116:手を離れた先で
息が、ゆっくりと抜けていった。
――届いた。
その言葉がようやく胸の奥まで落ちてくると、肩に残っていた力まで一緒にほどけていく。
「……よかった」
声にすると、自分で思っていたより小さかった。隣ではレオが椅子の背へ体を預け、長く息を吐いている。少し遅れて、その口元にも柔らかなものが戻った。
「そっか……」
ルシアンも通信盤の方をしばらく見ていたが、やがて二人へ顔を向ける。張っていたものが抜けたのか、その声もいつもよりわずかに静かだった。
「届いたな」
「うん」
レオが頷くと、フローレンももう一度通信盤の方を見た。職員たちはすでに、届いた連絡の続きを確認し始めている。
診療所へ届いたのは、昨日まとめた三箱すべてだった。箱数に相違はなく、外装にも目立った破損はないという。診療所では受け取った薬品の照合が進められ、その結果も順にこちらへ送られてくることになった。
運搬に出た人たちの帰路についても、すぐに確認が始まった。診療所まで荷に同行した者はそのまま一度休み、南側へ戻った者たちも、途中の作業小屋で休憩を挟みながら戻ることになっているらしい。
その話を聞いて、フローレンはもう一度小さく息を吐いた。薬品が着くことばかりを考えていたけれど、運んだ人たちにとっては、無事に帰るところまでが仕事だ。
「南側へ戻る方たちは、また旧道を通るんですよね?」
レオが職員へ尋ねると、相手は手元の報告へ目を落としてから頷いた。
「はい。ただ、暗くなる前に旧道を抜けられるよう、余裕を持って戻ってもらっています」
「そうなんですね。ありがとうございます」
レオの表情が少し和らぐ。職員はそのまま別の机へ移り、明日以降の人員や通常便について相談を始めた。
薬品が届いたことで、一つの心配は消えた。けれど、領内の輸送そのものが止まるわけではない。
フローレンたちも、しばらくして自分たちの机へ戻った。さっきまで何度も見ていた到着の目安が、まだ机の端に置かれている。
レオがそれを手に取り、少し眺めてから笑った。
「途中からは、見ても仕方ないって分かってたんだけど」
向かい側で、ルシアンも小さく笑う。
「それでも何度も見てしまっていたな」
「うん。もう、これは見なくてよさそうだね」
レオは予定表を他の資料の上へ重ねた。三人はそれ以上その話を続けず、途中になっていた作業へ戻っていった。
翌朝、フローレンたちは再び領都外れの集積倉庫へ向かった。
雪はすっかり止み、軒先から落ちる雫が一定の間隔で石畳を打っている。山肌にはまだ白いものが残っていたが、昨日まで窓の外を覆っていた重たい雲は薄れ、ところどころに淡い青空が覗いていた。
集積倉庫の空気も、少し変わっていた。
主要街道の復旧作業も進んでいる。倒木の撤去はほぼ終わり、凍結のひどかった場所では朝から砂を撒き、通行できる幅を少しずつ確保しているという。
大型の荷車をすぐに戻せる状態ではないものの、小型の荷車なら条件付きで通せる場所も増えていた。昨日とは違い、倉庫の前を出入りする人の数も少しずつ戻ってきている。
「今日中に全部戻すわけではないんですね」
フローレンが確認すると、担当の職員が頷いた。
「はい。急がないものを無理に動かす理由はありませんから」
机の上には、昨日まで何度も見た在庫の一覧が広げられている。食料は十一日、暖房用の魔石は九日。三日だった薬品については、昨夜届けた分を反映した新しい数字が書き加えられていた。
「食料と暖房用の魔石は、街道の状態を見ながら通常便へ戻します。残っている薬品も、診療所から昨日の分で当面は問題ないと連絡がありました」
「では、次の便は街道がもう少し安定してから、ということですか」
ルシアンが尋ねると、職員は一覧の次の欄を指した。
「その予定です。今日の午後まで様子を見て、明日以降の便を組み直します」
「分かりました」
昼前になると、三人は担当の職員と教師に呼ばれた。
倉庫の一角にある机へ集まると、教師が昨日まで使っていた地図を広げる。主要街道と迂回路、旧道。それぞれに書き込まれた印は、そのまま残っていた。
「学院へ戻ったら、昨日の件も報告書に書いてもらう。その前に一つ確認しておく」
三人が頷くのを待ってから、教師は地図へ目を落とした。
「最初に考えていたのは、今日出る予定だった荷をどうやって診療所のある地域まで届けるか、だったな」
「はい」
ルシアンが答える。
「街道が使えなくなって、迂回路も難しかった。そこで旧道を調べ始めた」
教師の指が地図の南側から細い線を辿る。その途中で一度止まり、フローレンの方へ顔を上げた。
「アストリア。あの時、何が気になった?」
「在庫の日数です」
