105:少し早い雪
目を覚ました時、部屋の中が妙に明るかった。
まだ朝の早い時間だった。窓掛けの隙間から差し込む光は白く、昨日までの朝とはどこか違って見える。薄暗いはずの室内まで、外から返ってくる光で淡く照らされていた。
フローレンは寝台の上で身体を起こし、しばらくその明るさを眺めた。
昨夜、窓の外を落ちていった一片の雪を思い出す。灯りの届く場所をゆっくり横切り、暗がりへ紛れていった、小さな白いもの。
降ったとしても軽いものだと聞いていた。
自分でも、朝には跡も残らないだろうと思っていた。けれど窓掛けを開けた瞬間、その考えはあっさり覆された。
「……え」
研修施設の庭が、白い。
石畳も、低い植え込みも、その向こうに並ぶ木々の枝も、薄く雪を被っていた。深く積もっているわけではないものの、昨日まで見えていた地面の色はほとんど隠れている。
しかも、まだ降っていた。
細かな雪が斜めに流れ、風に押されるたび、窓硝子へ白い粒がぶつかっては溶けていく。フローレンは寝台を離れ、その様子を確かめるように窓辺へ近づいた。
昨日の夕方に見た山並みは、雲の向こうへほとんど隠れている。領都側の空にはわずかに明るさがあるものの、山の方角だけは低い雲に覆われ、輪郭すらよく分からなかった。
廊下から、いくつもの足音が聞こえてきた。
まだ普段なら静かな時間なのに、人の動く気配がいつもより多い。扉の開閉する音も、遠くから交わされる声も、朝の静けさの中ではひときわよく響いた。
身支度を整えて部屋を出ると、同じように窓の外を見ている生徒が何人もいた。
「結構降ったね」
「昨日、積もらないって言ってなかった?」
「山の方はもっと降ってるのかな」
小さな声があちこちから聞こえる。
フローレンも階段へ向かいながら、途中の窓からもう一度外を眺めた。昨日は乾いていた木々の枝が、今は細く白く縁取られている。
昨日まで晩秋の色を残していた景色が、たった一晩で冬へ踏み込んだように見えた。
朝食のため食堂へ入ると、すでにルシアンとレオが来ていた。
レオは窓際の席から外を眺めていたが、フローレンに気づくと軽く手を上げた。
「おはよう。見た?」
「見た。思ったより降ったね」
「俺も起きてびっくりした」
向かいでは、ルシアンが窓の外と手元の日程表を見比べていた。
「山側は、こちらより多いかもしれないな」
その声に、レオも窓へ目を戻す。
「昨日行った中継地点より先?」
「可能性はある。標高も違うし、昨日の説明でも地域によって積もり方が変わると言っていただろう」
「ああ……そっか」
昨日なら、雪が見られたことをもう少し単純に喜べたかもしれない。
けれど一日かけて、この先にある道や村を実際に見聞きしたばかりだった。白くなった景色を見ると、昨日聞いた話が次々と頭へ浮かんでくる。
日陰では氷が残りやすいこと。谷を抜ける風で、道の片側だけに雪が溜まること。同じ量の雪でも、場所によって荷車の通りやすさが変わること。
窓の外の白さが、昨日までとは少し違う意味を持って見えた。
朝食が半ばまで進んだ頃、食堂の入口が開いた。
教師の一人と、昨日の実習にも同行していた領の職員が入ってくる。普段より少し早い時間に現れた二人へ、近くの席から順に生徒たちの視線が集まっていった。
「食事はそのままでいい。聞いてくれ」
教師がそう前置きし、隣の職員へ視線を向けた。
「昨夜からの雪で、山側の道路状況にいくつか変化が出ています」
職員の口調は落ち着いていた。
生徒たちも騒ぐことなく、食事の手を少し緩めながらその説明へ耳を傾ける。
「山側ではこちらよりかなり多く降ったようで、現時点で分かっている範囲では、昨日見てもらった主要街道の一部で凍結が起きています。それから、さらに山側で倒木と小規模な崩れが確認されました」
フローレンの頭に、昨日見た地図が浮かんだ。
中継地点から山側へ向かって伸びていた、太く描かれた主要街道。その途中には診療所があり、その先にもいくつもの村があった。
「通れないんですか?」
生徒の一人が尋ねる。
「人が全く通れないという状況ではありません。ただ、大きな荷車を通すのは難しいと判断しています」
「復旧にはどれくらいかかりますか?」
「まだ分かりません。今朝、確認のための人員を出しています。倒木だけなら比較的早く対応できますが、崩れた場所の状態を実際に見ないことには判断できません」
職員はそこで一度言葉を切り、生徒たちの様子を見回した。
「迂回できる道もあります。ただし、そちらも昨夜の雪の影響を受けていますので、今すぐ通常便をそのまま回せるとは言えない状態です」
昨日まで予定されていた道が使えない。
紙の上だけなら、別の道へ変えれば済みそうにも見える。
けれど昨日一日で、道はただの線ではないと知った。幅も、傾斜も、雪の残り方も違う。迂回路という名前があるからといって、同じ大きさの荷車を、同じ量の荷を載せたまま通せるとは限らない。
