117:それぞれのいく先
実習最後の朝には、中央倉庫にも普段の流れが戻り始めていた。
主要街道は、まだ全面的に復旧したわけではない。それでも、小型の荷車が通れる区間は昨日より増え、止まっていた便も行き先ごとに少しずつ組み直されている。倉庫の前では荷を積み替える声が飛び交い、車輪が石畳を転がる音も朝から途切れなかった。
診療所へ先に届けた薬品が時間を繋いでいる間に、街道では倒木が取り除かれ、凍結した場所の処置も進んだ。食料や暖房用の魔石も、道の状態に合わせて無理のない順番で送り出されている。
昨日まで地図や在庫表に囲まれていた三人の仕事も、今日はほとんど記録の整理へ変わっていた。
フローレンは机の上に残っていた資料を種類ごとに重ね、借りたものがすべて揃っているかを確かめる。向かいではルシアンが教師へ提出する記録を見直し、少し離れたところではレオが職員と最後の確認をしていた。
「これ、昨日の旧道の報告と一緒にしておけばいいですか?」
「ああ。そちらにまとめてもらえると助かります」
「分かりました」
レオが受け取った紙を抱えて戻ってくる。数日前には机いっぱいに広がっていた書類も、今は返却するものと残すものに分けられ、随分と数が減っていた。
「これで最後かな」
「私の方も、あと二冊返したら終わり」
「僕ももう少しだ」
ルシアンが答えたところで、倉庫の入口近くにいた職員がふと手を止めた。続いて何人かが同じ方向へ顔を向け、広い倉庫の空気がわずかに引き締まる。
開いた扉の向こうから入ってきたのは、ルベライト伯爵だった。
鮮やかな赤い髪と琥珀色の目は、レオとよく似ていた。目元や顔立ちにも、親子らしい面影がある。
けれど、受ける印象はずいぶん違う。レオのような気安い明るさより、立っているだけで周囲の空気が整うような落ち着きがあった。
足早に歩くわけでも、大きな声を出すわけでもない。それでも伯爵が中へ入ると、近くにいた人たちが自然と姿勢を正していった。
「父上」
レオが小さく声を上げた。
伯爵は息子へ一度目を向けると、そのまま倉庫の責任者と教師の方へ歩いていった。復旧の進み具合や、今日から再開する便についていくつか報告を受け、時折短く問いを返している。
フローレンたちは少し離れたところで作業を続けながら、その様子を眺めていた。
窓口へ運ばれてくる書類も、外から聞こえる荷車の音も止まらず、伯爵が来ても倉庫の仕事そのものは変わらず続いている。
話が一区切りすると、伯爵はその場にいた職員たちを見渡した。
「状況は報告で聞いている。皆、よく対応してくれた」
低く落ち着いた声が、ざわめきの残る倉庫の中にもよく通る。
「予定外の雪だった。街道の復旧も、荷の組み直しも、まだ完全に終わったわけではない。引き続き頼む」
職員たちがそれぞれ返事をする。伯爵は教師にも短く言葉をかけ、それから実習に来ていた学生たちへ目を向けた。
「君たちもご苦労だった。慣れない場所で、最後までよく動いてくれた」
「ありがとうございます」
返事が重なる。
伯爵は再び倉庫の責任者といくつか言葉を交わし、職員たちも順に持ち場へ戻っていった。フローレンも途中になっていた資料へ目を戻し、最後の一冊を棚へ返す。
席へ戻ろうとしたところで、不意に名前を呼ばれた。
「アストリアは君か」
「はい」
振り返ると、少し離れたところに伯爵が立っていた。教師のほか、ルシアンとレオもまだ近くに残っている。
フローレンは持っていた紙を机へ置き、伯爵の方へ向き直った。先ほど職員たちへ話していた時と変わらない穏やかな表情で、伯爵はこちらを見ている。
「最初に、荷を分けて運ぶことを提案したのは君だと聞いた」
一瞬、何のことかと考える。すぐに、食料十一日、暖房用の魔石九日、薬品三日と並んでいた在庫表が頭に浮かんだ。
自分だけに向けられた評価へどう答えるべきか考え、フローレンは一度言葉を選んだ。
「はい。でも、そのあとは皆さんに確認していただいて、実際に運べる形にしてくださったので……」
「分かっている」
伯爵は静かに言った。
