。説明の途中までは分かるんだけど、そのあと急に話が飛んでない?」
「飛んではいない」
「じゃあ俺の方が飛んでるのか」
「おそらくな」
三人の間にまた笑いが広がった。
こうして机を囲み、分からないところを聞き合い、途中でどうでもいい話へ逸れる。誰かが先に帰る日もあれば、気づけば外が暗くなっている日もあった。
いつもの放課後だった。
明日も同じように会えることを、これまでわざわざ考える必要はなかった。けれど、卒業後は――。
ルシアンはその考えを追う前に、レオの紙へ視線を移した。
「ここだな。この記述を読み飛ばして、一つ前の式をそのまま使ってる」
「あ、本当だ」
「三回読んだんじゃなかったのか?」
「……四回目で見つけたことにしよう」
「いま教えてもらってたよね?」
いつもと変わらない教室の中で、三人はそのまま次の問題へ進んだ。
冬は、少しずつ深まっていった。
朝の中庭には霜が降り、窓辺へ置かれた水差しの表面が冷たく曇る日が増えた。授業では四年生の範囲も終盤へ入り、教室で交わされる話題も次第に学年末試験へ移っていく。
三人の放課後も、普段より少しだけ勉強の時間が長くなった。
とはいえ、三年生の初めの頃のフローレンのように、休む時間まで削って机へ向かうことはない。疲れが見えれば切り上げ、翌日に回せるものは無理にその日のうちに終わらせなくなっていた。
「今日はここまでにしよう」
ある日の夕方、ルシアンが教本を閉じる。
フローレンも手元の問題を書き終えたところだったらしく、素直にペンを置いた。
「うん。私もちょうど終わった」
「あ、俺も」
「レオはさっきから窓の外を見てただろう」
レオが何食わぬ顔で教本を閉じる。フローレンがそれを見て笑い、ルシアンも自分の本を重ねた。
三人は机の上を片づけ、まだ明るさの残る廊下へ出る。何度も繰り返した冬の夕方が、試験の日まで変わらず続いていった。
やがて雪の残る日が減り始めた頃、学年末試験が始まった。
数日間にわたった試験も、その日が最後だった。
朝の教室には、いつものざわめきより少し低い声が満ちている。最後まで教本を開いている者もいれば、もう十分だとばかりに机へ頬杖をつき、窓の外を眺めている者もいた。
ルシアンが席へ着いて間もなく、教師が教室へ入ってきた。
話し声が途切れ、開いていた教本が次々と閉じられる。問題用紙が前から順に渡されていくと、紙の擦れる乾いた音だけが静かな教室を移っていった。
手元へ届いた紙を裏返したまま待つ。
やがて教師が教室を見渡した。
「始め」
一斉に紙が返される。
ルシアンも問題へ目を落とした。
最初の数問には、特に迷うところはない。問われているものを確かめ、必要な条件を拾いながら順に答案を埋めていく。
頁をめくったところで、少し複雑な条件が並んだ問題が目に入った。
どこかで見た形だった。
読み進めるうち、放課後に三人で似た問題を囲んだ時のことが、不意に頭へ浮かぶ。
フローレンが条件を一つずつ指で辿り、レオが途中まで書いた式を見て首を傾げていた。誰が最初に何を言ったのかまでは思い出せない。ただ、気づけば三人とも同じ一枚の紙を覗き込み、答えが出た頃には最初の話から随分と逸れていた。
つい最近のことなのに、その光景は妙にはっきりと浮かんだ。
ルシアンの口元が、僅かに緩む。
すぐに視線を答案へ戻した。
今度の問題には、あの時にはなかった条件が一つ加わっている。そこを分けて考えれば、あとは同じように辿れそうだった。
ペン先が再び紙の上を進んでいく。
窓の外から射し込む冬の光は淡く、机の端に細い影を落としていた。時折、誰かが紙をめくる音や、ペンを置き直す小さな音が聞こえる。
残り時間を告げる声が入る。
ルシアンは最後の問題まで書き終えると、最初の頁へ戻った。条件の読み違いがないかを確かめ、途中の計算をもう一度追う。
やがて、終了を告げる声が教室に響いた。
いくつものペン先が止まり、張りつめていた空気が僅かに緩む。答案が回収されていく間、あちこちから小さく息を吐く音が聞こえた。
教室を出ると、レオが少し先の窓際で待っていた。
「終わった……」
大きく肩を落とすように言う姿に、ルシアンが笑う。
「随分疲れてるな」
「苦手な科目は三倍疲れるんだよ」
少し間を置いて、フローレンも教室から出てきた。
「どうだった?」
レオに尋ねられ、フローレンは二人のところまで歩いてくる。少し考えてから、手にしていた鞄を持ち直した。
「全部できた、とは言えないけど……でも、分からなかったところも、どこで止まったかは分かる」
その言葉に、ルシアンは小さく頷いた。
三年生の頃なら、分からない問題に出会ったあと、覚えているものを端から探し直そうとしていたこともある。
けれど今は、どこで止まったのかを自分の言葉で話している。以前とは、明らかに違っていた。
「なら、結果が返ってきた時にそこを見ればいい」
「うん」
フローレンはすぐに頷いた。そのまま二人の隣へ並ぶ姿にも、分からなかった問題を引きずっている様子はなかった。
廊下の向こうから、同じように試験を終えた生徒たちの声が近づいてくる。三人もその流れに混じって歩き出し、気づけば話題は試験の出来から今日の夕食へ移っていた。
結果が掲示されたのは、それから数日後だった。
