115:ただ待つということ
荷車を見送って広間へ戻ってからも、午前中の仕事がなくなったわけではなかった。
主要街道の復旧状況は引き続き更新され、止まっている通常便についても翌日以降の予定が組み直されている。フローレンたちも職員に頼まれた資料を整理しながら、それぞれの机で作業を続けた。
けれど、意識のどこかにはずっと時計があった。
広間の壁に掛けられた時計へ目を向けるたび、針は少しずつ進んでいる。旧道の入口までの移動、薬品の積み替え、山道を進む時間、その途中で人の手を渡る時間。昨日まで紙の上に並んでいた数字が、今日は一つずつ実際の長さを持って過ぎていった。
「そろそろ入口には着いてる頃かな」
向かい側で資料を読んでいたレオが、顔を上げずに呟く。
「目安どおりなら、そのくらいだね」
フローレンも手元の紙から目を離した。
朝から何度目か分からない確認だった。到着の目安を書いた予定表は、結局三人の机の端に置かれたままになっている。
「積み替えに少し時間がかかったとしても、もう旧道には入ってるはずだよね」
「そうだな。ただ、昨日より凍っている場所が増えている」
ルシアンは予定表へ一度だけ目を向けた。
「急がず進むように言われていたし、目安より遅れることは十分あるだろう」
「うん。分かってる」
レオはそう答え、また資料へ目を戻した。
広間の中は朝と変わらず動いている。人の出入りも、紙を捲る音も途切れていない。それなのに時計を意識した途端、誰かの足音や紙の擦れる音まで、やけにはっきり耳へ入ってくるようになった。
昼を過ぎる頃、診療所から通信盤を通して一度連絡が入った。
担当者が通信盤の前から立ち上がる気配に、フローレンは思わず顔を上げた。けれど届いたのは、薬品の到着を知らせるものではなかった。
「北側から迎えに出る者が、予定どおり診療所を出たそうです」
職員から内容を聞いたレオが、地図の北側へ視線を落とす。
「向こうも出たんですね」
「はい。今朝決めた時刻どおりです」
「ありがとうございます」
レオは頭を下げ、机へ戻ってきた。
フローレンも地図を見る。南側から薬品を運ぶ人たちと、診療所側から迎えに出た人たち。その両方が、今は同じ旧道のどこかを進んでいる。
けれど、その途中をここから見ることはできない。通信盤でやり取りできるのは施設同士だけで、山道を進んでいる人たちとその場で話せるわけではなかった。
今どこにいるのか、もう荷を引き継いだのか、それとも途中で足を止めているのか。広間にいるフローレンたちには確かめようがなかった。
「こういう時って、変な感じだね」
フローレンが地図を見たまま言うと、レオも隣で小さく頷いた。
「うん。昨日までは、分からないことがあったら誰かに聞けば少しずつ埋まっていったのに」
今は、聞ける相手が目の前にいない。
ルシアンは何も言わず、机の端から少しずれていた予定表を指先で整えた。その紙を開き直すことはなく、すぐに手元の仕事へ戻っていく。
午後に入ると、到着の目安としていた時刻が近づいてきた。
旧道は平地の街道とは違う。昨日の聞き取りでも、雪の残り方や馬の歩調、荷を引き継ぐ場所によって、かかる時間には幅が出ると聞いている。
それでも、時計の針が目安の時刻へ近づくにつれ、フローレンの手も何度か止まった。
隣ではレオも同じらしく、紙へ目を落としていたかと思えば、不意に窓の方へ顔を上げる。窓辺まで伸びていた午前の光は少しずつ傾き、机の端に細長い影を作り始めていた。
「……まだ来ないね」
「目安だから、少しくらい遅れることはあるよ」
そう答えてから、フローレンは自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。
誰に言い聞かせたのかは、自分でもよく分からなかった。
やがて、時計の針が目安としていた時刻を越えた。
その瞬間に何かが変わるわけではない。広間では相変わらず職員が行き交い、通信盤の担当者も別の地域から届いた連絡を書き留めている。
フローレンは一度、手元の資料へ視線を戻した。
文字は読める。書いてある内容も、見た瞬間に頭には残る。
それなのに、さっきまでのように続きを追うことができなかった。
「確認してきてもいいかな」
レオの声が、向かいから低く聞こえた。
「通信盤?」
「うん。何か入ってないか」
そう言いながらも、レオはすぐには立ち上がらなかった。椅子の端へ置いた手だけが一度動き、それからまた膝の上へ戻る。
ルシアンも壁の時計を見たあと、通信盤のある方へ視線を向けた。
「連絡が届いていれば、こちらにも伝えてくれるはずだ」
「そうなんだけどさ」
レオは椅子の背へ少し体重を預け、短く息を吐いた。
ルシアンの手も、机の上の紙を揃えたところで止まっている。さっきから誰も席を立ってはいないのに、三人とも同じ方へ意識を引かれているのが分かった。
何かを見落としているわけではないし、追加で資料を開けば今の場所が分かるわけでもない。
ここから先は、本当に自分たちの手の届かないところだった。
その時、近くを通った担当の職員が三人の様子に気づいた。
「まだ、診療所から到着の連絡はありません」
先にそう告げてから、職員も壁の時計へ目を向ける。
「ただ、この程度の遅れなら珍しくありません。今日は雪も残っていますし、途中で荷を受け渡す時間もありますから」
「どのくらいまでなら、想定の範囲でしょうか」
ルシアンが尋ねる。
「一時間ほどは見ています。それを過ぎても連絡がなければ、診療所側とも改めて確認します」
「分かりました。ありがとうございます」
ルシアンが頭を下げると、職員はまた自分の仕事へ戻っていった。
一時間。
普段なら、それほど長い時間ではない。
けれど今は、壁の時計に刻まれた一目盛り一目盛りが、ひどくゆっくり進むように見えた。
レオはもう一度、通信盤の方を見た。
「……じゃあ、待とう」
そう言って、向けていた視線を机へ戻す。
「今聞きに行っても、まだ何も分かんないし」
ルシアンも一度だけ通信盤の方を見た。少し間を置いてから、短く息を吐く。
「……ああ」
フローレンも手元の資料へ目を戻した。
三人はまた、それぞれの仕事へ戻った。手元の資料を開き直し、止まっていたところから作業を続ける。
けれど、完全に集中できるわけではなかった。誰かが通信盤の前を通れば、知らず知らずそちらへ耳を澄ませる。扉が開けば顔を上げ、紙を置く音がすれば一瞬だけ手が止まった。
それでも、そのたびに席を立つことはなかった。
時間は、ゆっくりと過ぎていった。
窓から差す光が少しずつ傾き、机の上へ落ちる影も長くなる。朝には眩しいほどだった雪の白さも、午後の光の中では青みを帯び、軒下の端へ薄く残るだけになっていた。
フローレンが資料を職員へ返し、席へ戻ろうとした時だった。
広間の奥で、椅子の脚が床を擦る音がする。
通信盤の担当者が立ち上がり、書き留めたばかりらしい紙へ目を落としていた。
フローレンの足が止まる。
レオも気づいて顔を上げ、ルシアンの視線もまっすぐそちらへ向いた。
担当者が紙から顔を上げるまでのほんの数秒、胸の奥だけがひどく落ち着かなかった。
「診療所から連絡です」
紙をもう一度確かめてから、職員が告げる。
「――薬品、到着しました!」




