109:活路
午後になっても、広間の空気は大きく変わらなかった。雪はほとんど止み、窓の外では朝から積もっていた白さが少しずつ薄れている。
けれど壁の地図に目を戻せば、診療所まで確実に辿れる道はまだ一本も見つかっていなかった。
主要街道は、崩れた区間の復旧待ち。新しく届いた報告では地面の緩みが予想以上に残っており、少なくとも今日中に大型の荷車を通すのは難しいと見られている。
迂回路は通れる可能性があるものの、通常より大きく遠回りになる。路面状態にも不安が残り、荷を積んだ大型の荷車をすぐに回せる状況ではなかった。
旧道は途中まで馬で通れることが確認されているが、その先についてはまだ調査が続いている。
朝から増え続けていた情報は、ずいぶん整理された。分からなかったことも、一つずつ確実に減っている。
それなのに、物資を診療所のある地域まで届けるという最後の一点だけは、まだ繋がらなかった。
「今の便をそのまま迂回路へ回す場合、出発できても明日の朝以降になるそうです」
職員から新しく届いた報告を読み上げた生徒が、地図の脇へ紙を置いた。
「そこから一日以上なら……着くのは早くても明後日ということですか?」
「道の状態がこれ以上悪くならなければ、ですね」
近くにいた職員が答える。
「ただ、途中で荷車を止めることになれば、さらに時間は延びます。今のところ、通常便をそのまま回す予定はありません」
生徒たちの間で、小さく言葉が交わされる。
フローレンも机の上の輸送予定表へ視線を戻した。
今日出るはずだった便には、食料、暖房用の魔石、薬品が積まれる予定になっている。必要な量をすべて合わせれば荷量は大きく、それを運ぶために大型の荷車が使われていた。
けれど、その荷車が通れない。
だから別の道を探している。
朝からずっと、考えているのはそこだった。
「主要街道が明日使えるところまで戻るなら、復旧を待った方が早い可能性もあるな」
ルシアンが、届いたばかりの報告書と地図を見比べながら言った。
「迂回路へ回して途中で止まれば、かえって時間を失う。旧道も、全区間の安全が確認できるまでは使えない」
「うん。旧道は大きい荷車が通れないからね」
レオも細い線を目で追いながら頷いた。
「昨日の話だと、狭いところも結構あるみたいだし」
その言葉に、フローレンも旧道へ視線を移した。
馬なら途中まで通れた。
でも、大きな荷車は通せない。
その事実は、朝から何度も確認している。使えそうな道が見つかっても、今予定されている荷を運べなければ候補にはならない。
フローレンは地図から目を離した。
机の端には、自分がまとめた在庫の一覧が置かれている。朝から何度も開き、すでに数字そのものはすべて頭に入っていた。
それでも、もう一度そこへ目が戻る。
食料は十一日。
暖房用の魔石は九日。
薬品は三日。
三つの数字の間を、ゆっくりと視線が行き来した。
「どうかした?」
隣からレオに声を掛けられ、フローレンは顔を上げる。
「ううん……」
答えかけたものの、また紙へ目を戻した。
何かが引っかかっていた。
道路のことを考えていたはずなのに、さっきから気になるのは地図ではなく、この三つの数字だった。
十一日。
九日。
三日。
同じ地域へ向かう物資でも、必要になるまでの時間は同じではない。
それは、もう午前中から分かっていた。だから薬品の状況を優先して確認してきた。
けれど輸送の話へ戻ると、いつの間にかまた三つを一つの便として考えている。
食料も、暖房用の魔石も、薬品も。
今日出るはずだった荷をすべて載せたまま、どうすれば診療所のある地域まで運べるのか。その方法ばかりを探していた。
フローレンは指先を紙の端へ添えたまま、しばらく動かなかった。
以前なら、分からなくなるほど知っていることを増やそうとしていた。けれど今は、何を聞かれているのか、どこまで分かっているのか、今いる場所から次に何を考えればいいのかを、一つずつ辿ることができる。
ルシアンと何度も繰り返してきた問いが、頭の中を静かに通り過ぎた。
今、自分たちが考えているのは、どうすれば今日の便をそのまま届けられるかということだ。
けれど、本当に必要なのはそこなのだろうか。
「フローレン?」
今度はルシアンの声だった。顔を上げると、二人ともこちらを見ている。
フローレンは少し迷ってから、三つの数字を書いた紙を二人の間へ滑らせた。
「ねえ。今ずっと、今日出るはずだった荷をどうやって全部届けるか考えてるよね」