朝から廊下には普段より多くの生徒が集まり、掲示板の前には人だかりができている。名前を見つけて声を上げる者もいれば、黙ったまま何度も順位を確かめている者もいた。
三人がそこへ着いた時にも、掲示板の前にはまだ大勢の生徒が残っていた。
「見えない……」
「俺は見える」
「僕も見えるな」
「む……」
フローレンはつま先立ちになり、人垣の向こうを覗こうと首を伸ばした。
背の高いレオとルシアンには、人垣の向こうまで十分に見える。すぐ横を生徒が通り抜け、ルシアンはぶつからないようフローレンの側へ少し寄った。反対側には、いつの間にかレオが立っている。
「うん。ルシアンは……まあ、いつものところ」
「その言い方はどうなんだ」
ルシアンの名前は、今年も一番上にあった。
さらりとそれを確かめると、そのまま下へ視線を滑らせる。
「俺のもあった」
すぐ隣で、レオが声を上げる。その名も、これまでと変わらず上位五名の中に並んでいた。
ルシアンがそこを確認したところで、レオがさらに少し下へ目を走らせる。間を置かず、明るい声が続いた。
「あ。フローレンもある」
「え、どこ?」
「七位」
「七位?」
フローレンがもう一度つま先立ちになり、人垣の向こうを覗こうと首を伸ばす。けれど前に立つ生徒の肩に遮られ、掲示板まではなかなか見えないらしい。
ちょうど前にいた生徒が一人離れ、そこだけ人垣に隙間ができた。ルシアンはフローレンから見える位置を確かめるように少し身体をずらし、掲示板の上を指で示す。
「ほら、あそこ」
フローレンの視線が、示された先を上から辿っていく。ひとつ、ふたつと名前を追い、やがて七番目でぴたりと止まった。
「……ほんとだ」
声が少し小さくなる。七番目には確かに、フローレン・アストリアの名前があった。
昨年の学年末は十三位だった。
第二クラスから特進へ移って一年。同じ教室で授業を受け、放課後には何度も机を囲み、分からないところを一つずつ考えてきた。その名前が今、上位一桁の中へ並んでいる。
「すごいじゃん。一桁だよ」
レオが自分のことのように明るく笑う。フローレンは「うん」と頷きながらも、まだ掲示板から目を離さなかった。
最初は驚いたように見開かれていた目が、もう一度自分の名前を確かめるうちに柔らかく細められていく。やがてこちらを振り向いた顔には、隠しきれない嬉しさが浮かんでいた。
「よく頑張ったな」
そう声をかけると、フローレンがルシアンを見る。一瞬だけ目を丸くしたあと、その表情がふっと笑みに変わった。
「……うん。頑張った」
その返事に、ルシアンも自然と口元を緩める。もう一度掲示板へ目を向けると、七番目にある名前が先ほどより少しだけ長く目に残った。
三人でもう一度並んだ名前を眺め、それから少しずつ空き始めた掲示板の前を離れた。
結果を確認した生徒たちは、それぞれの教室へ戻り始めている。
三人も人の流れに混じり、特進クラスの教室へ向かった。廊下の窓から入る光は冬の盛りの頃より柔らかくなり、閉め切られていた窓の一つが細く開けられている。
「七位かあ」
歩きながら、レオがもう一度口にした。
「一年前は、フローレンが特進に来るってだけでも結構びっくりしたのにね」
「それは私もびっくりしたよ」
「今は全然そんな感じしないけどね。最初からいたみたい」
「……そうかな?」
フローレンは笑いながら返し、少しだけ考えるように前を向いた。
「でも、前よりはここにいるのが普通になったかも」
その言葉に、ルシアンも教室の方へ目を向ける。
一年前には、フローレンが同じ教室へ来ること自体が大きな変化だった。今では昼になれば同じ場所にいて、放課後になれば自然と三人で机を囲んでいる。
いつから変わったのかと聞かれても、はっきりとは答えられない。
気づけば、それが普段の景色になっていた。
教室へ入ると、見慣れた席が並んでいる。
「もうすぐ五年生だね」
フローレンが自分の席へ鞄を置きながら言う。その声につられるように、ルシアンも黒板の隅へ視線を向けた。
四年生として書かれた予定は、もうほとんど残っていない。机の上には次年度の案内が重ねられ、教室のあちこちで頁を開く紙の音がしていた。
「早いなあ」
レオも近くの机へ手をつき、黒板を見上げる。
声にはいつもの軽さがあったが、過ぎた一年を振り返るように、しばらくそのまま予定表を眺めていた。
「四年生になったばっかりの頃は、もっと長い気がしてた」
「一年を通していろいろあったからな」
ルシアンが返すと、レオが納得したように頷いた。
思い返せば、学院の外へ出る機会も増え、それまでとは違う場所で三人並んで過ごした時間がいくつも浮かぶ。
「実習も多かったからね」
「うん。学院の外にいる時間も増えたし」
フローレンも黒板へ目を向けた。その横顔は穏やかで、一年前、この教室へ初めて入ってきた頃にあった硬さは、もうほとんど残っていない。
ルシアンはその姿を見てから、教室の中へ視線を巡らせた。周囲ではまだ試験結果について話す声が続き、次年度の案内を見せ合っている生徒たちもいる。
始業を告げる鐘が鳴る少し前、教師が教室へ入ってきた。残っていた話し声が徐々に静まり、三人もそれぞれの席へ戻る。
フローレンが鞄から教科書を取り出し、いつものように頁を開く。
その向こうで、黒板に残された四年生の予定は、もう終業までのわずかなものだけになっていた。