昨日見ていた表を思い出しながら答える。
「食料は十一日、暖房用の魔石は九日あるのに、薬品だけ三日でした。それなら、全部を同じ日に届けなくてもいいんじゃないかと思って」
「それで診療所に確認した」
「はい。何が先に必要なのかは、私たちには決められないので」
教師が頷く。
「診療所から必要な薬品と量が返ってきて、荷が小さくなった。そこから、荷車以外の方法も考えられるようになったわけだ」
フローレンは小さく頷いた。
今度は地図の旧道を見ていたレオへ、教師の視線が移る。
「その頃、ルベライトは何を調べていた?」
「旧道です。資料だけだと今も使えるか分からなかったので、普段あの辺りを通ってる人たちに聞きました」
「荷馬で通ったことがある者もいたな」
「はい。ただ、昨日も通れるかまでは分からなかったので、最後は確認に行ってもらいました」
その言葉に、隣にいた職員も頷いた。
「聞き取りで凍りやすい場所や道幅の狭いところが先に分かっていたので、現地を見る側も確認しやすかったですよ」
「それならよかったです」
レオが笑う。昨日は何度も地図へ書き足していた細かな情報が、実際に道を確認する人たちの手にも渡っていたらしい。
教師は地図の上へ視線を戻した。
「その間、ノクティスは?」
「薬品の量と、旧道を使う場合に必要な条件を合わせていました」
ルシアンは少し考えてから続ける。
「馬で運べる量なのか。どこで荷を渡すのか。南側と北側で、誰に何を確認してもらう必要があるのか。その順番です」
「途中からは、二人がまとめたものを自分で一から確認し直すことはしなくなっていたな」
一瞬だけ、ルシアンの目が教師へ向いた。
「……はい」
「それで困ったことはあったか?」
「ありませんでした」
返事をしたあと、ルシアンは地図の上へ視線を落とす。
「アストリアの方は、輸送量を決めるのに必要な合計だけ確認しました。ルベライトが聞いてきたことは、僕がその場で同じように確かめ直せるものではなかったので」
そこで一度言葉を切る。
「……だから、任せました」
レオが隣で穏やかに笑った。
「あれ、ちょっと嬉しかった」
「……そうか」
ルシアンの声も柔らかい。
教師は二人のやり取りを聞いてから、机の端に置いていた紙を三人へ差し出した。
「報告書には、自分が何をしたかだけじゃなく、どこから情報を受け取って、次に誰へ渡したかも書いておけ。今回みたいな仕事は、その方が後から追いやすい」
「はい」
三人の返事が重なった。
職員も手元の地図を見ながら、いくつか補足を書き込んでいる。昨日あれほど何度も見た線が、今は報告書に残すための記録へ変わり始めていた。
午後、倉庫の前には次の便に使う荷が並び始めていた。
食料の箱と暖房用の魔石、それから昨日は一緒に積まれる予定だった残りの薬品が、行き先ごとに分け直されている。札には新しい出発予定の日付が書かれ、職員が一つずつ箱と照らし合わせていた。
すべてを一度に元へ戻すのではなく、街道の回復具合に合わせて何便かに分けるらしい。昨日止まっていた流れが、少しずつ別の形で動き始めている。
フローレンは職員に頼まれ、変更された一覧と荷札の対応を確認した。
昨日まで何度も見た品目が、今日は少し違う並び方で目の前にある。内容そのものは同じでも、日付と便が変わるだけで、紙の見え方まで少し違って感じられた。
「これで最後かな」
横からレオが一覧を覗き込む。
「うん。こっちの三箱が明日で、残りはその次の日」
「街道も明日にはだいぶ戻るみたいだよ」
レオが窓の外を指した。
倉庫へ続く道では、朝から何台かの小さな荷車が行き来している。まだ普段どおりとはいかないものの、人の流れは昨日よりずっと多い。
少し離れたところでは、ルシアンが職員へ最後の確認をしていた。話を終えると、受け取った紙を職員へ返し、そのまま二人のところまで歩いてくる。
「通常便の予定も決まったそうだ。明日から順に戻していくそうだ」
「じゃあ、一応これで落ち着いたのかな」
レオの言葉に、ルシアンは倉庫の中を見回した。昨日まで絶えず人が行き来し、地図や在庫表が広げられていた机も、今は少しだけ静かになっている。
「少なくとも、昨日みたいな状態ではなくなったな」
「よかった」
フローレンも手にしていた一覧を閉じた。
外では雪解けの水が細い筋になって、石畳の端を流れている。その向こうを、小さな荷車が一台ゆっくりと通り過ぎていった。
「戻ろうか」
ルシアンの声に、レオが先に歩き出す。
「うん」
フローレンも一覧を職員へ返し、そのあとへ続いた。三人が倉庫の奥へ戻る頃には、次の便に付ける新しい札がまた一枚、箱の上へ置かれていた。