「そうだね」
レオが地図から紙へ目を移す。
「主要街道が使えないから、同じ量の荷を運べる別の道を探してる」
ルシアンは口を挟まず、そのまま続きを待っていた。
フローレンは一番上の数字を指で示す。
「食料は十一日ある。暖房用の魔石は九日」
指先をさらに下へずらし、最後の数字で止める。
「でも、薬品は三日しかない」
「ああ」
ルシアンが頷いた。
どれも、もう三人が知っている数字だった。けれど同じ紙の上に並べたまま見つめていると、それらを一つの荷として扱っていることの方が、急に不自然に思えてきた。
フローレンはまだ形になりきらない考えを、自分でも確かめるように口にする。
「だったら……全部、同じ日に届ける必要はないんじゃない?」
レオが瞬きをし、ルシアンの視線も紙の上へ落ちた。ほんの短い沈黙のあと、フローレンは三つの数字をもう一度見比べる。
「今、一番急いでるのは薬品だよね。食料と魔石は、道路が復旧するまで少し待てるかもしれない」
言葉にするほど、頭の中でばらばらだったものが繋がっていく。
「だったら、まず薬品だけ先に届けることはできないかな」
「……薬品だけを先に?」
レオの声にも、さっきまでとは少し違う響きが混じった。
「うん。全部を一度に運ぼうとすれば、荷の量は大きくなるでしょ? でも薬品だけなら、必要な荷量はもっと小さくなるかもしれない」
そこまで言って、フローレンは一度口を閉じた。
薬品と一括りにしている中にも、いくつもの種類がある。そのすべてが三日でなくなるとは限らないし、何をどれだけ先に届けるべきなのかを、自分たちだけで決めることはできない。
「……何をどれだけ先に届ける必要があるのかは、診療所に確認しないと分からないけど」
「ああ。そこは診療所側に判断してもらうべきだ」
ルシアンが静かに頷く。
「三日以内に不足する可能性のある薬品の種類と、必要な量が分かれば、先に運ばなければならない荷の量も出せる」
「量が分かれば……」
レオが地図へ向き直った。
旧道、迂回路、中継地点。朝から何度も見てきた線を、今度は少し違う角度から目で追っていく。
「今まで無理だった方法も、使えるかもしれない?」
「可能性はある」
ルシアンも地図へ目を移した。
「ただし、荷が軽くなっても道の安全性は別だ。確認の済んでいない区間を使えると判断することはできない」
「うん。それはもちろん」
レオはすぐに頷いた。
フローレンも二人と同じように地図を見る。
道そのものは、何も変わっていない。主要街道はまだ使えず、旧道も最後まで安全だと分かったわけではない。迂回路の状態も安定していないままだ。
それでも、考える順番だけは変わった。
今日出るはずだった荷をすべて通す方法ではなく、まず何を、いつまでに届ける必要があるのかを分けて考える。そのうえで、それぞれに合う運び方を探せばいい。
フローレンはもう一度、三つの数字を見た。
食料は十一日、暖房用の魔石は九日、薬品は三日。
同じ場所へ向かうものでも、待てる時間は違う。ならば、最初から同じように運ばなくてもいい。
「職員の方に、相談してみよう」
フローレンが言うと、ルシアンもすぐに頷いた。
「ああ。僕たちだけで決められることではないからな」
レオが席を立ちかけ、三人の机と職員たちのいる方を見比べる。
「誰か呼んでくる?」
「いや」
ルシアンはそう答えてから、机の上へ視線を落とした。
輸送予定表、道路状況、在庫一覧。朝から集めてきたいくつもの資料が、また彼の前へ集まっている。
その手が一度、紙の束へ伸びかけた。
けれど、途中で止まる。
「……フローレン」
「うん?」
「今の考えを、君から説明してくれるか?」
フローレンは少しだけ目を見開いた。
ルシアンは自分で資料をまとめ直そうとはせず、フローレンが作った表をそのまま彼女の前へ戻す。
「最初に気づいたのは君だから。その方が伝わると思う」
受け取った紙には、朝から何度も見てきた三つの数字が並んでいる。ただの在庫一覧だったはずなのに、今はもう、食料も魔石も薬品も、一つのまとまりには見えなかった。
「……分かった」
フローレンは紙を持ち直して席を立つ。レオもそれに続き、ルシアンも机から離れた。
三人の少し先では、領の職員たちが変わらず地図を囲んでいる。そこに描かれた道は、まだどれも完全には開いていない。
けれど、フローレンの手の中ではもう、食料と魔石と薬品は同じひとまとまりではなかった。




