108:頼りになるからこそ
午後に入る頃には、広間の机の上も朝とはずいぶん様子が変わっていた。
地域ごとに分けられた報告書の束には新しい紙が何枚も加わり、壁の地図にも赤や黒の印が増えている。窓の外では雪解けの雫が軒先から落ち始めていたが、山側の主要街道については、まだ復旧の見通しが立っていなかった。
倒木の撤去は進んでいるものの、小さく崩れた区間では地面が緩んでいた。大型の荷車を通せるだけの幅を確保するには、まだ時間がかかるらしい。
迂回路も、使えないわけではない。
ただ、通常より大きく遠回りになるうえ、昨夜の雪で路面状態の悪い場所がいくつか確認されていた。荷を積んだまま無理に通すより、安全を確かめてから動かす方がいいという判断は変わっていない。
旧道についても、午前中より情報は増えていた。
南側から入った山仕事の人によれば、途中までは馬で通れたらしい。さらに別の場所からも、雪が浅い区間については人と馬が行き来したという連絡が入っている。
けれど、その旧道を診療所まで通して使えるかどうかは、まだ確認できていなかった。
「この先が分からないんだよね」
レオが地図の一点を指した。
南側から旧道へ入る分岐と、診療所へ向かう道の間。そこだけが、朝からずっと空白のまま残っている。
「ここまでは今朝通った人がいる。こっち側も、近くの人が馬で動いてる。でも、その間を今日通ったっていう人がまだ見つかってないみたい」
フローレンも地図を覗き込んだ。
「昨日の話だと、途中で北側へ回り込むんだったよね」
「うん。そこが一番雪の状態も分かってない」
レオは手元の報告書を捲り、職員が書き込んだ時刻を確認した。
「今、実際に見に行ってる人がいるって。戻ってくるまで、もう少しかかるみたい」
「なら、その報告を待つしかないな」
ルシアンは地図に残された空白から目を離さないまま、静かにそう返した。
目の前には道路情報だけでなく、輸送予定、各地域の備蓄量、診療所から届いた薬品の使用状況まで広げられている。朝に比べれば、分からないことはずっと減っていた。
それでも、どの道なら物資を通せるのかという一番大きなところだけが残っている。
広間の奥では、領の職員たちも同じように地図を囲んでいた。
復旧作業を続ける人員。道路の確認に出た人員。各地域との連絡を担当する者。集まった情報は次々と振り分けられ、それぞれの担当へ回されている。
誰も手を止めてはいなかった。
それでも、確認しなければならないことは次々と増えていく。フローレンたちの机にも、新しい報告が届くたびに資料が積み重なっていった。
「こちら、午前中の在庫報告の更新です」
職員から差し出された紙を、フローレンは受け取った。
食料と暖房用の魔石について、大きな変化はない。診療所の薬品も、今すぐ見込みが変わるほどの使用増加は確認されていなかった。
内容を確認していると、隣からルシアンの手が伸びる。
「見せてもらってもいいか?」
「うん」
紙を渡すと、ルシアンは朝の報告を探し出し、二枚を並べた。数値、時刻、報告元を順に確かめていく。
「……朝から変わってないな」
「うん。薬品も三日のまま」
「分かった。ありがとう」
ルシアンは小さく頷き、報告書をフローレンへ返した。
「うん」
受け取った紙を、自分の資料の束へ戻す。
ほんの短いやり取りだった。けれどフローレンには、こうして新しい情報が届くたび、一度ルシアンの手元を通って戻ってくること自体が、少しずつ気になるようになっていた。
その直後、レオが別の紙を持ち上げる。
「ルシアン、これ」
「何だ?」
「さっきの旧道の追加。南側の積雪について」
ルシアンはそちらへ顔を向け、レオから紙を受け取った。
フローレンは自分の作業へ戻ろうとして、ふと机の上を見た。
レオの道路報告、自分の在庫一覧、輸送予定表に主要街道の復旧状況、それから迂回路の確認記録。ルシアンの手元には、いつの間にかまたいくつもの資料が重なっている。
どれも必要なものだった。一つとして、確かめなくていい情報ではない。
だからこそ、今までは気にならなかった。
「ルベライト」
同じ机で作業していた生徒がレオに声を掛ける。
「この地域の道路報告、さっきの続きだと思うんだけど」
「あ、じゃあこっち――」
レオが手を伸ばしたところで、その生徒の視線が一度ルシアンへ向いた。
「これも、先にノクティスに見せた方がいい?」
ほんの短い問いだった。
レオも一瞬だけ動きを止める。