「皆で動いた結果だ。だが、最初に見方を変えたのは君だ」
思いがけない言葉に、フローレンは少しだけ目を見開いた。
あの時は、ただ数字の違いが気になった。同じ日に届かなくても困らないものと、待てないものがあるのなら、一緒に運ぶ必要はないのではないかと思っただけだった。
「……ありがとうございます」
何と返せばいいのか迷い、フローレンは素直に礼を言った。
伯爵は一度頷くと、ふと考えるようにフローレンの顔を見た。
「アストリア……商会のアストリアか」
「はい。父が商会を営んでいます」
「そうか」
短い返事だった。
伯爵はわずかに視線を下げ、何かを確かめるような間を置いたあと、再びフローレンを見る。
「卒業後の進路は、もう決めているのか」
「え?」
思ってもいなかった問いに、返事が少し遅れる。
「いえ。まだ、はっきりとは……」
三年生の頃なら、家へ戻って父や兄を手伝うのだろうと、もっと簡単に答えていたかもしれない。
今も家の仕事は好きだった。父が働く姿を幼い頃から見てきたし、自分にもできることがあるなら関わりたいと思っている。
けれど、特進へ移ってからの一年で、それまで知らなかった場所や仕事にも触れた。学院の外で、自分の知っていることや考えたことが役に立つ経験も、少しずつ増えている。
伯爵はフローレンの返事を聞くと、僅かに頷いた。
「そうか」
一拍置いて、続ける。
「では、考える時にはルベライト領も候補に入れてくれ」
今度こそ、言葉がすぐには出なかった。
「……こちらを、ですか?」
「ああ」
伯爵の表情は変わらなかった。ただ、こちらを見る琥珀色の目はまっすぐで、言葉を軽く投げたような気配はどこにもない。
「君のような人材なら、ぜひ歓迎したい」
静かな声音のまま、それだけを告げる。だからこそ、思いつきや社交辞令ではないことが、かえってはっきり伝わってきた。
ルベライト領で働く。そんな未来は、昨日まで一度も考えたことがなかった。
けれど言われた途端に、山あいの町や中央倉庫、道を行き来する荷馬、診療所まで、数日のうちに目にした景色が次々に頭へ浮かんでくる。それらが急に、ただ実習で訪れた場所とは少し違って見えた。
「……ありがとうございます」
フローレンは少しだけ姿勢を正した。
「考えてみます」
「ああ」
伯爵はそれ以上答えを求めなかった。今すぐ決める話ではないとでもいうように、短く頷くだけでその話を終える。
そのすぐ近くでは、レオがさっき受け取った紙束を机へ置いたところだった。
伯爵の視線が息子のところで止まる。職員たちへ向けていた時より、ほんのわずかに目元の厳しさがほどけたように見えた。
「レオ」
「はい」
呼ばれたレオはすぐに背筋を伸ばした。領主を前にした伯爵家の嫡男らしい、きちんとした返事だった。
けれど、伯爵が次に口にしたのは、実習の出来を尋ねる言葉ではなかった。
「今回、この領地を歩いてみてどうだった」
レオが一度、目を瞬いた。
先ほどまでの報告を受ける時とは、伯爵の声も少し違って聞こえた。低く落ち着いていることに変わりはないのに、息子の答えを待つ父親の声になっている。
レオはすぐには答えず、何から話そうか探すように倉庫の中へ目を向けた。きちんと伸ばしていた肩からも、いつの間にか少しだけ力が抜けている。
「……知ってるつもりだった」
ようやく口を開いた時には、さっきまでの改まった言葉遣いも自然と消えていた。
「小さい頃から何度も町には行ってるし、山の方にも行ったことあるから」
そこで一度、倉庫の中を見回す。
「でも、知らないことも多かった。ここでどうやって荷を分けてるのかとか、冬にどの道を使うのかとか。あの道を普段使ってる人たちのことも」
一つずつ思い返しながら話しているのか、普段より少しゆっくりと言葉が続く。伯爵は先を促すこともなく、黙って息子の声を聞いていた。
レオはしばらく倉庫の奥へ向けていた目を戻し、父を見る。
「もっと知りたい」
今度は迷わなかった。
「自分で見たいし、いろんな人の話も聞いてみたい」
伯爵はすぐには答えなかった。