「今日の実習予定は変更する」
今度は教師が説明を引き継いだ。
「現地へ向かう予定だった班もあるが、安全確認が済むまでは研修施設に留まってもらう。代わりに、領の職員が集めている情報の整理を、可能な範囲で手伝ってくれ」
何人かの生徒が頷いた。
職員は続けて、現在確認されている状況を説明していった。
平地側では雪はすでに弱まりつつあり、中継地点までの主要街道も、慎重に走れば荷車で通れる見込みだという。
問題になっているのは、その先だった。主要街道の途中までは進めても、今の状態では大きな荷車はそこで止まることになる。
どこまでなら安全に進めるのか。どの地域へ向かう便が影響を受けるのか。それを一つずつ確認しなければ、別の予定も立てられないらしい。
「昨日見てもらった冬季物資のうち、今日以降に山側へ出す予定だった便もいくつかあります」
その言葉に、フローレンは手元の日程表へ目を落とした。
そこには昨日、倉庫で実物を見たばかりの食料や薬品、暖房用の魔石が並んでいる。昨日までは予定日と数量を示すだけだった文字が、今は急に具体的な重さを持ったように感じられた。
「今の時点で、すぐに不足する地域があるわけではありません」
職員が念を押すように続ける。
「冬前の備蓄はすでに進めています。ですから、まずは道路の状態と、各地域に現在どれだけ物資があるのかを確認します」
その説明に、食堂に張りつめかけていた空気がわずかに緩んだ。
すぐに何かが尽きるわけではない。
昨日見た倉庫も、そこに積まれていた荷も、こういう時期を見越して早めから準備されている。けれど、昨日まで組まれていた予定がそのままでは動かなくなったことだけは確かだった。
朝食を終えたあと、生徒たちは研修用の広間へ集められた。
長机の上には、昨日まで使っていた地図や輸送予定表に加え、朝から届いた報告書の写しが次々と置かれていく。壁際では領の職員たちが原本を確認し、必要な連絡を別の場所へ回していた。
生徒たちに任されたのは、すでに職員が確認を終えた情報を整理する作業だった。
同じ地域から届いた複数の報告を時刻順に並べること。職員が「確認済み」とした情報を昨日までの輸送予定と照らし合わせ、影響する便を拾い出すこと。判断が必要なものには手を触れず、そのまま担当の職員へ返すよう、最初に念を押された。
新しい報告が届くたび、壁の地図にも印が増えていく。
領の職員たちは絶えず出入りしていたが、その動きに混乱はない。誰かが情報を持ち込めば、確認する者がいて、必要な相手へ連絡する者がいる。
慌ただしい中でも、それぞれが自分の役割を分けて動いていた。
フローレンも自分の前へ置かれた書類を、一枚ずつ地域ごとに揃えていく。
昨日までは一つの表として眺めていた輸送予定に、今朝から届いた新しい条件が重なっていた。出発予定だった便の横には職員の手で「確認中」と印がつき、別の地域には道路状況の追加報告が添えられている。
現地の状況が変わるたび、紙の上の条件も少しずつ書き換わっていく。
昨日までは固定されたものに見えた予定が、今は現地から届く一枚の報告によって書き換わっていた。
「これ、昨日見た診療所だ」
向かいからレオの声がして、フローレンは顔を上げた。
レオが指しているのは、山側の小さな診療所から届いた在庫報告だった。道路そのものについてではなく、現在保管している薬品の数を知らせるためのものらしい。
フローレンも資料を寄せ、そこに並ぶ数字を確認する。
「朝の時点で、もう在庫報告を上げてるんだ」
「道路の状態が変わったから、念のため早めに確認したのかもしれないな」
ルシアンも二人の間に置かれた報告書へ目を向けた。
いくつかの薬品名と、その現在数が並んでいる。
昨日見た冬前の備蓄基準と比べれば、数字だけで切迫しているようには見えなかった。
「まだ、すぐになくなる量ではなさそうだけど……」
フローレンが呟くと、ルシアンは報告書から輸送予定表へ視線を移した。
「残っている数だけでは、何日もつのかまでは分からないな。使われる量と、次の補充予定も確認した方がいいだろう」
「あ、そっか」
レオがすぐに輸送予定表を手元へ引き寄せる。
三人で該当する地域を探すと、同じ診療所の名前が見つかった。昨日までは何気なく見ていた一行だったのに、今はその日付だけが強く意識へ引っかかった。
次の補充予定日は、今日だった。
三人の視線が、ほとんど同時にそこで止まった。
昨日までなら、その荷は予定どおり主要街道を通り、診療所まで届けられるはずだった。
けれど今朝、その道では大きな荷車が通れなくなっている。
フローレンは診療所から届いた在庫報告と、輸送予定表をもう一度見比べた。
まだ、何かが尽きたわけではない。
今すぐ困っているという報告もない。
ただ、今日届くはずだったものが届かない。
昨日まで繋がっていた予定の中に、小さな空白が一つ生まれていた。