ルシアンは手元の紙から顔を上げた。
「……いや、道路情報ならレオに渡してくれ。僕はあとで必要なところだけ確認する」
「分かった」
今度はそのまま、報告書がレオへ渡された。
フローレンはそのやり取りを見ながら、わずかに視線を落とした。
ルシアン自身は、きちんとレオへ渡そうとしている。今だって、道路の情報だからと自分では受け取らなかった。
それでも、朝から新しい情報が届くたびに彼が内容を確かめてきたせいか、周囲の方が一度ルシアンを通すことに慣れ始めているようだった。
誰に聞けばいいか迷った時も、どこへ置けばいいか分からない時も、どの資料と照らし合わせればいいか判断に迷った時も、自然と視線が彼のところへ向く。
それは、ルシアンが頼りになるからだった。
だからこそ、少し厄介なのかもしれない。
「フローレン?」
レオに呼ばれて、視線を上げた。
「これ、そっちの地域の在庫も一緒に見られる?」
「うん。どこ?」
「ここ。旧道の近く」
示された地名を見て、フローレンは自分の資料を引き寄せた。
食料の残量、暖房用の魔石、薬品。それぞれの数字を確認し、レオの道路報告と並べていく。
「この地域は、今のところ余裕あるよ。食料も魔石も、すぐには問題にならない」
「じゃあ、道路の確認は急がなくても大丈夫そうだね」
「うん。少なくとも、この地域は」
二人で確認した内容をまとめ、そのまま該当する束へ戻した。
それだけで作業は終わった。ルシアンの手元を経由することなく、レオとフローレンの間だけで必要な確認まで済んでいる。
フローレンはそこで初めて、いつもなら次に起こるはずの動きを待っている自分に気づいた。
少し離れたところでは、ルシアンが別の報告を読んでいた。こちらへ口を挟む様子もなかった。作業を終えた頃に一度だけ視線が向いたが、何かを尋ねることもなく、そのまま手元の資料へ戻っていった。
ほんの小さなことだった。
けれど、レオに任された情報が、そのままレオのところで一度まとまった。ルシアンは一度こちらを見たものの、すぐに確かめようとはせず、そのまま自分の作業へ戻っている。
三年生の頃とは、やはり違う。
そう思うと、胸の奥に残っていた引っかかりも、ほんの少しだけ形を変えた。
広間の扉が開いた。
今度は、それまでとは少し違う足音が入ってくる。外套の肩に雪を残した職員が、別の職員と短く言葉を交わしながら地図の前へ向かった。
周囲にいた者たちも、その姿に気づいて自然と顔を上げた。
「旧道の確認かな」
レオが隣の二人へ声を落とした。ルシアンも戻ってきた職員へ視線を向け、フローレンもつられて地図の前を見た。
職員は雪を軽く払いながら地図の前まで来ると、待っていた者と短く言葉を交わし、それから生徒たちの方へ向き直った。
「旧道の確認に出ていた者が一人戻りました」
それまで書類を捲る音や小さな話し声が重なっていた広間が、少しだけ静まった。
「南側から途中までは、今朝の聞き取りどおり馬で通れます。ただ、その先は路面に雪が残っていて、場所によってはかなり滑りやすくなっています」
フローレンは壁の地図へ目を向けた。
昨日見た細い道が、山の斜面を回り込みながら診療所の方へ伸びている。今朝から何度も目で追った線なのに、まだそのすべての状態は分かっていない。
「診療所までは行けるんですか?」
生徒の一人が尋ねた。
「まだ判断できません」
職員は首を振った。
「確認できたのは途中までです。この先については、別の者が反対側から状態を見ています。今日中には報告が戻る見込みです」
レオは静かに頷き、もう一度地図へ視線を戻した。
確認された区間は、朝よりも確実に伸びている。それでも診療所までの道を辿れば、まだ状態の分からない場所が残っていた。
主要街道は使えない。
迂回路は遠く、状態も安定していない。
旧道は途中までなら馬で通れる。
けれど、その先はまだ分からない。
フローレンは机へ戻り、朝から何度も見ている数字をもう一度確認した。
食料は十一日。
暖房用の魔石は九日。
薬品は三日。
道路の復旧を待つのか、迂回路の確認を待つのか。それとも、旧道の続報を待つのか。
どれも必要な確認だったし、途中で省いていいものではない。
けれど、薬品だけは三日しかない。
窓の外では、屋根から落ちた雪が水となって石畳を濡らしていた。朝には真っ白だった庭にも、ところどころ地面の色が戻り始めている。
雪は少しずつ融けている。
それでも、山へ続く道だけは、まだ開かなかった。