少し離れたところで木箱を下ろす音がして、外を通る荷車の車輪が石畳を鳴らす。そんな倉庫の日常の音の中で、伯爵はしばらく息子の顔を見ていた。
やがて、その目元がほんの僅かに和らぐ。
「そうか」
返ったのは、それだけだった。
けれど少し間を置いて、伯爵は続ける。
「次に戻った時、時間があるなら一緒に回るか」
「うん。行きたい」
返事は驚くほど早かった。
フローレンは思わずレオを見る。さっきまで何から話そうか迷っていたのが嘘のように、今度は少しも考える様子がない。
伯爵もその早さに何か思ったのか、一瞬だけ息子を見つめた。それから小さく頷く。
「分かった」
レオの顔に、素直に嬉しそうな笑みが浮かんだ。
伯爵はそこで話を終え、倉庫の責任者の方へ戻っていった。まだ確認することが残っているらしく、職員が何枚かの書類を手に、そのあとへ続いていく。
三人もそれぞれの机へ戻り、帰り支度を始めた。
借りていた資料をすべて返し、提出する記録を教師へ渡す。何日か使っていた机の上から紙や筆記具がなくなっていくと、実習が本当に終わるのだという実感が、ようやく少しずつ湧いてきた。
フローレンは鞄の中を確認しながら、ふと広間を見回す。
数日前、初めてここへ入った時には、壁一面に並ぶ一覧や積み上げられた箱の多さに圧倒された。何をどこで管理しているのかも分からず、職員たちが行き交う様子を目で追うだけで精一杯だった。
今では、どの机で在庫を確認していたのかも、どの扉からどの荷が出ていくのかも少し分かる。
窓の向こうでは、小型の荷車がまた一台、倉庫の前を通り過ぎていった。昨日まで止まっていたものが、ひとつずつ元の流れへ戻っている。
鞄の留め具を閉じたところで、近くからレオの声がした。
「フローレン、終わった?」
顔を上げると、レオはすでに荷物をまとめ終えていた。その隣では、ルシアンも提出する記録を教師へ渡し終え、鞄を手にこちらを待っている。
「うん。今終わった」
「僕たちも、ちょうど終わったところだ」
ルシアンがそう言って、机の上に忘れ物がないかもう一度確認した。フローレンも椅子の周りまで確かめてから、鞄を持ち上げる。
三人で職員たちのところへ向かい、実習中に世話になった人たちへ挨拶をして回った。何人かから「学院でも頑張って」と声をかけられ、フローレンはそのたびに礼を返す。
最後に、まだ倉庫の責任者と話していた伯爵のところへ向かった。
「お世話になりました」
三人で礼をすると、伯爵も話を止めてこちらへ向き直った。
「こちらこそ。気をつけて戻りなさい」
「ありがとうございます」
フローレンとルシアンが頭を下げる。その隣で、レオも背筋を伸ばして父へ向き直った。
「父上。では、行ってきます」
「ああ。気をつけてな」
短いやり取りを終え、レオが二人の隣へ戻る。三人でもう一度礼をしてから、中央倉庫をあとにした。
外へ出ると、山から吹き下ろす冷たい風が頬を撫でた。数日前ほど空は重くなく、雲の切れ間から落ちる淡い光が、雪解け水に濡れた石畳を白く照らしている。
少し先には、魔導列車の駅へ向かう馬車が待っていた。教師やほかの実習生たちも荷物を載せ始めていて、馬の吐く白い息が朝の空気へゆっくり溶けていく。
フローレンは鞄を抱え直し、その方へ歩き出した。
――ルベライト領も候補に入れてくれ。
伯爵の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
これまでは、卒業したら家へ戻り、兄の仕事を手伝う未来をぼんやりと思い描いていた。そこへ初めて、家とは別の場所で働くという道が、ルベライト領という具体的な名前を持って並んだ。
まだ、すぐに答えを出す必要はない。
フローレンは馬車の前で一度だけ中央倉庫を振り返り、それから乗り込んだ。窓際の席へ腰を下ろすと、少し遅れてレオとルシアンも乗ってくる。
扉が閉まり、御者の声とともに車輪がゆっくりと回り始めた。
見慣れ始めていた中央倉庫の壁が窓の端へ流れ、やがて屋根だけが遠くに残る。フローレンはその景色を、見えなくなるまで静かに眺めていた。




